フィル・スペクターの洗練R&Bサウンドへの到達とビートルズ『レット・イット・ビー』〜【Vol.92】音楽と録音の歴史ものがたり

ライブでたたき上げられたR&Bバンド
チェックメイツ・リミテッドとの出会い

 チェックメイツ・リミテッドはインディアナ州フォート・ウェイン出身のグループだった。ソニー・チャールス、ボビー・スティーヴンスという2人のシンガーにドラムス、ベース、ギターを加えた5人編成。R&Bのボーカル・グループとロック・バンドが合体したような演奏を聴かせ、ラスベガスなどのライブ・ショウで人気を博していた。2人のシンガーとドラマーは黒人、ギタリストとベーシストは白人という混成だった。

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チェックメイツ・リミテッド。左端がボビー・スティーブンス、中央がソニー・チャールズ。チャールズは後年、ソロやスティーヴ・ミラー・バンド(2008〜2012年に在籍)でも活躍する

 1965年にチェックメイツ・インクの名で最初のライブ・アルバム『Live At Harvey's』を発表した彼らは、ナンシー・ウィルソンの口利きで、1967年にはキャピトル・レコードと契約。チェックメイツ・リミテッドと改名して、2枚目のライブ・アルバム『Live! At Caesar's Palace』を発表した。どちらのライブ盤も主なレパートリーはR&Bのヒット曲のカバーで、「You've Lost That Lovin' Feelin’」も含まれている。ライチャス・ブラザーズと同じくツイン・ボーカルで、より熱を帯びたR&Bフィーリングを備えたライブ・バンドは、スペクターの好みだったに違いない。

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『Live At Harvey's』
Check-Mates, Inc.
(Ikon/1965年)
ラスベガスのカジノでのライブ・ショウを収録した、改名前のアルバム。徐々にテンポ・アップしていく「You've Lost That Lovin' Feelin’」など、彼らのライブ・アクトとしての熱量が伝わってくる作品

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『Live! At Caesar's Palace』
Checkmates Ltd.
(Capitol/1967年)
キャピトルと契約し、シングル・リリースを続けたものの、ライブこそバンドの魅力と考え、キャピトルでの初のアルバムはラスベガスでのライブ盤となった。2012年に配信で再発

 

 マーク・リボウスキーの『He’s A Rebel』などでは、フィル・スペクターがそんなチェックメイツ・リミテッドに惚れ込み、A&Mレコードに売り込んだとされている。だが、実際はA&Mのハーブ・アルパートが先にハワイで彼らの演奏に触れ、契約を申し入れていたようだ。1968年4月にA&Mと契約を結んだチェックメイツ・リミテッドは当初、ハーブとともにスタジオ入りして、レコーディングを始めた。だが、ティファナ・ブラス風のプロダクションはバンドには似合わず、ハーブは彼らを別のプロデューサーに預けることにした。そこで白羽の矢が立ったのが、ラリー・レヴィンとともにライチャス・ブラザーズを手掛けたスペクターだったという経緯らしい。

 

 アイク&ティナ・ターナーの『River Deep Montain High』が不発に終わって以来、スタジオから遠ざかっていたスペクターだったが、ハーブの依頼を受けて、いつもの仕事に取り掛かった。まずはニューヨークに飛び、曲を探すのだ。そして、新しいソングライター・チームと出会った。アーウィン・レヴィンとトニ・ワインの2人だ。レヴィンは作詞家、ワインは作曲家で、売れっ子のCMシンガーでもあった。2人が書いた「Black Pearl」という曲にスペクターはヒットの匂いをかぎ取った。

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アーウィン・レヴィン(1938〜1997年)は、ドーン「幸せの黄色いリボン」(Tie a Yellow Ribbon Round the Ole Oak Tree)の作詞者として知られる。同曲の作曲者、L・ラッセル・ブラウンやアル・クーパーとの共作が多かった。写真は音楽出版社Spirit Music GroupのWebサイトより(Spirit Music Group | Irwin Levine

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トニ・ワイン(1947年〜)は、1960年代初頭にソロ・シンガーとしてデビュー。ジュリアード音楽院でピアノを学ぶ傍ら、音楽出版社に所属し、ソングライターとして活躍。テレビアニメ『The Archie Show』に登場する架空のバンド、ザ・アーチーズにも参加した

スペクターのプロデュースに導かれモダンになった
チェックメイツ・リミテッドのサウンド

 1969年の初めに、チェックメイツ・リミテッドのレコーディングはA&Mスタジオではなく、ゴールド・スター・スタジオで始まったようだ。スペクターがボビー・スティーヴンスと共作した「Love Is All We Have To Give」とレヴィン&ワイン作の「Black Pearl」がシングル用にレコーディングされた。エンジニアはラリー・レヴィン、アレンジャーはペリー・ボトキンJr.。ドラマーにはアール・パーマーが呼ばれたようだが、ベーシストを複数使うようなウォール・オブ・サウンドの手法は採られなかった。チェックメイツ・リミテッドはバンドであり、スペクターも彼らのライブ・スタイルからかけ離れたレコードを作ることは避けたのだろう。

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ペリー・ボトキンJr.(1933〜2021年)。ビング・クロスビーやスパイク・ジョーンズを支えたギタリスト/作曲家を父に持ち、ボビー・ダーリンやハーバーズ・ビザールなどのアレンジャーとして活躍。映画『Bless the Beasts and Children』に書いた「Cotton's Dream」は、カーペンターズがカーペンターズの歌唱やテレビ・ドラマ作品への転用、さらにはモントリオール五輪でのナディア・コマネチの登場曲として使われ、「妖精コマネチのテーマ」(Nadia's Theme)として有名になる
http://www.perrybotkinjr.com/

 ボビー・スティーヴンスがリード・ボーカルを取る「Love Is All We Have To Give」が1969年3月に最初のシングルとして発表された。レーベル面にはA&Mとフィル・スペクター・プロダクションズのロゴが並置され、スペクターがA&M傘下に独立したレーベルを持ったように見える。ハーブ・アルパートがそれだけスペクターの仕事に期待をかけていたのも間違いなさそうだ。

 

 「Love Is All We Have To Give」はヒットしなかったが、4月に2ndシングルとして発表された「Black Pearl」は、久々にスペクターの才気がきらめいた傑作だった。ゴスペルライクなコーラスを従えて、リード・ボーカルを取るのはソニー・チャールズ。チェックメイツ・リミテッドでは野太い声のスティーヴンスがリードを取り、チャールズはハーモニーに回ることが多かったが、スペクターはチャールズのハイトーン・ボイスの方にポテンシャルを見出したようだ。「Black Pearl」のチャールズのボーカルは女声のようにも聴こえ、ダーレン・ラヴを思い起こしたりもするが、この録音には実はトリックがあった。チャールズによれば、歌録りに際して、スペクターはテープの回転を落としたのだという。

 

 「Black Pearl」でのチャールズのボーカルはキーは高いが、完全なファルセットではなく、ブルージーな粘りも感じさせる。これは歌録り時にオケのピッチを落とし、少し低いキーで歌った効果だろう。録音後にテープの回転を戻し、レコードに聴けるチャールズのボーカルは実際に歌ったキーよりも高くなっているのだ。

 

 曲全体としては、同じ時代にシカゴやフィラデルフィアで台頭してきたソウル・サウンドに通ずる「Black Pearl」は全米チャートの13位、R&Bチャートの8位まで上るヒット曲となった。それはゴールド・スターで生み出されたスペクター・サウンドの最後の輝きでもあった。

 

 チェックメイツ・リミテッドのアルバムは、ゴールド・スターからA&Mスタジオに場所を移して、制作された。しかし、スペクターが新しいプロジェクトに高揚し、注力するのは今回もまた、短い期間に過ぎなかった。「Love Is All We Have To Give」「Black Pearl」以外の新しい曲はそろえられず、アルバムの残りの曲はすべてカバーになった。B面はロック・ミュージカル『ヘアー』からの曲の20分に及ぶメドレー。アレンジャーにはペリー・ポトキンJr.に加えて、スタン・ケントン楽団出身のベテラン、ディー・バートンも起用された。スペクターは彼らとラリー・レヴィンに多くを任せ、アルバム制作からは引いていったとされる。

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ディー・バートン(左/1937〜2001年)はスタン・ケントン(右)のビッグバンドにてトロンボーン/ドラムス/作曲で活躍後、『ダーティ・ハリー』などの映画音楽に舞台を移す。並行してローリング・ストーンズやペギー・リーなどの音楽コンサルンタントも担った
[Photograph of Stan Kenton and Dee Barton] - UNT Digital Library

 それでも、チェックメイツ・リミテッドのアルバム『Love Is All We Have To Give』はエネルギッシュな魅力を持つ作品に仕上がった。ラリー・レヴィンはスペクター・サウンドの香りも残しつつ、A&Mの広いルームとモダンなイクイップメントを使って、シンフォニックなソウル・サウンドに踏み出している。A&Mスタジオは、1969年には8trレコーダーを導入していたし、コンソールはHAECOのソリッド・ステート・コンソールだった。ミックスはもちろんステレオだ。B面のメドレーではディー・バートンによるビッグ・オーケストラが炸裂(さくれつ)。チャールズとスティーヴンスのボーカル・パフォーマンスも素晴らしい。

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A&MスタジオのHAECO製コンソール。ジェリー・モス(左)とハーブ・アルパート(右)の間に居るハワード・ホルザーの手によるもので、ホルザーはA&Mのためにステレオ・プロセッサーCSGなど、さまざまな機材を製作した
Label Information | On A&M Records

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『Love Is All We Have To Give』
Checkmates Ltd.
(A&M/1969年)
本稿で触れたように、コーラスやストリングスを交えたシンフォニックなソウルとして聽きどころの多い作品。国内では2012年に邦題『黒い涙』として最新リマスターがCDで発売

 

 アルバムのバック・カバーでは、スペクターは5人のメンバーとともに写真に収まり、自らライナー・ノーツも書いている。しかし、1969年7月にリリースされたアルバムは全米チャートの100位にも届かずに終わった。スペクターが自身のプロダクションでアルバム制作を進めたのは、これが最後だった。

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『Love Is All We Have To Give』ジャケット裏面で、チェックメイツ・リミテッドのメンバーと写真に収まるフィル・スペクター(左から3人目)

ゲット・バック・セッションズが
スペクターによって『レット・イット・ビー』になるまで

 1970年以後のフィル・スペクターのキャリアは、散発的な仕事を引き受ける、雇われプロデューサーの地位にとどまるものになった。その最初のクライアントとなったのはビートルズだ。といっても、スペクターがその仕事を引き受けたとき、ビートルズはもはや解散したも同然だったのだが。

 

 ビートルズのラスト・レコーディングは1969年9月に発表されたアルバム『アビイ・ロード』だった。だが、同年の初めにビートルズは“ゲット・バック・セッション”と名付けられたレコーディングを行っていた。それはポール・マッカートニーの提案に基づき、初期のバンド・サウンドに立ち戻って、極力、オーバー・ダビングを行わないシンプルなレコーディングを行うという企画だった。同時にそのレコーディング風景を記録映画として残すための撮影も進められた。

 

 キーボードにビリー・プレストンを加えた5人編成で、アップル・スタジオに入ったビートルズは、1969年1月から“ゲット・バック・セッション”を行い、3月にはグリン・ジョーンズがオリンピック・スタジオでそのミックスに取り掛かった。そして、5月28日に最初のマスター・テープが完成した。しかし、メンバーはその内容に満足せず、アルバム『アビイ・ロード』の制作に取り掛かった。

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エンジニア/プロデューサーのグリン・ジョンズ(1942〜1994年)は、ビートルズやローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリン、ザ・フー、キンクスなどとの仕事で有名。実弟のアンディ、息子のイーサンも同業で活躍

 『アビイ・ロード』が完成し、発売された後、映画のサウンドトラックにすることを前提に、アルバム『ゲット・バック』の修正が進められた。1970年の1月3日から4日にかけては、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの3人がアビイ・ロードのスタジオに入って、追加セッションが行われた。ジョージ・マーティンのプロデュースのもと、管楽器などもオーバー・ダビングされた。しかし、グリン・ジョンズの再度のミックスもメンバーの同意を得ることはできず、アルバム『ゲット・バック』の発売計画は宙に浮いた。

 

 積み上げられたゲット・バック・セッションズのテープから一枚のアルバムをまとめ上げることをスペクターが依頼されたのは、1970年の3月だった。スペクターに心酔していたジョンとジョージの希望が実現したものだったが、そのアップルの決定はポールには知らされていなかった。先ころ、邦訳されたケネス・ウォマック著『ザ・ビートルズ 最後のレコーディング ソリッドステート(トランジスター)革命とアビイ・ロード』には、異変に気付いたポールが“ジョンがテープを持ち去ってしまった”とジョージ・マーティンに怒り心頭の電話をするシーンの描写がある。だが、マーティンもその電話で初めて事態を知ったのだという。

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ザ・ビートルズ 最後のレコーディング ソリッドステート(トランジスター)革命とアビイ・ロード
ケネス・ウォマック 湯田賢司:訳
(DU BOOKS/2021年)
真空管コンソールRedd.51からソリッド・ステートのTG12345へのリプレース、MOOGシンセの導入などとゲット・バック・セッションズを併置したドキュメント。筆者は日本語版の解説として、当時のコンソールとスタジオの事情を記している

 ビートルズのメンバーの居ないところで、テープだけを渡されて作業するという条件は、スペクターにとっては好ましいものだったに違いない。自身の耳だけを信じて、これだ!と思うサウンドを追求するのがスペクターのスタイルだった。雇われプロデューサーに過ぎなくなっても、クライアントの要望に沿って作業を進めるなどということは、できるはずがなかった。

 

 アップル・スタジオの地下の編集室でプランを練ったスペクターは、アビイ・ロードでのオーバー・ダビングへと進んだ。4月1日には33人編成のオーケストラを起用し、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」「アイ・ミー・マイン」「アクロス・ザ・ユニバース」の3曲にオーケストレーションを施した。ポールが書いた「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」には14人のコーラス隊もダビングされた。リンゴ・スターも呼ばれて、ドラムをオーバー・ダビングした。それはビートルズのメンバーがビートルズのレコーディングに参加する最後のセッションになった。

 

『レット・イット・ビー・ネイキッド』で顕在化した
スペクターの発想力

 スペクターが膨大なテープを整理し、追加セッションを手際良くまとめたアルバムは、映画と同じ『レット・イット・ビー』のタイトルが与えられ、5月8日に発売された。ビートルズは既に事実上、解散していた。当初のコンセプトとは大きく外れた内容になったアルバム、とりわけ、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」の仕上がりがポールを激怒させ、裁判にまで発展したことは広く知られている。2003年にはスペクターによるオーバー・ダビングをすべて排し、“ゲット・バック・セッション”の当初のコンセプトに沿ってリミックスされたアルバム『レット・イット・ビー・ネイキッド』も発売された。

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『Let It Be』
The Beatles
(EMI/1975年)
ビートルズ13枚目のアルバムとしてリリース。現在の日本盤CDは2009年のリマスターでユニバーサルから発売

 

 だが、後のラー・バンドの活動でも知られるリチャード・ヒューソンをアレンジャーに起用した「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」のプロダクションは、賛否両論はあるにしても、スペクターが残した仕事の『レット・イット・ビー・ネイキッド』に聴けるラフ・スケッチのようなバージョンから、あの細密で壮大なオーケストラ・バージョンを生み出したスペクターの発想力には驚かされる。

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『Let It Be...Naked』
The Beatles
(EMI/2003年)
フィル・スペクターによるプロダクションを省いた、2003年作品。「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」は、『レット・イット・ビー』とは別のテイクを元にしている。本誌2003年12月号の巻頭に、制作に携わったエンジニア陣のインタビューを収録

 

 その後、スペクターはジョージ・ハリスンやジョン・レノンのソロ・アルバムでもプロデューサーとして手腕を振るっている。だが、1973年にはジョンとともにA&Mスタジオでレコーディングを開始したものの、途中でスペクターがテープを持ち逃げしてしまい、アルバム制作が頓挫するという事件が起こった。テープを取り返したジョンは13曲入りのアルバム『ロックン・ロール』を完成させ、1975年にリリースしたが、スペクターとの録音は4曲が収録されるにとどまった。

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『Rock'n'Roll』
John Lennon
(EMI/1975年)
「ビー・バップ・ア・ルーラ」「スタンド・バイ・ミー」など1950〜60年代のスタンダード曲のカバーを収録。2004年の再発ではテディ・ベアーズ「To Know Her Is To Love Her」など4曲がボーナス・トラックとして追加された

 

 1979年にはラモーンズがスペクターをプロデューサーに望み、ラリー・レヴィンとともにゴールド・スタジオに入った。だが、スペクターは音決めまでにバンドに何十テイクも演奏させる。ミックスにも途方もなく時間がかかる。それまでほとんどの録音をワンテイクで済ませていたラモーンズにはありえないスタジオ経験になった。スペクターは酒浸りでもあり、スタジオ内は荒れた雰囲気になり、ついには銃を持ち歩いているスペクターが、メンバーに銃口を向けるという事件に発展した。それでも1980年2月に発表された『エンド・オブ・ザ・センチュリー』はラモーンズの最大のヒット・アルバムになった。

 

 録音物至上主義で、ひたすらサウンドとだけ向き合い、人間のことは顧みない。フィレス・レコード時代よりもむしろフリーランスのプロデューサーになってからの方が、スペクターのそうした性癖には拍車がかかってしまったようにも思われる。

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『End Of The Century』
The Ramones
(Sire/1980年)
ロネッツ「ベイビー・アイ・ラヴ・ユー」のカバーを収録。現在日本盤CDはボーナス・トラックを6曲加えて2002年にリマスターしたものがワーナーミュージック・ジャパンから発売

 

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高橋健太郎

音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。
Twitterアカウントは@kentarotakahash

Photo:Hiroki Obara