ライブでたたき上げられたR&Bバンド
チェックメイツ・リミテッドとの出会い
チェックメイツ・リミテッドはインディアナ州フォート・ウェイン出身のグループだった。ソニー・チャールス、ボビー・スティーヴンスという2人のシンガーにドラムス、ベース、ギターを加えた5人編成。R&Bのボーカル・グループとロック・バンドが合体したような演奏を聴かせ、ラスベガスなどのライブ・ショウで人気を博していた。2人のシンガーとドラマーは黒人、ギタリストとベーシストは白人という混成だった。
1965年にチェックメイツ・インクの名で最初のライブ・アルバム『Live At Harvey's』を発表した彼らは、ナンシー・ウィルソンの口利きで、1967年にはキャピトル・レコードと契約。チェックメイツ・リミテッドと改名して、2枚目のライブ・アルバム『Live! At Caesar's Palace』を発表した。どちらのライブ盤も主なレパートリーはR&Bのヒット曲のカバーで、「You've Lost That Lovin' Feelin’」も含まれている。ライチャス・ブラザーズと同じくツイン・ボーカルで、より熱を帯びたR&Bフィーリングを備えたライブ・バンドは、スペクターの好みだったに違いない。
マーク・リボウスキーの『He’s A Rebel』などでは、フィル・スペクターがそんなチェックメイツ・リミテッドに惚れ込み、A&Mレコードに売り込んだとされている。だが、実際はA&Mのハーブ・アルパートが先にハワイで彼らの演奏に触れ、契約を申し入れていたようだ。1968年4月にA&Mと契約を結んだチェックメイツ・リミテッドは当初、ハーブとともにスタジオ入りして、レコーディングを始めた。だが、ティファナ・ブラス風のプロダクションはバンドには似合わず、ハーブは彼らを別のプロデューサーに預けることにした。そこで白羽の矢が立ったのが、ラリー・レヴィンとともにライチャス・ブラザーズを手掛けたスペクターだったという経緯らしい。
アイク&ティナ・ターナーの『River Deep Montain High』が不発に終わって以来、スタジオから遠ざかっていたスペクターだったが、ハーブの依頼を受けて、いつもの仕事に取り掛かった。まずはニューヨークに飛び、曲を探すのだ。そして、新しいソングライター・チームと出会った。アーウィン・レヴィンとトニ・ワインの2人だ。レヴィンは作詞家、ワインは作曲家で、売れっ子のCMシンガーでもあった。2人が書いた「Black Pearl」という曲にスペクターはヒットの匂いをかぎ取った。
スペクターのプロデュースに導かれモダンになった
チェックメイツ・リミテッドのサウンド
1969年の初めに、チェックメイツ・リミテッドのレコーディングはA&Mスタジオではなく、ゴールド・スター・スタジオで始まったようだ。スペクターがボビー・スティーヴンスと共作した「Love Is All We Have To Give」とレヴィン&ワイン作の「Black Pearl」がシングル用にレコーディングされた。エンジニアはラリー・レヴィン、アレンジャーはペリー・ボトキンJr.。ドラマーにはアール・パーマーが呼ばれたようだが、ベーシストを複数使うようなウォール・オブ・サウンドの手法は採られなかった。チェックメイツ・リミテッドはバンドであり、スペクターも彼らのライブ・スタイルからかけ離れたレコードを作ることは避けたのだろう。
ボビー・スティーヴンスがリード・ボーカルを取る「Love Is All We Have To Give」が1969年3月に最初のシングルとして発表された。レーベル面にはA&Mとフィル・スペクター・プロダクションズのロゴが並置され、スペクターがA&M傘下に独立したレーベルを持ったように見える。ハーブ・アルパートがそれだけスペクターの仕事に期待をかけていたのも間違いなさそうだ。
「Love Is All We Have To Give」はヒットしなかったが、4月に2ndシングルとして発表された「Black Pearl」は、久々にスペクターの才気がきらめいた傑作だった。ゴスペルライクなコーラスを従えて、リード・ボーカルを取るのはソニー・チャールズ。チェックメイツ・リミテッドでは野太い声のスティーヴンスがリードを取り、チャールズはハーモニーに回ることが多かったが、スペクターはチャールズのハイトーン・ボイスの方にポテンシャルを見出したようだ。「Black Pearl」のチャールズのボーカルは女声のようにも聴こえ、ダーレン・ラヴを思い起こしたりもするが、この録音には実はトリックがあった。チャールズによれば、歌録りに際して、スペクターはテープの回転を落としたのだという。
「Black Pearl」でのチャールズのボーカルはキーは高いが、完全なファルセットではなく、ブルージーな粘りも感じさせる。これは歌録り時にオケのピッチを落とし、少し低いキーで歌った効果だろう。録音後にテープの回転を戻し、レコードに聴けるチャールズのボーカルは実際に歌ったキーよりも高くなっているのだ。
曲全体としては、同じ時代にシカゴやフィラデルフィアで台頭してきたソウル・サウンドに通ずる「Black Pearl」は全米チャートの13位、R&Bチャートの8位まで上るヒット曲となった。それはゴールド・スターで生み出されたスペクター・サウンドの最後の輝きでもあった。
チェックメイツ・リミテッドのアルバムは、ゴールド・スターからA&Mスタジオに場所を移して、制作された。しかし、スペクターが新しいプロジェクトに高揚し、注力するのは今回もまた、短い期間に過ぎなかった。「Love Is All We Have To Give」「Black Pearl」以外の新しい曲はそろえられず、アルバムの残りの曲はすべてカバーになった。B面はロック・ミュージカル『ヘアー』からの曲の20分に及ぶメドレー。アレンジャーにはペリー・ポトキンJr.に加えて、スタン・ケントン楽団出身のベテラン、ディー・バートンも起用された。スペクターは彼らとラリー・レヴィンに多くを任せ、アルバム制作からは引いていったとされる。
それでも、チェックメイツ・リミテッドのアルバム『Love Is All We Have To Give』はエネルギッシュな魅力を持つ作品に仕上がった。ラリー・レヴィンはスペクター・サウンドの香りも残しつつ、A&Mの広いルームとモダンなイクイップメントを使って、シンフォニックなソウル・サウンドに踏み出している。A&Mスタジオは、1969年には8trレコーダーを導入していたし、コンソールはHAECOのソリッド・ステート・コンソールだった。ミックスはもちろんステレオだ。B面のメドレーではディー・バートンによるビッグ・オーケストラが炸裂(さくれつ)。チャールズとスティーヴンスのボーカル・パフォーマンスも素晴らしい。
アルバムのバック・カバーでは、スペクターは5人のメンバーとともに写真に収まり、自らライナー・ノーツも書いている。しかし、1969年7月にリリースされたアルバムは全米チャートの100位にも届かずに終わった。スペクターが自身のプロダクションでアルバム制作を進めたのは、これが最後だった。
ゲット・バック・セッションズが
スペクターによって『レット・イット・ビー』になるまで
1970年以後のフィル・スペクターのキャリアは、散発的な仕事を引き受ける、雇われプロデューサーの地位にとどまるものになった。その最初のクライアントとなったのはビートルズだ。といっても、スペクターがその仕事を引き受けたとき、ビートルズはもはや解散したも同然だったのだが。
ビートルズのラスト・レコーディングは1969年9月に発表されたアルバム『アビイ・ロード』だった。だが、同年の初めにビートルズは“ゲット・バック・セッション”と名付けられたレコーディングを行っていた。それはポール・マッカートニーの提案に基づき、初期のバンド・サウンドに立ち戻って、極力、オーバー・ダビングを行わないシンプルなレコーディングを行うという企画だった。同時にそのレコーディング風景を記録映画として残すための撮影も進められた。
キーボードにビリー・プレストンを加えた5人編成で、アップル・スタジオに入ったビートルズは、1969年1月から“ゲット・バック・セッション”を行い、3月にはグリン・ジョーンズがオリンピック・スタジオでそのミックスに取り掛かった。そして、5月28日に最初のマスター・テープが完成した。しかし、メンバーはその内容に満足せず、アルバム『アビイ・ロード』の制作に取り掛かった。
『アビイ・ロード』が完成し、発売された後、映画のサウンドトラックにすることを前提に、アルバム『ゲット・バック』の修正が進められた。1970年の1月3日から4日にかけては、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの3人がアビイ・ロードのスタジオに入って、追加セッションが行われた。ジョージ・マーティンのプロデュースのもと、管楽器などもオーバー・ダビングされた。しかし、グリン・ジョンズの再度のミックスもメンバーの同意を得ることはできず、アルバム『ゲット・バック』の発売計画は宙に浮いた。
積み上げられたゲット・バック・セッションズのテープから一枚のアルバムをまとめ上げることをスペクターが依頼されたのは、1970年の3月だった。スペクターに心酔していたジョンとジョージの希望が実現したものだったが、そのアップルの決定はポールには知らされていなかった。先ころ、邦訳されたケネス・ウォマック著『ザ・ビートルズ 最後のレコーディング ソリッドステート(トランジスター)革命とアビイ・ロード』には、異変に気付いたポールが“ジョンがテープを持ち去ってしまった”とジョージ・マーティンに怒り心頭の電話をするシーンの描写がある。だが、マーティンもその電話で初めて事態を知ったのだという。
ビートルズのメンバーの居ないところで、テープだけを渡されて作業するという条件は、スペクターにとっては好ましいものだったに違いない。自身の耳だけを信じて、これだ!と思うサウンドを追求するのがスペクターのスタイルだった。雇われプロデューサーに過ぎなくなっても、クライアントの要望に沿って作業を進めるなどということは、できるはずがなかった。
アップル・スタジオの地下の編集室でプランを練ったスペクターは、アビイ・ロードでのオーバー・ダビングへと進んだ。4月1日には33人編成のオーケストラを起用し、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」「アイ・ミー・マイン」「アクロス・ザ・ユニバース」の3曲にオーケストレーションを施した。ポールが書いた「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」には14人のコーラス隊もダビングされた。リンゴ・スターも呼ばれて、ドラムをオーバー・ダビングした。それはビートルズのメンバーがビートルズのレコーディングに参加する最後のセッションになった。
『レット・イット・ビー・ネイキッド』で顕在化した
スペクターの発想力
スペクターが膨大なテープを整理し、追加セッションを手際良くまとめたアルバムは、映画と同じ『レット・イット・ビー』のタイトルが与えられ、5月8日に発売された。ビートルズは既に事実上、解散していた。当初のコンセプトとは大きく外れた内容になったアルバム、とりわけ、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」の仕上がりがポールを激怒させ、裁判にまで発展したことは広く知られている。2003年にはスペクターによるオーバー・ダビングをすべて排し、“ゲット・バック・セッション”の当初のコンセプトに沿ってリミックスされたアルバム『レット・イット・ビー・ネイキッド』も発売された。
だが、後のラー・バンドの活動でも知られるリチャード・ヒューソンをアレンジャーに起用した「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」のプロダクションは、賛否両論はあるにしても、スペクターが残した仕事の『レット・イット・ビー・ネイキッド』に聴けるラフ・スケッチのようなバージョンから、あの細密で壮大なオーケストラ・バージョンを生み出したスペクターの発想力には驚かされる。
その後、スペクターはジョージ・ハリスンやジョン・レノンのソロ・アルバムでもプロデューサーとして手腕を振るっている。だが、1973年にはジョンとともにA&Mスタジオでレコーディングを開始したものの、途中でスペクターがテープを持ち逃げしてしまい、アルバム制作が頓挫するという事件が起こった。テープを取り返したジョンは13曲入りのアルバム『ロックン・ロール』を完成させ、1975年にリリースしたが、スペクターとの録音は4曲が収録されるにとどまった。
1979年にはラモーンズがスペクターをプロデューサーに望み、ラリー・レヴィンとともにゴールド・スタジオに入った。だが、スペクターは音決めまでにバンドに何十テイクも演奏させる。ミックスにも途方もなく時間がかかる。それまでほとんどの録音をワンテイクで済ませていたラモーンズにはありえないスタジオ経験になった。スペクターは酒浸りでもあり、スタジオ内は荒れた雰囲気になり、ついには銃を持ち歩いているスペクターが、メンバーに銃口を向けるという事件に発展した。それでも1980年2月に発表された『エンド・オブ・ザ・センチュリー』はラモーンズの最大のヒット・アルバムになった。
録音物至上主義で、ひたすらサウンドとだけ向き合い、人間のことは顧みない。フィレス・レコード時代よりもむしろフリーランスのプロデューサーになってからの方が、スペクターのそうした性癖には拍車がかかってしまったようにも思われる。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。
Twitterアカウントは@kentarotakahash
Photo:Hiroki Obara