フィル・スペクターがテディ・ベアーズで味わったアーティストとしての成功と挫折 〜【Vol.81】音楽と録音の歴史ものがたり

テディ・ベアーズとしてのダビングに
ドラマー=サンディ・ネルソンが呼ばれた理由

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結成時のテディ・ベアーズ。中央奥がフィル・スペクター。前列は左からハーヴェイ・ゴールドスタイン、アネット・クレインバード、マーシャル・リーヴ http://doo-wop.blogg.org/teddy-bears-c26503074

 1958年5月20日のゴールド・スター・スタジオでの初セッションで「Don’t You Worry My Little Pet」を完成させたフィル・スペクターは、スタン・ロスにカッティングしてもらった同曲のアセテート盤を持ち帰り、レーベルへの売り込みを画策した。といっても、彼はレコード業界には何のコネも持っていなかった。唯一、友人のドン・カートゥーンの紹介で、新興のエラ・レコードにコンタクトが取れただけだった。

Don't You Worry My Little Pet

Don't You Worry My Little Pet

  • テディ・ベアーズ
  • ポップ
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

 

 エラ・レコードは1955年にリュウ・ベデルとハーブ・ニューマンの2人によって設立された。2人はともにユダヤ系の音楽業界人で、ベデルはテレビ番組の司会者としても知られた。ニューマンはマーキュリーやデッカで働いた経験を持ち、自らも作詞もした。1956年、ニューマンがスタンリー・リボウスキーと共作した「The Wayward Wind」という曲を女性歌手のゴギ・グラントに歌わせたシングルが全米No.1になり、エラ・レコードは幸運な滑り出しを見せた。

The Wayward Wind

The Wayward Wind

  • Gogi Grant
  • ポップ
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

 

 エラ・レコードのオフィスを訪れたスペクターは、ベデルとニューマンにアセテート盤を聴かせた。2人は曲を気に入り、生意気なユダヤ人の音楽家の卵にも好感を持ったようだ。そして、まだ名前の無い、全員が未成年のグループに契約を持ちかける。フィル・スペクター、マーシャル・リーヴ、アネット・クレインバード、ハーヴェイ・ゴールドスタインの4人は、シングルが1枚売れるごとに1.5セントの印税を受け取る契約にサインすることになった。

 

 グループ名はハーヴェイ・ゴールスタインの発案で、テディ・ベアーズと決まった。だが、契約を整えて、「Don’t You Worry My Little Pet」のB面となる曲のレコーディングに進むころには、ゴールドスタインは予備役の訓練キャンプに行かねばならず、2度目の録音には参加しないことになった。ゴールドスタインをさして必要としていなかったスペクターにとって、それはむしろ好都合だった。

 

 スペクターがB面用に書いた曲は「Wonderful Lovable You」という6/8拍子のバラードだった。レコーディングは「Don’t You Worry My Little Pet」と同じくゴールド・スター・スタジオで、スタン・ロスとともに行われた。だが、スペクターとリーヴがオーバー・ダビングを繰り返すレコーディング・セッションは1日では終わらず、ベデルとニューマンはいらだちながらも、翌週にもう1日、ゴールド・スターを押さえることになった。

Wonderful Lovable You

Wonderful Lovable You

  • テディ・ベアーズ
  • ポップ
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

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1958年に撮影されたとされるフィル・スペクターの写真。壁には「To Know Him, Is To Love Him」の楽譜の表紙が張られている

  テディ・ベアーズの巨大なヒット曲となる「To Know Him, Is To Love Him」はその3日目のセッションでレコーディングされた、というのが多くのところで語られてきた伝説となっている。マーク・リボウスキーの『He’s A Rebel』(邦訳は『フィル・スペクター 甦る伝説』)では、それは「Wonderful Lovable You」の録音が完了した後の残り時間を使って、わずか30分でレコーディングされた新曲だったとされている。だが、この記述には大いに疑問がある。というのは、このテディ・ベアーズの3度目のセッションにはドラマーのサンディ・ネルソンが雇われているからだ。彼は「Wonderful Lovable You」を仕上げるためにスタジオに呼ばれたのだろうか?

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『He's A Rebel: Phil Spector-Rock and Roll's Legendary Producer』Mark Rebowsky(Cooper Square/2000 年)ハードカバーではDuttonから1989年に刊行(写真はペーパーバック版)。著者のリボウスキーはニューヨーク・タイムズなどへ寄稿するライターで、スティーヴィー・ワンダー、シュープリームス、リトル・リチャードの評伝なども記している。邦訳は前回紹介
フィル・スペクター 甦る伝説 増補改訂版

フィル・スペクター 甦る伝説 増補改訂版

 

  『He’s A Rebel』では、その日はネルソンのドラムのオーバー・ダビングに時間がかかり、ベデルとニューマンは耐え切れず、スタジオを出て行ったというロスの証言が記されている。だが、1959年にテディ・ベアーズのシングルとしてリリースされた「Wonderful Lovable You」を聴いても、ネルソンのたたくドラム・セットの音は聴こえない。単発のスネア風のサウンドは聴こえるが、これはスペクターやリーヴが電話帳をたたいたもののように思われる。

 

 では、ネルソンは何のために呼ばれたのか? それは「Wonderful Lovable You」ではなく、一度完成した「Don’t You Worry My Little Pet」の上に、ドラムをオーバー・ダビングするためだったというのが僕の推論だ。「Don’t You Worry My Little Pet」のセッションにはドラマーは居なかった。アネット・クレインバードの証言によれば、スペクターやリーヴが電話帳をたたいて、ドラム代わりのベーシック・トラックを作ったということになっている。だが、「Don’t You Worry My Little Pet」のシングル盤を聴くと、この曲にはスネアの連打による細かいフィルも入っている。その音色は「Wonderful Lovable You」のそれよりもずっと本物のドラムっぽい。

 

 「Don’t You Worry My Little Pet」はアップ・テンポの曲だ。最初のバージョンではビートが弱いということで、ネルソンのドラムのオーバー・ダビングが企てられた。だが、彼はタイミングに合わせるのに苦労したということならば、話はうなずける。そして、「Don’t You Worry My Little Pet」のオーバー・ダビングが終わった後、そのままネルソンとともにレコーディングに入ったのが、3曲目の「To Know Him, Is To Love Him」だったのではないだろうか。「To Know Him, Is To Love Him」にはネルソンのたたくハイハットもスネアもシンバルもはっきりと聴き取ることができる。

「To Know Him, Is To Love Him」の大ヒットと
“同級生グループ”の崩壊

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「To Know Him, Is To Love Him」の市販楽譜の表紙(https://www.45cat.com/record/503us8

 「To Know Him, Is To Love Him」はフィル・スペクターが温めていた曲だった。そのリフレインは母のバーサ・スペクターが、自殺した父ベンジャミン・スペクターの墓標に刻んだ言葉を元にしていた。Bメロの短3度を行き来する転調構造には、スペクターが17 歳にして獲得していたソングライティング・スキルが光っている。クレインバードにこれを歌わせれば、センチメンタルなキラー・チューンが生まれる。スペクターはそう確信していたに違いない。

 

 ハーヴェイ・ゴールドスタインも訓練キャンプに行く前に「To Know Him, Is To Love Him」を聴かされていたというから、グループ内では入念なリハーサルも進められていたのだろう。あるいは、スペクターはすべて計算ずくだったようにも思われる。「Wonderful Lovable You」の録音は1日では終わらせず、もう1日、スタジオ・デイトをもらう。そこで「Don’t You Worry My Little Pet」のドラムのオーバー・ダビングと「To Know Him, Is To Love Him」の録音もする。最後のセッションは30分どころか、スタン・ロスの許可を得て、夜中までやったのかもしれない。

 

 予定に無かった「To Know Him, Is To Love Him」を聴かされたベデルとニューマンも、そのバラードに特別なポテンシャルを聴き取り、「Wonderful Lovable You」に代わって、テディ・ベアーズのデビュー・シングルにそれを使うことを決めた。だが、エラ・レコードのロックンロール部門であるドリー・レーベルの第1弾だったため、A面はアップ・テンポの「Don’t You Worry My Little Pet」となった。シングルは1958年8月1日に発売されたが、しばらくは何も起こらなかった。

 

テディ・ベアーズの当時のテレビ出演と思われる動画がYouTubeにアップされている。演奏しているのは「To Know Him, Is To Love Him」。ギターを抱えているのがフィル・スペクター

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ドリー(Doré)から1958年にリリースされた「To Know Him, Is To Love Him」のレーベル。ドリーはエラのペデルとニューマンが設立したレーベル https://www.discogs.com/ja/The-Teddy-Bears-To-Know-Him-Is-To-Love-Him/release/1601466

 だが、9月に入ると、中西部のラジオ局でB面の「To Know Him, Is To Love Him」がオンエアされ、人気を呼び始める。レーベルはその動きを見逃さず、「To Know Him To Love Him」をA面に差し替え、シングルを再発売した。「To Know Him To Love Him」はミネアポリスでNo.1になり、9月22日にはビルボード・チャートの88位に登場。ベデルの売り込みが功を奏して、ディック・クラークの『アメリカン・バンドスタンド』でオンエアされると、全米で爆発的なヒットとなっていった。1958年の終わりにはこのシングルは全米No.1に上り詰め、最終的には140万枚を売り上げたとされている。

 

 たった1枚のシングル盤で、突然の成功を手にしたティーンエイジャーたちが、大混乱に巻き込まれるのもアッという間だった。ハーヴェイ・ゴールスタインが訓練キャンプから戻ってきたときには、テディ・ベアーズは「To Know Him, Is To Love Him」を録音した3人組になっていた。ゴールドスタインはこれに異議を唱え、訴訟を起こして、示談金を得た。自分の思いのままに作ったシングルで全米No.1を獲得したスペクターの自信は膨れ上がり、人格は一変した。怪物化した彼をベデルやニューマンももうコントロールできなかった。加えて、もっと強力な支配者がすべてを取り仕切ろうとした。テディ・ベアーズのマネージャーになったフィルの姉のシャーリー・スペクターだ。高圧的な彼女の存在が、ハイスクールの仲間だった3人をバラバラにしていった。

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1959年2月、マネージャーのシャーリー・スペクターがテディ・ベアーズの3人に宛てた手紙。デイヴィッド・ヤングというコレクターが所蔵しているもの

 テディ・ベアーズと4曲分の契約しか結んでいなかったエラ・レコードとの関係は1959年の初めには解消された。スペクターはインペリアル・レコードとの契約にサインし、テディ・ベアーズのデビュー・アルバムの制作に入った。だが、アルバム制作はスペクターにとっても初めての経験。オリジナル曲は4曲しか用意できず、あとはカバー曲で構成せねばならなかった。レコーディングはフェアファックス・アベニューのマスター・サウンドというスタジオで行われたが、ゴールド・スターでのスタン・ロスとの作業とは勝手が違った。思うようなサウンドが得られず、スタジオ・ミュージシャンを待たせながら、スペクターとリーヴが当てずっぽうに機材をいじりまわす時間ばかりが過ぎていく。業を煮やしたインペリアルの社長のルー・チャッドは、プロデューサー/アレンジャーのジミー・ハスケルをスタジオに送りこみ、アルバムを仕上げることを命じた。

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ジミー・ハスケル(1926〜2006年)は、インペリアルでの仕事を皮切りに多くの作品を手掛けた作編曲家。サイモン&ガーファンクル「明日に架ける橋」(1970年)、シカゴ「愛ある別れ」(1976年)などのオーケストレーションでグラミー受賞。ポップスでの活躍にとどまらず、映画音楽の仕事でも名を馳せる

 スペクターはギターを弾くことさえ禁じられ、ハスケルが手際良く、バック・トラックの録音を終えるのを見守り、コーラス・グループの一員として、歌うだけになった。ハスケルはアルバム制作をステレオ録音で進めたが、このときの屈辱的な経験がスペクターのステレオ嫌いにつながった部分もあるかもしれない。『The Teddy Bears Sing!』と題された12曲入りのアルバムは3月に発売されたが、その直前まで「To Know Him, Is To Love Him」に熱狂していた市場の反応は恐ろしく静かだった。スペクターのオリジナル曲を含め、大半のトラックは「To Know Him, Is To Love Him」に似た6/8拍子のバラード。だが、「To Know Him, Is To Love Him」のような特別なソウルやマジックを感じさせる曲は無かった。『The Teddy Bears Sing!』のテディ・ベアーズは行儀の良い白人のティーンエイジ・ポップでしかなく、幾つかの曲でのアネット・クレインバードのボーカルは魅力的ではあるものの、グループに未来が無いことは既に暗示されていた。

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『テディ・ベアーズ』テディ・ベアーズ(ユニバーサル/2015年)『The Teddy Bears Sing!』として1959年にインペリアルからリリースされたタイトルの再発。「アンチェインド・メロディ」「マイ・フーリッシュ・ハート」などのカバーも多数収録
Sing! (Original Album Plus Bonus Tracks 1959)

Sing! (Original Album Plus Bonus Tracks 1959)

  • テディ・ベアーズ
  • ポップ
  • ¥1681

レスター・シルの後ろ盾を得て
スペクターはプロデューサーの道へ

 1959年9月、アネット・クレインバードはハリウッドの北のマルホランド・ドライブで自動車事故を起こし、重症を負う。このころにはグループは既に解散状態で、スペクターは病院へ見舞いにも行かなかったという。「To Know Him, Is To Love Him」の成功が生み出した金は、シャーリー・スペクターによって浪費され、リーヴとクレインバードにはほとんど渡されることがなかった。

 

 アルバムからのシングルがどれも低空飛行に終わったことで、インペリアル・レコードもスペクターには見切りをつけていた。だが、すぐに次の加護者は現れた。『The Teddy Bears Sing!』のレコーディング中にマスター・サウンドで知り合ったレスター・シルだ。シルは同じスタジオで、デュアン・エディのレコードのカッティングを行っていたようだ。

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レスター・シル(左)とリー・ヘイゼルウッド(右)。ヘイゼルウッドはソングライターとして活躍し、後年ナンシー・シナトラに「These Boots Are Made for Walkin'」(にくい貴方)を提供、大ヒットを放つ

  前回触れたように、レスター・シルは1950年代前半にソングライター・チームのリーバー&ストーラーを育てたやり手の業界人だった。リーバー&ストーラーがニューヨークに移った後には、リー・ヘイゼルウッドとの共同プロデュースで、ギタリストのデュアン・エディを成功に導いていた。また、トレイ・レコードという自身のレーベルも経営していた。

 

 テディ・ベアーズが解散する以前に、スペクターはシルのオフィスを訪れ、ソロでの契約を結んだ。だが、このころにはまだ、スペクターは自身の進む道を決めかねていたようだ。ギタリストとして成功することにも野心を残していて、サックス奏者のスティーヴ・ダグラスらとジャズ・ロック的なセッションを繰り返していたという。自身がリード・ボーカルを取るコーラス・グループでのレコーディングも計画していた。だが、シルはスペクターの才覚はプロデューサー向きであることを完全に見抜いていた。そして、彼をアリゾナ州フェニックスに連れて行く。そこでリー・ヘイゼルウッドが行っているデュアン・エディのレコーディングを見学させるためだった。

 

高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash
 

www.snrec.jp

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