ハリウッドの高校生スペクターと
その先輩だったリーバー&ストーラー
フィル・スペクターは1940年12月26日に、ニューヨークのブロンクスに生まれた。父親のベンジャミン・スペクターも母親のバーサ・スペクターもロシア系のユダヤ人で、子供時代にアメリカにやって来た。二人は1934年に結婚し、姉のシャーリーと弟のハーヴェイ・フィリップをもうけた。だが、1949年、フィリップが9歳の時に父親のベンが自殺する。慕っていた父親を突然、失ったフィリップは暗闇の底に突き落とされた。
4年後の1953年、残された母子三人はニューヨークからロサンゼルスに移住。ユダヤ人が多く住むウェスト・ハリウッドで、新しい生活を始めた。そして、フィリップは1954年にフェアファックス・ハイスクールに入学する。メルローズ・アベニューとフェアファックス・アベニューの交差点近くにあるこのフェアファックス・ハイスクールは数多くのロック・ミュージシャンを輩出したことで知られる。レッド・ホット・チリ・ペッパーズはこの高校の学内で結成されたバンドだったし、ガンズ&ローゼズのスラッシュも同校の出身だ。もう少し時代を遡ると、ウォーレン・ジヴォン、P・F・スローンなどの名も卒業生のリストの中に見ることができる。ジャクソン5のメンバーたちも同校に通っていたことがある。
といっても、フィル・スペクターが入学した1954年はロックンロールの爆発前夜だったし、同校が特別に音楽的なムードを持っていたわけでもないようだ。ただし、その先輩の中には、後にスペクターと重要なかかわりを持つ人物が二人居た。一人は1962年にジェリー・モスとともにA&Mレコードを設立するトランペット奏者のハーブ・アルパート。もう一人は有名なソングライター・チーム、リーバー&ストーラーの作詞家であるジェリー・リーバーだ。
ジェリー・リーバーは1933年4月25日にメリーランド州ボルチモアで生まれた。父親はポーランド系のユダヤ人だったが、リーバーが5歳の時に死去。母親がひとりで青果店を切り回す苦しい家庭で育った。1945年に一家はロサンゼルスに移住。フェアファックス・ハイスクールに入学したリーバーは、在学中から曲を書き始めた。共作者を探していたリーバーが、マイク・ストーラーと出会うのは1950年。フェアファックス・アベニューにあるノーティーズというレコード店でアルバイトをしていたときだった。裕福なユダヤ人家庭に育ったストーラーはその年、高校を卒業して、ロサンゼルスのシティ・カレッジに入学したばかりだった。リズム&ブルースに傾倒していた二人は意気投合し。高校生と大学生のソングライター・チームが生まれた。
二人にとって、ソングライターとして生計を立てていくことは、遠い絵空事ではなかった、ストーラーの母親はブロードウェイでの女優経験があり、ガーシュウィンのミュージカルにも出演したことがあった。ストーラーはクラシック・ピアノを学んだだけでなく、母親の勧めでジャズ・ピアニストのジェームズ・P・ジョンソンのレッスンも受けたという。ジョンソンはカウント・ベイシーやデューク・エリントンにも影響を与えたストライド・ピアノの名手で、ガーシュウィンとも親交を持つソングライターでもあった。リーバーの姉の結婚相手も映画音楽作家の父親を持っていたという。
リーバーとストーラーはティン・パン・アレイのユダヤ系ソングライターの伝統にブラック・ミュージック的な感覚を付加する先駆者だった。彼らはそのことに極めて意識的だった。そして、ノーティーズに出入りしていたモダーン・レコードのセールス・マネージャーが二人の才能を認めた。それが後にフィル・スペクターとともにフィレス・レコードを興すレスター・シルだ。
ヒット・メイカーとなるリーバー&ストーラー
最初から“空気の中”で多重録音をしたスペクター
1918年にロサンゼルスで生まれたレスター・シルは、ナイトクラブのオーナーなどを経て、1945年にモダーン・レコードで働き始めた。彼もユダヤ系で、リズム&ブルースに精通した音楽業界人だった。シルはリーバー&ストーラーが書いた「That's What The Good Book Says」をボビー・ナン・ウィズ・ザ・ロビンズに吹き込ませた。1951年3月、モダーン・レコードからのシングル「Rockin’」のB面として発表されたこの曲が、最初に録音されたリーバー&ストーラー作品となった。
Bobby Nunn With The Robbins* - Rockin' / That's What The Good Book Says (1951, Shellac) | Discogs
シルとともにさまざまなレーベルに曲をデモンストレーションしたリーバー&ストーラーは、1952年にはチャールズ・ブラウンの「Hard Times」で、最初のヒットを経験する。リトル・ウィリー・リトルフィールドが「KC Loving」というタイトルで「Kansas City」の最初のバージョンを録音したのもこの年だ。この曲はその後、多くのアーティストにカバーされ、1959年にはウィルバート・ハリスンのバージョンが全米No.1ヒットになった。
Little Willie Littlefield - K. C. Loving / Pleading At Midnight (blue wax, Vinyl) | Discogs
1952年8月にはビッグ・ママ・ソーントンによる「Hound Dog」のレコーディングが行われた。1956年にエルヴィス・プレスリーが人気爆発させる同曲のオリジナル・バージョンだ。1953年2月にピーコック・レコードからリリースされたこのシングルのプロデューサーはジョニー・オーティスとされているが、リーバー&ストーラーは実質的には自分たちの最初のプロデュース作品だったと語っている。ジョニー・オーティスがたたくドラムスにはラテン・ジャズ的なフィーリングがあるが、それはメキシコ人の多い居住区で育ったストーラーの資質とも結びついているようだ。
1953年の終わりにはリーバー&ストーラーはシルとともに、スパーク・レコードを設立する。だが、スパーク・レコードの活動は1年半ほどしか続かなかった。アトランティック・レコードから強いラブ・コールを受けた彼らは、活動拠点をロサンゼルスからニューヨークに移すことにしたのだ。
フェアファックス・ハイスクールに入学したフィル・スペクターが、校内で音楽活動を始めたのは、そんなころあいだった。ニューヨーク育ちのやせっぽちでシャイな少年は、バーニー・ケッセルにあこがれて、ジャズ・ギタリストを目指し、ハワード・ロバーツのレッスンを受けていた。だが、ロックンロールの時代がやって来ると、スペクターの興味もポップ・ソングに向いていく。1957年までにはスペクターは二人の仲間を見つけていた。一人はマーシャル・リーヴ。もう一人はマイケル・スペンサー。三人はともにレコードを聴き、楽器を演奏し、ドゥーワップやリズム&ブルースの曲を歌い、何か機会を見つけては、人前でも演奏するようになった。だが、バンド名は決まらないままだった。
リーヴは当時、彼とスペクターが小さなテープ・レコーダーを使って、デモ録音をしていたことを覚えている。彼らは声の二重録音をするときに、ヘッドフォンを使わず、あえてスピーカーで前の録音を鳴らしながら歌ったそうだ。
「全部をいっぺんにマイクに収めたかったんだ。そうすればサウンドはビッグでフルになる。当時既にオーバーダビングはあちこちで行われていたけれど、ああいう声の重ね方は誰もやってなかった。僕達はそれがどんな効果をもたらすか分っていた」
マーク・リボウスキーの著作『フィル・スペクター−蘇る伝説』(He’s A Rebel)に収録されているこのリーヴの証言はスペクターの“ウォール・オブ・サウンド”の原点を指し示すものだろう。彼らは最初から、サウンドを電気的にミックスすることよりも、空気の中でミックスすることを好んでいたのだ。
若きスペクターが通った
“伝説になる前”のゴールド・スター・スタジオ
フェアファックス・ハイスクールの卒業後、マイケル・スペンサーはUCLAへと進学して、音楽からは遠ざかっていった。リーブとともにロサンゼルス・シティ・カレッジに進んだスペクターは、プロフェッショナル・スタジオを借りて、レコーディングする準備に奔走していた。彼が目を付けたのは、サンタ・モニカ・ブールバードとヴァイン・ストリートの交差点近くにあるゴールド・スター・スタジオだった。そこでレコーディングされたフォー・ラッズやハイローズのリバーブの効いたコーラス・サウンドに引かれていたのだ。
ゴールド・スター・スタジオは1950年にデヴィッド・ゴールドとスタンリー・ロスの二人によって設立された。現在ではゴールド・スターの伝説は巨大だが、設立当時のそれは20歳そこそこの若者二人が小さな平屋の商店を改造して、ありあわせの機材で作り上げたスタジオに過ぎなかった。当初はラジオ局、テレビ局、映画会社などの依頼に応えたジングル制作、インタビューなどの細かな仕事が多かったようだ。レコーダーもモノラルしかなかったという。だが、モダーン・レコードなどがローカルなリズム&ブルース・グループの録音を持ち込むようになり、1950年代の半ばにはレコーディング・セッションが日々の仕事となった。レコード会社にとってのゴールド・スターの魅力は何よりも安いことだった。
エンジニアを務めるスタン・ロスは、やはりフェアファックス・ハイスクールの卒業生だった。彼はニューヨーク生まれで、1944年に家族とともにロサンゼルスに移住。1946年に高校を卒業した後、エレクトロ・ヴォックス・スタジオで4年間、経験を積んだ。ロスは1952年にはゴールド・スターに従兄弟を参加させた。それが後にスペクターとともに“ウォール・オブ・サウンド”を生み出すことになるラリー・レヴィンだ。レヴィンもニューヨークで生まれで、ロサンゼルスで育ち、朝鮮戦争に従軍した後、ゴールド・スターに入って、ロスからエンジニアリングを学んだ。
1957年ごろからスペクターはゴールド・スター・スタジオに通い詰めては、ロスの仕事を見学していたという。ロスはフェアファックス・ハイスクールの後輩ということで、静かにしている限り、スペクターがそこに居ることを許したのだろう。
自身のグループを結成したスペクターが重ねた
新しいロックンロールのための録音実験
スペクターはゴールド・スターで自分たちのレコードを作ることを熱望していたが、問題は費用だった。ゴールス・スターのスタジオ代は1時間、15ドル。テープ代が6ドル。40ドルあれば、2時間のレコーディングができるとスペクターは考えたが、母のバーサから借りられたのは10ドルに過ぎなかった。そこで彼が思いついたのはグループのメンバーを増やし、彼らに10ドルずつスタジオ代を出させることだった。フェアファックス・ハイスクールからUCLAに進んでいたベース・シンガーのハーヴェイ・ゴールドスタインがその話に乗った。
ガールフレンドだったダナ・カスの友人、アネット・クレインバードにもスペクターは声をかけた。アネットのソプラノ・ボイスはフェアファックス・ハイスクールでも評判だった。彼女も録音に参加する代わりに、母親から借りた10ドルをスペクターに支払った。40ドルを手に入れたスペクターは。1958年5月20日にゴールド・スターでのレコーディング・セッションを予約した。
スペクターがセッションのために用意したのは「Don’t You Worry My Little Pet」という曲だった。その後の音楽史を踏まえて言うならば、チャック・ベリー風のロックンロールに、メジャー感のあるコーラスを乗せた初期ビーチ・ボーイズ風の曲だ。当時のゴールド・スターには3trレコーダーがあったようだが、3trのピンポンで作ったとは思えない多重コーラスが聴こえる。楽器については、スペクターがギターとピアノを演奏したとされる。だが、この初録音には大きな謎があった。曲中に聴こえるドラムをたたいているのが、誰だか分からないのだ。
2回目の録音ではスペクターたちはドラマーにサンディ・ネルソンを迎え入れている。後にセッション・ドラマーとして名を上げるネルソンは、ユニオン・ハイスクール在学中からキム・フォウリーやブルース・ジョンストンらと組んだスリープ・ウォーカーズというバンドで活動し、スペクターたちにとってはライバル的な存在だった。だが、この初録音の時点ではスペクターのグループにはドラマーが居なかった。といって、セッション・ドラマーを雇うような金を彼らが持っていたはずもない。前述のマーク・リボウスキーの著作をはじめ、数多いフィル・スペクターの研究書を読んでみても、この曲のドラマーについての記述は無い。スタン・ロスの回想の中にも、ドラム録音の話は出てこない。
この謎が解けたのは、2004年に『Reckless: Millionaire Record Producer Phil Spector and the Violent Death of Lana Clarkson』という本が出版されたときだった。カールトン・スミスのこの本は、前年に女優のラナ・クラークソンがフィル・スペクターの自宅で死体で発見され、スペクターが殺人罪に問われたことを受けて書かれたものだが、その中にアネット・クレインバードの証言がある。後にキャロル・コナーズと改名して、作詞家として大成功するクレインバードは、この初録音のとき、スペクターとリーヴがプリプロダクションをしたテープをゴールド・スターに持ち込んでいたことを記憶していた。それは多分、ダナ・カスの家のガレージで録音されたもので、ドラムはスペクターとシュリーヴが電話帳などをたたいて録音したものだろうとクレインバードは語っている。彼らはゴールド・スターでその上にギターやコーラスを録り重ねていったのだ。
しかも、そのオーバーダビングは彼ら流のやり方だった。スタン・ロスはスピーカーから流れるプレイバックと一緒にコーラスを録り重ねたいというスペクターたちの希望を聞き入れた。ロスもエンジニアリングの常識を超えて、新しいロックンロールを生み出そうとする実験には積極的だったのだ。
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash