ウォール・オブ・サウンドが育まれた鬼才フィル・スペクターのティーン・エイジ 〜【Vol.80】音楽と録音の歴史ものがたり

ハリウッドの高校生スペクターと
その先輩だったリーバー&ストーラー

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『ウォール・オブ・サウンド〜ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・フィル・スペクター 1961-1966』V.A.(ソニー/2011年)フィル・スペクターが1961年から1966年までのフィレス・レコード時代に手掛けた作品を網羅するベスト盤。ザ・クリスタルズ、ザ・ロネッツ、ライチャス・ブラザーズ、アイク&ティナ・ターナーの楽曲を収録
Wall of Sound: The Very Best of Phil Spector 1961-1966

Wall of Sound: The Very Best of Phil Spector 1961-1966

  • フィル・スペクター
  • ポップ
  • ¥1630

 

 フィル・スペクターは1940年12月26日に、ニューヨークのブロンクスに生まれた。父親のベンジャミン・スペクターも母親のバーサ・スペクターもロシア系のユダヤ人で、子供時代にアメリカにやって来た。二人は1934年に結婚し、姉のシャーリーと弟のハーヴェイ・フィリップをもうけた。だが、1949年、フィリップが9歳の時に父親のベンが自殺する。慕っていた父親を突然、失ったフィリップは暗闇の底に突き落とされた。

 

 4年後の1953年、残された母子三人はニューヨークからロサンゼルスに移住。ユダヤ人が多く住むウェスト・ハリウッドで、新しい生活を始めた。そして、フィリップは1954年にフェアファックス・ハイスクールに入学する。メルローズ・アベニューとフェアファックス・アベニューの交差点近くにあるこのフェアファックス・ハイスクールは数多くのロック・ミュージシャンを輩出したことで知られる。レッド・ホット・チリ・ペッパーズはこの高校の学内で結成されたバンドだったし、ガンズ&ローゼズのスラッシュも同校の出身だ。もう少し時代を遡ると、ウォーレン・ジヴォン、P・F・スローンなどの名も卒業生のリストの中に見ることができる。ジャクソン5のメンバーたちも同校に通っていたことがある。

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現在のフェアファックス・ハイスクールの校舎(2006年撮影)。フィル・スペクターらが通っていた当時のレンガ造りの校舎は耐震基準に満たないという理由で1960年代後半に再建された。著名な卒業生には本文で挙げられたミュージシャンのほか、ハリウッドにあるということもあってか俳優のティモシー・ハットンやデミ・ムーアなど映画関係者も多い

 といっても、フィル・スペクターが入学した1954年はロックンロールの爆発前夜だったし、同校が特別に音楽的なムードを持っていたわけでもないようだ。ただし、その先輩の中には、後にスペクターと重要なかかわりを持つ人物が二人居た。一人は1962年にジェリー・モスとともにA&Mレコードを設立するトランペット奏者のハーブ・アルパート。もう一人は有名なソングライター・チーム、リーバー&ストーラーの作詞家であるジェリー・リーバーだ。

 

 ジェリー・リーバーは1933年4月25日にメリーランド州ボルチモアで生まれた。父親はポーランド系のユダヤ人だったが、リーバーが5歳の時に死去。母親がひとりで青果店を切り回す苦しい家庭で育った。1945年に一家はロサンゼルスに移住。フェアファックス・ハイスクールに入学したリーバーは、在学中から曲を書き始めた。共作者を探していたリーバーが、マイク・ストーラーと出会うのは1950年。フェアファックス・アベニューにあるノーティーズというレコード店でアルバイトをしていたときだった。裕福なユダヤ人家庭に育ったストーラーはその年、高校を卒業して、ロサンゼルスのシティ・カレッジに入学したばかりだった。リズム&ブルースに傾倒していた二人は意気投合し。高校生と大学生のソングライター・チームが生まれた。

 

 二人にとって、ソングライターとして生計を立てていくことは、遠い絵空事ではなかった、ストーラーの母親はブロードウェイでの女優経験があり、ガーシュウィンのミュージカルにも出演したことがあった。ストーラーはクラシック・ピアノを学んだだけでなく、母親の勧めでジャズ・ピアニストのジェームズ・P・ジョンソンのレッスンも受けたという。ジョンソンはカウント・ベイシーやデューク・エリントンにも影響を与えたストライド・ピアノの名手で、ガーシュウィンとも親交を持つソングライターでもあった。リーバーの姉の結婚相手も映画音楽作家の父親を持っていたという。

 

 リーバーとストーラーはティン・パン・アレイのユダヤ系ソングライターの伝統にブラック・ミュージック的な感覚を付加する先駆者だった。彼らはそのことに極めて意識的だった。そして、ノーティーズに出入りしていたモダーン・レコードのセールス・マネージャーが二人の才能を認めた。それが後にフィル・スペクターとともにフィレス・レコードを興すレスター・シルだ。

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レスター・シル(中央)の両側に座る、マイク・ストーラー(左)とジェリー・リーバー(右)。リーバー&ストーラーはその後「ハウンド・ドッグ」「監獄ロック」「スタンド・バイ・ミー」など多数のヒット曲を手掛ける

www.history-of-rock.com

 

ヒット・メイカーとなるリーバー&ストーラー
最初から“空気の中”で多重録音をしたスペクター

 1918年にロサンゼルスで生まれたレスター・シルは、ナイトクラブのオーナーなどを経て、1945年にモダーン・レコードで働き始めた。彼もユダヤ系で、リズム&ブルースに精通した音楽業界人だった。シルはリーバー&ストーラーが書いた「That's What The Good Book Says」をボビー・ナン・ウィズ・ザ・ロビンズに吹き込ませた。1951年3月、モダーン・レコードからのシングル「Rockin’」のB面として発表されたこの曲が、最初に録音されたリーバー&ストーラー作品となった。

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ボビー・ナン・ウィズ・ザ・ロビンズ「That's What The Good Book Says」のレーベル。『Rockin'』のB面として録音。ナンとザ・ロビンズのカール・ガードナーは後にザ・コースターズの結成メンバーとなる
That's What The Good Book Says

That's What The Good Book Says

  • ボビー・ナン
  • ブルース
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

Bobby Nunn With The Robbins* - Rockin' / That's What The Good Book Says (1951, Shellac) | Discogs

 

 シルとともにさまざまなレーベルに曲をデモンストレーションしたリーバー&ストーラーは、1952年にはチャールズ・ブラウンの「Hard Times」で、最初のヒットを経験する。リトル・ウィリー・リトルフィールドが「KC Loving」というタイトルで「Kansas City」の最初のバージョンを録音したのもこの年だ。この曲はその後、多くのアーティストにカバーされ、1959年にはウィルバート・ハリスンのバージョンが全米No.1ヒットになった。

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リトル・ウィリー・リトルフィールド「KC Lovin'」。後に「Kansas City」と改題され、多くのアーティストが録音する
K C Lovin'

K C Lovin'

  • Little Willie Littlefield
  • ブルース
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

Little Willie Littlefield - K. C. Loving / Pleading At Midnight (blue wax, Vinyl) | Discogs

 

 1952年8月にはビッグ・ママ・ソーントンによる「Hound Dog」のレコーディングが行われた。1956年にエルヴィス・プレスリーが人気爆発させる同曲のオリジナル・バージョンだ。1953年2月にピーコック・レコードからリリースされたこのシングルのプロデューサーはジョニー・オーティスとされているが、リーバー&ストーラーは実質的には自分たちの最初のプロデュース作品だったと語っている。ジョニー・オーティスがたたくドラムスにはラテン・ジャズ的なフィーリングがあるが、それはメキシコ人の多い居住区で育ったストーラーの資質とも結びついているようだ。

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『The Complete Singles: The Story Of My Blues』Big Mama Thornton(Jasmine Records/2019年)UKのレーベルによるシングル集。「ハウンド・ドッグ」は1952年録音で、翌53年、『Billboard』誌のR&Bチャートで7週連続首位のヒットとなる
Hound Dog

Hound Dog

  • ビッグ・ママ・ソーントン
  • ブルース
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

 

 1953年の終わりにはリーバー&ストーラーはシルとともに、スパーク・レコードを設立する。だが、スパーク・レコードの活動は1年半ほどしか続かなかった。アトランティック・レコードから強いラブ・コールを受けた彼らは、活動拠点をロサンゼルスからニューヨークに移すことにしたのだ。

 

 フェアファックス・ハイスクールに入学したフィル・スペクターが、校内で音楽活動を始めたのは、そんなころあいだった。ニューヨーク育ちのやせっぽちでシャイな少年は、バーニー・ケッセルにあこがれて、ジャズ・ギタリストを目指し、ハワード・ロバーツのレッスンを受けていた。だが、ロックンロールの時代がやって来ると、スペクターの興味もポップ・ソングに向いていく。1957年までにはスペクターは二人の仲間を見つけていた。一人はマーシャル・リーヴ。もう一人はマイケル・スペンサー。三人はともにレコードを聴き、楽器を演奏し、ドゥーワップやリズム&ブルースの曲を歌い、何か機会を見つけては、人前でも演奏するようになった。だが、バンド名は決まらないままだった。

 

 リーヴは当時、彼とスペクターが小さなテープ・レコーダーを使って、デモ録音をしていたことを覚えている。彼らは声の二重録音をするときに、ヘッドフォンを使わず、あえてスピーカーで前の録音を鳴らしながら歌ったそうだ。

 

 「全部をいっぺんにマイクに収めたかったんだ。そうすればサウンドはビッグでフルになる。当時既にオーバーダビングはあちこちで行われていたけれど、ああいう声の重ね方は誰もやってなかった。僕達はそれがどんな効果をもたらすか分っていた」

 

 マーク・リボウスキーの著作『フィル・スペクター−蘇る伝説』(He’s A Rebel)に収録されているこのリーヴの証言はスペクターの“ウォール・オブ・サウンド”の原点を指し示すものだろう。彼らは最初から、サウンドを電気的にミックスすることよりも、空気の中でミックスすることを好んでいたのだ。

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『フィル・スペクター−甦る伝説 増補改訂版』マーク・リボウスキー(大瀧詠一監修、奥田祐士訳)(白夜書房/2008年)邦訳初版は1990年刊行。関係者の証言によってまとめられたスペクター評伝で、増補版では1990年代以降と、大瀧詠一と朝妻一郎による対談が追加されている
フィル・スペクター 甦る伝説 増補改訂版

フィル・スペクター 甦る伝説 増補改訂版

 

 

若きスペクターが通った
“伝説になる前”のゴールド・スター・スタジオ

 フェアファックス・ハイスクールの卒業後、マイケル・スペンサーはUCLAへと進学して、音楽からは遠ざかっていった。リーブとともにロサンゼルス・シティ・カレッジに進んだスペクターは、プロフェッショナル・スタジオを借りて、レコーディングする準備に奔走していた。彼が目を付けたのは、サンタ・モニカ・ブールバードとヴァイン・ストリートの交差点近くにあるゴールド・スター・スタジオだった。そこでレコーディングされたフォー・ラッズやハイローズのリバーブの効いたコーラス・サウンドに引かれていたのだ。

 

 ゴールド・スター・スタジオは1950年にデヴィッド・ゴールドとスタンリー・ロスの二人によって設立された。現在ではゴールド・スターの伝説は巨大だが、設立当時のそれは20歳そこそこの若者二人が小さな平屋の商店を改造して、ありあわせの機材で作り上げたスタジオに過ぎなかった。当初はラジオ局、テレビ局、映画会社などの依頼に応えたジングル制作、インタビューなどの細かな仕事が多かったようだ。レコーダーもモノラルしかなかったという。だが、モダーン・レコードなどがローカルなリズム&ブルース・グループの録音を持ち込むようになり、1950年代の半ばにはレコーディング・セッションが日々の仕事となった。レコード会社にとってのゴールド・スターの魅力は何よりも安いことだった。

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Facebookページ“Gold Star Recording Studios & The 'Wall of Sound'”より、在りし日のゴールド・スターの外観(1983年)。1960〜70年代はスタジオ・ミュージシャン集団“レッキング・クルー”が集まり、ポップス量産の拠点として知られることになる。1984年に営業終了した直後、火災に遭い、建物は現存していない
Photo:Anthony Reichardt

www.facebook.com

 

 エンジニアを務めるスタン・ロスは、やはりフェアファックス・ハイスクールの卒業生だった。彼はニューヨーク生まれで、1944年に家族とともにロサンゼルスに移住。1946年に高校を卒業した後、エレクトロ・ヴォックス・スタジオで4年間、経験を積んだ。ロスは1952年にはゴールド・スターに従兄弟を参加させた。それが後にスペクターとともに“ウォール・オブ・サウンド”を生み出すことになるラリー・レヴィンだ。レヴィンもニューヨークで生まれで、ロサンゼルスで育ち、朝鮮戦争に従軍した後、ゴールド・スターに入って、ロスからエンジニアリングを学んだ。

 

 1957年ごろからスペクターはゴールド・スター・スタジオに通い詰めては、ロスの仕事を見学していたという。ロスはフェアファックス・ハイスクールの後輩ということで、静かにしている限り、スペクターがそこに居ることを許したのだろう。

 

自身のグループを結成したスペクターが重ねた
新しいロックンロールのための録音実験

 スペクターはゴールド・スターで自分たちのレコードを作ることを熱望していたが、問題は費用だった。ゴールス・スターのスタジオ代は1時間、15ドル。テープ代が6ドル。40ドルあれば、2時間のレコーディングができるとスペクターは考えたが、母のバーサから借りられたのは10ドルに過ぎなかった。そこで彼が思いついたのはグループのメンバーを増やし、彼らに10ドルずつスタジオ代を出させることだった。フェアファックス・ハイスクールからUCLAに進んでいたベース・シンガーのハーヴェイ・ゴールドスタインがその話に乗った。

 

 ガールフレンドだったダナ・カスの友人、アネット・クレインバードにもスペクターは声をかけた。アネットのソプラノ・ボイスはフェアファックス・ハイスクールでも評判だった。彼女も録音に参加する代わりに、母親から借りた10ドルをスペクターに支払った。40ドルを手に入れたスペクターは。1958年5月20日にゴールド・スターでのレコーディング・セッションを予約した。

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スペクター(左)とマーシャル・リーヴ(右)、アネット・クレインバード=キャロル・コナーズ(中央)

 スペクターがセッションのために用意したのは「Don’t You Worry My Little Pet」という曲だった。その後の音楽史を踏まえて言うならば、チャック・ベリー風のロックンロールに、メジャー感のあるコーラスを乗せた初期ビーチ・ボーイズ風の曲だ。当時のゴールド・スターには3trレコーダーがあったようだが、3trのピンポンで作ったとは思えない多重コーラスが聴こえる。楽器については、スペクターがギターとピアノを演奏したとされる。だが、この初録音には大きな謎があった。曲中に聴こえるドラムをたたいているのが、誰だか分からないのだ。

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『Building The Wall Of Sound』Phil Spector & The Teddy Bears(Jasmine Records/2010年)スペクターの初期作品をコンパイルしたアルバム。「Don't You Worry My Little Pet」も収録されている
Don't You Worry My Little Pet

Don't You Worry My Little Pet

  • フィル・スペクター & テディ・ベアーズ
  • ヴォーカル
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes
Building the Wall of Sound

Building the Wall of Sound

 

 

 2回目の録音ではスペクターたちはドラマーにサンディ・ネルソンを迎え入れている。後にセッション・ドラマーとして名を上げるネルソンは、ユニオン・ハイスクール在学中からキム・フォウリーやブルース・ジョンストンらと組んだスリープ・ウォーカーズというバンドで活動し、スペクターたちにとってはライバル的な存在だった。だが、この初録音の時点ではスペクターのグループにはドラマーが居なかった。といって、セッション・ドラマーを雇うような金を彼らが持っていたはずもない。前述のマーク・リボウスキーの著作をはじめ、数多いフィル・スペクターの研究書を読んでみても、この曲のドラマーについての記述は無い。スタン・ロスの回想の中にも、ドラム録音の話は出てこない。

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サンディ・ネルソン(1938年〜)は初期ロックンロールを代表するドラマーの一人。1959年にはインストゥルメンタル曲「Teen Beat」をヒットさせるなど自身の名義の作品でも活躍

www.drummerworld.com

 

  この謎が解けたのは、2004年に『Reckless: Millionaire Record Producer Phil Spector and the Violent Death of Lana Clarkson』という本が出版されたときだった。カールトン・スミスのこの本は、前年に女優のラナ・クラークソンがフィル・スペクターの自宅で死体で発見され、スペクターが殺人罪に問われたことを受けて書かれたものだが、その中にアネット・クレインバードの証言がある。後にキャロル・コナーズと改名して、作詞家として大成功するクレインバードは、この初録音のとき、スペクターとリーヴがプリプロダクションをしたテープをゴールド・スターに持ち込んでいたことを記憶していた。それは多分、ダナ・カスの家のガレージで録音されたもので、ドラムはスペクターとシュリーヴが電話帳などをたたいて録音したものだろうとクレインバードは語っている。彼らはゴールド・スターでその上にギターやコーラスを録り重ねていったのだ。

 

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『Reckless: Millionaire Record Producer Phil Spector and the Violent Death of Lana Clarkson』Carlton Smith(St. Martins Press/2004年)2003年2月、女優ラナ・クラークソン射殺の容疑でスペクターが逮捕されたことを受けて書かれた犯罪ドキュメンタリー

 

 しかも、そのオーバーダビングは彼ら流のやり方だった。スタン・ロスはスピーカーから流れるプレイバックと一緒にコーラスを録り重ねたいというスペクターたちの希望を聞き入れた。ロスもエンジニアリングの常識を超えて、新しいロックンロールを生み出そうとする実験には積極的だったのだ。

 

高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash
 

 

www.snrec.jp

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