音楽と録音の歴史ものがたり Vol.82 アリゾナを拠点とした作曲家リー・ヘイゼルウッド、フィル・スペクターと交錯するポップス実験の試み

アイディアマンの作曲家リー・ヘイゼルウッド
ロサンゼルス売り込み時代の音源が発掘

 リー・ヘイゼルウッドは1929年7月9日にオクラホマ州のマンフォードで生まれたが、石油の仕事をしていた父親とともに、カンザス州、アーカンソー州、ルイジアナ州、テキサス州などを転々として育った。1960年代後半には彼自身のバリトン・ボイスとともにスターダムに上りつめるヘイゼルウッドだが、そこまでの彼のキャリアは曲がりくねったものだった。

 

 10代の多くをテキサス州で過ごしたヘイゼルウッドは、ダラスの南メソジスト大学で薬学を専攻した。学業の途中で、徴兵により米陸軍に入隊。朝鮮戦争にも従軍して、韓国および日本の米軍放送で働いたことから、人生の方向が変わっていく。1953年に除隊になった後は、ロサンゼルスのスピアーズ放送学校に通い、1954年にアリゾナ州クーリッジのラジオ局、KCKYでディスクジョッキーの仕事を得た。

 

 人口4千人ほどの町の小さなラジオ局で、ヘイゼルウッドは実験的なディスクジョッキーを始めた。声色を変えた別のキャラクターを作り、事前にテープ録音をしておく。そして、番組中の生のしゃべりの中でテープから呼び出した別のキャラクターと会話するのだ。テープの録音、編集、現場での再生はすべてヘイゼルウッドのワンオペ。アイディアマンで野心家の彼の気質がうかがえるエピソードだ。

 

 同時期にヘイゼルウッドはソングライティングにも心血を注ぐようになっていた。彼がソロ・アーティストとしてデビュー・アルバムを発表するのは1963年だが、実は1955年ごろから自作曲の録音は行われていた。その一部は2018年に英ジャスミン・レコードが制作したコンピレーション『The Lee Hazlewood Story』にも聴くことができるが、2019年には米ライト・イン・ザ・アティック・レコードから大量の発掘音源がリリースされた。1955年から56年にかけて録音されたヘイゼルウッドの24曲のデモ・トラックを集めた『400 Miles From L.A.』というアルバムだ。この時期、ヘイゼルウッドは自作曲のデモを録音しては、そのテープを携えて、長距離バスに乗り、ロサンゼルスのレコード会社や音楽出版社に売り込みに行くということを繰り返していたようだ。

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『The Lee Hazlewood Story』V.A.(Jasmine Records/2018年)
ヘイゼルウッドの自演からマーク・ロビンソン、デュアン・エディ、アル・ケイシーなどへの提供曲を集めた初期作品集
Fools, Rebel Rousers & Girls on Death Row: The Lee Hazlewood Story (1955-1962)

Fools, Rebel Rousers & Girls on Death Row: The Lee Hazlewood Story (1955-1962)

  • 発売日: 2018/10/19
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 

 『400 Miles From L.A.』に聴けるヘイゼルウッドのデモは、後年のソロ・アルバムで発表される曲の原型を含むが、端正なカントリー・フォーク系のシンガー・ソングライター作品という趣が強い。アコースティック・ギターと歌だけのシンプルな録音だが、オーディオ・クオリティも高い。こんなテープが60年以上も眠っていたのには驚かされる。

 

 400マイルの往復を費やしたヘイゼルウッドの売り込みは、当時は全く成功しなかった。だが、それがヘイゼルウッドの反骨精神に火をつけたとも言えそうだ。彼はアリゾナを拠点に、自身でミュージック・ビジネスを構築することを考えるようになる。1955年、KCKYを解雇されたヘイゼルウッドはアリゾナ州フェニックスのラジオ局、KRUXに移籍。ほぼ時を同じくして、ヘイゼルウッドのレコード会社、VIVレコードがスタートした。

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『400 Miles From L.A.』Lee Hazlewood(Light In The Attic/2019年)
1956〜57年に録音したデモを、数々の名盤再発で知られるレーベルが発掘してリリース。太く温かなボーカルとエア感あふれるアコースティック・ギターのサウンドが聴ける

 

地方の作曲家ヘイゼルウッドが独立起業
若い才能をフックしてヒットを放つまで

 26歳のヘイゼルウッドがレコード会社を作った最大の目的は、自身の曲をほかのミュージシャンに歌わせて、録音することだった。妻のナオミの助力のもと、ヘイゼルウッドの自宅がオフィスになった。VIVレコードの第1弾は1955年9月に発表されたジミー・スペルマンの「Give Me Some Of Yours (And I'll Give You Some Of Mine)」というシングル。スペルマンは17歳のカントリー・シンガーで、曲はヘイゼルウッドが作曲したが、ナオミ・フォードという変名でクレジットされた。

 

 このころまでにヘイゼルウッドはアリゾナ州の10代の才能をピックアップしていた。筆頭はピアノのジミー・デルドリッジとギターのデュアン・エディのコンビで、2人の高校生はKCKY時代からヘイゼルウッドの番組に出演して、カントリー・ソングを演奏していた。サンセット・ライダーズというバンドを率いて、フェニックスのカントリー・シーンの重要人物になっていた10代のギタリスト、アル・ケイシーもヘイゼルウッドの協力者になった。VIVレコードの録音はケイシーとともにフロイド・ラムゼイが経営するフェニックス市内のラムゼイ・レコーダーズで行われるようになった。

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Billboardを広げるリー・ヘイゼルウッド。その左がアル・ケイシー、右がデュアン・エディ。左端がサンフォード・クラーク
http://www.leehazlewoodmusic.net/galleries/early-lee/

 後にロサンゼルスでレッキング・クルーの一員になるケイシーは、ヘイゼルウッドの志向性がカントリーからロカビリー、ロックンロールへとシフトしていくきっかけも作った。1956年3月、ヘイゼルウッドの書いた「The Fool」をケイシーの友人のサンフォード・クラークがレコーディングした。アレンジを受け持ったケイシーは、ヘイゼルウッドの書いたカントリー・ソングに、挑戦的なリフをあしらった。その年の1月に発表されたハウリン・ウルフのシングル「Smokestack Lightning」で、ヒューバート・サムリンが弾いたリフを模したのだ。シカゴ・ブルースの鋭利なリフによってドライブされるヘイゼルウッドの曲は、もはやカントリーの範ちゅうには収まらなかった。

The Fool

The Fool

  • Sanford Clark
  • ロック
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

 

 この「The Fool」の録音のころにはVIVレコードの資金は尽きようとしていた。自作曲を地元のアーティストに歌わせて、ヒットさせるというヘイゼルウッドのもくろみはかなわず、彼の家には在庫のシングル盤が積まれていくばかり。そこで彼はフロイド・ラムゼイらが立ち上げたM.C.I.レコードに助力を仰いだ。M.C.I.は彼らが管理する楽曲をB面に収録すること、シングルはM.C.I.から発売することを条件に、サンフォード・クラークのレコーディング資金を出した。

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Arizona Music and Entertainment Hall Of Fameの受賞者紹介ビデオに登場するフロイド・ラムゼイ(1926〜2008年)。ラジオ修理工を営む傍ら、レコーディング・スタジオを運営。徐々にスタジオを拡大し、レコード・ビジネスを成功させる。現在、彼の運営していたM.C.I.、ラムコ、リバティ・ベルなどのレーベルを継承しているファーヴァー・レコーズが音頭を取り、彼と妻、スタジオの名を冠したThe Floyd And Mary Ramsey Audio Recorders Of Arizona Scholarship Fundという音楽学生向け奨学金基金が設立されている
https://youtu.be/yhK7tntacIs

 

 1956年6月にサンフォード・クラークの「The Fool」は発売された。しばらくは何も起こらなかったが、数週間後、オハイオ州のシンシナティのラジオから火がついた。曲はカントリー・チャートではなく、ポップ・チャートを駆け上り、5月にはM.C.I.レコードに追加プレスのオーダーが殺到。だが、M.C.I.レコードはプレス資金を持っていなかったため、シングルの権利をドット・レコードに2,500ドルで売ってしまう。ドットから全米に配給された「The Fool」は1956年のビルボードの年間チャートの42位に入るヒット曲となり、最終的には80万枚を超えるセールスを挙げた。かくして、自身の曲をヒットさせるというヘイゼルウッドの最初の野望は達成された。

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ドットからリリースされたサンフォード・クラーク「The Fool」のレーベル
https://www.discogs.com/ja/Sanford-Clark-The-Fool/release/2078446

リー・ヘイゼルウッドとフィル・スペクター
プロデューサー気質の不協和音

 「The Fool」はM.C.I.の経営者の一人だったフロイド・ラムゼイにとっても最初のヒット曲になった。ラムゼイ・レコーダーズは小さなスタジオだったが、1957年、ラムゼイはフェニックス市内にオーディオ・レコーダーズを建設する。そこにエンジニアとして加わったのが、デュアン・エディのトゥワング・ギター・サウンドに貢献するジャック・ミラーだ。

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ジャック・ミラー(1938〜2016年)は、1957年、ラムゼイのスタジオから前任のエンジニアが退職すると、AMPEX 350を持参すると申し出て採用される。以後、1965年にロサンゼルスのRCAから声がかかるまで、オーディオ・レコーダーズでラムゼイとともにヒット曲を制作。RCAで2年間、ヘンリー・マンシーニやザ・ローリング・ストーンズなどの作品を手掛けた後にフェニックスへ戻る。1978年に独立後、1980年にキャニオン・レコードと合流。ネイティブ・アメリカンの作品を多く録音し、2001年にグラミー受賞
https://worldmusiccentral.org/2016/05/14/former-canyon-records-recording-engineer-jack-miller-dies/

 「The Fool」をヒットさせたサンフォード・クラークはドット・レコードと契約。ヘイゼルウッドもそのプロデューサーとしてドットに雇われ、ロサンゼルスで仕事をするようになる。だが、レーベルの求めるポップ路線はヘイゼルウッドの肌には合わず、ドットでの仕事は1年ほどで頓挫。そんな折りにヘイゼルウッドが出会ったのがレスター・シルだった。

 

 ヘイゼルウッドの才能を認めたシルは彼とともにフェニックスに赴き、デュアン・エディやアル・ケイシーに出会う。ケイシー率いるバンドには強者がそろっていた。ベースのバディ・ウィーラー、ドラムスのボブ・テイラー。オーディオ・レコーダーズで彼らをハウス・バンドにして、若きギタリスト、デュアン・エディのレコード制作を行う。シルとヘイゼルウッドが共同で設立したシル・ヘイゼルウッド・プロダクションズは、1957年11月からそのプロジェクトに取り組んだ。

 

 高校を卒業したばかりのデュアン・エディは、ジミー・デルドリッチとは別れて、ソロ・ギタリストとしての道を歩むことになった。彼はカントリー・スタイルのアコースティック・ギターも達者だったが、その低音弦の奏法をエレクトリック・ギターに移し替え、ベンドを効かせたリード・ギターとするのがトゥワング・ギターの基本アイディアだった。ブルースやロックンロールに精通するケイシーの感覚が加わって、新しいギター・インストゥルメンタルの形が生まれた。

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左から、レスター・シル、デュアン・エディ、リー・ヘイゼルウッド
http://www.leehazlewoodmusic.net/galleries/early-lee/

  1958年の始めに発売されたデュアン・エディのデビュー・シングル「Moovin and Groovin」はBillboardのポップ・チャート72位に入り、同年5月に発売された第2弾の「Rebel Rouser」は7位まで駆け上がるヒット曲になった。以後、1958年から1959年にかけて、エディはヒットを連発する。フィル・スペクターがレスター・シルとソロ契約を結んだのは、その破竹の快進撃の最中だった。スペクターは18歳。ヘイゼルウッドは28歳。シルはヘイゼルウッドがスペクターの良い教師になるだろうと考えて、彼をフェニックスに連れて行く。だが、話はそう簡単ではなかった。

 

 スペクターはヘイゼルウッドの背中に張り付き、彼の一挙一動を見逃さず、質問を浴びせ続けた。時には意見を差し挟んだ。ヘイゼルウッドがあのガキをスタジオからつまみ出してくれと言うのには、数日とかからなかった。同じタイプの人間を2人、同じ空間に置くのは難しいことをシルは知ることになる。

 

 後にスペクターはシルとヘイゼルウッドの決裂の原因にもなる。だが、フェニックスでヘイゼルウッドの仕事を見学したスペクターが、彼から大きな影響を受けたことは間違い無い。ソングライターから出発し、才能あるパフォーマーを見出して、強力なハウス・バンドとともに、ヒット・シングルを量産する。ヘイゼルウッドはまさにスペクターの目指すべきプロデューサー像を体現していた。加えて、デュアン・エディの成功を導いたヘイゼルウッドの秘密兵器はリバーブだった。

 

8,000リットルの巨大なタンクを
エコー・チェンバーへ改造

 フロイド・ラムゼイのスタジオにはエコー・チェンバーが欠けていた。それ故、「The Fool」のレコーディングでは、テープ・エコーが使われた。ヘイゼルウッドがラムゼイにエコー・チェンバーを作ることを持ちかけたのは、その直後だったという。

 

 狭いラムゼイ・レコーダーズにはエコー・チェンバーを作るスペースは無かった。そこでラムゼイとヘイゼルウッドは川辺のジャンク置き場で見つけた巨大なウォーター・タンクをエコー・チェンバーに改造することにした。本来は高さ数mある約8,000Lの円筒形タンクを横置きにして、スタジオの外に置く。エンジニアのレイ・スタウファーがタンクの片側のふたにスピーカーを、逆側のふたにマイクを取り付けた。

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YouTubeで公開されている、ミラーの功績をまとめたスライドショウに、ウォーター・タンク・リバーブの写真が登場している。大きさの比較対象が無いので分かりにくいが、8,000Lはタンクローリー・クラスのサイズ
https://youtu.be/eeJ1iomA1BM

 タンクは新設されたオーディオ・レコーダーズでも使われた。スタウファーに代わってエンジニアになったジャック・ミラーは、潜水艦のようなタンクだったと振り返っている。ただし、彼はそれが作り出すリバーブを好まなかった。サウンドが金属的過ぎたのだ。ある日、ミラーがマイク側のふたを外して、内部の音を聴いてみると、それは良いリバーブ・サウンドだった。そこでミラーはふたを取り去り、マイクの位置を調節して、定在波がキャンセルされるセッティングを得た。このタンクの改造が終わった直後に始まったのがデュアン・エディのレコーディングだったという。

 

 デュアン・エディのトゥワング・ギター・サウンドはこのタンク無しには作れないものになった。それ故、ヘイゼルウッドはフェニックスのオーディオ・レコーダーズでのレコーディングを続けた。エディのレコーディングにはサックス奏者が加わるのが常だったが、エディとバンドの録音はオーディオ・レコーダーズで行い、サックスはロサンゼルスでオーバーダビングするという形が採られた。

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フェニックス楽器博物館に展示されている、オーディオ・レコーダーズのコンソール類。右のメイン・コンソールは1940年代にラジオ局用として発売されていたWESTERN ELECTRIC製
Photo:bobistraveling CC BY 2.0

 デュアン・エディは近年のインタビューで、ロサンゼルスのゴールド・スターでエディの録音を行うことになったとき、ヘイゼルウッドはわざわざフェニックスからタンクを運び込んだと語っている。そして、ゴールド・スターのエコー・チェンバーと聴き比べて、いつものタンクを選んだという。

 

 ミラーによれば、デュアン・エディの初期のレコーディングは2台のモノラル・レコーダーで行われた。スタジオのAMPEX 401とミラーが持ち込んだ私物のAMPEX 350だったそうだ。オーバーダビングは2台のピンポンで行われた。スタジオからヒット曲が量産されるにつれ、2trのAMPEX 350-2や3trのAMPEX 300-3が買い足されていったが、面白いことに、オーディオ・レコーダーズではヘッドフォンが使われることはなかったという。彼らは必ずスピーカーで前のトラックを流しながら、オーバーダビングした。サウンドを空気の中で混ぜ合わせるという点において、ヘイゼルウッドたちのレコーディングはフィル・スペクターのそれと同じ志向性を持っていたのが分かる。

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フェニックス楽器博物館所蔵のAMPEX 300-3(3tr)。博物館にはデュアン・エディのコーナーにウォーター・タンク・リバーブのレプリカも展示されている Photo:bobistraveling CC BY 2.0

 ただし、スペクターのウォール・オブ・サウンドとリー・ヘイゼルウッドの関係は複雑だ。世の中には、フィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドはリー・ヘイゼルウッドからアイディアを盗んだものだとする人たちが居る。確かに『Lee Hazelwood Story』に聴けるグレッグ・コナーズ「(Your Love)Tears Me Up」など、1959年前後にヘイゼルウッドに制作した曲の幾つかはウォール・オブ・サウンド的なレイヤー感を持っている。だが、その一方で1960年代後半のヘイゼルウッドのプロダクションには、明らかにスペクターからの強い影響がうかがえる。

 

 ヘイゼルウッド自身はインタビューで、スペクターのウォール・オブ・サウンドに彼が影響を与えたという話を振られても、いや、あれはスペクターの天才が生み出したものだと否定している。それは彼のプライドゆえの言葉かもしれない。

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『Nancy & Lee』Nancy Sinatra & Lee Hazlewood(Repries/1968年)
大ヒットしたナンシー・シナトラとリー・ヘイゼルウッドのデュエット・アルバム。冒頭の「You've Lost That Lovin' Feelin」は、スペクター・サウンドの最高峰と呼べるライチャス・ブラザーズ版(1966年)がオリジナルで、後年にはホール&オーツなどもカバー

 

You've Lost That Lovin' Feelin'

You've Lost That Lovin' Feelin'

  • Nancy Sinatra & Lee Hazlewood
  • ポップ
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

 

 

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高橋健太郎

音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。
Twitterアカウントは@kentarotakahash

Photo:Hiroki Obara

 

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