テディ・ベアーズのエピゴーネン
スペクターズ・スリーの低空飛行
アリゾナ州フェニックスでリー・ヘイゼルウッドの仕事を見学したフィル・スペクターは、1959年の秋にロサンゼルスでスタジオ・セッションを再開した。テディ・ベアーズは分解していたが、彼はスペクターズ・スリーというグループ名義で、レスター・シルのトレイ・レーベルのためにシングルを制作した。
スペクターズ・スリーはマスター・サウンズで4曲を録音したが、それはコーラス・グループの体裁を取ったスペクターのソロ・プロジェクトだった。ボーカルを録音したのはスペクターと彼の当時のガール・フレンドであったリッキー・ペイジ、そして、スペクターが目をかけていたフェアファックス・ハイスクールの後輩ラス・タイトルマンの3人だった。
後にワーナー・レコードのハウス・プロデューサーとなり、ランディ・ニューマンやライ・クーダーの名盤を手掛けるタイトルマンは、姉のスーザン・タイトルマンがフェアファックス・ハイスクールに通っていた時期に、スペクターと知り合った。スーザンはテディ・ベアーズのマーシャル・リーヴのガール・フレンドで、それゆえテディ・ベアーズはタイトルマン家でリハーサルをすることもあったらしい。ちなみに、スーザンは後にライ・クーダーと結婚し、フォトグラファー、グラフィック・アーティストとしても知られるようになる。
ラス・タイトルマンは15歳にして、スペクターたちが自宅にやってきて、「To Know Him Is To Love Him」をリハーサルするのを見ていた。その曲がある日、全米No.1になったのだから、衝撃は絶大だっただろう。彼はスペクターに心酔し、父親のように崇めるようになった。スペクターのギター教師だったバーデル・マセルのもとでジャズ・ギターを学び、スペクターのスタジオ・セッションにも必ず付いて回った。
スペクターは、そんなタイトルマンをスペクターズ・スリーに引き込んだ。スペクター自身は表には出ず、フェアファックス・ハイスクールの後輩3人……タイトルマンと彼のガールフレンドのアネット・メアラ、同級生のウォーレン・エントナー……をスペクターズ・スリーとして、テレビ番組に出演させたこともある。だが、スペクターズ・スリーの2枚のシングルはテディ・ベアーズの残骸のような出来映えでしかなく、この企画はすぐに潰えた。
ロサンゼルスの同世代の若者の中では、スペクターは突出した存在だった。18歳にして全米No.1を獲得したソングライターであり、ジャズ・ギタリストとしてもすご腕と見られていた。1959年に短期間ながら活動したフィル・ハーヴェイ・バンドでは、サックス奏者のスティーヴ・ダグラスやメル・テイラー(後にザ・ベンチャーズのドラマーとなる)、その弟ラリー・テイラー(後にキャンド・ヒートのベーシストとなる)らとジャズ・ロック的なインストゥルメンタルを演奏していたという。音源は残されていないが、ライブは圧巻だったと目撃者は語る。だが、ロサンゼルスの粗野な音楽シーンで活動していても、洗練されたプロフェッショナリズムを身に付けることはできない。スペクターはそう判断したようだ。そして、レスター・シルにニューヨークで修行したいと告げた。シルはジェリー・リーバー&マイク・ストーラーに連絡を取り、彼らにスペクターを預けることにした。
ヒット・メイカーのドク・ポーマスと親交を深め
ニューヨークの音楽業界で注目を集める
1960年5月にニューヨークに移ったフィル・スペクターはリーバー&ストーラーの事務所に寝泊まりし、彼らのもとで見習い的に仕事をすることになった。ロサンゼルスの音楽業界とニューヨークの音楽業界の最大の差は、後者はティン・パン・アレイを中心に回っているということだった。レスター・シルのような西海岸のプロデューサーも、ヒットする曲を求めて、定期的にティン・パン・アレイを訪れるのが常だった。
リーバー&ストーラーはそのティン・パン・アレイの頂点に立つソングライター・チームであり、多忙を極めていた。シルの頼みでスペクターを引き受けたものの、彼らはスペクターを必要とはしていなかった。ギタリストとしてスペクターをセッションに起用したことはあったが、ニューヨークのトップ・ミュージシャンに混じったスペクターは萎縮して、うまく演奏できなかった。
リーバー&ストーラーの仕事はソングライティングの吟味に時間をかけ、レコーディングはスタジオ・ミュージシャンを集めて、一瞬で終わらせるスタイルだった。ジョージ・バーンズのようなトップ・ギタリストは、1、2テイクで完ぺきな演奏を提供する。スペクターにはそういう技量は無かった。スタジオで時間をかけて試行錯誤し、サウンドを練り上げていくスペクターと、リーバー&ストーラーはそもそも異なるタイプだった。
それでも、ティン・パン・アレイをうろついて、顔を売りながら、スペクターはソングライターたちの世界について、学んでいく。キャロル・キング&ジェリー・ゴフィン、バリー・マン&シンシア・ウェルズといった同世代のソングライター・チームとも知り合った。作詞が苦手だったスペクターはパートナーを探し、1歳年上のビヴァリー・ロスとコンビを組むことにした。ロスはチャペル・ミュージックのロックンロール部門であるヒル&レンジの専属ライターで、同社のピアノ・ルームを自由に使うことができた。
ロスを利用して、ヒル&レンジのビルに入り込んだスペクターは、そこでドク・ポーマスと出会う。1925年生まれのポーマスは、1940年代に白人のジャズ・ブルース系シンガーとして活動を始め、1950年代後半からは従兄弟のモート・シューマンとソングライター・チームとして活動。エルヴィス・プレスリーにも数多くの曲を書き、ボブ・ディランやザ・バンド、ルー・リード、レナード・コーエンなどにも多大な影響を与えた重要なソングライターだ。
1959年にはディオン&ザ・ベルモンツの「A Teenager in Love」が大ヒットし、1960年にはザ・ドリフターズの「Save the Last Dance for Me」(日本では越路吹雪が歌った「ラストダンスは私に」として有名)が全米No.1になって、当時、ポーマスは絶頂期にあったが、15歳も年下のスペクターとなぜか意気投合した。ポーマスが定宿にしていたホテルで、彼らは毎夜のように音楽談義を交わし、一緒に曲を書くようになった。
大御所のドク・ポーマスとつるむようになったことで、リーバー&ストーラーもスペクターの才能に振り向き、彼にテリー・フィリップスという作詞家を引き合わせて、チームを組ませた。そして、2人にルース・ブラウンのアルバムのための曲を発注した。ニューヨークに到着した3カ月後には、スペクターはさしたる実績も無いのに、音楽業界で注目される存在になろうとしていた。
「Spanish Harlem」がヒットするも
リーバー&ストーラーとの間で確執が
1960年10月には、フィル・スペクターはプロデューサーに昇格した仕事を得た。レイ・ピーターソンのレコーディングだ。A面はジョー・ターナーのブルース・ナンバーをポップ・ソング化した「Corina Corina」、B面はスペクターが姉のシャーリーと書いた「Be My Girl」だった。この「Corina Corina」は全米チャートの9位まで昇るヒットになった。
ドリフターズから独立して、ソロ・シンガーとなったベン・E・キングが初めてスタジオに入ったのも10月だった。キングは自作の「Stand By Me」、ポーマスとスペクターが書いた「Young Boy Blues」と「First Taste Of Love」、そして、ジェリー・リーバーとフィル・スペクターの共作となる「Spanish Harlem」の4曲を録音した。4曲中3曲がスペクター絡みの曲だったことは、アトランティックのアーメット・アーティガンがスペクターに注目していた証だった。
「Spanish Harlem」はストーラーの不在時に、歌詞を書き上げたリーバーがスペクターにメロディを任せた曲だった。ストーラーが戻ってきて、イントロや曲中に繰り返されるマリンバのパートを付け加え、曲は完成する。アーメット・アーティガンにプレゼンする際には、ストーラーがピアノを、スペクターがギターを弾いて、リーバーが歌ったという。だが、ストーラーは作曲のクレジットをスペクターに譲った。
ベン・E・キングのソロ・デビュー作となるシングルは1960年12月に発売された。A面は「First Taste Of Love」、B面は「Spanish Harlem」。だが、人気を呼んだのは「Spanish Harlem」の方だった。同曲は1961年3月には全米チャートの10位まで昇った。マリアッチ風のストリングやホーンを伴ったアレンジは「Save the Last Dance for Me」を手掛けたベテランのスタン・アップルバウムによるもので、スペクターはレコーディング現場では何もしていないに等しかった。だが、彼は自分が「Spanish Harlem」をプロデュースしたが、クレジットはリーバー&ストーラーに譲ったと周囲に吹聴した。
スペクターがリーバー&ストーラーに内緒で仕事を受けようとしていたことが発覚し、スペクターとリーバー&ストーラーの専属契約が解消されると、アーメット・アーティガンがスペクターに誘いをかけた。アトランティックのハウス・プロデューサーとして働かないかという誘いだった。ブルースやジャズのヘビー・リスナーだったスペクターはアーティガンを尊敬していたし、アーティガンはスペクターがレーベルに新風を吹き込むことを期待していた。だが、物事はそうはうまく進まなかった。
ザ・トップ・ノーツ「Twist & Shout」での失敗
スペクターとトム・ダウドの交錯しない志向
フィル・スペクターのアトランティックでのプロデュース作品を聴くならば、1989年にドイツWEAから出た『Twist & Shout』というコンピレーションが、今でも入手しやすい。ビリー・ストーム、トップ・ノーツ、ラヴァーン・ベイカー、ルース・ブラウン、ジューン・デ・ショーンらの12曲が収録されているが、一番の目玉は1961年録音のザ・トップ・ノーツ「Twist & Shout」だろう。同曲は1962年にアイズレー・ブラザーズがヒットさせ、1963年にはビートルズが録音して、世界中で知られるロックンロール・クラシックとなった。だが、オリジナルはスペクターがプロデュースしたトップ・ノーツのバージョンだったのだ。
このトップ・ノーツのオリジナル版「Twist & Shout」は全くヒットしなかった。そればかりか、スペクターのアトランティックでのプロデュース・ワークはことごとくヒットとは程遠い結果に終わった。
コンピレーション盤『Twist & Shout』の12曲を聴いていくと、それは当然の結果だったように思われる。スペクターはジェリー・ウェクスラーとともにスタジオに入ったが、共同作業を進めるには2人は世代も感覚も違い過ぎた。アーティガンは時代が変わりつつあることをかぎ取り、スペクターを起用することで、白人のティーンエイジャーにも人気を博すようなポップ性を持つレコードを作りたかったのだろう。デトロイトで胎動を始めたモータウン勢のように。
だが、ウェクスラーやエンジニアのトム・ダウドは彼ら流のリズム&ブルースの制作システムを確立していた。ニューヨークのセッション・ミュージシャンたちもその流儀になじんでいた。ロサンゼルスからやってきた若いプロデューサーが好きに時間を使い、自由奔放なアイディアを凝らすような余地はそこには無かった。
ジェリー・ウェクスラーは、アトランティック専属のソングライターだったバート・バーンズが書いた一世一代のロックンロール・チューンを、自分とスペクターがめちゃめちゃにしてしまったと認めている。トップ・ノーツの「Twist & Shout」の録音時、スタジオの中は最悪の混乱状況だったと。翌年、バーンズが自らプロデュースしたアイズレー・ブラザーズの「Twist & Shout」のストレートな輝きと見比べると、その言葉にも頷くしかない。
スペクターのアトランティックでの最良の仕事は、ベン・E・キングのシングル「Ecstacy」だろう。発表はスペクターがアトランティックを去った後の1962年で、プロデュースはリーバー&ストーラー、アレンジャーはスタン・アップルバウムとクレジットされているが、曲はポーマスとスペクターの共作だ。ポーマスは「Ecstacy」の録音では、スペクターがギターを弾いたと証言している。「Ecstacy」のサウンドには確かにスペクター的なウォール・オブ・サウンドの香りがある。
録音手法の面でも、ダウドとスペクターの志向性は水と油のようだった。ダウドはアーティガンとウェクスラーを説き伏せて、1958年にAMPEXの8trレコーダーをアトランティックのスタジオに導入した。メジャー・レーベルのスタジオでも3trレコーダーしか無かった時代に、ダウドは8trに楽器や声を振り分けた分離の良いサウンドを作り始めていた。当然ながら、それはステレオ時代の到来を視野に入れたものだった。
対して、スペクターにとっては分離の良さなど、何の価値も無かった。彼の求めるものは、すべてが渾然一体となって、迫力を生み出すようなサウンドだったからだ。時代に抗って、彼はバック・トゥ・モノラルを志向してもいた。アトランティックでも、スペクターは自分がコントロールできる時には、8trレコーダーの3trしか使わずに、録音を進めていたようだ。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。
Twitterアカウントは@kentarotakahash
Photo:Hiroki Obara