ニューヨークとロスを股にかけたフィレス・レコードでのフィル・スペクターの暗躍 〜【Vol.84】音楽と録音の歴史ものがたり

パリス・シスターズのレコーディングに
後のレッキング・クルーとジャック・ニッチェを起用

 ニューヨークに移った後も、フィル・スペクターはレスター・シルの依頼があると、ロサンゼルスに戻って、制作を行った。シルとリー・ヘイゼルウッドのプロダクションは、デュアン・エディを失って、ヒット作に欠いた状況に陥っていた。そこでシルがスペクターに任せたのが、デッカやインペリアルからシングルを出していたサンフランシスコ出身のパリス・シスターズというコーラス・グループだった。

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フィル・スペクターとパリス・シスターズ。彼女たちはカリフォルニア出身のアルベス、シュレル、プリシラの3姉妹で、1954年にデッカからデビュー。1968年に解散後はプリシラがソロ活動をしていた。写真は2006年リリースのコンピレーションCDより
The Paris Sisters CD: The Complete Phil Spector Sessions (CD) - Bear Family Records

 1960年の暮れに、スペクターはゴールド・スターで、スタン・ロスにエンジニアを任せ、パリス・シスターズに2つの自作曲を吹き込ませた。A面の「Be My Boy」はレイ・ピーターソン「Corina Corina」のB面に収録した曲の流用。マイケル・スペンサー、ラス・タイトルマンといった旧友を集めた息抜き的なレコーディングだったが、1961年にシルとヘイゼルウッドの新しいレーベル、グレッグマーク・レコードからリリースされた「Be My Boy」は全米チャートの56位まで昇るまずまずのヒットになった。

 

Be My Boy

Be My Boy

  • パリス・シスターズ
  • ヴォーカル
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

 続いて、パリス・シスターズのアルバムが企画されると、スペクターは1961年の5月から6月にかけて、ロサンゼルスで仕事した。ゴールド・スターにはドラマーのアール・パーマー、ベース奏者のレイ・ポールマン、ギターのハワード・ロバーツら、後にレッキング・クルーと呼ばれるようになるミュージシャンたちが集められた。ニューヨークでのきゅうくつなセッションとは違って、ゴールド・スターではスペクターはすべてを支配することができた。スペクターが望むフィーリングが得られるまで、ジャズ・ミュージシャンたちはスリー・コードの曲を何時間も演奏させられることになった。

 

 第2弾のシングルとなる「I Love How You Love Me」ではハリウッドでポップ・オーケストラを率いるハリス・レヴィンがアレンジを手掛けた。これはシルの推薦によるものだったが、アルバムではスペクターはもう一人、同世代のアレンジャーも起用した。リー・ヘイゼルウッドのオフィスで働いていたジャック・ニッチェだ。

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ジャック・ニッチェ(1937〜2000年)。スペクターやレッキング・クルーとの仕事のほか、ザ・ローリング・ストーンズやニール・ヤングらとも仕事をした
Photo:Brian Ashley White CC-BY-SA 2.0

  ジャック・ニッチェは1937年にシカゴで生まれている。早くからピアノを学び、10代ではジャズのサックス奏者を目指し、1955年にロサンゼルスのウェストレイク・カレッジ・オブ・ミュージックに入学。だが、早々に退学して、1957年にスペシャルティ・レコードで採譜の仕事を始めた。そこで同社のA&Rだったソニー・ボノに出会い、作曲や編曲を任されるようになる。1960年にはプレストン・イップスの「Bongo Bongo Bongo」というノベルティ・ヒットを書いた。

 

 とはいえ、オーケストレーションに関しては、ニッチェは正式な教育を受けたことがなく、採譜の仕事を通じて、独学で学んだだけだった。スペクターがどうやって、さしたる実績もないニッチェの才能を見抜いたのかは分からないが、アカデミックではない、ロックンロール世代のアレンジャーということで意気投合したのかもしれない。

 

フィレス・レコード設立とクリスタルズ発掘
大手音楽出版社をを手玉に取る行動

 スペクターとシルがニッチェも加えて、ゴールド・スターでのパリス・シスターズのレコーディングを続けると、不満を爆発させたのはリー・ヘイゼルウッドだった。ある日、ヘイゼルウッドはゴールド・スターに怒鳴り込み、シルとのパートナーシップを解消すると告げた。その光景を見ていたスペクターには、この上ないチャンスの到来だった。シルのプロダクションの共同経営者の座が空いたのだ。シルにとっても、スペクターとの関係を強固にすべきタイミングだった。そして、2人のイニシャルを取った新しいレーベル、フィレス・レコードを立ち上げる計画がスタートした。

 

 しかし、ニューヨークに戻ったスペクターは、あくまでも秘密裏に事を進めた。ヒット・レコードを作り出すパワーは、ニューヨークに集中していることをスペクターは学んでいた。ティン・パン・アレイでは有能なソングライターたちがしのぎを削っている。各地から新人のパフォーマーたちも集まってくる。ロサンゼルスで自分の帝国を築き上げることを思い描きつつも、スペクターはそのためのリソースをニューヨークで探す必要があった。

 

 アトランティックとの関係は終わりを告げていたが、スペクターはヒル・アンド・レンジ(チャペル・ミュージックのロックンロール部門)に出入りしながら、独立プロデューサーとして仕事を続けた。そして、ほどなくフィレス・レコードの最初のアーティストを見つけ出す。ブルックリン出身の5人組のコーラス・グループ、ザ・クリスタルズだ。

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ザ・クリスタルズは、1960年にブルックリンのティーンエイジャー5人で結成。メンバー・チェンジを経て1967年に解散した後、1971年に再結成を果たし、現在までトリオ編成で活動

  クリスタルズは友人のリロイ・ベイツが書いた「There’s No Other(Like My Baby)」を携えて、ヒル・アンド・レンジにやってきていた。オーディション・ルームで曲を聴いたスペクターは、アップテンポの曲をスローにすることを提案。彼女たちに2週間の特訓を施した後、6月28日にレコーディングをセットした。

 

 このフィレス・レコードの最初のレコーディング・セッションには、ミラ・サウンド・スタジオが選ばれた。エンジニアのボブ・ゴールドマンが設立したミラ・サウンドは1960年代後半にヴァーヴ・レコードが好んで使い、ジャニス・イアンやローラ・ニーロの初期作品がレコーディングされたことで名高い。同スタジオは1967年に西57丁目に移転しているが、それ以前のミラ・サウンドは西47丁目のホテル・アメリカンの地下にある小さなスタジオだった。マーク・リボウスキーの『He’s A Rebel』には床をネズミがはい回っていたという記述がある。だが、スペクターはそれまで多く仕事してきたアトランティック・スタジオやベル・サウンドよりも、1960年にカーティス・リーの「Pretty Little Angel Eyes」のセッションで使ったミラ・サウンドを気に入っていた。理由の一つは地下室の漆喰の壁から得られるルーム・エコーが、ゴールド・スターに似たフィーリングだったからのようだ。

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ミラ・サウンドでレコーディングするジャニス・イアン。奥はデイヴ・ヴァン・ロンク。このセッションの場に居たリッチー・ヘヴンスによれば1965年のセッションとのことで、旧ミラ・サウンドの貴重なスナップだ。撮影はエンジニアのジョージ・ショウェラー
Janis Ian Mira Sound Session

 エンジニアのボブ・ゴールドマン、ビル・マックミーキンもスペクターとの相性は良かった。マックミーキンが手掛けた「Pretty Little Angel Eyes」はアップテンポのダンス・チューンで、リバーブは控えめだが、この時代には珍しいソリッドなキック・ドラムが冒頭から聴ける。これはマックミーキンがキック単体のマイクを立てて、録音したものだったという。

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カーティス・リー『Pretty Little Angel Eyes』のレーベル。下にスペクターのプロデュース・クレジットが記されている
Curtis Lee - Pretty Little Angel Eyes / Gee How I Wish You Were Here (1961, MGM Pressing, Vinyl) | Discogs
Pretty Little Angel Eyes

Pretty Little Angel Eyes

  • カーティス・リー
  • ロックンロール
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

 

 6月28日のミラ・サウンドのセッションでは3曲がレコーディングされ、そのうちの2曲……ロイ・ベイツに加えて、フィル・スペクターが作曲者に名を連ねた「There’s No Other(Like My Baby)」と、スペクターとハンク・ハンターが書いた「Oh, Yeah Maybe Baby」のマスター・テープが、フィレスの第1弾シングル用にレスター・シルのもとに送られた。スペクターは既にクリスタルズと独占契約を結んでいた。ヒル・アンド・レンジにはスペクター以外にもクリスタルズに注目しているソングライターやプロデューサーが居たが、スペクターは彼女たちのリハーサルをヒル・アンド・レンジのリハーサル・ルームで行っていたから、まさかヒル・アンド・レンジ抜きのビジネスが進められているとは、誰も気付かなかった。

 

ジェリー・ゴフィン&キャロル・キングらを擁する
アルドン・ミュージックとの提携

 クリスタルズの「There’s No Other(Like My Baby)」は10月に発売された。1958年に大ヒットしたシャンテルズの「Maybe」を意識したと思われる6/8拍子のバラードは、分厚いコーラスとスペクター自身がアレンジしたストリングスで彩られている。B面の「Oh, Yeah Maybe Baby」ではイントロからリバーブを効かせたドラム・サウンドが聴ける。これはミラ・サウンドの階段室をチェンバー・ルームとして利用して、作り出したもののようだ。とはいえ、この第1弾ではまだスペクター・サウンドは半熟の状態だった。

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ザ・クリスタルズ『There’s No Other(Like My Baby)』のB面、「Oh Yeah, Maybe Baby」のレーベル
The Crystals - Oh Yeah, Maybe Baby / There's No Other (Like My Baby) (1961, Vinyl) | Discogs
Oh Yeah, Maybe Baby

Oh Yeah, Maybe Baby

  • クリスタルズ
  • ポップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

 このころにはパリス・シスターズの「I Love How You Love Me」がチャートを駆け上り、最高4位まで達していた。パリス・シスターズの第3弾のシングルに、スペクターはキャロル・キングとジェリー・ゴフィンが書いた「He Knows I Love Him Too Much」を用意した。ボサノバ的なフィーリングもある同曲は、パリス・シスターズがそれまでのガールズ・ドゥーワップから一歩踏み出すシングルになるはずだった。だが、11月にロサンゼルスに戻ったスペクターは大変なことを知る。5〜6月にレコーディングしたパリス・シスターズのアルバム用マスター・テープが、シルの事務所のミスで廃棄されてしまっていたのだ。「He Knows I Love Him Too Much」のレコーディングは終えたものの、憤慨したスペクターは以後、パリス・シスターズには一切、かかわらなかった。

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ロックンロール殿堂(Rock & Roll Hall of Fame)のWebサイトより、1990年の受賞式でのジェリー・ゴフィン(1939〜2014年)とキャロル・キング(1942年〜)。2人は1959年に結婚し、ソングライター・チームとして活躍。1968年に離婚後もしばらくは共作を続けた。1970年代にはキングは活動の比重をソロ活動に移し『つづれおり』(1971年)をヒットさせる
Photo:Kevin Mazur
Gerry Goffin and Carole King | Rock & Roll Hall of Fame

 クリスタルズとフィレス・レコードの契約が発覚してから、スペクターはヒル・アンド・レンジには出入り禁止となっていたが、音楽業界の大人たちを出し抜く彼の動きは止まらなかった。「There’s No Other(Like My Baby)」は全米チャートの20位まで上ったが、スペクターは第2弾にもっと強力な曲を欲した。そこで彼はアルドン・ミュージックのドン・カーシュナーに提携を持ちかけた。キャロル・キング&ジェリー・ゴフィン、バリー・マン&シンシア・ウェイルらの新世代のソングライターたちを集めていたアルドン・ミュージックと組めば、曲探しはたやすくなる。このスペクターとカーシュナーとの交渉もあくまで水面下で進められ、レスター・シルにすら伝えられなかったようだ。

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左から、キャロル・ベイヤー・セイガー(1947年〜)、キャロル・キング、シンシア・ウェイル(1940年〜)、バリー・マン(1939年〜)。2012年撮影。4人ともブリル・ビルディングを代表するソングライターで、ウェイルとマンは1961年に結婚
Photo:Angela George CC BY-SA 3.0

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1962年のBMIアワードにて。左端がバリー・マン。続いてソングライターのジャック・ケラー、アルドン・ミュージックの共同経営者であるアル・ネヴィンスとドン・カーシュナー、ニール・セダカの作詞で知られるハワード・グリーンフィールド
Photo:Jsimonkeller CC BY-SA 3.0 

リバティ・レコードとA&R契約し
東海岸の拠点と資金を獲得

 カーシュナーを通じて、バリー・マン&シンシア・ウェイルの書いた「Uptown」をクリスタルズの第2弾シングル用として手に入れたスペクターは、資金調達にも成功していた。リバティ・レコードが法外な年棒で、スペクターをA&Rとして雇い入れたのだ。

 

 リバティ・レコードはサイモン・ワロンカーが1955年に設立したロサンゼルスの新興レーベルで、当初は映画音楽やムード・ミュージックを多く扱っていたが、1960年代に入るとともにティーンエイジャー向けのポップ・ヒットを量産するようになった。その立役者は1959年に入社したスナッフ・ギャレットだった。1938年にテキサス州で生まれたギャレットは、17歳にして地元でラジオDJを始め、バディ・ホリーと深い親交を得た後、19歳でロサンゼルスに移り、リバティのA&Rとなって、ボビー・ヴィーやジョニー・バーネットを大ヒットさせた。傍若無人なスペクターも唯一、ギャレットだけは西海岸の先輩プロデューサーとして敬意を払い、親密にしていたようだ。

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写真右がスナッフ・ギャレット(1938〜2015年)。自身はミュージシャンではないものの、1966年にリバティを退職するまで、ボビー・ヴィー、ジョニー・バーネット、ジーン・マクダニエルズ、バディ・ノックズ、ウォルター・ブレナン、ゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズなどの作品をプロデュースした。その後はMCA/Kappなどで仕事を続けた。写真は『Billboard』1965年2月27日号より、ウェンディ・ヒル(中央)のレコーディング風景で、左はゲイリー・ルイス

 スペクターをリバティに引き入れたのも、そのスナッフ・ギャレットだった。西海岸のA&Rであるギャレットはスペクターに東海岸のA&Rを任せ、会社を回す両輪となればいいと考えていた。ギャレットが取りまとめたリバティとの契約は、スペクターに極めて有利な条件で、リバティの仕事の傍ら、フィレスのための制作を続けることも認められていた。

 

 リバティのA&Rとしてニューヨークにオフィスを得たスペクターだったが、彼の頭の中を占めていたのはもちろん、フィレスの次なる展開だった。1961年の暮れにミラ・サウンドでレコーディングされたクリスタルズの「Uptown」はスパニッシュ・ギターとストリングスが絡み合うキャッチーなサウンドを持ち、スペクターのニューヨーク時代の最良のプロデュース作品に数えられる仕上がりになった。リバティの制作仕事でもスペクターは好んでミラ・サウンドを使った。だが、彼の理想はゴールド・スターにロサンゼルスのミュージシャンを集めて、レコーディングすることだった。

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『Twist Uptown』The Crystals(Philles/1962年)
「There's No Other (Like My Baby)」「Oh Yeah, Maybe Baby」「Uptown」を含むアルバム。2015年にソニーが国内で限定CD復刻をしたので、現在も入手しやすい
ツイスト・アップタウン(期間生産限定盤)

ツイスト・アップタウン(期間生産限定盤)

 

 

 1962年の2月にリリースされたクリスタルズの「Uptown」は全米チャートの14位に上るヒットになった。しかし、5月にレコーディングされた第3弾の「He Hit Me(It Felt Like A Kiss)」はヒットしなかった。キャロル・キングとジェリー・ゴフィンがスペクターからのアドバイスを得て書いたこの曲は、暴力を振るう彼氏との愛憎関係を描いていた。スペクターはそのテーマが気に入っていたようだったが、拒否反応を示す人も少なくなかった。

 

 リバティのA&Rの座が足かせになり、ミラ・サウンドでクリスタルズのレコーディングを続けていたスペクターだったが、「He Hit Me(It Felt Like A Kiss)」の制作が終わると、あっさりとリバティを辞めた。表向きには、疲れたのでスペインに旅行して、静養してくるという話だった。アリバイ作りのために、ベルリッツのスペイン語教室に通い、オフィスにテキストを置いていたという。だが、もちろん、すべては大嘘。リバティから前金として受けとっていた3万ドルを懐に入れたまま、スペクターはロサンゼルスに向かっていた。連れていたのは、やはり秘密裏に契約したロネッツというコーラス・グループだった。

 

 

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高橋健太郎

音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。
Twitterアカウントは@kentarotakahash

Photo:Hiroki Obara

 

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