ブライアン・ウィルソンとフィル・スペクター、ポップ・プロデュースの天才同士がお互いに意識したもの 〜【Vol.88】音楽と録音の歴史ものがたり

死去で明らかになったスペクターの生年にまつわる謎
私的な曲「Be My Baby」が打ち立てた金字塔

 2021年1月16日にフィル・スペクターはカリフォルニア州のサンホアキン郡にある囚人用の療養施設で死亡した。翌日にかけて、世界を駆けめぐったそのニュースには一つ混乱があった。80歳で死亡したとするメディアと81歳で死亡したとするメディアが入り乱れていたのだ。

 

 スペクターは長い間、1940年12月26日に生まれたとされてきた。本連載でもそう記述している。だが、訃報を伝える主要メディアは1939年生まれで、81歳だったと伝えた。ただし、カリフォルニア州の矯正リハビリテーション局は80歳で死亡したという公式リリースを流している。『ローリング・ストーン』誌など、当初は80歳で死亡と伝え、その後に81歳と訂正したメディアもあった。

 

 この混乱の原因は明らかではない。Wikipediaなどは現在では1939年生まれと書き替えられているが、1939年生まれが正しいとすると、フィル・スペクターに関する多くの書籍も、改訂を余儀なくされるだろう。18歳で全米No.1ヒットを放ったという伝説も、19歳に改めなければならなくなる。だが、その1年の狂いはどこで生まれたのか。たぶん、ブロンクスでの幼少時代ではないかとは思われるが、これは研究者たちの今後の課題になりそうだ。

 

 スペクターは2003年に女優のラナ・クラークソンを殺害した容疑で、2009年に禁固19年の有罪判決を言い渡された。それ以後は収監され、薬物中毒の矯正を受けていた。1968年にフィル・スペクターと結婚し、以後、ロニー・スペクターを名乗ったヴェロニカ・ヴェネットは、スペクターの死を受けて、コメントを発表した。

 

 「彼に出会って、恋に落ちるのはおとぎ話のような出来事でした。私たちが一緒に作りあげた魔法の音楽は、私たちの愛に触発されました」

 

 しかし、2人が結婚したのは、ロネッツが人気を失い、活動を休止してからで、スペクターはロニーを家に閉じ込め、歌手生活を断念させた。1974年に離婚が成立するまで、恐怖におののく結婚生活を送ったロニーは“彼は素晴らしいプロデューサーでしたが、悪辣な夫でした”とも付け加えた。

 
 
 
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フィル・スペクターの死に際して、元妻ロニー・スペクター=ヴェロニカ・ヴェネットがInstagramで発表したコメント。「私は今でも、私たちが一緒に作った曲を聴けば笑顔になるし、今後もそうでしょう。その音楽は永遠です」と結んでいる https://www.instagram.com/p/CKKECKqATwz/

 1963年7月5日のロネッツ「Be My Baby」のレコーディングに立ち戻れば、このとき既にヴェロニカ・ヴェネットとスペクターの恋愛は始まっていたと、周囲の人々は証言している。ヴェロニカは19歳。スペクターは当時の公称では23歳。スペクターは年の初めにアネット・メアラーと結婚したばかりだったが、新妻をニューヨークに残し、ロサンゼルスでヴェロニカと逢い引きしていたのだ。“私の恋人になって”とヴェロニカに歌わせた「Be My Baby」はレコーディング・アートの金字塔であると同時に、スペクターのプライベートな願望を乗せたロックンロール・シンフォニーでもあった。

 

新進プロデューサー=ブライアン・ウィルソンが受けた
「Be My Baby」の衝撃

 8月にリリースされた「Be My Baby」は大センセーションを巻き起こした。全米チャートの最高位は『Billboard』誌では2位だったが、『Cash Box』誌では1位に輝いた。だが、そんなチャート成績以上に、「Be My Baby」は音楽史を変える衝撃力を放つシングルだった。

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『...Presenting The Fabulous Ronettes Featuring Veronica』
The Ronettes
(Philes/1964年)
「Be My Baby」「Walking in the Rain」や本稿で触れている「Chapel Of Love」などをコンパイルした、ロネッツ名義での唯一のオリジナル・アルバム。日本盤CDは、直近では2012年にソニー・インターナショナルからリリース

 

 そのことを誰よりも熱っぽく語ってきたのはブライアン・ウィルソンに違いない。ある日、カー・ラジオから流れる「Be My Baby」を聴いた経験が人生の転換点となったと、彼はしばしば振り返っている。一人でドライブしていた、ガールフレンドのマリリンと一緒だったと、時によって話が少し違ったりするが、ともあれ、DJのウィンク・マーティデールが紹介した同曲を聴いたブライアンは“何だ、これは”と叫び、サンセット・ブールバードの道端に車を止めて聴き入ったという。

 

 『ブライアン・ウィルソン自伝 I Am Brian Wilson』の中だけでも、「Be My Baby」をめぐるエピソードは3回も語られる。「Be My Baby」に衝撃を受けた彼は、自分もこういうものを作りたいと思った。シングルを10枚買った、1,000回は聴いた、スタジオを真っ暗にして5時間ループし続けたなど、いろいろな話があるが、ともかく、すべてを漏らさず聴き取るようにして、研究を重ねたのは間違いない。『ブライアン・ウィルソン自伝 I Am Brian Wilson』中の以下の発言には、彼がスペクター・サウンドのどこに反応したかが簡潔に語られている。

 

 「スペクター以前、みんなは楽器を分けて、録音していた。グレートなピアノ、グレートなギター、グレートなベースみたいにね。でも、彼は曲そのものを一つの巨大な楽器にして聴かせたんだ。彼にとってはサイズが重要だった。すべてがどれほど大きく聴こえたか。そして、彼は僕がそれまで聴いた中で、最高のドラム・サウンドを持っていた」

 

 マルチトラック・レコーディングに逆行し、曲そのものを一つの巨大な楽器にして聴かせるスペクターの手法。それがブライアン・ウィルソンに衝撃を与えたのだ。

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ブライアン・ウィルソン自伝 I am Brian Wilson
ブライアン・ウィルソン、ベン・グリーマン
松永洋平 訳
(DU BOOKS/2019年)
Wouldn't it be Nice: My Own Story』(HarperCollins/1991年)に代わるブライアン・ウィルソンの自叙伝。原著は2016年刊(Coronet Book)。幼少期からビーチ・ボーイズ、精神状態の悪化とそこからの復帰などが語られている

  「Be My Baby」を聴いたときには、ブライアンは既にレコーディングやプロデュースの経験を積んでいた。1942年6月20日生まれのブライアンは弟のカールとデニス、従兄弟のマイク・ラヴ、友人のアル・ジャーディンとビーチ・ボーイズを結成して、1961年にはデビュー・シングルの「サーフィン」(Surfin)を発表。1962年にはキャピトル・レコードと契約し、「サーフィン・サファリ」(Surfin Safari)をヒットさせている。そして、1963年にはキャピトルのプロデューサーのニック・ベネットを排除し、マネージャーの父親の干渉にも抗って、自らがビーチ・ボーイズをプロデュースすることに意欲を燃やした。その時点でブライアンが最大の目標とし、畏敬の念を抱いていたのはフィル・スペクターだった。

 

 1963年の初めには、ブライアンは自身のプロデュース能力を試すチャンスを得た。キャピトルがガール・グループのハニーズのプロデュースを任せたのだ。ハニーズはダイアン・ローヴェル、マリリン・ローヴェルの姉妹に従兄弟のサンドラ・グランツ(ステージ・ネームはジンジャー・グランツ)を加えた3人組だった。彼女たちはユダヤ系で、フェアファックス・ハイスクールに通っていた。ゲイリー・アッシャーを通じて彼女たちと知り合ったブライアンは、15歳のマリリンと恋仲になり、1964年の終わりには結婚することになる。

 

 ビーチ・ボーイズのガールズ・グループ版とも言うべきハニーズは1963年4月にキャピトルからのデビュー・シングル『Shoot the Curl / Surfin' Down the Swanee River』を発表した。A面は彼女たちのオリジナルで、B面はブライアンが書いている。ハニーズのスタジオで、ブライアンは自身をフィル・スペクターと重ね合わせていた。セッションにはハル・ブレイン、グレン・キャンベル、レオン・ラッセルら、レッキング・クルーの面々を呼んだ。

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ハニーズ『Shoot the Curl / Surfin' Down the Swanee River』のジャケット。左から、マリリン・ローヴェル、ダイアン・ローヴヴェル、ジンジャー・グランツ。マリリンは1964年にブライアン・ウィルソンと結婚(1979年離婚)。後にウィルソン・フィリップスで活躍する娘のカーニーとウェンディを設ける。「Surfin' Down the Swanee River」はスティーブン・フォスター「スワニー河」(「故郷の人々」とも)を下敷きにした曲で、このジャケットのように再発や海外盤などによってはこちらがA面となっていることもあるが、オリジナルは「Shoot the Curl」がA面

 ハニーズのシングルは全く売れず、クリスタルズでヒットを連発しているスペクターとの力量の差をブライアンは思い知ることになるが、その経験はビーチ・ボーイズの3rdアルバムの制作に生かされる。1963年6月に始まったアルバム『サーファー・ガール』のレコーディングでは、ブライアンはプロデューサーとして発言力を得た。キャピトルに対する彼の最大の要求は、キャピトル・タワーのスタジオを使わず、ウェスタン・レコーダーズでレコーディングを行うということだった。キャピトル・スタジオではロックンロールに必要な太い低音が得られないと考えたのだ。

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サンセット・ブールバード6000番地(2019年撮影)。1ブロック離れた6050番地に加え、1961年よりビル・パットナムの手によってユナイテッド・ウェスタン・スタジオとして開業した。1984年にアレン・サイズがオーシャン・ウェイとして引き継ぎ、1999年に6000番地=ウェスタンがチェロ・スタジオに。2006年よりソフト音源デベロッパーのEASTWESTが所有するイーストウェスト・スタジオとして稼働している

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イーストウェスト・スタジオ(=旧ウェスタン・レコーダーズ)のWebサイトにある“HISTORY”ページでは、このスタジオの歴史が詳細に書かれている。トップ写真にはこのビーチ・ボーイズのセッションのほか、フランク・シナトラやエルヴィス・プレスリーのレコーディング風景が登場。ビル・パットナムがスタジオとする以前はスーパーマーケットやカジノだったそう。EASTWESTはロビーなどの内装について大改修を行ったが、音響にかかわる部分は当時のまま残しているという
EastWest Studios -- History

 わざわざ外部スタジオを使う予算を渋ったキャピトルはまず、ビーチ・ボーイズにウェスタンでの試験レコーディングを課した。ウェスタンにレッキング・クルーの面々をブッキングしたブライアンは、そこでエンジニアのチャック・ブリッツに出会う。以後、ブライアンの重要なパートナーとなるブリッツとともに作り上げた「サーファー・ガール」と「リトル・デュース・クーペ」(Little Duce Coupe)のサウンドは、キャピトルの副社長のヴォイル・ギルモアにウェスタンの使用を許可させた。そして、ブライアンはプロデューサーとして全権を掌握することになった。

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ブライアン・ウィルソンとチャック・ブリッツ(1927〜2000年)。ブリッツはオクラホマ州出身で、軍でのビッグバンド録音に携わった後、1960年からユナイテッド・ウェスタンにエンジニアとして参加。ジャン&ディーン、P.F.スローン、グラス・ルーツなどの作品も手掛けた。写真は映画『レッキング・クルー』のFacebookページより

ゴールド・スターで出会ったウィルソンに
スペクターが味わわせた屈辱

  1963年の夏、ブライアンはウェスタン・レコーダーズのスタジオ3に篭りきりになり、チャック・ブリッツとともに連日、9〜10時間のレコーディングを続けた。完成したアルバム『サーファー・ガール』は「サーファー・ガール」「イン・マイ・ルーム」(In My Room)、「サーファー・ムーン」(The Surfer Moon)といったメロディックな名曲を含み、サーフィン/ホットロッド系の曲でもタイトな疾走感を増し、それまでのビーチ・ボーイズとは次元の違う高みに達した作品だった。ロック史上に残る紛れもない傑作アルバムだ。

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『Surfer Girl』
The Beach Boys
(Capitol/1963年)
ブライアン・ウィルソンが初めてプロデューサーとしてクレジットされたビーチ・ボーイズのアルバム(3rd)。当初からモノラル/ステレオの両バージョンがリリースされた。国内盤の最新仕様はユニバーサル・ミュージックから2016年にSHM-CDとしてリリース
Surfer Girl

Surfer Girl

  • ザ・ビーチ・ボーイズ
  • ロック
  • ¥917

 

 2ndアルバムの『サーフィン・U.S.A.』は全米チャートの2位まで上る記録を残していた。1963年の夏の終わりにはブライアンはそれに続く渾身作のリリースを待つ身だった。だが、そんなブライアンをロネッツの「Be My Baby」はまたも突き放したのだった。どうしたら、こんなことができるのか。ブライアンは葛藤を抱えながら、キャピトルが1963年中のリリースを求めたもう一枚のアルバムの制作に進んだ。よりロックンロール色の強い『リトル・デュース・クーペ』だ。ブライアンはそのレコーディングにゴールド・スター・スタジオも使うようになった。そして、そこでフィル・スペクターと何度か対面することになる。

 

 そのころ、スペクターはフィレスのタレントを総動員した一大プロジェクトに取りかかっていた。同年のクリスマスに向けたコンピレーション・アルバム『A Christmas Gift For You From Philes Records』だ。この企画は当時として奇異なものだった。ロックンロールの世代の若者にとって、1950年代以前のスタンダードなクリスマス・ソングは、古くさいものでしかなかったからだ。だが、スペクターは企画に強いこだわりを持ち、ロネッツの次のシングルやアルバム制作よりも先に進めた。

 

 ブライアンはそのクリスマス・アルバムのセッションにスペクターから招待を受けた。見学するつもりでゴールド・スターに出向いたブライアンだったが、スペクターは彼にピアノを弾かせようとした。ブライアンは「サンタが町にやってくる」の楽譜に向かったが、初見が苦手な彼は4テイク目でピアノから外れるように言い渡された。ライバルになりそうな誰かに、スペクターがそうやって屈辱を味わわせるのは、彼をよく知る者にとっては驚くような出来事ではなかった。

 

スペクターのクリスマス・アルバムと
崩れ始めた人間関係

 クリスマス・アルバムのレコーディングは6週間続いた。アルバムはヴェロニカ・ベネット、ダーレン・ラヴ、ララ・ブルックス、ボビー・シーンを中心に構成されたものだったが、ジャケットの撮影には録音に全く参加していないクリスタルズのメンバーたちも駆り出された。スペクターはフィレス・レコードがモータウンのような家族的な雰囲気の集団であると見せたかったのかもしれない。しかし、アルバム・タイトルと、エンディングに収録された「きよしこの夜」が、プロデューサーの個人的野心と自己顕示欲がこの企画を駆動していることを明らかにしていた。

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『A Christmas Gift For You From Philles Records』
V.A.
(Philles/1973年)
1970年代には英アップルや、米ワーナー傘下でのワーナー・スペクターから『Phil Spector's Christmas Album』と改題されリリース。ジャケットではスペクターがサンタクロースの衣装をまとっていた。1980年代の再発からタイトルが“From Phil Spector”に変わったものが散見される

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『A Christmas Gift For You〜』のジャケット裏面。左にはダーレン・ラヴ、ロネッツ、右にはボブ・B・サックとララ・ブルックス(クリスタルズ)とのセッション・スナップが掲載されている
A Christmas Gift for You from Phil Spector

A Christmas Gift for You from Phil Spector

  • ヴァリアス・アーティスト
  • ホリデー
  • ¥1833

 

 スペクターが長々と謝辞を述べるエンディングの「きよしこの夜」は、6週間のきついセッションに疲れ果てていたラリー・レヴィンをうんざりさせた。23歳の自分にこんな仕事をやり遂げさせてくれた音楽業界に、そして何よりもリスナーのあなたに感謝するというスペクターの言葉が、自画自賛にほかならないことをレヴィンはよく知っていた。それ以外の12曲は文句無しに楽しく、エネルギーに満ちていて、スペクターのプロデュース・ワークの頂点と言ってもいい内容だったが、これ以上は付き合い切れないとレヴィンは決めた。そして、次からはほかのエンジニアとやってくれとスペクターに告げた。

 

Silent Night

Silent Night

  • フィル・スペクター, Bob B. Soxx & The Blue Jeans, ダーレン・ラヴ, クリスタルズ & ロネッツ
  • ホリデー
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

 

 その年のクリスマスがやってくるころには、スペクター周辺のあちこちで人間関係がきしみ、崩れ出していた。ロネッツのレコーディングのために曲を集めなければならなかったスペクターはニューヨークに戻った。だが、ヴェロニカも連れて行ったため、アネットに浮気を気付かれることになる。

 

 フィレスに多くのヒット曲を提供してきたアーニー・グリニッチ&ジョン・バリーとの関係もこじれた。2人はロネッツのために「Chapel Of Love」という曲を書いたが、スペクターはそれを録音しようとしなかった。そこで彼らはリーバー&ストーラーらと始めたレッド・バードという新しいレーベルで、ディキシー・カップスというガールズ・グループにそれを歌わせた。バリーがプロデュースしたディキシー・カップスの「Chapel Of Love」は全米チャートのNo.1を獲得する大ヒットになった。これに激怒したスペクターはグリニッチ&バリーを使うのをやめたが、彼らの側ももう印税の一部を渡してまで、スペクターのために曲を書く必要は無かった。代わりのソングライター・チームを探したスペクターは、ピーター・アンダースとヴィニー・ポンシアの2人(アンダース&ポンシア)に接近することになる。

 

 クリスタルズからはメンバーが抜けていき、ダーレン・ラヴとスペクターの関係にも溝ができていた。スペクターがロネッツだけを特別扱いすることで、フィレス・レコードは家族的なレーベルどころか、ほかにアーティストが居なくなり、リリースもまばらな状態になっていった。

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『Chapel Of Love』 The Dixie Cups (Red Bird/1964年) ニューオーリンズ出身のホーキンズ姉妹を中心とした3人組ボーカル・グループ。1964年4月リリースの「Chapel of Love」のヒットを受け、8月に同曲の名を冠したアルバムをリリースした
Chapel of Love

Chapel of Love

  • ディキシー・カップス
  • ポップ
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

 

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高橋健太郎

音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。
Twitterアカウントは@kentarotakahash

Photo:Hiroki Obara

 

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