Apple Music空間オーディオに向けたミックス 〜【第15回】DIYで造るイマーシブ・スタジオ 古賀健一

 6月にApple MusicがDolby Atmosによる“空間オーディオ”の配信をスタートしました。国内ではまだ対応楽曲は少ないですが、ここ最近幾つかの楽曲でミックスを手掛けたので、Blu-rayのDolby Atmosや映画のDolby Atmosとどう違うのか、僕が感じたことを書いていこうと思います。個人的見解も多くありますが、これからの制作のヒントになれば幸いです。

APPLEバイノーラル・エンコードの確認は録って書き出して転送して……

 空間オーディオが再生されるシチュエーションの特徴は、圧倒的に対応ヘッドフォン/イアフォンによるバイノーラル再生が多いこと。詳しくは前号の特集「空間オーディオの潮流」にあるので割愛しますが、そのミックスをする上でぶつかった壁は、DOLBY Dolby Atmos Rendererに内蔵されているバイノーラル・エンコーダーの音と、実際に配信されるAPPLEの対応機器(Apple Silicon搭載機)でのデコードの音が違い過ぎるという点です。

 

 ワークフローをざっくり書くと、

❶Dolby Atmosミックス
❷DOLBY HT-RMU上のDolby Atmos Rendererに.atmosファイルとして録音
❸.atmosからADM BWFを作成
❹AVID Pro Toolsにインポートしてステレオ・マスターと並べ、時間差が50ms以内になるように波形の位置を調整
❺ラウドネスを規定の−18LKFS以下に調整し、Pro ToolsからADM BWFを作成
❻各社納品ファイルの規定に合わせてリネームして納品

……です。

 

 ここで最も大変なのは、スピーカーで作った音と、バイノーラル・エンコードの音の差を埋めることです。チェックはすごくアナログライクな方法で、実時間かけて.atmosを録った後、Dolby Atmos RendererからMP4で書き出します。そのファイルをAPPLE iPhoneやiPadの“写真”もしくは“ファイル”にAirDropでコピーし、APPLE AirPods Max/Proで確認して、またミックスを修正します。修正したら再度録音もしくはパンチ・インし、再確認。今のところこれしか方法が無いので、時間はかかりますが、やるしかありません。

 

 そのほかの確認方法としては、MP4ファイルをUSBメモリーなどにコピーし、ネットワーク・プレーヤーに挿してサウンド・バーなどで再生。APPLE Apple TVの対応機種を持っていたら、Mac本体からAirPlayで飛ばしてAVアンプなどに出力し、聴くことも可能です、ただし、AirPlay経由の場合、現時点では全体のレベルが下がる印象があります(調査してもらっています)。

チャンネル数はフルに使わずともDolby Atmos Rendererは別マシンで

 話は戻って、まずはミックスです❶。僕のシステムはAPPLE Mac Pro(2019年モデル。16コア、48GB RAM)+AVID Pro Tools|HDX3です。HT-RMUとはオーディオ・インターフェースのAVID Pro Tools|MTRXからMADI(オプティカル)で接続しています。こうしたシステムにした理由は単純で、Pro Tools|HDXのDSPの恩恵とDolby Atmos RendererのCPU負荷分散です。

 

 当初は、ハイスペックなMacならば、Pro ToolsとDolby Atmos Rendererが同一コンピューター内でもミックスできると思っていましたが、マルチトラックから丁寧にやろうと思うと、全く作業ができませんでした。もし同一マシンでミックスしていてストレスを感じている人が居るのでしたら、事務用に使っているMacなどにDolby Atmos Rendererを入れ、システムの負荷を分散してみることをお勧めします。接続はAUDINATE Dante Virtual Soundcard(DVS)での64ch入出力が一番楽だと思います。空間オーディオのミックス(1曲)ならベッド10ch+オブジェクト53ch+タイム・コード1chで足りるでしょう。

 

 Pro Tools|MTRXやPro Tools|MTRX Studioを持っていて、DSPを使いたい場合は、HDXカードは2枚あれば何とかなるでしょう。僕がHDX3にしているのは、大規模なライブ・ミックスを手掛けることがあるためです。これらのオーディオ・インターフェースからDante出力し、別マシンにてDVS経由で信号を受けることもできます。ただし、DVSなどはDOLBYのサポート外ですので、自己責任になりますが。

なぜかApple Musicでは反映されないバイノーラル・エンコード設定

 空間オーディオの納品形態はラウドネス:−18LKFS、トゥルー・ピーク:−1.5dB、24ビット/48kHz、24FPSのADM BWF。96kHzセッションの場合は事前にダウン・コンバートし、ミックス時のマスターは、あえて後で下げられるようにラウドネス値がこれらの基準を少しオーバーする形で作っています。ミックスが完了したら.atmosファイルでHT-RMUに録音❷。そのファイルをADM BWFへ変換し❸、再度Pro Toolsに並べ、−18LKFSになるようレベルを微調整をします。

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Dolby Atmos Rendererのメーター部。右のラウドネスがインテグレートで−18LKFS以下、トゥルー・ピークが−1.0がApple Musicのレベルに関する納品条件

 Pro Tools内部のバウンスでもADM BWF書き出しができるようになりましたが、その対応初期のころ、僕の環境でプラグインをガンガン使っていると、バウンス書き出し後、ベッドとオブジェクトがズレる現象が頻発したので、物理アウトプットできちんとHT-RMUに録るようしています。いずれにせよ、ミックス時はきちんとシステム・ディレイ内にすべてのトラックを収めましょう。ステレオ・ミックスのようにマスターへ重いプラグインをガンガン挿していると、ズレます。

 

 それとこれはTIDAL(執筆時点で国内未展開)やAmazon Music用ですが、Dolby Atmos Rendererのバイノーラル・セッティングを設定しないといけません。デフォルトはMidですが、Off/Near/Mid/Farと好みの距離に合わせてセッティングしてください。

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Dolby Atmos Rendererのバイノーラル・セッティング(色の付いたAssignmentの右)は、Pro Tools+専用プラグインから行えるようになった。ADM BWFにこの距離属性が反映され、バイノーラル再生時にはそれを加味した再生が行われる……はずだが、Apple Musicでのバイノーラル・デコーダーでは現在のところこれが反映されない

 納品ファイルを作るためのマスタリングですが、現時点で、空間オーディオのみの配信はできません。必ずステレオ・マスターも必要になります。ステレオ・マスターとDolby Atmosマスターの波形位置を50ms以内に収めて❹、Dolby Atmos Rendererのラウドネス解析でDolby Atmosマスターが−18LKFSになるようにレベル調整。ステレオと同じ長さで、バウンスして終わりです(Pro Toolsでオフライン・バウンスします❺)。このとき、最終的に若干EQやボリューム調整をすることもあります。

 

 最後に、このADM BWFファイルをDolby Atmos Rendererに読み込み、確認用のMP4を作ってクライアントへ送り、作業終了です(この後❻)。

 

 この確認時のMP4のサウンドと、実際にApple Musicで配信された音との違いは、僕にはほとんど感じられませんでしたので、信頼していいかと思います。しかし実際に配信されるデータを事前に聴けないのは、マスター責任者のポジションを担う人間からすると、正直怖いです。今後改善してほしい課題だと思っています。

 

 空間オーディオ用ミックスを重ねるに連れて、音の作り方がBlu-rayのDolby Atmosミックスとは違うという新たな課題に直面しました。正直、スピーカー・システムを大幅に見直さないといけないと思っています。

 

古賀健一

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【Profile】レコーディング・エンジニア。青葉台スタジオに入社後、フリーランスとして独立。2014年Xylomania Studioを設立。これまでにチャットモンチー、ASIAN KUNG-FU GENERATION、Official髭男dism、ichikoro、D.W.ニコルズなどの作品に携わる。また、商業スタジオやミュージシャンのプライベート・スタジオの音響アドバイスも手掛ける。
Photo:Hiroshi Hatano