音楽作品としてイマーシブ表現が可能なDolby Atmos Music。一部のユーザーしか体験できなかったサウンドが、今年になってからグッと身近なものとなった。本特集では、Dolby Atmos Musicの情報をあらためて整理し、Dolby Atmosでのミックス経験を持つエンジニア諸氏へのインタビューを通して、従来のステレオやサラウンドと異なるどんな表現ができるのかを詳しく聞いていく。まずは、発展を見せるDolby Atmos Musicのこれまでの歩みをたどっていこう。
映画館からスマートフォンへ
イマーシブ・サウンド方式の一つであるDolby Atmos。これまでの5.1chや7.1ch方式をさらに拡張するために生まれたフォーマットで、2012年に発表された。最初に映画館のシステム、そして約1年後にはホーム・シアター向けの設備も登場し始める。
その特徴は、従来の7.1chにハイト・スピーカー(天井)を加えた7.1.2chをベースとしていること。そして、それらスピーカーに対応する10のベッド・チャンネル、各スピーカーの組み合わせで定位を生み、動きも加えられる118のオブジェクト・チャンネルを持つことが挙げられる。映画においては、劇場のスピーカー構成にかかわらず、オブジェクト・チャンネルによる定位の表現ができることがメリット。現在では多くの作品がDolby Atmosで制作されているため、そのサウンドを体験している人は少なくないだろう。
映像作品において普及を進めたDolby Atmosだが、日常での体験としてはまだまだ一般的と言えない状況だった。音響システムが整った映画館でDolby Atmosを体験することはできるが、自宅では再生環境の都合上、気軽に聴くことができなかったのだ。ただ、複数台のスピーカーを置かずともハイト・スピーカーやリア・スピーカーの音を再現できるサウンド・バーや単体で対応するテレビなども登場し、導入しているユーザーは確実に増えているが、まだ限られている。
そんな中、今や誰もが持っているスマートフォンがDolby Atmosに対応し始めたことで、イマーシブ・サウンドの体験が一気に身近となる。ユーザーが多いAPPLE iPhone(およびiPad)が対応したことは、特に大きな注目を集めた。当初はiPhone/iPad内蔵スピーカーでのみDolby Atmosでの再生が可能だったが、のちにイアフォンのAirPods Pro、ヘッドフォンのAirPods MaxがDolby Atmosを含む立体音響=“空間オーディオ”の再生に対応。バイノーラルによって2chでの再生でもサラウンドを表現できるため、Dolby Atmos対応のビデオ・コンテンツを日常生活において視聴しやすくなった。AirPods ProとAirPods Maxはヘッド・トラッキング機能も有しているため、頭の動きにかかわらず音場がずれないのもポイントだ。
Apple Musicが対応曲を配信
身近な再生デバイスの対応により、“映像作品におけるDolby Atmos体験”がしやすくなり、映像ストリーミング・サービスでは、Apple TVやNetflixなどでDolby Atmos対応作品が購入/レンタルできるようになった。音楽でも、このDolby Atmosを使ったイマーシブ配信が始まり、2019年末にAmazon Music HDとTIDAL(日本未展開)がDolby Atmosフォーマットの音楽=Dolby Atmos Musicを配信し始めた。ただし、Amazon Music HDのDolby Atmos MusicはAMAZONのスマート・スピーカーEcho Studioでしか聴くことができなかった。
しかし、今年5月に大きなニュースが飛び込んでくる。APPLEが展開する音楽ストリーミング・サービスのApple Musicにて、Dolby Atmos Musicの配信を行うことが発表されたのだ。Apple Musicサブスクリプション登録者は追加料金無しで、しかもMac/iPhone/iPad内蔵スピーカーやAirPods Pro/Maxだけでなく、他社製イアフォン/ヘッドフォンでもDolby Atmosを体験できるようになった。Dolby Atmos Musicの普及の起点になることは間違いないだろう。
Apple MusicにおけるDolby Atmos再生の設定について紹介しよう。iPhone/iPad(iOSまたはiPadOS 14.6以降)では、“設定”→“ミュージック”と進むと、“オーディオ”の欄に“ドルビーアトモス”という項目がある。Mac(macOS 11.4以降)では、ミュージック・アプリのメニュー・バーから“ミュージック”→“環境設定”→“再生”タブへ進むと“ドルビーアトモス”の項目が見つかるだろう。
編注:iOS 14.7+他社製イアフォン/ヘッドフォンでのDolby Atmos再生ができないという状況があるとのこと。これが仕様なのかバグなのかは引き続き注視していきます(2021年8月26日/編集部)
ここでは、自動/常にオン/オフという設定が選べる。“自動”では、Mac/iPhone/iPadの内蔵スピーカー、AirPods Pro/Max、BEATS BY DR.DREの製品を使っている場合、楽曲が対応していればDolby Atmosで自動的に再生される。“常にオン”では、対応曲は常にDolby Atmosで再生されるので、“自動”で認識されない他社製イアフォンやヘッドフォンを使った場合でも空間オーディオを体験可能だ。“オフ”ではどんな場合でもDolby Atmosでは再生されない。Apple MusicではDolby Atmos対応曲を集めたプレイリストが公開されているので、未体験の方はぜひ試してみてほしい。
Dolby Atmos制作環境の整備が課題
Apple MusicでのDolby Atmos対応曲はまだ多くはない。ビリー・アイリッシュ、日本ではOfficial髭男dismといったアーティストがDolby Atmosフォーマットの新曲を続々とリリースしているが、空間オーディオのプレイリストを見ると、過去の楽曲をあらためてDolby Atmosとして再ミックスしたものが多くを占めている。Apple MusicによりDolby Atmosが広がりを見せているとは言え、現状は供給が伴っておらず、今後の発展に期待したい。
Dolby Atmosフォーマットの楽曲は、ADM BWFというファイル形式でミックスを納品する。STEINBERG Nuendo 11を除くDAWにおいて、その作成のためにはDolby Atmos Rendererというソフトウェアが必要だ。Dolby Atmos Rendererはベッド・チャンネル(7.1.2ch)+オブジェクト・チャンネル(118ch)の出力をレンダリングし、再生環境に合わせて出力する(最大22chまでサポート)。レンダリングにはCPU負荷がかかるため、映像作品における制作などで高いCPU負荷が考えられる場合、Dolby Atmos Rendererを備えた外部ユニット、HT-RMUの使用を考えるとよいだろう。
しかし、Dolby Atmos Musicとして音楽作品を制作する場合は、近年のコンピューター・スペックの向上もあり、DAWと同じパソコン内でDolby Atmos Rendererを使っても問題無く動作するようだ。そのDolby Atmos Rendererを含む楽曲制作ツールに関しては、別項で紹介しよう。
Dolby Atmosのミックスを行うには、モニターできる環境が必要だ。Dolby Atmos RendererにはRe-renderer機能があり、作成したDolby Atmosフォーマットを5.1chや7.1ch、ステレオのほかバイノーラルにも変換できる。バイノーラルにした上でミックスを進めることは可能だが、やはり完成度や再現性を求めるのであれば、Dolby Atmos対応のスタジオで聴くのが一番だろう。しかしながら、現状ではDolby Atmosを再生できるモニター・システムを持つ音楽スタジオはまだ少ない。MAスタジオなどであればDolby Atmosに対応していることが多いが、音楽制作に必要な機器やプラグインの整備などの課題もある。
AvidPlayでDolby Atmos Musicを配信
楽曲のストリーミング配信を行うためには、各ストリーミング・サービスへ展開するための音楽流通サービサーと契約する必要がある。ただ、Dolby Atmosでの配信では、そのサービサーもDolby Atmos Rendererを用意した環境を整えておく必要があるが、まだまだ国内サービサーの多くは準備をしている段階だ。個人やインディーズであれば、AVIDのサービス=AvidPlayを使うという方法もある。AvidPlayの年間サブスクリプション・プラン、Dolby Atmos Unlimitedに入れば、制作したDolby Atmos Musicをデスクトップから世界に発信できる。
音楽の新たな表現であるDolby Atmos。まだまだステレオが主流の中、オプションとしてDolby Atmosミックスが制作されているような現状だが、今後さらにDolby Atmos Musicが浸透し、曲を聴く際の標準的なフォーマットとなる可能性も秘めている。そうなれば、Dolby Atmosミックスを中心に制作し、ステレオはダウン・ミックスから作成していく……ということもありえるだろう。モノラルからステレオへと変化したように、音楽の作り方が大きく変化するのはそう遠くないことかもしれない。
そういった点を考慮し、対応を行っているスタジオもある。麻布台のP's Studioは、ポスプロ・スタジオのためレコーディング環境は無いが、レコーディング・スタジオと協力して、Dolby AtmosミックスのチェックをP's Studioで進めるというスタジオ同士の連携で制作することが可能になっている。Dolby Atmos Musicの再生のハードルが下がった今、制作を行うスタジオの対応の動向も気になるところだ。