バイノーラルの現在と未来を久保二朗が語る 〜特集・バイノーラルで作る音楽の未来(2)

近年のASMRやオンライン・ゲームの流行、イマーシブ・オーディオの発展により再び注目を集めてきたバイノーラル。バイノーラル音楽制作で押さえておきたい知識や使えるツール、効果的なアプローチまでを広く紹介する本特集、続いてはACOUSTIC FIELDの代表を務める3Dサウンド・エンジニアの久保二朗氏に、バイノーラルの現在と未来を語っていただいた。

text:編集部

 

久保二朗

f:id:rittor_snrec:20201026200519j:plain

【Profile】ACOUSTIC FIELDの代表で、アーティストの立体音響制作を技術面からサポートする3Dサウンド・エンジニア。2014年に高音質バイノーラル・プロセッシング技術HPLを発表する。evalaのプロジェクト“SEE by YOUR EARS”のテクニカル・ディレクターを務める

空間を“まるごとキャプチャー”できる
バイノーラル録音

—まずは、今再び注目を集める“バイノーラル”についてあらためて教えてください。

久保 バイノーラルとはヘッドフォン/イアフォンを用いた立体音響の一つです。どうして立体的に聴こえるのかというと、左右にある人間の耳の“両耳効果”を利用し空間を"まるごとキャプチャー"するから。ここで言う空間とは、聴きたい音だけでなく、話し声やエアコンの音などのノイズ、それらが壁にぶつかって生まれる反響音などを含めたすべての音のことを指します。

 

—普段、私たちは空間の中で鳴っているありとあらゆる音を聴いていますよね。

久保 はい。例えば目の前に音源があったとしたら、そこから出た音は直接、あるいは周囲の壁や物など空間内のあらゆる物に反響して左右の耳に届きます。人間は、それらを一瞬で処理して自分と周囲との距離や空間を把握しているのです。また音が左右の耳に届くと言っても、耳の形や頬、輪郭などの形状が人それぞれで違うので、当然そこに個人差が生まれてくるわけです。この頭部を音が伝搬する過程を表すのが“HRTF”(Head-Related Transfer Function)、日本語で“頭部伝達関数”と言います。

 

—“バイノーラル録音”では、HRTFを含めた周囲のサウンドをそのまま収録できるのですね。

久保 例えばNEUMANN KU 100やSAMREC Type 2700Proなどがそうで、これらはバイノーラル・レコーディング用のダミー・ヘッド・マイクです。擬似耳の穴部分には小型のコンデンサー・マイクが備わっており、人間と同じような形状の耳や頭部を持つためHRTFを含んだ状態で録音やインパルス・レスポンス(IR)の測定ができます。

f:id:rittor_snrec:20201026200757j:plain

バイノーラル・レコーディング用ダミー・ヘッド・マイクSAMREC Type 2700Pro。形状はIEC国際規格に準拠し、耳の部分は取り外し/交換が可能である。内蔵のコンデンサー・マイクはオリジナルのほか、AKGやDPAなどからも選択することができる

—このようなダミー・ヘッド・タイプのマイクは、いつごろから世の中に存在しているのですか?

久保 はっきりとは分かりませんが、1970年代には、既に胴体部分を含んだ音響計測用マネキンなどが存在していたと思います。

 

—擬似耳部分だけを搭載したバイノーラル・マイクもありますね。

久保 はい。例えば3DIO Free Space ProⅡのようにダミー・ヘッドの頭部を除外しても、一定面積を有した円盤と疑似耳を設置すれば両耳の聴こえ方や周波数特性をある程度再現することが可能だと言われています。しかし、HRTFというのは“頭部”伝達関数なので、擬似の頭部があるのは重要だと思っていますね。

 

音楽では定位の精度を高めることよりも
音色変化を損なわないことの方が大事

—360°全方位の音をAmbisonicsマイクで収音し、プロセッサーを使ってバイノーラル方式に変換する場合はいかがでしょうか?

久保 まず単純に“擬似耳でマイクが覆われていない”という観点から、Ambisonicsマイクの方が奇麗に収音できます。しかし、HRTFの情報が付加されていないということは覚えておくべきでしょう。ただ、Ambisonicsマイクは後々ステレオやバイノーラル、そのほかいろいろなサラウンドのフォーマットに変換できるのでとても便利なのです。

f:id:rittor_snrec:20201026200955j:plain

久保氏の所有するAmbisonicsマイクSOUNDFIELD SPS200。SOUNDFIELDは、Ambisonicsマイクと録音時のフォーマットA-FormatおよびB-Formatを開発したブランドだ

—久保さんは、普段バイノーラル録音をどのようにして行っているのでしょう?

久保 僕の場合はAmbisonicsマイクを使います。ダミー・ヘッド・マイクを使わない理由の一つは、HRTFを含め録音の段階でバイノーラルとして完成してしまっているから。Ambisonicsマイクは、先ほど言ったように後から応用が利きますし、独自開発したバイノーラル・プロセッシング技術=ACOUSTIC FIELD HPLと組み合わせることで、より良いバイノーラル・サウンドを作れるのです。ACOUSTIC FIELDでは、2ch用HPLプラグインを無償配布しているので試してみてください(www.hpl-musicsource.com/software)。ちなみに今年の12月20日には、MAGNETICA STUDIOが新たに設立したブランドNOVONOTESから、立体音響制作に特化したプラグイン3DXが発売されます。これにはHPLの技術が採用されているため、高音質かつ色付けのないバイノーラル・サウンドを実現できるでしょう。

f:id:rittor_snrec:20201026200947j:plain

3Dパンニングをはじめ、バイノーラル/Ambisonicsプロセッシングなど⽴体⾳響制作に必要な機能を1つに集約したプラグイン、NOVONOTES 3DX。ACOUSTIC FIELD HPLプロセッサーを搭載し、⾊付けのない⾼⾳質なバイノーラル・プロセッシングを実現するという
https://novo-notes.com/

—バイノーラル・プロセッシング・ソフトは、どのような仕組みになっているのですか?

久保 バイノーラル・プロセッシング・ソフトは、HRTFを含むインパルス・レスポンス(IR)をデータベース化し、リアルタイムでコンボリューション(畳み込み)することでバイノーラル・サウンドに変換しています。このIR測定は物理的に行う場合もあれば、シミュレーション・ソフトを使う場合もあります。A地点で音を出し、B地点でリスニングした場合、ある空間内ではどのような響きになるのかをコンピューターでシミュレーションし、そのIR特性を活用するのです。

 

—ということは、バイノーラル・プロセッシング・ソフトによって、基準となったIR特性が異なるということですね。

久保 はい。メーカーごとに“良いとする空間”が違うためです。しかし、バイノーラル・サウンドを作るクリエイターにとって、結果的に“良い音”で作品ができるのであれば、基準となる空間についてのうんぬんは関係無いでしょう。

 

—ここで言う“良い音”というのは、どのような音のことですか?

久保 文字通り、誰が聴いても“良い”と思う音のこと。極端に言えば、世界で最も良い音のする空間を見つけてそのIR特性をキャプチャーすればいいという話になるのですが、実際には完ぺきな空間を見つけるのは現実的ではありません。そこで、理想的な空間をコンピューターでシミュレーションし、そのIR特性を活用しようという発想の元に生まれたのがHPLなのです。

 

—近年ではスマートフォン・カメラで耳の形状を撮影し、個人のHRTFを推測してバイノーラル・プロセッシングするソフトやアプリも登場していますね。

久保 これらを見ていると、“HRTFを推測する精度”がどこまで高いのかが気になります。以前、僕も自分のHRTFを計測して試したことがあるのですが、定位は確実に良くなります。しかし音は変わってしまうので、できればHRTFは自分のものに設定した方がよいと思いますが、“音楽を聴く”という目的においては、定位をきちんと合わせることだけが重要かというと、そうは思いません。

 

—それは、どうしてでしょうか?

久保 音楽を聴く場合、定位の精度を高めることよりも、音色変化を損なわないことの方が大事だからです。せっかくミックス・エンジニアがすべてをバランス良くまとめてくれた音楽があるのに、HRTFで大きく変えてしまうと元も子もないのです。聴覚研究などをやる場合は、HRTFをきちんと設定した方が絶対良いと思いますが、音楽はあくまでもエンターテインメント。リバーブが心地良く響いたり、クリエイターが作った音色がきちんと表現されたりする方がずっと重要なのです。この考え方が、バイノーラルを音楽制作に取り入れる上での基本だと覚えておくとよいでしょう。

 

これから期待される“新しい音像”の
ポップスやライブ・ストリーミング配信

—昨今、バイノーラル技術を音楽に取り入れるクリエイター/エンジニアが少しずつ増えてきましたが、これについてはどう感じていますか?

久保 現時点ではまだまだ精度の低いツールも多いので、その違いに気付けるユーザーが増えてほしいと思います。例えばEQプラグインにしてもいろいろ差があるじゃないですか。それと同じで、バイノーラル・プロセッサー・プラグインを使うにしても、結果を聴き比べてどれが良いかを知ることがまずは大事ですね。

 

—これからバイノーラルと音楽制作はどのように展開していくと思いますか?

久保 これまでバイノーラル技術が音楽制作と融合していたケースを思い返すと、ホールの響きを再現するようなイマーシブな作品、アート系の音楽やインスタレーション作品がほとんど。メジャーなポップ・ミュージックにも、もっと使われるべきでしょう。今後はバイノーラル・プロセッサーの精度も上がるので、前後/左右/上下の空間を十分に使った“新しい音像”のポップ・ミュージックが生まれてくる可能性があります。もちろん細井美裕「Lenna」や、まもなくリリースされるevala『聴象発景 in Rittor Base - HPL ver』のように、立体音響作品をバイノーラルで楽しむケースも増えてくるでしょう。

f:id:rittor_snrec:20201026201446j:plain

22.2chで制作された「Lenna」を収録する細井美裕のアルバム『Orb』(2019年)。「Lenna」はミックス時からHPLを用いてモニタリングされており、そのHPL音源がアルバムにそのまま収録されている
Orb - EP

Orb - EP

  • Miyu Hosoi
  • エレクトロニック
  • ¥1530

f:id:rittor_snrec:20201026201554j:plain

evala『聴象発景 in Rittor Base - HPL ver』。330年余りの歴史をもつ日本庭園をサウンドで変容させる音の展覧会、『聴象発景』で発表された楽曲をevala自身がリミックスし、御茶ノ水Rittor Baseで特別公演を行った。そのときの収録内容を、久保氏がHPL音源としてマスタリング。近日リリース予定

f:id:rittor_snrec:20201026202337j:plain

NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]で開催の“オープン・スペース2019 別の見方で”展にて、細井美裕「Lenna」が無響室にて展示されたときの様子。ステレオ・スピーカーによる再生だが、ソースはHPL音源で、無響室の特性やスピーカーの調整によってヘッドフォンと同様のバイノーラル効果を生み出した
撮影:木奥惠三/写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]

—ゲームの分野でもバイノーラル技術が浸透してきていますね。

久保 どちらかと言うとバイノーラルを使っているのは、音楽よりVRアトラクションや、ゲームの方が全然進んでいると思います。特にシューティング・ゲームでは、前後左右いろいろな角度から攻撃が来ますよね。ただ音質面についてはまだまだかなと思います。

 

—コロナ禍によって、アーティストのライブ・ストリーミング配信も人気ですが、これについてはいかがでしょうか?

久保 ライブ・ストリーミング配信も2ミックスではなく、何かしらはサラウンド・ミックスしてバイノーラルで配信する方が絶対良いと思います。ただ、本当のライブを再現できたりはしないので、違う形のサウンド・メイクをすべきだと思いますね。今後、ライブ会場に人が戻ってきたときに、ライブ・ストリーミング配信が“おまけ”にならないよう、バイノーラルを取り入れた独自のサウンドを確立できるとベストでしょう。ほかにも、ここではお伝えできなかったバイノーラルについてのあれこれをYouTubeで語っていますので、ぜひのぞいてみてください。

 

 

 

本特集の続きは近日公開予定です。

 

『特集・バイノーラルで作る音楽の未来』は、サウンド&レコーディング・マガジン 2020年12月号でもお読みいただけます。

 

【特集】バイノーラルで作る音楽の未来

www.snrec.jp

www.snrec.jp

www.snrec.jp

www.snrec.jp

www.snrec.jp

 

関連記事

www.snrec.jp

www.snrec.jp

www.snrec.jp

www.snrec.jp