エンジニアのラッセル・エレバド氏らが設立した、アナログの粋を伝えるAnalogue Foundation 〜THE CHOICE IS YOURS - VOL.129

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 以前、日本のジャズ喫茶などから影響を受けた海外のハイファイ・バーについて触れたが、ロンドンにあるブリリアント・コーナーズもその一つだ。日本食を中心に提供するレストランでもあるが、持ち運びのできる上質なアナログのサウンド・システムを使って、さまざまな場所で「ジャイアント・ステップス」というパーティも開催してきた。この“旅するサウンド・システム”と銘打たれたレコードのみのDJパーティや、リスニングにまつわるトーク・ショウ、ワークショップをともに企画してきたのがAnalogue Foundationだ。

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アナログの美しさとクラフトマン・シップの価値をたたえるAnalogue Foundationの象徴である、最高品質のアナログ・オーディオ・コンポを搭載した移動式のリスニング・ステーション

 ディアンジェロの『VOODOO』や『ブラック・メサイア』の録音/ミックスでグラミーを受賞したNYのスタジオ・エンジニア、ラッセル・エレバド氏と、ベルリンとニューヨークを拠点にフィールド・レコーディングやサウンド・アートに取り組んできたサウンドウォーク・コレクティブ、それに日本の音響機器メーカー、AUDIO-TECHNICAが設立したAnalogue Foundationの取り組みは、日本ではあまり知られていないかもしれない。「ジャイアント・ステップス」で開催されたエレバド氏のトーク・ショウのネットで公開されたテキスト(www.analoguefoundation.com/articles/447)を読むと、アナログにこだわったリスニングと制作のプロジェクトであるAnalogue Foundationの伝えたいことが見えてくる。その内容を紹介する前に、少しエレバド氏について触れたい。

 

 1990年代後半から2000年代初頭にかけて、NYのスタジオ、エレクトリック・レディを拠点に生まれたネオソウルのムーブメントは、ディアンジェロやエリカ・バドゥ、クエストラヴ、コモン、Qティップ、J・ディラ、ロイ・ハーグローヴらの音楽集団、ソウルクエリアンズも有名にした。それはアルバムにクレジットされる名義ではなくブラック・ボヘミアンたちのコミュニティということが、関係者の話から次第に明らかになった。ただ一緒に音楽を聴き、ビデオを見て過ごす場にもなるぜいたくをスタジオは提供したのだが、そこにはアーティストやプロデューサーだけでなく、エレバド氏のようなエンジニアも含まれた。そもそもディアンジェロをエレクトリック・レディに誘い、彼が求めるアナログのサウンドを実現したのがエレバド氏だ。

 

 『ブラック・メサイア』には“この録音ではいかなる種類のプラグインも使用していない。レコーディング、プロセッシング、エフェクト、ミキシングのすべては、テープとほとんどがビンテージ機材を使用したアナログの範ちゅうで行われた”と記載があった。これは、エレバド氏のこだわりを表現していた。彼がプラグインを使わない理由は単純明快で、プラグインがエミュレートするアナログ機材を彼自身が持っているからだ。彼は何年もかけて最高のアナログ機材を集めてきた自分のことを“アナログ・ジプシー”と呼ぶ。自分の機材を常に持ち歩き、その移動とセットアップには誰よりも時間がかかる。それでも彼への仕事の依頼は絶えることがない。

 

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『ブラック・メサイア』ディアンジェロ(ソニー)

エレバド氏が2度目のオスカーを受賞した作品。デジタル環境と折り合いを付けつつ、エレバド氏のアナログへのこだりが貫かれている。2020年にはアンジェリーク・キジョー『セリア』で3度目のオスカーを受賞

Black Messiah

Black Messiah

  • D’Angelo and The Vanguard
  • R&B/ソウル
  • ¥1833

 

 ロンドンのDJ/プロデューサーのエリック・ラウが聞き手を務めた「ジャイアント・ステップス」でのエレバド氏のトークでは、キャリアの初期にフランキー・ナックルズやデヴィッド・モラレスのハウスのトラックを手掛けていたことが明かされる。モラレスに“キック・ドラムはバスケの音みたいにして”と指摘されて以来、バスケットボールの跳ねる音がエレバド氏の中でキックの基準になったという話は面白い。『VOODOO』の制作背景についても、これまで知らなかったことが幾つか明かされた。『VOODOO』を手掛ける何年も前からエレバド氏はディアンジェロの住むリッチモンドを訪ね、会話を重ね、彼が好む1960、1970年代のレコードの研究に明け暮れた。エレクトリック・レディでひたすらセッションし、テープを回し続けたブードゥー・セッションを実行するより前に、エレバド氏は友人のミュージシャンをスタジオに呼んで何時間も録音をして理想のサウンドを探し出したという。『VOODOO』の完成には3年を要したが、1年間は録音だけして、ミックスのことは一切考えなかったという。録音ではEQやコンプをかけることはせず、ただマイクを適切な位置に配置して、プリアンプを適正なレべルに保つだけで十分だったとも語る。

 

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『VOODOO』ディアンジェロ(ユニバーサル)

前作『Brown Sugar』のボブ・パワー氏による録音とミックスを継承しつつ更新する、というエレバド氏の意志の下、時という最大のぜいたくをかけて作られた一枚

Voodoo

Voodoo

  • ディアンジェロ
  • R&B/ソウル
  • ¥1426

 

 この時代はAVID Pro Toolsが台頭するタイミングで、『VOODOO』の制作後半でも使われたそうだが、メインはアナログにこだわった24trのテープ・マシン2台による録音と編集で、今からすると非常にアクロバティックでトリッキーなやり方だ。しかしコピー&ペーストが簡単にできないが故に、スタジオに居る誰もが協力してミックスを仕上げることに集中できたという。“永遠にコピー&ペーストができる現在の録音環境は、皆がコミットしようとしないなまけ者の状況だ”とエレバド氏は指摘する。特に興味深いのは、ディアンジェロのボーカル録音についてだ。『VOODOO』と『ブラック・メサイア』の全コーラスをディアンジェロ自身が歌っているがコピー&ペーストではなく、前の同パートで聴いたようなコーラスは一つも無い。ディアンジェロとエレバド氏の真摯(しんし)な音楽的手法は、社会にも影響を与えるとラウは指摘した。そして、その手法とメンタリティを維持し伝えるためにAnalogue Foundationを設立したとエレバド氏は言う。

 

 サウンドウォーク・コレクティブについてはまたあらためて紹介したいと思うが、エレバド氏がミックスを担当したパティ・スミスとのコラボレーション・シリーズをはじめ、ジャンルやテリトリーの枠をすり抜けるようにコンセプチュアルな作品を発表し続けている。いわゆるサウンド・アートというくくりになる音楽で、エレバド氏が手掛けるオーガニックでアナログな音楽とは対照的な世界にもあるのだが、レコード・リリースにこだわり、さまざまな場所へ出向くフィールド・ワークから音の探求と解析へ向かう姿勢は、エレバド氏と通じるところがある。ECMレコードの創設者でプロデューサーのマンフレッド・アイヒャー氏は、かつて映画監督のジャン=リュック・ゴダールにECMの音源を自由に使ってほしいと申し出た。そして、ゴダールの『ヌーヴェルヴァーグ』以降の映画は映像だけではなく、サウンドトラックも大胆なミックスが施されるようになったのだが、サウンドウォーク・コレクティブは、ゴダールから許可を得て、フランスの倉庫に保管されている映像や録音テープ、メモや切り抜きの類まで、あらゆる断片から素材を見出して作品を作り上げた。そのプロセスの詳細も、いずれAnalogue Foundationによって明かされることだろう。

 

 リスニングだけではなく、クリエイターに向けたプロダクションのためのワークショップや自前のスタジオ設立もしているAnalogue Foundationの試みは、Red Bull Music Academyが成してきたことを継承するプロジェクトにもなるのかもしれない。その動向を今後も追ってみたいと思う。

 

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『What We Leave Behind: Jean-Luc Godard Archives』サウンドウォーク・コレクティブ(The Vinyl factory)

現在はスイスで暮らすジャン=リュック・ゴダールの下からフランスの倉庫まで移動して、素材集めからスタートした。これをリカルド・ヴィラロボスやヤン・イェリネックがリミックスした音源も発表されている

What We Leave Behind - Jean-Luc Godard Archives

What We Leave Behind - Jean-Luc Godard Archives

  • Soundwalk Collective
  • エレクトロニック
  • ¥1069

 

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『Mummer Love』サウンドウォーク・コレクティブ With パティ・スミス(Bella Union)

パティ・スミスとのコラボ2作目。フィリップ・グラスやエチオジャズのムラトゥ・アスタトゥケ、イスタンブールのスーフィーによるボイス・グループも参加して、多様な文脈が交差する世界を創出している作品

Mummer Love

Mummer Love

  • Soundwalk Collective & パティ・スミス
  • オルタナティブ
  • ¥1528

 

Analogue FoundationのCo-Founderである松本総一郎氏をゲストに招いたdublab.jpの放送をMixcloudで公開中

 

原 雅明

【Profile】音楽に関する執筆活動の傍ら、ringsレーベルのプロデューサー、LAのネットラジオの日本ブランチdublab.jpのディレクター、ホテルのDJや選曲も務める。早稲田大学非常勤講師。近著『Jazz Thing ジャズという何かージャズが追い求めたサウンドをめぐって

 

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