NHK電子音楽スタジオは、西ドイツ放送(WDR)のケルン電子音楽スタジオと、イタリア国営放送(IRA)の電子音楽スタジオに次いで、1954年に日本放送協会(NHK)内に設立された。現代音楽の作曲家の黛敏郎や諸井誠らの働きかけがあって実現したこのスタジオは、ミュージック・コンクレートや電子音楽の先駆的な実験を試みる放送局スタジオの一つとなった。若く野心的な作曲家にも開かれた場となり、スタジオで制作された音源は、現在では担当エンジニアごとに丁寧にアーカイブ化されたCDシリーズ『音の始源を求めて The Beginnings of Japanese Electroacoustic』で聴くことができる。
『音の始源を求めて 塩谷 宏の仕事』V.A.(サウンドスリー)
NHK電子音楽スタジオの初代エンジニア塩谷宏氏が手掛けた、黛敏郎と諸井誠の楽曲や、カールハインツ・シュトックハウゼンを招へいして制作した「Telemusik」を収録
日本におけるテープ音楽作品のパイオニアである佐藤聡明もそこに招かれた一人だった。作曲家として特にアメリカの現代音楽の世界で高い評価を受け、クロノス・クァルテットとの仕事でも有名となった佐藤だが、その原点はテープ音楽にある。
清水靖晃や高田みどりの再発で知られるスイスのレーベルWRWTFWWから依頼を受けて、佐藤聡明にインタビューしたのは4年ほど前のことだ。佐藤がNHK電子音楽スタジオで制作したテープ音楽作品を中心としたアルバムの再発が企画されて、僕はライナーノーツ執筆のために話を伺った。予定の時間を大幅に超えて数時間に及ぶインタビューとなったのだが、それによって、NHK電子音楽スタジオで実際に行われていたことも初めて詳しく知ることができた。10月にWRWTFWWより『Emerald Tablet / Echoes』と『Mandala Trilogy +1』の2タイトルがようやくリリースされる運びとなった。インタビューを元にしたライナーノーツが英文で添えられているが、そこでは伝え切れなかった話を今回はしたい。
『Emerald Tablet / Echoes』佐藤聡明(WRWTFWW)
1981年にリリースされた『Emerald Tablet』のタイトル曲と、同年に栃木県川治温泉で開催されたアート・プロジェクト用の楽曲として誕生した「Echoes」のカップリング
『Mandala Trilogy +1』佐藤聡明(WRWTFWW)
1982年『Mandala/Sumeru』の「Mandala」、NHKの委嘱作品「Mantra」、ニュージーランドのビクトリア大学電子音楽スタジオで録音された「Tantra」などを収録する
“楽譜は読めず、ピアノも弾けなかった”という佐藤が、たまたま現代音楽の学生グループと知り合い“ピアノを打楽器的に使えば何となくそれらしくなるんじゃないか”と始めたのが自身の音楽制作だった。そして、ピアノとテープ・レコーダー、エフェクトによる試行錯誤を重ねた末、独創的に作られた最初の音楽が、デビュー・アルバム『太陽讃歌(Hymn For The Sun)』(1976年)に収録の「Litania」と「Hymn For The Sun」だ。シンセは使わないプリミティブな手作業は、佐藤の音楽性を決定付けるものとなった。同様の手法で制作されたのが「Emerald Tablet」(1981年)。今回再発される『Emerald Tablet / Echoes』に収録されている楽曲で、初めてNHK電子音楽スタジオで制作された。
“NHK電子音楽スタジオを作ったとき、そこに現代音楽のプロデューサーだった上浪渡さんが居て、僕のことを注目してくれて「きみ、作ってみない?」ということで始めたわけです。あのころNHK電子音楽スタジオは作曲家の天国みたいなところでしたね。どれだけ時間がかかってもいい。エンジニアが3人も付いている。毎日行ってもいいし、途中で辞めても構わない。とにかく作曲家を自由に遊ばせてくれるところでした”
故上浪渡は、NHK-FMの現代音楽の番組『現代の音楽』のDJ/ディレクターを長年務め、日本の現代音楽の発展に寄与した人物であり、NHK電子音楽スタジオの室長も務めていた。大学でほとんど音楽を学ぶ機会は得られず、独学で習得したピアノとテープを使った佐藤の音楽は、当時の日本の現代音楽では異端であったが、それ故NHK電子音楽スタジオの環境によって、独自の音楽性を開花させたと言える。
“NHK電子音楽スタジオは、普通のオフィスよりもずっと広かったんです。100畳以上あったでしょうね。あの当時のテープ・レコーダーですから、それが何十台か並んでて、あと幅の広いマルチのテープ・レコーダーがありました。それから変調器、それとフィルターです。それは今のコンピューターなんかより、もっと緻密(ちみつ)にフィルタリングできるフィルターが備わっていましたね”
こうして「Emerald Tablet」の録音は進められた。それは作曲家とエンジニアの分業が明確な時代だからできるやり方で、そのための電子音楽スタジオでもあった。それが現在の制作より優れていた点を佐藤はこう指摘する。
“今の電子音楽を作っている人は、たいてい自分でコンピューターを操作していますよね。だから、作曲家でありエンジニアでもあるわけです。だけど、それがどうしてもうまくいっていないと思うのは、結局コンピューターっていう魔法の箱にだまされちゃうわけ。僕が「Emerald Tablet」を作ったときには、全くどういうふうに作っていいか分からなかった。なので黛敏郎さんが東京オリンピックの開会式で電子音楽で作った鐘を流したことを思い出してエンジニアに聞いたら、その人が作った本人で、「あれは簡単ですよ」と言ってね。まず鐘を鳴らして、オシロスコープで周波数帯を調べる。その周波数帯を今度は重ね合わせていく。そうすると何となく鐘のような音になる。だけど、その鐘の音には雑音が無いっていう重大な欠陥がある。最初にたたいたときに棒と鐘がぶつかり合う音が響いて雑音成分があるわけ。それが無いから、何となく鐘の音には聴こえるけど全く違う”
こうしたエンジニアとのやり取りを経て、「Emerald Tablet」では雑音成分となる要素を佐藤が加えることで完成を見た。その作品は電子音楽というより、テープ音楽のさらなる可能性を開いたという方が正しいだろう。
“「Litania」や「Hymn For The Sun」を作って、音をズラして重ねるだけで人の耳には普段聴こえない響き、倍音のようなものがいっぱい聴こえてくることが分かった。例えば「Litania」でクラスタがうわーって鳴るときでも、どこかで3音階上の音が響いてる。これは倍音の効果なんですね。それを何かできないのかといろいろ考えたら、例えば鐘をチーンとたたいて最初のアタック音だけを取り、それを幾つも重ねて大きな音の河にする。そこからフィルタリングしてある部分だけを取っていくとどうなんだろうか、と思って作り始めたのが「Emerald Tablet」で、チューブラ・ベルやシンバルといった金属打楽器の音を3つだけ録音して作ったんです”
『Emerald Tablet / Echoes』では、金属打楽器をフィルタリングしたり、リバーブやリング・モジュレーターによる処理を重ね、テープの回転スピードも変えたりしながら、響きの層を形成して空間を作る独特の世界が築かれた。同じくNHK電子音楽スタジオで制作された楽曲を中心とした『Mandala Trilogy +1』では、佐藤の声が重要な要素となっているが、それはチベット密教の経典の朗唱を想起させると共に、ドローンやアンビエント・ミュージックという同時代の音楽とも共鳴しうるサウンドとしても響いた。これらのサウンドと手法は、今回の再発で新たなリスナーから再発見されようとしている。
『音の始源を求めて 4 佐藤 茂の仕事』V.A.(サウンドスリー)
エンジニア佐藤茂氏が手掛けた三保敬太郎、一柳慧、三善晃らの曲と、小杉武久の変調したバイオリンと電子音の即興、武田明倫のコンピューター・ミュージックなどを収録
『音の始源を求めて 6 西畑、塩谷、高柳の仕事』V.A.(サウンドスリー)
エンジニア西畑作太郎氏、 高柳裕雄氏、塩谷宏氏が手掛けた作品集。武満徹最後のテープ音楽作品をはじめ、松平頼暁や広瀬量平、NHK技術スタッフの貴重な音源を収める
原 雅明
【Profile】音楽に関する執筆活動の傍ら、ringsレーベルのプロデューサー、LAのネットラジオの日本ブランチdublab.jpのディレクター、ホテルのDJや選曲も務める。早稲田大学非常勤講師。近著『Jazz Thing ジャズという何かージャズが追い求めたサウンドをめぐって』
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