ビョークの最新作を手掛けたヘバ・カドリーによる共感性の高いエンジニアリング 〜THE CHOICE IS YOURS - VOL.152

ビョークの最新作を手掛けたヘバ・カドリーによる共感性の高いエンジニアリング 〜THE CHOICE IS YOURS - VOL.152

 ビョークのニュー・アルバム『フォソーラ』は、長年の活動拠点だったニューヨークを離れて故郷アイスランドのレイキャビクで制作された。アメリカの暴力性に嫌気がさしたという報道もあったが、本格的にアイスランドに戻ったようだ。アルバムは、バス・クラリネットの六重奏がメインにフィーチャーされ、ビョークが10代の頃に所属していたというアイスランドの合唱団ハムラリッド・クワイアのコーラスや、ビョークやインドネシアのプロデューサー・デュオ、ガバ・モーダス・オペランディが手掛けたガバのビートから構成されている。前作『ユートピア』の流れもくんだサウンドで、室内楽、エレクトロニック・ミュージック、フォークロアが重なり合う。それらは、それぞれに別種のレイヤーを形成するのだが、対立を象徴するものではなく、異なるものが共存することを音楽的に示すように響いている。

 

『フォソーラ』ビョーク(ビッグ・ナッシング/ウルトラ・ヴァイヴ)
5年ぶりとなる10作目のアルバム。来年3月には、ビョークと32名のオーケストラによる来日公演が予定されている

 

 ビョークがリリースに寄せたコメントによれば、サウンドとしてはヘビーなボトム・エンドを重視していて、サブウーファーを鳴らすビートと、バス・クラリネットやトロンボーン、オーボエといった低音域を担当する管楽器がサウンドの要となっている。ラテン語の“掘る人”に由来するアルバム・タイトルは、大地に根ざす菌類の生態系からインスパイアされたアルバム・コンセプトから来るもので、ボトム・エンドのサウンドへの志向と合致する。それは、『ユートピア』でメインでフィーチャーされた地上の鳥のさえずりのフィールド・レコーディングの次を提示している。

 『ユートピア』については以前に本連載でも取り上げたが、鳥類学者のジャン=クロード・ロシュがベネズエラで録音したフィールド・レコーディング作品『Oiseaux Du』と、サウンド・アーティストで評論家のデイヴィッド・トゥープがアマゾンのヤノマミ族によるシャーマニズムの儀式を録音した『Hekura』と、クリス・ワトソンらのアイスランドでのフィールド・レコーディング音源が使われた。それらと、フルートのアンサンブル、アルカと制作したエレクトロニック・ミュージックが組み合わされたアルバムだったが、特に感心したのは、異質なテクスチャーをまとめ、立体的な音像を出現させ、なおかつ音楽的に成立させたミキシングだった。

 

『ユートピア』ビョーク(One Little Independent)
2017年に発表されたビョークの9作目は、ベネズエラ出身のプロデューサー、アルカによるプロデュースで、鳥のさえずりやフルートが重要なモチーフとなった

 

 ミキシングは、エジプト出身でニューヨークで活動するヘバ・カドリーが担当した。彼女は、3年前に自分のスタジオを持って以来、手掛けたニコラス・ジャー、エムドゥ・モクター、ビーチ・ハウス、ビッグ・シーフ、アレックス・Gなどの作品が次々と評判を呼び、いま最も評価の高いマスタリング・エンジニアの一人となったが、ミキシング・エンジニアではない。そのキャリアは、1941年にQuinn Recordingとして設立された長い歴史を持つヒューストンのSugarHill Recording Studiosのインターンからスタートした。当時からレコーディングは好きだったが、ミキシングはとにかく怖いもので、マスタリングも未知のフロンティアだったという。その後、ニューヨークのスタジオで働きはじめ、徐々にマスタリングの仕事を学んでいった。Thrill Jockeyの依頼でフューチャー・アイランズの『In Evening Air』を手掛けたのが転機となり、マスタリング・エンジニアとして頭角を現した。ちなみに、彼女のミキシングのヒーローの一人はトータスのジョン・マッケンタイアだという。

 「今までで一番ワイルドなことは、ビョークの『ユートピア』のミキシングです。これは私がよくやることで、ミキシングとマスタリングの間のグレーゾーンのようなものです。それが徐々にマルチトラックになっていき、最終的には6ヶ月間の本格的なミキシング作業を行いました」※1

※1Interview: Heba Kadry on Mastering as a Creative Act | Reverb News

  「マスタリングが何をするのか、マスタリングによってミックスがどう変わるのかを理解し、さらに自分でもマスタリングできるようになると、本当に良いミキサーになれるというのは真実です。私がこのことを実感し、マスタリングを本当に理解したのは、2年前に思いがけずビョークのレコードのミキシングを担当することになったときです」※2

※2Interview with Tape Op issue #139- Heba Kadry: Building Community — Heba Kadry Mastering

 2年前とは、『ユートピア』がリリースされた2017年のことだ。ビョークは当時、ウィッチハウス/チルウェイブと称されたサウンドをリリースするブルックリンのレーベルTri Angleを気に入っており、その大半をマスタリングしていたカドリーにいきなりミキシングを依頼した。カドリーはミキシングはやらないことと、楽器ごとに音源データをまとめたステム・ミックスなら扱えることを伝え、ビョークも了承した。そして、カドリーはビョーク、アルカとともにプロダクションの現場に立ち会い、ミキシングのプロセスにも関わったが、それはほかに最終的なミックスを担当する者が居ると思っていたからだった。ところがビョークは、最初からカドリーにミックスを担当させるつもりだったのだ。

 

『Telas』Nicolás Jaar(Other People)
NYを拠点に活動するチリ人アーティストのニコラス・ジャーが、2016〜2020年に制作した全4曲を収録。電子音、生楽器、声が見事に絡み合っている

 

『Afrique Victime』Mdou Moctar(ビート)
西アフリカのニジェール共和国出身のギタリスト、エムドゥ・モクターを中心に結成された4人組バンドによる2021年作

 

 結局、カドリーはマスタリングを意識しながら、ステム・ミックスを再分解したり、“ミキシングとマスタリングの間のグレーゾーン”を行ったり来たりしながら、ミキシングを完成させた。彼女は、今でも自分のことをミキシング・エンジニアとは思っていないと断言するが、『フォソーラ』では完全に一人でミキシングとマスタリングの両方を担当している。それは、『ユートピア』で実現したミキシングがベースにあるからできたのだろう。『フォソーラ』では、『ユートピア』以上にさまざまなテクスチャーのサウンドが一つの音空間の中に違和感なく存在していると感じられるのは、そのミキシングとマスタリングのバランスの妙にあるのではないかと思う。

 カドリーのマスタリングは、中音域に存在感を持たせたウォームなサウンドを生み出しながら、空間的な広がりや奥行きを感じさせる音場が作られていく。アナログのプロセスを偏重するのではなく、ビョークやニコラス・ジャーのようなエレクトロニクスと生音の混在する空間を自然に出現させるのが上手いという印象がある。

 カドリーは、坂本龍一の『B-2 Unit』やボイス・パフォーマーのディアマンダ・ギャラスの『Litanies of Satan』のリマスタリングも手掛けている。リマスタリングにおいては、これまでリリースされたあらゆるバージョンの音源を聴き、当時の技術的な制約を知るだけではなく、アーティストがそのことをどう感じていたのかまでを知ろうとする。そのため、自分が共感性の高い人間でなければならないという。彼女のエンジニアリングがいま求められている理由は、プロフェッショナルな分業から少しだけ外れたところに自分を置いて生まれることにもあるのだろう。

 

『B-2 Unit』坂本龍一(Sony Music Labels Inc.)
1980年にリリースされた坂本龍一のソロ2作目。2019年、ヘバ・カドリーによるリマスタリングが行われて再発された

 

原 雅明

【Profile】音楽に関する執筆活動の傍ら、ringsレーベルのプロデューサー、LAのネットラジオの日本ブランチdublab.jpのディレクター、ホテルのDJや選曲も務める。早稲田大学非常勤講師。近著Jazz Thing ジャズという何かージャズが追い求めたサウンドをめぐって