今年(2021年)のグラミー最優秀新人賞に、メインストリームのポップスの世界で注目される若いアーティストたちに混じって、パキスタンをルーツに持つシンガー/作曲家/プロデューサーのアルージ・アフタブがノミネートされた。彼女の最新アルバム『Vulture Prince』は、大半の曲がウルドゥー語(パキスタンの国語)で歌われていたが、欧米のメディアから高い評価を受けた。ただ、新人と呼ぶのは似つかわしくなく、ニューヨークで10年ほど活動を続けており、過去にリリースされたアルバムからは多様な音楽性が垣間見られた。それだけに、このノミネートは異例でサプライズな出来事と受け取る人も多いようだ。近年、アフタブと頻繁に共演しているインド系のジャズ・ピアニスト、ヴィジェイ・アイヤーは、「彼女のようにウルドゥー語で歌い、深い伝統や歴史を忠実に表現している人がアメリカのポップ・カルチャーの頂点に立つことは、文化的にも新たな一歩だと感じている」とコメントを寄せていた。もっとも、アフタブ本人はそのような気負いなど一切見せることはなく、一緒にノミネートされたベイビー・キームの「Family Ties」を最近のフェイバリット・ソングに挙げていた。
サウジアラビアで生まれ、両親の故郷であるパキスタンで育ち、ボストンのバークリー音楽大学に進学して音楽制作とエンジニアリングを学んだ後、ニューヨークで活動してきたアフタブは、その経歴同様に、多様な音楽的バックグラウンドを持っている。『Vulture Prince』にはそのことがよく表れていた。このアルバムには、ギリシャ出身のベーシスト、ペトロス・クランパニスやテリー・ライリーの息子であるギタリストのギャン・ライリー、作曲家でモーゼス・サムニーのツアー・バイオリニストでもあるダリアン・ドノヴァン・トーマスらが参加し、コンテンポラリーなジャズやクラシックの影響下にあるアンサンブルが基調を成している。そこに、アフタブのルーツにある音楽や、彼女が影響を受けてきたミニマル・ミュージックやエレクトロニック・ミュージックの要素も反映されている。ブラジルのギタリスト/シンガー、バヂ・アサドもフィーチャーするなど、ミュージシャンの選定も興味深い。例えば、「Last Night」という曲は、13世紀のイスラム神秘主義の詩人ジャラール・ウッディーン・ルーミーの詩を英語で歌い、オフビートを強調したレゲエのリズムが端正なアンサンブルの中で刻まれていく。この曲は、多様な音楽言語が混じりながら、ストーリーを築き上げていくアフタブの音楽性とアルバムの世界観を象徴している。
『Vulture Prince』Arooj Aftab(New Amsterdam)
アフタブの3作目となるアルバムで、今年度のグラミー最優秀新人賞と、最優秀グローバル・ミュージック・パフォーマンス賞にノミネートされている
1つの曲の中に、伝統とモダン、アコースティックとエレクトロニックの両方の要素が複雑に絡み合う音楽を作り出した『Vulture Prince』だが、2018年にリリースされた前作『Siren Islands』は、彼女が1人で制作したアンビエントのアルバムだった。アナログ・シンセサイザーとエレクトリック・ギター、ループ・ペダル、ディレイやリバーブを使い、エフェクトのかかったボーカルも含めて、繊細なサウンドスケープを作り出した。僕がアフタブを初めて知ったのも、このアルバムと、MOOGシンセサイザーを使った彼女のパフォーマンス映像※1がきっかけだった。『Vulture Prince』で強くシンガーとしてイメージ付けられたが、『Siren Islands』は全く異なる彼女の姿を伝える。その表現の根本にあることを、彼女自身はこう説明している。
※1 Arooj Aftab Live | Redbull Music Academy | Three Wave Music
「2005年に移住して以来、いろいろな場所にルーツを持っていますが、私が学んだジャズと、無意識のうちに知っていた北欧のクラシック音楽が融合したことが一番の要因だと思います。そして、私のエネルギーは、とても冷静で、アンビエントでミニマリストな感じがします。私は、テリー・ライリーやミニマリストの音楽が大好きです。何年もたった今、それらが一つになって手を取り合い、複数の場所にルーツを持つ人間を表現しているのだと思います」※2
※2
『Siren Islands』Arooj Aftab(New Amsterdam)
2018年発表のアンビエント作品。収録曲「Island No. 2」がNYタイムズ紙“ベスト・クラシカル・ミュージック・トラックス・オブ・2018”に選出された
この2枚のアルバムが、共にNew Amsterdamからリリースされていることも注目されるべきだろう。インディー・クラシックをはじめ、現代音楽、ジャズ、即興演奏、エレクトロニック・ミュージックなどの新しい流れをオープンにいち早く紹介してきたこのニューヨークのレーベルは、非営利団体でもあり、“伝統的で古いジャンルの区別を超えて活動する作曲家や演奏家による新しい音楽への取り組みを支援する”というミッションを実現してきた。恐らく、このレーベルでなければ、アフタブの多様な音楽性の受け皿となることはできなかっただろう。
『Bird Under Water』Arooj Aftab
作編曲/プロデュースをアフタブ自身が行った1st。ギター、アコーディオン、トランペットなど、多彩な楽器編成が歌声とのアンサンブルを織り成している
以前、この連載で取り上げた、再評価著しい作曲家ジュリアス・イーストマンの楽曲を演奏したロサンゼルスのアンサンブル、ワイルド・アップの『Julius Eastman Vol. 1: Femenine』もNew Amsterdamからのリリースだった。また、今年このレーベルからリリースされた、ニューヨークの作曲家ベンジャミン・ルイス・ブロディの『Floating Into Infinity』や、同じくニューヨークの作曲家で初期のシンセサイザーの愛好家でもあるフォン・トランの『The Computer Room』も、共に聴き応えのあるアルバムだった。
ブロディは、サン・ラックスのドラマーであるイアン・チャンとコラボレーションを続けており、このアルバムもその一つだ。チャンは、SUNHOUSE Sensory Percussionというドラマー向けのサンプリング・プログラムを使い、ドラム・キットを超高感度のサンプラーに変換してアコースティック・ドラムのニュアンスをソフトウェアに伝えている。『Floating Into Infinity』は、ミニマルなエレクトロニック・ミュージックやポストロックのようなサウンドだが、それらはドラムをたたくチャンの手足の動きがトリガーとなって作られている。そこから生み出されるリズムやテクスチャーはとてもユニークだ。
『Floating Into Infinity』Benjamin Louis Brody(New Amsterdam)
ドラム用サンプル・トリガー・システムSUNHOUSE Sensory Percussionを使い、ドラムをトリガーとして演奏する電子音楽作品
ベトナムがルーツのトランは、テクノやゲーム音楽を入口にミニマル・ミュージックを学んできた作曲家で、アフタブのバックを務めるドノヴァン・トーマスとメディアクィア(Mediaqueer)というデュオも組んでいる。ジョージア州の白人居住区で育ったアジア系のゲイである彼にとって、コンピュータは唯一逃避できる場所であり、それ故、『The Computer Room』にはインターネットとエレクトロニクスに対する感情的な探究心が込められているという。確かに、このアルバムは、レトロなリバイバル音楽でも、クールなエレクトロニカでもない、とても有機的で感情に訴えかけるものがある。
『The Computer Room』Phong Tran(New Amsterdam)
多数のシンセサイザーによる即興演奏を元に制作。どこかノスタルジックな印象のあるデジタル・サウンドが特徴的だ
先日、アフタブがジャズ・レーベルのVerveと契約を交わしたと発表された。今後、メジャーなフィールドに移って活動していく中で、New Amsterdamの自由なプラットフォームで表現されたことをどう発展させるか期待したいと思う。
原 雅明
【Profile】音楽に関する執筆活動の傍ら、ringsレーベルのプロデューサー、LAのネットラジオの日本ブランチdublab.jpのディレクター、ホテルのDJや選曲も務める。早稲田大学非常勤講師。近著『Jazz Thing ジャズという何かージャズが追い求めたサウンドをめぐって』