テイクを超えた「イ短調のフーガ」
1964年のアルバム『インヴェンションとシンフォニア』では、グレン・グールドとプロデューサーのポール・マイヤーズはSTEINWAY CD318の“しゃっくり”と格闘せねばならず、その修正のために膨大な手作業によるテープ編集を行った。しかし、このテープ編集はあくまで楽器の発音の障害を取り除くためのものだった。録音芸術に対する創造的なアプローチではなかったとも考えられる。
アンドリュー・カズディンはこの『インヴェンションとシンフォニア』の制作時にはコロムビア・マスターワークスに入社したばかりだったが、後にCD版のシリーズ、グレン・グールド・エディションの一枚となった『インヴェンションとシンフォニア』のプロデュースを手掛けている。1992年にリマスタリングされたこのCDではオリジナルLPの制作時には修正しきれなかったノートの音量差などをデジタル領域でさらにスムーズに編集しているようだ。
同年の4月10日にグールドはロサンゼルスで最後のコンサートを行い、以後はレコーディング・アーティストとしての活動に集中した。アンドリュー・カズディンは当初はテープ・エディターとして、グールドの制作にかかわっていたが、1965年のシェーンベルグ作品集『The Music Of Arnold Schoenberg Vol.4 - The Complete Music For Solo Piano - Songs For Voice & Piano』のセッション時に、プロデューサーのトーマス・フロストが立ち会えない日ができたことから、急遽、その代役を務めることになった。これを契機にカズディンはグールドと親密になり、コロムビア・マスターワークスのプロデューサーの仲間入りをすることになる。そして、1979年までグールドとの仕事を続け、40枚以上のアルバムを制作した。グールドが生涯に残したアルバムの半数以上はカズディンが手掛けたことになる。
グールドはバッハ、ベートーヴェン、モーツァルトの曲を数多くレコーディングしたが、コンサート活動を辞めた彼はひとたび録音作品を残すと、その曲を演奏することに興味を失った。それゆえ、同じ曲を再演した例は数えるほどしかない。新しい曲に挑み、新しい解釈を録音作品として残すことに情熱を傾け続けたのがグールドだった。
そんなグールドがミスの修正のためではなく、曲とより深く向き合い、独自の解釈による完成された演奏を録音作品として残すために、テープ編集を用いるようになるのは当然の流れだった。グールドがそこに大きな可能性を見出したのは、バッハ『平均律クラヴィーア曲集』のレコーディングに取り組んでいた時だという。グールドは1962年からバッハ『平均律クラヴィーア曲集』第1巻の24曲のレコーディングを開始し、1965年までかけて3枚のLPを完成させた。その3作目に当たる1965年の『The Well-Tempered Clavier, Book 1/ Preludes And Fugues 17-24』に収録された「イ短調のフーガ」における編集作業をグールドは自ら明かしている。
グールドはこの「イ短調のフーガ」を8テイク録音した。そして、テイク6とテイク8の演奏を選び出した。この2テイクはどちらもミスの修正の必要が無い完ぺきな演奏だった。だが、数週間後にテープ編集室で両テイクを聴き比べる中で、どちらの演奏も単調だということにグールドは気付く。テイク6はドイツ的な厳格さを放つのに対して、テイク8はスタッカートを効かせた演奏で歓喜に向かう。性格的に大きく異なるこの2テイクは、しかし、テンポはそろっていた。そこでグールドはテープ・エディターとともに両テイクを細かくつなぎ合わせることにした。完成した編集バージョンは、グールドがスタジオで演奏したどのテイクよりも、ずっと優れたものだった。
「イ短調のフーガ」についてのグールドのこの解説は、グールドが生前に書いた文章を音楽評論家のティム・ペイジがまとめあげた1984年の『Glenn Goud Leader』の中に読むことができる。同書を邦訳した『パフォーマンスとメディア グレン・グールド著作集 2』にも収録されている。
グールドはテープ編集によってレコードに収録された演奏が構成されていることを明かしたが、そのようなテイク編集がグールド以前のクラシックのレコード制作に行われていなかったかといえば、そうは考えがたい。グールドの弾くCD318で発生する“しゃっくり”を細かく取り除くことすらできる技術をコロムビアのテープ編集室は持っていたのだ。最良のテイクの中にただ1カ所だけミスがあるというような場合に、ほかのテイクからそこを切り張りする程度のことは、しばしば行われていたに違いない。グールドが異なっていたのは、テープ編集により創造的な意味を見出したこと、そして、そのことを聴衆に積極的に語りかけたことだろう。
コンサート活動を辞めた直後の1964年6月、トロント大学より名誉博士号を贈られたグールドは「電気時代の音楽に関する議論」と題した講演を行った。以後、人々の前で演奏する代わりに、講演、ラジオ番組、論考、インタビューなどを通じて、録音芸術をめぐるメディア論ともいうべきものを人々に伝えていくことが、グールドの活動の重要な側面を占めるようになった。
生演奏至上主義に強い意義を唱えたグールド
生演奏よりも録音を重視するグールドの哲学は、クラシックの世界では大きな反発を招くものだった。グールドはコンサートというシステムそのものを嫌悪した。旅行を続け、同じ曲を繰り返し演奏し、聴衆の反応を得るために、芝居染みたパフォーマンスをせねばならない。それが作品に内在する価値を追求する演奏家の創造性を大きく損なっていると、正面から論じた。日々のコンサート活動に人生を賭けている演奏家にとっては、グールドは敵と言ってもいい存在と化していった。
グールド自身が明かさなければ、レコードに聴けるバッハの「イ短調のフーガ」がテープ編集によって生み出されたものだと気付く人は居なかったはずだ。だが、グールドの積極的な種明かしは、反発する人々がグールドのレコードを批判する格好の材料となった。
1955年の『ゴールドベルク変奏曲』では各曲は録音されたテイクのままであり、テープ編集は行われていなかった。これは録音されたテープ・リールをすべて収録したボックス・セット『グレン・グールド/ゴルトベルク変奏曲コンプリート・レコーディング・セッションズ1955』でも確認できるが、クラシックの世界では『ゴルトベルク変奏曲』もテープ編集の産物であると否定的に語られることがある。
どういうことかというと、グールドは『ゴールドベルク変奏曲』の32曲を続けて弾いたのではない。何日もかけて、各曲のテイクを重ねた。冒頭と最後のアリアは最後に録音して、アルバムを構成した。コンサートと同じように全曲を一気に弾いたのでなければ、その演奏は価値を持たないとする人々が、そこに不満を述べるのだ。対して、グールドは“コンサートにはテイク2が無い”(Non-Take-Twoness)という言葉でコンサートを批判した。
コンサートで聴けるような生演奏が最も価値を持つものであり、レコードに聴けるのはその複製物に過ぎないという考え方は、クラシックの世界に限らず、まだまだ音楽の世界には根強いものかもしれない。前者がオリジナル、後者はコピーであるという信仰にも似た思想。そこに強い異議を投げかけたのが、グレン・グールドという音楽家であり、哲学者だった。そう言ってもいいだろう。グールドはコンサートを開かないから、聴衆は彼がレコードに刻み込んだたった一つの演奏しか聴くことしかできなくなった。それがオリジナルであり、コピーは存在しない。たった一つの完成品だけをグールドは聴衆に問う。そういう音楽世界の在り方をグールドは1960年代半ばに提示したのだ。
4手を要した曲でオーバーダビングも
アンドリュー・カズディンの『グレン・グールド アットワーク』はグールドの奇行や独善的な性格やメディアを利用した虚像の構築などを暴露した内幕本として、グールドのファンにはあまり評判が良くない一冊だが、グールドがレコーディング・スタジオで何をしていたのかを詳細に記述した書籍はほかに無い。コンサートから撤退した後の彼が演奏する姿を目撃したのは、スタジオで働くごく少数のスタッフだけだった。グールドのレコード制作における実際のプロセスは、本書が世に出る以前は、グールド自身の言葉をもとにした推測で語られることがほとんどだった。
カズディンはテープ編集を前提にしたグールドとのレコーディング作業を克明に記している。グールドの性癖に合わせて、カズディンはそこに細かな改良を加えていった。グールドのセッションでは演奏の収録よりも、それを再生して確認する作業やテープの問題個所に印を付けていく作業に時間がかかり、その効率化が重要だった。そのためにカズディンはマスター・レコーダーとは別にプレイバック用レコーダーを稼働させ、モニターには常にプレイバック用レコーダーを使用した。
モニターが重要だったのは、グールドは基本となるテイクに調和するようにテンポや雰囲気を入念に確認して、修正用の別テイクに臨むからだった。マスター・レコーダーをモニターに使ってしまうと、その巻き戻しや先送りのための待ち時間が増える。モニターはプレイバック用レコーダーで行い、その記憶が薄れないうちに、マスター・レコーダーで修正テイクの録音を始めることが重要だったのだ。カズディンのプロデューサーとしての経験の中でも、演奏者自身がこうした慎重な計画性を持ち、テイクを重ねることに臨むのはグールドだけだったという。
カズディンはグールドが行った多重録音についても証言している。カズディンによれば、グールドが多重録音を行ったのは2回だけで、最初は1968年のアルバム『Glenn Gould Plays Beethoven's 5th Symphony Transcribed For Piano By Franz Liszt』においてだった。ベートーヴェンの『交響曲第五番』のリストによるピアノ編曲版を弾いた作品だが、リストの編曲は難易度が高く、その通りに弾くことはできるものの、オーバーダビングで4手を使った方がより音楽的になるという判断からだったという。
もう一つは1973年のアルバム『Wagner: Piano Transcriptions』で、これはワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の第1幕への前奏曲をグールド自身が編曲している。スコア版でも4手用に記譜されている。しかし、4手を必要としたこの2例しかないことから、多重録音に対するグールドの興味は限定的なものだったと考えていいだろう。
1970年代になると、グールドはニューヨークのコロムビア・スタジオまで出向いて録音を行うことに難色を示し、トロントでの録音を望んだ。しかし、30丁目のコロムビア・スタジオのような環境は、トロント市内のレコーディング・スタジオには見つからなかった。そこでグールドはコロムビア・レコードに驚くべき提案をした。トロント市内に彼が適切な場所を見つけ、スタジオ機材を購入する。一切の費用はグールド自身が持つ。その代わり、グールドが録音時間あたりのスタジオ使用料をコロムビア・マスターワークスに請求するというものだった。
トロントでの録音拠点=イートン・オーディトリアム
ほどなくグールドとカズディンはトロント市内にアンビエンスに優れた場所を見つけ出した。それはイートン百貨店の最上階にあるイートン・オーディトリアムだった。グールドはそこでリサイタルを開いた経験を持っていた。グールドがセッションのたびにオーディトリアムを借り受けて、機材を搬入し、録音を行うことになった。機材はAMPEX AG440-2が2台、NEUMANNのマイクU87が2本、DOLBYのノイズ・リダクション360が4ch分というのが、最初の構成だったという。
コントロール・ルームは舞台裏に設置され、空の客席のオーディオトリアムのステージで、グールドは演奏した。しかし、昼の間は百貨店には客が出入りし、エレベーターも稼働する。このため、録音はすべてナイト・セッションになった。1971年のアルバム『Bach: The Well-Tempered Clavier, Book 2 Preludes And Fugues 17 - 24』から、このイートン・オーディトリアムでのセッションがスタート。カズディンはトロントに滞在して、セッションを取り仕切った。
イートン・オーディトリアムは常設のスタジオではなかったから、テープの編集作業はカズディンがニューヨークに戻った後に行わねばならなかった。トロントのグールドに編集後のテープを送付しては、電話で話し合うことが必要になった。カズディンはその煩雑な作業を30丁目のコロムビア・スタジオには持ち込まず、自宅で行うことにした。それはコロムビア・レコードのルールからは外れることだった、テープ・エディットは常に専門のテープ編集ルームのスタッフに任せなければならない。セッション・プロデューサーが彼らの仕事を奪ってはいけないのだ。
このため、カズディンはテープ編集もトロントで行われているように見せかけるために、アルバムのクレジットに仕掛けを施した。グールドのカナダ録音のアルバムにはケント・ウォーデン、フランク・ディーン・ディノヴィッツという2人のエンジニアの名前が見られるが、これはどちらもカズディンが作り出した偽名である。実際はトロントの放送局、CBCのスタッフの手を借りながら、カズディンがレコーディング・エンジニアもテープ・エディターも務めていたのだ。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。
Twitterアカウントは@kentarotakahash
Photo:Hiroki Obara