ザ・ローリング・ストーンズの本拠地〜オリンピック・スタジオのコックピット・コンソール
1966年にフランスのコーラス・グループ、ル・スウィングルズがオリンピック・スタジオにやってきたときのニュース映画の映像をYouTubeに見ることができる。
たぶん、バーンズのオリンピック・スタジオが営業を始めて間もないころだろう。ル・スウィングルズの前には大量のAKGのマイクC12Aがセットアップされている。ディック・スウェットナムが製作した白いオリンピック・コンソールの前に座っているのはキース・グラント。テープ・オペレーターを務めているのは、何とスウェットナムだ。
スウェットナムが扱うレコーダーはAMPEX AG330の4tr。オリンピック・コンソールはこの時点では16インプット、4アウトプットの仕様だった。コックピットのようにエンジニアを取り囲むコンソールの形状は、キース・グラントのリクエストだったという。それはすべてのフェーダーやノブに手が届くだけでなく、プロデューサーにコンソールを触られずに済むという利点もあったと、グラントは後に語っている。
ゲルマニウム・トランジスターが生む倍音/ひずみにスウェットナムはこだわり、グラントとともにヒアリングを繰り返して、オリンピック・コンソールのアンプ・セクションを生み出したようだ。カールトン・ストリートの旧オリンピック・スタジオ時代にスウェットナムが制作した最初のソリッドステート・ミキサーもゲルマニウム・トランジスターを使用したもので、驚くほど音が良かったという。ザ・ローリング・ストーンズの1963年のデビュー・シングル「カム・オン」(Come On)がレコーディングされたのは、このカールトン・ストリートのオリンピック・スタジオだった。
バーンズに移転後のオリンピック・スタジオはローリング・ストーンズの本拠地となった。彼らはアルバム『ビトウィーン・ザ・バトンズ』制作中の1966年11月に初めてバーンズにやってきて、翌年の『サタニック・マジェスティーズ』から1972年の『メイン・ストリートのならず者』にかけて、イギリスでのレコーディングではオリンピックを使い続けた。その多くでエンジニアリングを手掛けたのがグリン・ジョンズだった。
フリーランス・エンジニアの先駆けとしてグリン・ジョンズが成功できた理由
2016年に『サウンド・マン 大物プロデューサーが明かしたロック名盤の誕生秘話』という自伝が邦訳された(編注:原著は2014年)。その表紙にはオリンピック・コンソールを前にしたジョンズの写真が飾られている。ジョンズは1966年にマリアンヌ・フェイスフルのセッションでバーンズのオリンピックを初めて使って以来、そのスタジオ環境に惚れ込み、以後、イギリスでのレコーディングのファースト・チョイスとしたと自伝中で語っている。
1942年にイギリスのサリーに生まれたグリン・ジョンズは、1959年、17歳でIBCスタジオに就職し、キース・グラントの後輩となった。だが、彼はザ・プレジデンツというバンドのシンガー/ギタリストでもあった。IBCでエンジニアとしての経験を積みつつ、スタジオの空き時間には友人たちとデモ録音を行っていたジョンズは、1962年にチャンスをつかむ。デモがプロデューサーのジャック・グッドの耳にとまり、デッカ・レコードと契約を結んで、『Sioux Indian / January Blues』というシングルを発表するに至ったのだ。
「Sioux Indian」「January Blues」はどちらもジョンズのオリジナル曲で、サウンド的にはロックだが、シンガーとしてはフォーク的なストーリーテリングをめざしていたような雰囲気だ。しかし、デッカやパイにシングルを残したグリン・ジョンズが、ソロ・アーティストとして成功を収めることはなかった。
ミュージシャンとしての活動のため、IBCスタジオを一度は辞めたジョンズだったが、アメリカ人プロデューサーのシェル・タルミーの依頼で、フリーランスのエンジニアとして、再びスタジオの仕事に戻った。当時のイギリスにはエンジニアがフリーランスで働くという習慣はなく、IBCのエンジニアたちからは反発があったが、オリンピック・スタジオはジョンズを歓迎したという。ひとつにはジョンズがクライアントを連れてくることのできるエンジニアだったからだろう。
ジョンズはピアニストのイアン・スチュワートと同郷で、彼と一軒家をシェアして暮らしていたこともあった。スチュワートはローリング・ストーンズのオリジナル・メンバーで、ツアー機材やバンを管理するツアー・マネージャー的な存在でもあった。だが、デッカとの契約時にマネージャーのアンドリュー・オールダムは、バンドのイメージに合わないとして、スチュワートをメンバーから外した。根っからのブルース・ピアニストであり、マイナー調のポップ・ソングなどは演奏しようとしなかったスチュワートはそれを受け入れた。
スチュワートを通じて、ストーンズと知り合ったジョンズは、1963年3月にIBCスタジオに彼らを連れて行き、5曲のデモ録音を行っている。だが、その直後にストーンズはアンドリュー・オールダムにマネージメントを任せ、デッカと契約。ジョンズの録音したデモは宙に浮いた。そんな経緯もあり、スチュワートの親友だったジョンズは、オールダムには良い心象を持たなかったようだ。『サウンドマン』にはその辺りもかなり赤裸々に書かれている。
だが、1年後にオールダムはジョンズに仕事を依頼。ジョンズもオールダムのプロデューサーとしての手腕を認めるようになった。そして、オールダムのイミディエイト・レコードのお抱えエンジニアのようになったジョンズは、ローリング・ストーンズのレコーディングにおいてもメイン・エンジニアの座を得て、1966年からはオリンピック・スタジオでのセッションを重ねた。
オリンピック・スタジオでのローリング・ストーンズのセッション風景は、ジャン=リュック・ゴダール監督の1968年の映画『ワン・プラス・ワン』(アメリカなどでは『Sympathy for the Devil』)に見ることができる。オリンピックのスタジオ1を細く仕切りつつも、すべての楽器をワンルームに入れて、ストーンズが録音を行っていたのが分かる。オリンピックのスタジオ1のアコースティックは、平行な壁面を作らないように、キース・グラントが入念に調整を重ねて作り上げたものだったという。70名のオーケストラも録れるし、ラウドなロック・バンドを入れても、最高の音響が得られたとジョンズも語っている。
エディ・クレイマーとジミ・ヘンドリックス〜オリンピックに集うミュージシャンたち
グリン・ジョンズに加えて、1960年代後半のオリンピック・スタジオで重要な働きをしたエンジニアには、エディ・クレイマーがいる。1941年に南アフリカ共和国に生まれたクレイマーは、音楽大学でクラシックを学んだ後、19歳で両親とともに渡英。趣味でオーディオ機器を買い集め、地元のジャズ・バンドの録音などをするうちに、1962年にアドビジョン・スタジオでエンジニアの職を得た。その後、パイ・スタジオ、リージェント・サウンドなどでも働いた。リージェント・サウンドでは、クレイマーは1967年2月9日にザ・ビートルズ「フィクシング・ア・ホール」のベーシック録音を手掛けている。これはアビイ・ロードが予約で埋まっていたため、急遽リージェント・スタジオで行われたもので、ビートルズにとってEMI契約後初の外部スタジオ録音になった。同曲はアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に収録された。
クレイマーは続いて、同年5〜6月にオリンピック・スタジオでビートルズ「愛こそはすべて(オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ)」と「ベイビー・ユーアー・ア・リッチ・マン」の録音にも携わっている。同年にシングルとして発表されたこの2曲は、ミックスまでの全工程がオリンピック・スタジオで行われた。エンジニアはキース・グラントとクレイマーで、クレイマーは「ベイビー・ユーアー・ア・リッチ・マン」でビブラフォンの演奏もしている。
ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスがオリンピック・スタジオを訪れたのも同じころだ。1967年の4月から5月にかけて、彼らはデビュー・アルバムの後半のセッションをオリンピック・スタジオで、クレイマーとともに行った。これを機にクレイマーはジミ・ヘンドリックスの重要な制作パートナーとなり、1967年のアルバム『アクシス:ボールド・アズ・ラヴ』の録音は、全曲がオリンピックでクレイマーとともに行われた。1968年の『エレクトリック・レディランド』の前半のセッションもオリンピックで行われたが、クレイマーは後半のニューヨーク・セッションにも同行した後、アメリカに移住して、エレクトリック・レディ・スタジオの創設にも関わることになる。
オリンピック・スタジオでクレイマーはスモール・フェイセス、トラフィックなども手掛けた。グリン・ジョンズはザ・フーやレッド・ツェッペリンなどを手掛け、わずか1、2年のうちにオリンピック・スタジオはブリティッシュ・ロックの最重要拠点となっていく。
ジョンズもクレイマーもミュージシャンとしての資質も持ち、世代的にもバンドのミュージシャンと近かった。キース・グラントによれば、スタジオにはオープンな雰囲気が生まれ、深夜にはロック・ミュージシャンの溜まり場のようになって、情報交換が行われていたそうだ。誰かが新しいレコーディング・テクニックを見つけると、すぐにそれが共有されたともいう。アビイ・ロードの保守性とは対照的なオリンピックのそんな雰囲気に引かれて、ビートルズのメンバーもしばしば遊びに来たようだ。とりわけ、ジョン・レノンのロールスロイスはよく目撃されたとされる。
ビートルズの「ベイビー・ユーアー・ア・リッチ・マン」にミック・ジャガーが参加していたり、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス「ウォッチタワー」(All Along the Watchtower)にローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズとトラフィックのデイヴ・メイソンが参加していたりするのも、そんな当時のオリンピック・スタジオならではの出来事に思われる。
ロック・レコーディングの転換点〜レッド・ツェッペリンでジミー・ペイジが求めた音
1968年にはレッド・ツェッペリンがオリンピック・スタジオでグリン・ジョンズとともにデビュー・アルバムを制作するが、これはロック・レコーディングの重要なターニング・ポイントだった。
グリン・ジョンズの『サウンド・マン』は彼の歯に衣を着せぬ業界話や人物評が面白い一方で、エンジニアリングに関するテクニカルな記述は少ないのだが、このアルバムについてはマイク・セッティングの話題も多い。
このレコーディングは1968年の9月27日から10月4日にかけて行われたが、その時点では4人組のバンドはまだ名前すら持っていなかった。レコード会社との契約も無く、マネージャーのピーター・グラントが録音費用を出した。トータルのスタジオ使用時間はわずか36時間ほどだったという。
ギタリストのジミー・ペイジとグリン・ジョンズは10代のころからの友人で、IBCスタジオ時代のジョンズがアート・スクールの学生だったペイジにセッション・ギタリストとしての仕事を薦めたという関係だった。ほどなくペイジは売れっ子のセッション・ギタリストになったが、1966年にジェフ・ベックの後任ギタリストとして、ヤードバーズに加入。ロック・バンドでの成功に野心を燃やすようになった。
1968年、ヤードバーズからボーカルのキース・レルフが脱退して、バンドは解散状態になったが、ツアーの契約が残っていたため、ペイジは新しいボーカリストをオーディション。バンド・オブ・ジョイのメンバーだったロバート・プラントを引き入れた。さらに、彼の盟友のジョン・ボーナムをドラムに、セッション・ミュージシャンだったジョン・ポール・ジョーンズをベースに迎えて、4人編成の全く新しいバンドで、ニュー・ヤードバーズと名乗り、北欧ツアーを行った。
ニュー・ヤードバースの最初のライブは同年9月7日にコペンハーゲンで行われた。その3週間後に、バンドはオリンピック・スタジオに駆け込んだのだ。だが、ツアーを通じて、ブルース・ロックからハード・ロックへと移行するバンド・コンセプトは固まっていた。加えて、ジミー・ペイジはそのハード・ロック・サウンドをレコード化する時の音像に関しても、明確なイメージを持っていたようだ。
それはステレオを前提としたものだった。当時はまだモノラルとステレオの両バージョンが制作される作品が多かったが、ペイジはステレオ・ワイドな空間を使ったバンド・サウンドを望んだ。そのために、グリン・ジョンズとともに新しい録音手法の開拓に踏み出したのが、この36時間のレコーディングだった。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash
Photo:Hiroki Obara