ジョー・ボイドとジョン・ウッド〜サウンド・テクニクスが結びつけた二人の名匠
米エレクトラ・レコードのプロデューサー、ジョー・ボイドがインクレディブル・ストリング・バンドとともに、ロンドンのサウンド・テクニクス・スタジオにやってきたのは1966年の5月のことだった。
名プロデューサー、ジョー・ボイドの軌跡は、2010年に出版された自伝『White Bicycles』に詳しくつづられている。ボイドは米マサチューセッツ州ボストン出身。1942年8月5日生まれで、ニュージャージー州プリンストンで育った後、ハーバード大学に入学して、ボストンに戻っている。プリンストン時代の友人のジェフ・マルダーもボストン大学に進み、二人はともに1960年代前半のボストンのフォーク・シーンに身を置いた。ボイドはフォーク・ミュージシャンやブルース・ミュージシャンのライブを企画し、彼らのツアーをマネージメントするようにもなる。
1965年にはボイドはニューポート・フォーク・フェスティバルの制作ディレクターとして働いている。ボブ・ディランがエレクトリック・ギターを抱えて登場し、聴衆のブーイングを浴びた伝説のフェスティバルだ。保守的なフォーク派と大音響を轟かすロック派の対立がフェスティバルの中で顕在化し、若いボイドがその板挟みになるエピソードなども、『White Bicycles』の中では明かされている。
ボイドは1964年以後、渡英して、イギリスのフォーク・シーンもリサーチしていた。1965年の暮れにはエレクトラ・レコードのジャック・ホルツマンから同社のための新人アーティストを探す命を受け、エレクトラのロンドン事務所を開設。そして、以前に知り合っていたエジンバラ出身のフォーク・ミュージシャン、ロビン・ウィリアムソンとクライヴ・パーマーをエレクトラのための最初のレコーディング・アーティストに選んだ。ウィリアムソンとパーマーはマイク・ヘロンを加えたトリオで、ジ・インクレディブル・ストリング・バンドと名乗るようになっていた。
1966年5月23日、ボイドとインクレディブル・ストリング・バンドはチェルシーにあるサウンド・テクニクス・スタジオを訪れ、デビュー・アルバムの『ジ・インクレディブル・ストリング・バンド』を1日で録音した。エンジニアを務めたのはジョン・ウッド。ジョー・ボイドとジョン・ウッドという名プロデューサー&名エンジニアのコンビが生まれたのも、この日だった。
同年、ボイドは写真家のジョン・ホプキンスとともに、ロンドンのトッテナム・コートロードに伝説的なアンダーグラウンド・ロックの拠点、UFOクラブをオープン。その常連となったのが、シド・バレットが在籍した初期のピンク・フロイドだった。1967年1月、ボイドはピンク・フロイドとともにサウンド・テクニクスに赴き、彼らのデビュー・シングルとなる『Arnold Layne』をレコーディングした。このエンジニアもジョン・ウッドが務めた。だが、ボイドがプロデュースした同曲に、米エレクトラは興味を示さなかった。
ピンク・フロイドはEMIと契約し、ノーマン・スミスをプロデューサーに同年2月からアビイ・ロードのEMIスタジオでレコーディングを始めた。ボイドは3月に発売されたシングル『Arnold Layne』のプロデューサーとしてクレジットを残したが、それ以上、バンドとかかわることはなかった。
フェアポート・コンヴェンションとブリティッシュ・フォーク・ロックの軌跡
UFOクラブにはソフト・マシーン、アーサー・ブラウンなどもよく出演したが、1967年7月にピンク・フロイドのオープニングとして初出演したのが、結成されたばかりのフェアポート・コンヴェンションだった。
ジョー・ボイドとジョン・ウッドのコンビの破竹の快進撃が始まるのは、そのフェアポート・コンヴェンションの1968年のデビュー・アルバムからと言っていいだろう。ボイドはエレクトラを離れ、フリーランスのプロデューサーとなった。当時のフェアポート・コンヴェンションはサンディ・デニーの加入以前。女性シンガーのジュディ・ダイブルの在籍時で、レパートリーにはボブ・ディラン、ジョニ・ミッチェルなど、アメリカのアーティストの曲が多く、演奏面ではジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッドなどの影響が強かった。しかし、このレコーディングを通じて、リチャード・トンプソン、サイモン・ニコル、アシュレー・ハッチングスというブリティッシュ・フォーク・シーンの要人がサウンド・テクニクスを拠点とするようになる。
1969年にはダイブルに代わってサンディ・デニーが加入したフェアポート・コンヴェンションの傑作アルバム『アンハーフブリッキング』が登場。ボイドがニック・ドレイクのデビュー・アルバム『ファイヴ・リーヴス・レフト』を世に出したのもこの年だ。『ファイヴ・リーヴス・レフト』にはリチャード・トンプソンやペンタングルのベーシスト、デイヴ・トンプソンが協力した。同年暮れには、デイヴ・スワーブリック、デイヴ・マタックスを加えて、英国的なトラッド・フォークの色を強めたフェアポート・コンヴェンションの『リージ・アンド・リーフ』がリリースされ、ブリティッシュ・フォーク・シーンは新しい時代に突入する。そして、その重要作の大半はサウンド・テクニクスでレコーディングされた。
ジョー・ボイド&ジョン・ウッドによる制作以外のものも含めると、先述のアーティストに加えて、ジョン&ビヴァリー・マーティン、マーティン・カーシー&デイヴ・スワブリック、ヴァシュティ・ブニヤン、ペンタングル、スティーライ・スパン、フォザリンゲイ、トゥリーズ、イアン・マシューズ&サザン・コンフォート、プレインソングなどなど、サウンド・テクニクスで傑作アルバムを生み出したブリティッシュ・フォークのアーティストは長いリストになる。1970年以後はサウンド・テクニクスのもう一人のエンジニア、ジェリー・ボーイズも大活躍した。この当時のサウンド・テクニクスはほかのロンドンのレコーディング・スタジオと違って、スタジオ・ミュージシャンがほとんど出入りしなかったという。連日連夜、ブリティッシュ・フォーク・シーンのミュージシャンたちが集い、レコーディングを行っていたのだ。一つのジャンルの音楽史に残るアルバム群がかくも一つのスタジオだけに集中しているというのは珍しい。加えて、そのアルバム群は現代の耳で聴いても、素晴らしく音が良いのだ。
わずか3、4年の間にイギリスの音楽史を大きく書き換える仕事を残したボイドだが、彼は1970年の終わりにロンドンを離れた。サウンド・テクニクスはその後もブリティッシュ・フォークの拠点となったが、1976年にビルディングのリース契約が切れて、閉鎖を余儀なくされた。設立者のジェフ・フロストはそのまま音楽界から引退。ジョン・ウッドはエンジニアとして活動を続け、その後もジョー・ボイドと多くの仕事をともにした。
SOUND TECHNIQUES A-Rangeコンソール〜アメリカでの躍進と21世紀の復活
コンソール・メーカーとしてのSOUND TECHNIQUESは、1964年から1971年にかけて14台のA-Rangeコンソールを製作した。それはロンドンのトライデント・スタジオ、デ・レーン・リー・スタジオ、ロサンゼルスのサンセット・サウンドやエレクトラ・サウンドなどにも導入された。サンセット・サウンドのスタジオ2にSOUND TECHNIQUES A-Rangeコンソールが運び込まれたのは1967年4月で、それは初めて大西洋を越えて、アメリカに輸出された英国製のレコーディング・コンソールとなった。当時、イギリスのレコーディング技術はアメリカのそれに比べて劣っていると考えられていたが、SOUND TECHNIQUESがその常識を打ち破ったのだ。ルパート・ニーヴが製作したNEVEコンソールがアメリカで評判を呼ぶのは、これより少し後のことだ。
SOUND TECHNIQUESのA-Rangeコンソールの評判は、ジョー・ボイドからジャック・ホルツマンに伝えられ、ホルツマンがサンセット・サウンドおよびエレクトラ・サウンドへの導入をアレンジしたものと思われる。この2つのスタジオで当時、多くの仕事を残したプロデューサーのポール・ロスチャイルドやエンジニアのブルース・ボトニックは、SOUND TECHNIQUES A-Rangeコンソールのファンだったとされる。彼らが手掛けたドアーズのアルバム『太陽を待ちながら』(Waiting for the Sun:1968年)では、SOUND TECHNIQUES A-Rangeコンソールが使用されたとボトニックは証言している。あるいは、この時期にボトニックがエンジニアを務め、サンセット・サウンドでレコーディングされているA&Mレコードの作品群などにも、SOUND TECHNIQUES A-Rangeコンソールは大いに貢献しているはずだ。
1967年11月にリリースされたヴァン・ダイク・パークス『ソング・サイクル』は、全曲がサンセット・サウンドのスタジオ2でミキシングされている。ということは、そのサウンドは間違いなく、SOUND TECHNIQUES A-Rangeコンソールで作り上げられたものだ。『ソング・サイクル』は細野晴臣やジム・オルークなどにも大きな影響を与えた1960年代後半の名盤、アメリカ音楽の金字塔と言ってもいい作品だが、それを生み出したのは初めてアメリカに渡ったブリティッシュ・コンソールだったのだ。
1972年以後、SOUND TECHNIQUESはA-Rangeコンソールに続く、Phoenixコンソールの開発を進めたが、自分たちのスタジオ用に1台を製作したのみだったようだ。このコンソールはスタジオの閉鎖時に、オリンピック・スタジオに買い取られたとされる。
ところが、2018年にSOUND TECHNIQUESは思いがけない復活を遂げた。それを仕掛けたのはナッシュヴィルで16トンズ・スタジオというスタジオを経営していたエンジニアのダニー・ホワイトだ。同スタジオは2014年に閉鎖されたが、ビンテージ機材マニアだったホワイトはSOUND TECHNIQUESのコンソールに興味を引かれ、イギリスに渡って、ジェフ・フロストとコンタクト。ブランドを譲り受けて、機材メーカーとしてのSOUND TECHNIQUESを再興したのだ。現在までにZRコンソールとZR7064CSというマイクプリ/EQのラック・モジュールが製品化されている。
フロストはサウンド・テクニクス・スタジオを建設する前に、ナッシュヴィルのCBSスタジオを視察して、アメリカ流のおおらかなレコーディング・スタイルに大きな啓示を受けたという。スタジオの閉鎖から半世紀以上が過ぎた後、ナッシュヴィルのエンジニアがSOUND TECHNIQUESに興味を持ち、それを再興したというのも不思議なサイクルを感じさせるエピソードだ。
オリンピック・スタジオのトランジスター16chコンソール
サウンド・テクニクスと同じく、ソリッド・ステートのコンソールを自社開発したロンドンのスタジオにはオリンピック・スタジオがある。ビートルズの最大のライバルであるローリング・ストーンズが1960年代後半に拠点としていたのが、このオリンピック・スタジオだ。アンガス・マッケンジーという若きビジネスマンがオリンピック・スタジオを開設したのは1957年。最初のオリンピック・スタジオはマーブル・アーチのカールトン・ストリートにあった。そこで当初からテクニカル・エンジニアとして働いていたのがディック・スウェットナムだ。
本名をリチャード・ワイボールト・スウェットナムというこの天才的な機材設計者は1927年に生まれている。彼のエンジニアとしてのキャリアはBBCで始まり、1951年から1956年にかけてはアビイ・ロードのEMIスタジオで働いた後、オリンピック・スタジオに参加した。スウェットナムは1960年には最初のトランジスター・コンソールを試作していたという。
1961年にはエンジニアのキース・グラントがオリンピック・スタジオの一員となった。グラントは1957年からロンドンのリージェント・スタジオで働き、IBCスタジオでエンジニアとしての評判を高めた後、オリンピック・スタジオに移籍した。それに伴って、IBC時代の彼の顧客がオリンピックに移動したと言われる。だが、カールトン・ストリートのビルディングは、1966年に取り壊されることが決まっていた。そこでオリンピック・スタジオは移転先として、バーンズにある古い映画館の建物を確保した。屋根は崩れ、地下室は水浸しのひどい状態のビルディングだったという。
マッケンジーがビジネスから引退することになったため、バーンズのオリンピック・スタジオの建設はグラントを中心に進められた。グラントは建築家だった父親の手を借りて、ブースの設計などの内装を受け持った。機材面を受け持ったスウェットナムは新しいコンソールを設計/製作。それが伝説的なオリンピック・コンソールだ。アンプ部はオール・トランジスターで、チャンネル数は16。そして、すべてのコントローラーへ瞬時に手が届くようにしてほしいというグラントの要望に応え、コンソールはコックピットのようにエンジニアを取り囲む形をしていた。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash
Photo:Hiroki Obara