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ジョー・ボイドとサウンド・テクニクス・スタジオ【Vol.104】音楽と録音の歴史ものがたり

ジョー・ボイドとジョン・ウッド〜サウンド・テクニクスが結びつけた二人の名匠

 米エレクトラ・レコードのプロデューサー、ジョー・ボイドがインクレディブル・ストリング・バンドとともに、ロンドンのサウンド・テクニクス・スタジオにやってきたのは1966年の5月のことだった。

 名プロデューサー、ジョー・ボイドの軌跡は、2010年に出版された自伝『White Bicycles』に詳しくつづられている。ボイドは米マサチューセッツ州ボストン出身。1942年8月5日生まれで、ニュージャージー州プリンストンで育った後、ハーバード大学に入学して、ボストンに戻っている。プリンストン時代の友人のジェフ・マルダーもボストン大学に進み、二人はともに1960年代前半のボストンのフォーク・シーンに身を置いた。ボイドはフォーク・ミュージシャンやブルース・ミュージシャンのライブを企画し、彼らのツアーをマネージメントするようにもなる。

ジョー・ボイド(1942年〜)。マディ・ウォーターズやコールマン・ホーキンス、スタン・ゲッツらのツアー・マネージャーを務めた後、ニューポート・フォーク・フェスティバルに携わる。イギリスでのプロデュース活動後は、ワーナー・ブラザーズ映画の音楽部門で『脱出』『時計じかけのオレンジ』などのサウンドトラックに関与。1980年にはハンニバル・レコーズを設立。現在はロンドンにて音楽にまつわる執筆活動をしている Photo:Jellevc(2008年) CC BY-SA 3.0

ジョー・ボイド(1942年〜)。マディ・ウォーターズやコールマン・ホーキンス、スタン・ゲッツらのツアー・マネージャーを務めた後、ニューポート・フォーク・フェスティバルに携わる。イギリスでのプロデュース活動後は、ワーナー・ブラザーズ映画の音楽部門で『脱出』『時計じかけのオレンジ』などのサウンドトラックに関与。1980年にはハンニバル・レコーズを設立。現在はロンドンにて音楽にまつわる執筆活動をしている
Photo:Jellevc(2008年)
CC BY-SA 3.0

『White Bicycles: Making Music In The 1960s』 Joe Boyd (2006年/Serpent's Tail) 1960年代、ミュージシャンのツアー・マネージャーからエレクトラでの制作、数々のレコード・プロデュースまでをつづるボイドの当時の回顧録。現在の版は別の表紙もあり

『White Bicycles: Making Music In The 1960s』
Joe Boyd
(2006年/Serpent's Tail)
1960年代、ミュージシャンのツアー・マネージャーからエレクトラでの制作、数々のレコード・プロデュースまでをつづるボイドの当時の回顧録。現在の版は別の表紙もあり

 1965年にはボイドはニューポート・フォーク・フェスティバルの制作ディレクターとして働いている。ボブ・ディランがエレクトリック・ギターを抱えて登場し、聴衆のブーイングを浴びた伝説のフェスティバルだ。保守的なフォーク派と大音響を轟かすロック派の対立がフェスティバルの中で顕在化し、若いボイドがその板挟みになるエピソードなども、『White Bicycles』の中では明かされている。

 ボイドは1964年以後、渡英して、イギリスのフォーク・シーンもリサーチしていた。1965年の暮れにはエレクトラ・レコードのジャック・ホルツマンから同社のための新人アーティストを探す命を受け、エレクトラのロンドン事務所を開設。そして、以前に知り合っていたエジンバラ出身のフォーク・ミュージシャン、ロビン・ウィリアムソンとクライヴ・パーマーをエレクトラのための最初のレコーディング・アーティストに選んだ。ウィリアムソンとパーマーはマイク・ヘロンを加えたトリオで、ジ・インクレディブル・ストリング・バンドと名乗るようになっていた。

 1966年5月23日、ボイドとインクレディブル・ストリング・バンドはチェルシーにあるサウンド・テクニクス・スタジオを訪れ、デビュー・アルバムの『ジ・インクレディブル・ストリング・バンド』を1日で録音した。エンジニアを務めたのはジョン・ウッド。ジョー・ボイドとジョン・ウッドという名プロデューサー&名エンジニアのコンビが生まれたのも、この日だった。

ケルト、トラディショナル・フォークといった彼らのルーツと言える伝統音楽の影響を色濃く反映したデビュー作。最新国内盤は2016年にワーナーミュージック・ジャパンよりSHM-CDでリリース

 同年、ボイドは写真家のジョン・ホプキンスとともに、ロンドンのトッテナム・コートロードに伝説的なアンダーグラウンド・ロックの拠点、UFOクラブをオープン。その常連となったのが、シド・バレットが在籍した初期のピンク・フロイドだった。1967年1月、ボイドはピンク・フロイドとともにサウンド・テクニクスに赴き、彼らのデビュー・シングルとなる『Arnold Layne』をレコーディングした。このエンジニアもジョン・ウッドが務めた。だが、ボイドがプロデュースした同曲に、米エレクトラは興味を示さなかった。

UFOクラブでの1967年7月に行われたピンク・フロイドの公演ポスタ−。バンド&デザイン・チームとして知られるハプシャシュ&ザ・カラード・コートによる作品。UFOクラブは1966年末から営業を開始し、翌1967年7月に建物のオーナーから立ち退きを求められ移転するも、同年10月にはクローズに至る

UFOクラブでの1967年7月に行われたピンク・フロイドの公演ポスタ−。バンド&デザイン・チームとして知られるハプシャシュ&ザ・カラード・コートによる作品。UFOクラブは1966年末から営業を開始し、翌1967年7月に建物のオーナーから立ち退きを求められ移転するも、同年10月にはクローズに至る

 ピンク・フロイドはEMIと契約し、ノーマン・スミスをプロデューサーに同年2月からアビイ・ロードのEMIスタジオでレコーディングを始めた。ボイドは3月に発売されたシングル『Arnold Layne』のプロデューサーとしてクレジットを残したが、それ以上、バンドとかかわることはなかった。

「Arnold Layne」を収録したピンク・フロイドの初期コンピレーションで、邦題は『ピンク・フロイドの道』。彼らのデビュー曲であった「Arnold Layne」は本文にある経緯のためかオリジナル・アルバムには収録されなかったが、全英20位に入るヒットを放った

現在はスコットランドのアバディーンに拠点を置くジョン・ウッドのWebサイト(www.analogmixing.net)。本文で挙げられたアーティストのほか、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのニコやジョン・ケイル、スクイーズなどを後年手掛ける

現在はスコットランドのアバディーンに拠点を置くジョン・ウッドのWebサイト(www.analogmixing.net)。本文で挙げられたアーティストのほか、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのニコやジョン・ケイル、スクイーズなどを後年手掛ける

フェアポート・コンヴェンションとブリティッシュ・フォーク・ロックの軌跡

 UFOクラブにはソフト・マシーン、アーサー・ブラウンなどもよく出演したが、1967年7月にピンク・フロイドのオープニングとして初出演したのが、結成されたばかりのフェアポート・コンヴェンションだった。

 ジョー・ボイドとジョン・ウッドのコンビの破竹の快進撃が始まるのは、そのフェアポート・コンヴェンションの1968年のデビュー・アルバムからと言っていいだろう。ボイドはエレクトラを離れ、フリーランスのプロデューサーとなった。当時のフェアポート・コンヴェンションはサンディ・デニーの加入以前。女性シンガーのジュディ・ダイブルの在籍時で、レパートリーにはボブ・ディラン、ジョニ・ミッチェルなど、アメリカのアーティストの曲が多く、演奏面ではジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッドなどの影響が強かった。しかし、このレコーディングを通じて、リチャード・トンプソン、サイモン・ニコル、アシュレー・ハッチングスというブリティッシュ・フォーク・シーンの要人がサウンド・テクニクスを拠点とするようになる。

デビュー作にしてジュディ・ダイブル(vo)在籍時唯一のアルバム。現在のCDは2003年リマスターで、ボーナス・トラック4曲を追加。国内では2010年にユニバーサルからSHM-CDとしてリリース

 1969年にはダイブルに代わってサンディ・デニーが加入したフェアポート・コンヴェンションの傑作アルバム『アンハーフブリッキング』が登場。ボイドがニック・ドレイクのデビュー・アルバム『ファイヴ・リーヴス・レフト』を世に出したのもこの年だ。『ファイヴ・リーヴス・レフト』にはリチャード・トンプソンやペンタングルのベーシスト、デイヴ・トンプソンが協力した。同年暮れには、デイヴ・スワーブリック、デイヴ・マタックスを加えて、英国的なトラッド・フォークの色を強めたフェアポート・コンヴェンションの『リージ・アンド・リーフ』がリリースされ、ブリティッシュ・フォーク・シーンは新しい時代に突入する。そして、その重要作の大半はサウンド・テクニクスでレコーディングされた。

サンディ・デニー(1947〜1978年)。1969年12月にフェアポート・コンベンションを脱退した後は、自分のバンド=フォザリンゲイやソロで活動。1971年、1972年には『メロディ・メイカー』誌で最優秀女性歌手に選出される。1974〜75年にはフェアポート・コンヴェンションへ復帰

サンディ・デニー(1947〜1978年)。1969年12月にフェアポート・コンベンションを脱退した後は、自分のバンド=フォザリンゲイやソロで活動。1971年、1972年には『メロディ・メイカー』誌で最優秀女性歌手に選出される。1974〜75年にはフェアポート・コンヴェンションへ復帰
3rdアルバム。サンディ・デニーによる「Who Knows Where the Time Goes?」(時の流れを誰が知る)は、多くのアーティストにカバーされ、今も多くの映像作品で使用されるバンドの代表曲となった。現在の日本版CDはボーナス・トラックを2曲加えユニバーサルから2017年にリリース
ニック・ドレイクのデビュー・アルバム。ケンブリッジ大学でニックと親交のあったロバート・カービーがストリングス・アレンジを担当している。日本盤CDは2013年リマスターを2017年にSHM-CD化したものがユニバーサルから発売
1969年3枚目のアルバムとなった4th。全曲でサンディ・デニーのボーカルをフィーチャー。伝統的なイギリスの音楽やケルト音楽をエレクトリックなブリティッシュ・フォーク・ロックに昇華した。2010年にはDSDリマスターされ、ユニバーサルからSACDも発売

 ジョー・ボイド&ジョン・ウッドによる制作以外のものも含めると、先述のアーティストに加えて、ジョン&ビヴァリー・マーティン、マーティン・カーシー&デイヴ・スワブリック、ヴァシュティ・ブニヤン、ペンタングル、スティーライ・スパン、フォザリンゲイ、トゥリーズ、イアン・マシューズ&サザン・コンフォート、プレインソングなどなど、サウンド・テクニクスで傑作アルバムを生み出したブリティッシュ・フォークのアーティストは長いリストになる。1970年以後はサウンド・テクニクスのもう一人のエンジニア、ジェリー・ボーイズも大活躍した。この当時のサウンド・テクニクスはほかのロンドンのレコーディング・スタジオと違って、スタジオ・ミュージシャンがほとんど出入りしなかったという。連日連夜、ブリティッシュ・フォーク・シーンのミュージシャンたちが集い、レコーディングを行っていたのだ。一つのジャンルの音楽史に残るアルバム群がかくも一つのスタジオだけに集中しているというのは珍しい。加えて、そのアルバム群は現代の耳で聴いても、素晴らしく音が良いのだ。

ジェリー・ボーイズのWebサイト(www.jerryboys.com)。アビイ・ロードを皮切りに、オリンピック、サウンド・テクニクスといった名スタジオを渡り歩いた。1997年リリースの『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』でグラミー受賞

ジェリー・ボーイズのWebサイト(www.jerryboys.com)。アビイ・ロードを皮切りに、オリンピック、サウンド・テクニクスといった名スタジオを渡り歩いた。1997年リリースの『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』でグラミー受賞

 わずか3、4年の間にイギリスの音楽史を大きく書き換える仕事を残したボイドだが、彼は1970年の終わりにロンドンを離れた。サウンド・テクニクスはその後もブリティッシュ・フォークの拠点となったが、1976年にビルディングのリース契約が切れて、閉鎖を余儀なくされた。設立者のジェフ・フロストはそのまま音楽界から引退。ジョン・ウッドはエンジニアとして活動を続け、その後もジョー・ボイドと多くの仕事をともにした。

SOUND TECHNIQUES A-Rangeコンソール〜アメリカでの躍進と21世紀の復活

 コンソール・メーカーとしてのSOUND TECHNIQUESは、1964年から1971年にかけて14台のA-Rangeコンソールを製作した。それはロンドンのトライデント・スタジオ、デ・レーン・リー・スタジオ、ロサンゼルスのサンセット・サウンドやエレクトラ・サウンドなどにも導入された。サンセット・サウンドのスタジオ2にSOUND TECHNIQUES A-Rangeコンソールが運び込まれたのは1967年4月で、それは初めて大西洋を越えて、アメリカに輸出された英国製のレコーディング・コンソールとなった。当時、イギリスのレコーディング技術はアメリカのそれに比べて劣っていると考えられていたが、SOUND TECHNIQUESがその常識を打ち破ったのだ。ルパート・ニーヴが製作したNEVEコンソールがアメリカで評判を呼ぶのは、これより少し後のことだ。

SOUND TECHNIQUE A-Rangeコンソールをフィーチャーしたサンセット・サウンドの広告。写真は限定のZR7064 Sunset Sound Packageに付属したもので、サンセット・サウンドのオーナー、ポール・カメラータのサイン入り

SOUND TECHNIQUE A-Rangeコンソールをフィーチャーしたサンセット・サウンドの広告。写真は限定のZR7064 Sunset Sound Packageに付属したもので、サンセット・サウンドのオーナー、ポール・カメラータのサイン入り

 SOUND TECHNIQUESのA-Rangeコンソールの評判は、ジョー・ボイドからジャック・ホルツマンに伝えられ、ホルツマンがサンセット・サウンドおよびエレクトラ・サウンドへの導入をアレンジしたものと思われる。この2つのスタジオで当時、多くの仕事を残したプロデューサーのポール・ロスチャイルドやエンジニアのブルース・ボトニックは、SOUND TECHNIQUES A-Rangeコンソールのファンだったとされる。彼らが手掛けたドアーズのアルバム『太陽を待ちながら』(Waiting for the Sun:1968年)では、SOUND TECHNIQUES A-Rangeコンソールが使用されたとボトニックは証言している。あるいは、この時期にボトニックがエンジニアを務め、サンセット・サウンドでレコーディングされているA&Mレコードの作品群などにも、SOUND TECHNIQUES A-Rangeコンソールは大いに貢献しているはずだ。

ジャック・ホルツマン(1931年〜)はエレクトラとノンサッチの創始者、1950年に大学の学生寮でエレクトラを創業した

ジャック・ホルツマン(1931年〜)はエレクトラとノンサッチの創始者、1950年に大学の学生寮でエレクトラを創業した

 1967年11月にリリースされたヴァン・ダイク・パークス『ソング・サイクル』は、全曲がサンセット・サウンドのスタジオ2でミキシングされている。ということは、そのサウンドは間違いなく、SOUND TECHNIQUES A-Rangeコンソールで作り上げられたものだ。『ソング・サイクル』は細野晴臣やジム・オルークなどにも大きな影響を与えた1960年代後半の名盤、アメリカ音楽の金字塔と言ってもいい作品だが、それを生み出したのは初めてアメリカに渡ったブリティッシュ・コンソールだったのだ。

ラグタイムやニューオーリンズ・ジャズなど古き良き時代のアメリカ音楽を掘り起こしながら、アコースティック楽器でのさまざまな録音実験を行った1stアルバム。発売当時は売上が伸びず、自虐的な広告が打たれたという

 1972年以後、SOUND TECHNIQUESはA-Rangeコンソールに続く、Phoenixコンソールの開発を進めたが、自分たちのスタジオ用に1台を製作したのみだったようだ。このコンソールはスタジオの閉鎖時に、オリンピック・スタジオに買い取られたとされる。

 ところが、2018年にSOUND TECHNIQUESは思いがけない復活を遂げた。それを仕掛けたのはナッシュヴィルで16トンズ・スタジオというスタジオを経営していたエンジニアのダニー・ホワイトだ。同スタジオは2014年に閉鎖されたが、ビンテージ機材マニアだったホワイトはSOUND TECHNIQUESのコンソールに興味を引かれ、イギリスに渡って、ジェフ・フロストとコンタクト。ブランドを譲り受けて、機材メーカーとしてのSOUND TECHNIQUESを再興したのだ。現在までにZRコンソールとZR7064CSというマイクプリ/EQのラック・モジュールが製品化されている。

復活したSOUND TECHNIQUESによるZRコンソール。写真はレトロな形状の8バス・フェーダーを備えたZR16/8というモデル

復活したSOUND TECHNIQUESによるZRコンソール。写真はレトロな形状の8バス・フェーダーを備えたZR16/8というモデル

同じく新生SOUND TECHNIQUESによるチャンネル・ストリップ、ZR7064CS。インピーダンス可変の60dBプリアンプと4バンドEQで構成。Hiバンドはブーストとカットを併装するタイプ

同じく新生SOUND TECHNIQUESによるチャンネル・ストリップ、ZR7064CS。インピーダンス可変の60dBプリアンプと4バンドEQで構成。Hiバンドはブーストとカットを併装するタイプ

 フロストはサウンド・テクニクス・スタジオを建設する前に、ナッシュヴィルのCBSスタジオを視察して、アメリカ流のおおらかなレコーディング・スタイルに大きな啓示を受けたという。スタジオの閉鎖から半世紀以上が過ぎた後、ナッシュヴィルのエンジニアがSOUND TECHNIQUESに興味を持ち、それを再興したというのも不思議なサイクルを感じさせるエピソードだ。

オリンピック・スタジオのトランジスター16chコンソール

 サウンド・テクニクスと同じく、ソリッド・ステートのコンソールを自社開発したロンドンのスタジオにはオリンピック・スタジオがある。ビートルズの最大のライバルであるローリング・ストーンズが1960年代後半に拠点としていたのが、このオリンピック・スタジオだ。アンガス・マッケンジーという若きビジネスマンがオリンピック・スタジオを開設したのは1957年。最初のオリンピック・スタジオはマーブル・アーチのカールトン・ストリートにあった。そこで当初からテクニカル・エンジニアとして働いていたのがディック・スウェットナムだ。

 本名をリチャード・ワイボールト・スウェットナムというこの天才的な機材設計者は1927年に生まれている。彼のエンジニアとしてのキャリアはBBCで始まり、1951年から1956年にかけてはアビイ・ロードのEMIスタジオで働いた後、オリンピック・スタジオに参加した。スウェットナムは1960年には最初のトランジスター・コンソールを試作していたという。

 1961年にはエンジニアのキース・グラントがオリンピック・スタジオの一員となった。グラントは1957年からロンドンのリージェント・スタジオで働き、IBCスタジオでエンジニアとしての評判を高めた後、オリンピック・スタジオに移籍した。それに伴って、IBC時代の彼の顧客がオリンピックに移動したと言われる。だが、カールトン・ストリートのビルディングは、1966年に取り壊されることが決まっていた。そこでオリンピック・スタジオは移転先として、バーンズにある古い映画館の建物を確保した。屋根は崩れ、地下室は水浸しのひどい状態のビルディングだったという。

 マッケンジーがビジネスから引退することになったため、バーンズのオリンピック・スタジオの建設はグラントを中心に進められた。グラントは建築家だった父親の手を借りて、ブースの設計などの内装を受け持った。機材面を受け持ったスウェットナムは新しいコンソールを設計/製作。それが伝説的なオリンピック・コンソールだ。アンプ部はオール・トランジスターで、チャンネル数は16。そして、すべてのコントローラーへ瞬時に手が届くようにしてほしいというグラントの要望に応え、コンソールはコックピットのようにエンジニアを取り囲む形をしていた。

 

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高橋健太郎

音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash

Photo:Hiroki Obara

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