ビートルズのエンジニアに大抜擢された19歳のエメリック
1965年8月、ジョージ・マーティンはEMIから独立。ロン・リチャーズらとともにアソシエイティッド・インディペンデント・レコーディングス(AIR)を設立した。マーティンは外部プロデューサーとなったが、ビートルズとの関係は変わることなく、同年の後半はアルバム『ラバー・ソウル』の制作に費やされた。
マーティンやリチャーズの退社で、EMIのA&R部門は手薄となった。そこでEMIは1966年2月にノーマン・スミスをA&R部門へ異動させた。もともとはミュージシャンで、音楽的な才覚にも富んでいたスミスはエンジニアからプロデューサーに昇進。翌年にはピンク・フロイドを発掘して、成功に導くことになる。
スミスがエンジニアリングを手掛けたビートルズのアルバムは『ラバー・ソウル』が最後となり、マーティンは代わりのエンジニアを必要とした。そこで白羽の矢が立ったのがジェフ・エメリックだった。エメリックは1962年、15歳からアビイ・ロードでアシスタント修行を始めた直後に、ビートルズの2度目の「ラヴ・ミー・ドゥ」セッションを目撃している。そして、初期のレコーディングからノーマン・スミスのアシスタントを務めるようになった。初めて4trが使われた「抱きしめたい」(I Wanna Hold Your Hand)のレコーディング以後はテープ・オペレーターを務めたが、1965年にマスタリング・エンジニアに昇進。アルバム『ヘルプ!』と『ラバー・ソウル』ではビートルズのスタジオから離れていた。
ノーマン・スミスがアビイ・ロードを去り、ポップ部門のエンジニアが不足すると、EMIはエメリックをマスタリング・エンジニアからバランス・エンジニアに昇進させた。このとき、エメリックはまだ19歳。異例の抜擢だったが、マーティンやスミスの強い推薦があったのだろう。そして、レコーディング・スタジオに戻ったエメリックは、すぐさま結果を出す。初めてレコーディングからミキシングまでを手掛けたマンフレッド・マンの「プリティ・フラミンゴ」が全英チャートの1位に輝いたのだ。
1966年4月、その「プリティ・フラミンゴ」の発売とほぼ時を同じくして始まったのが、ビートルズのアルバム『リボルバー』のレコーディングだった。以後、ジェフ・エメリックは1968年の『ザ・ビートルズ』(ホワイト・アルバム)まで、ビートルズのメイン・エンジニアとして働き、中期ビートルズの傑作に多大な貢献をする。
エメリックはハワード・マッセイとの共著『ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実』に、自身のビートルズとの経験を詳細に記している。若いエメリックはEMIスタジオのルールを逸脱することを恐れなかった。それまでは許されなかったオンマイクのセッティングやアンプへの過大入力も積極的に使った。
アルバム『リボルバー』の発表後の北米ツアーの最終日となった1966年8月29日に、ビートルズはコンサート活動を停止。レコーディングだけに集中するアーティストになった。メンバー全員がレコーディング・テクニックにも興味を持ち、新奇なサウンドを追い求める。バンドの性格は急速に変化を遂げていった。その背景にはドラッグ〜サイケデリック・カルチャーの影響もあった。
1966年に始まった『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のレコーディングでは、エンジニアに求められる要求ははるかに厳しいものになった。だが、アビイ・ロードに備えられているレコーダーは相変わらず4trだった。アレンジは複雑化し、使用楽器も多様化。オーケストレーションや効果音も交錯する。しかも、ビートルズの場合、全員が歌う。現代のレコーディングだったら、あっと言う間に24trが埋まるだろう音楽要素が詰め込まれているのが『サージェント・ペパーズ〜』というアルバムだが、それは複数のSTUDER J37(4trレコーダー)をやり繰りすることで制作されていたのだ。
1967年3月、ブッカー・T&ザ・MGsを中心とするスタックス/ヴォルト・レヴューがヨーロッパをツアーした。そこにはエンジニアとしてトム・ダウドが同行。ライブ・レコーディングを行い、『スタックス/ヴォルト・レヴューVol.1 ライヴ・イン・ロンドン』やオーティス・レディングの『ヨーロッパのオーティス・レディング』(Live In Europe)といったアルバムを残している。
そのツアー中のロンドンでアビイ・ロードを訪問したトム・ダウドは、終盤に差し掛かっていた『サージェント・ペパーズ〜』のレコーディングをのぞいて、驚がくする。世界のビートルズがいまだに2台の4trレコーダーのピンポンで、ダビングを重ねていたからだ。トム・ダウドがアトランティック・スタジオにAMPEXの8trレコーダーを導入させたのは1958年。それから10年近くが過ぎようとしていた。
中期ビートルズのステレオ・ミックスが極端にパンニングされている理由
ジェフ・エメリックも『ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実』の中で、4trではミックスの段階でエンジニアができることは限られていたと述べている。最終ミックスに至るまでに、2台の4trレコーダー間のピンポン作業の度に複数のトラックがミックスされ、1trにまとめられてしまっている。まとめられたトラックのミックスはもう変更できない。最終のステレオ・ミックスでは左か右に振り切って置かれる。このため、『サージェント・ペパーズ〜』のオリジナル・ステレオ盤は、リード・ボーカルやリズム・セクションが片側に寄っていることが多く、極端なパンニングの印象が強い。
『ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実』中のエメリックの最も有名な発言は、“真のビートルズ・ファンならば、ぜひとも『サージェント・ペパーズ〜』と『リボルバー』のモノ・バージョンを入手するべき”という部分だろう。モノラル・ミックスはメンバーとともに時間をかけて作られたが、ステレオ・ミックスはメンバーが帰った後に、マーティンとエメリックが短時間で作るのが常だったともいう。2009年にボックス・セットの『The Beatles In Mono』が発売されて以後、そのモノ・バージョンを聴くことはたやすくなった。確かにモノラルの方がはるかに音楽としての一体感に富む。2017年に登場した『サージェント・ペパーズ〜』の50周年記念エディションには、ジャイルズ・マーティン(ジョージ・マーティンの息子)とエンジニアのサム・オケルによる各曲の2017リミックス・バージョンが収録されているが、それはモノラルの一体感を意識しつつ、ステレオ・エフェクトを駆使して、不自然さの無いステレオ・バージョンを作り上げたものに思われる。
ただし、4trレコーダーでやりくりしたレコーディング・プロセスを知る上では、左右にくっきり分かれたオリジナルのステレオ・ミックスを聴くことにも価値がある。XTCのアンディ・パートリッジなどは、『サージェント・ペパーズ〜』を左右どちらかの片チャンネルずつ聴くのが面白いと言っていた。やってみると、あるはずの楽器やボーカルが完全に消えて、ある種のダブ・バージョンを聴いているような感覚に陥る。聴いたことの無い違う音楽が聴こえてくる。
2台のレコーダーを駆使したアイディアの数々
4trレコーダーの限界と戦ったが故に、テープ・レコーダーを使ったアイディアが多く生まれたのが、この時期のビートルズのレコーディングでもあった。ケン・タウンゼンドが考案したADT(Artificial Double Tracking)もその一つだろう。1台目のレコーダーに録音されたボーカル・トラックを2台目のレコーダーに送り、擬似的にボーカルを2回重ねたようなダブル・トラッキングの効果を得るシステムだ。2台目のレコーダーのワウ・フラッターやサチュレーションに加え、電源周波数の50Hzを揺らすことによるモジュレーション効果も加えることができる。現代ではこのADTは、WAVESがプラグイン化している。
ADTは『リボルバー』のレコーディング中に、ジョン・レノンが2回歌わなくても機械でできないのか?と言ったことから考案されたと言われてきたが、後年、タウンゼンドはポールとの会話から生まれたとも語っている。エンジニア的にもボーカルのダブル・トラッキングで4tr中の1trを使わずに済むという利点は大きかったはずだ。ビートルズは2trのころからボーカルのダブル・トラッキングを多用していた。このころには楽器のダブル・トラッキングも増え、ダブリングやフランジングの感触は中期ビートルズを特徴付けるサウンドにもなっていた。
ケン・タウンゼンドが2台の4trレコーダーを同期させるシステムを生み出したのは、1967年2月10日の「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のオーケストラ・セッションのときだったとされる。ポールの発案で曲のエンディング近くに、オーケストラが各楽器の最低音から最高音まで切れ目なく上昇していくサウンドを録ろうということになった。そのために、マーティンはタウンゼンドに2台の4trレコーダーの同期を求めた。タウンゼンドは1台目の1trに50Hzの信号を録音し、それで2台目のレコーダーを制御することで、同期を成功させた。
アビイ・ロードのスタジオ1に40人編成のオーケストラを呼んだマーティンは、2台目の4trレコーダーに4回、オーケストラのサウンドを録音した。即席の同期システムの精度は甘く、フランジングは避けられなかったが、160個の楽器が一斉に上昇していくという狂おしいサウンドだから、それは問題にならなかった。
1台の4trレコーダーに、同じサウンドを録り重ねるという手法は同曲ではもう一度、使われている。オーケストラが消えた後のエンディングでは、3台のピアノがペダルを踏みっぱなしのロングトーンを奏でる数十秒間を4回録り重ねているのだ。ある意味、4trレコーダーを一つの楽器、サンプリング・マシンのように使ったこうしたアイディアは、スタジオに8trレコーダーが有ったら、生まれなかったものに思える。
サンプラー的な発想は、それ以前からビートルズの曲の中にはしばしば現れていた。『リボルバー』の冒頭の「タックスマン」でポールが弾いているギター・ソロは、エンディングにもそのまま張り付けられている。コメディ音楽のプロデューサーだったマーティンは効果音の達人で、EMIの効果音ライブラリーを縦横に利用して、ビートルズのサウンドの中にちりばめていた。
『ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実』の中には、こんなエピソードも明かされている。「イエロー・サブマリン」にはEMIのライブラリーにあったスーザのブラス・バンドのレコードが使われている(たぶん1:00〜過ぎに登場するブラスの音だろう)。だが、そのまま使うと著作権の問題が出るので、マーティンの指示により、テープ編集で2カ所、音を入れ替えて使ったというのだ。サンプリング・クリアランスを回避するために、サンプルしたフレーズをチョップして使うということを、ビートルズは何と1966年の段階でやっていたのだった。
AMPEXの8trを備えたトライデント・スタジオの誕生
アメリカに比べると、イギリスのレコーディング業界はマルチトラック化が遅かったが、1968年にはロンドンにも8trレコーダーを備えたレコーディング・スタジオが登場した。1950年代からハンターズというバンドで活動していたドラマーのノーマン・シェフィールドが、弟のバリーとともに、ソーホーの一角に建設したトライデント・スタジオだ。彼らはそこにAMPEXの8trレコーダーを導入する。米国仕様の60Hzで動作するモデルだったため、回転数は不正だったようだが、そのまま使い始めたとされる。トライデント・スタジオから生まれた最初のヒット曲は1968年3月録音のマンフレッド・マンの「マイ・ネーム・イズ・ジャック」で、それは全英チャートの1位に輝いた。
トライデント・スタジオのうわさはロンドン中を駆け巡り、当然ながら、ビートルズのメンバーの耳にも届いていただろう。同じころ、ビートルズはアップル・レコードを設立。そこにピーター・アッシャーを迎え入れた。アッシャーは1962年からピーター&ゴードンというデュオで活動。ポール・マッカートニーが提供した「愛なき世界」(A World Without Love)が英米でNo.1になるなどの成功を収めたが、1968年にデュオを解散。同年に設立されたアップル・レコードのA&Rとなった。
アッシャーはアップル・レコードで新人のプロデュースを始める。それが当時、ロンドンに滞在していたジェイムス・テイラーだった。テイラーのデビュー・アルバム『ジェイムス・テイラー』のレコーディングは、1968年6月からトライデント・スタジオでスタート。クレジットはされていないものの、初期のテイラーの代表曲となるアルバム中の「思い出のキャロライナ」(Carolina On My Mind)でベースを弾いたのはポール・マッカートニーだった。コーラスにはジョージ・ハリスンも加わっているとされる。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。
Twitterアカウントは@kentarotakahash
Photo:Hiroki Obara