ノーマン・スミスの知られざる録音技術とザ・ビートルズ 〜【Vol.101】音楽と録音の歴史ものがたり

1962年6月6日のセッションとデビュー直前のピート・ベストの解雇

 アビイ・ロードのスタジオ2は、レコーディング・ブースのワンフロア上にコントロール・ルームが設置されていた。レコーディング・ブースからコントロール・ルームへ入るには木製の階段を昇る。

 1962年6月6日に初めてアビイ・ロードを訪れたザ・ビートルズは、3時間のセッションの間、階段を昇ってコントロール・ルームに入ることはなかった。すべての演奏/録音が終わってから、初めて彼らはコントロール・ルーム入りを許され、ジョージ・マーティン、ノーマン・スミスと話をすることになった。ロン・リチャーズやクリス・ニール、ケン・タウンゼンドもコントロール・ルームに居たようだ。

アビイ・ロードのスタジオ2。奥の階段の上がコントロール・ルームとなっている。現在はコンソールにAMS NEVE 88RSを採用している
Photo:Tom Swain CC BY-SA 3.0

 このセッション終了後のコントロール・ルームでの会話については、マーク・ルイソンが何度も著書に記述している。マーティンやスミスはメンバーに多くのアドバイスを与えた。そろえるべき楽器について、スタジオでのマイクロフォンの扱いについて。だが、メンバーは黙って、聞いているだけだった。そこでジョージ・マーティンは彼らに尋ねた。「君たちはずっと黙っているが、何か気に入らないことがあるのか?」と。

 すると、もう一人のジョージがようやく口を開いた。「そうだな、あなたのネクタイが気に入らない」と。

 一瞬、凍りついた空気が流れたが、すぐに全員が笑い出した。そして、そこからジョン、ポール、ジョージがジョークを飛ばし始め、急に場が打ち解けたのだという。

 ジョン、ポール、ジョージはピーター・セラーズの大ファンで、そのプロデューサーであるジョージ・マーティンに敬意を抱いていた。一方、マーティンはビートルズの初印象として、曲や演奏はさほどでもなかったが、人間的に強く引かれるものがあったとしている。これはユーモアを媒介にして、彼らが結び付いたことを物語っているとも言えそうだ。

 ノーマン・スミスも後のハリケーン・スミスとしての活動を見れば、まさしくユーモラスな才人である。音楽の歴史を変えるレコーディング・チームは、ユーモアのセンスを共有して生まれた。これは初期のビートルズを語る上で、大きなポイントかもしれない。

1964年に撮影された、若きノーマン・スミス(右)。左はビリー・J・クレーマーで、スミスのエンジニアリングによって翌1965年にザ・ビートルズ「ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット」のカバーでデビューし、ヒットを放つ
Photo:EMI

 ただし、ドラマーのピート・ベストだけは、そんな会話の蚊帳の外だったという。ジョージ・マーティンはピートの演奏力に問題を感じ、レコーディングではセッション・ドラマーを使うべきという判断に至っていた。また、それ以前にジョンとポールはピートを首にすることを考えていた。そんな状況下で行われたアビイ・ロードでの初セッションでは、それがオーディションなのか、レコーディングなのか、契約はどこまで進んでいるのか、伏せられていたのは当然だったかもしれない。レコーディングの契約書が既に準備されているとは、ピートの前では明かしてはならないことだったはずだ。

 だが、そんな事情を差し引いて考えても、1962年6月6日のアビイ・ロード・セッションにはやはり不可解なことが多過ぎる。この日、ビートルズは4曲のレコーディングを残している。そのうちの1曲はデビュー・シングル候補の「ラヴ・ミー・ドゥ」だ。そこではジョージ・マーティンのディレクションで、ジョンとポールのボーカル・パートの置き換えも行われている。そんなシリアスなレコーディングの後にしては、先のコントロール・ルームでの会話も奇妙に映る。

 モノラルの一発録音だったから、ミキシングなどの作業は必要無かったとしても、プレイバックを聴き返して、演奏・録音を吟味するのに時間を使うのがレコーディング・セッションの常識ではないだろうか。ところが、マーティンやスミスがアドバイスを与えたのは、楽器やマイクロフォンについての一般的な話だった。そして、ジョークで笑い転げて、この日のセッションは解散してしまっている。

他者の証言とは食い違う点のあるノーマン・スミスの記憶

 この点について、マーク・ルイソンの一連の著作とも、ほかのビートルズの歴史本とも、全く違うことが書かれている書籍が一冊だけある。それは2008年に出版されたノーマン・スミスの自伝『John Lennon Called Me Normal』だ。

 ノーマン・スミスは2008年3月3日に死去しているが、その直前に同書はプライベートな形で出版された。時系列に沿わない断片的な回想集とも言える一冊で、かなり読みにくいが、内容的には驚くべきことが数多く綴られている。アビイ・ロードでのビートルズの初セッションについても、当事者であるスミスの回想は他書とは大きく異なっている。

『John Lennon Called Me Normal』
Norman 'Hurricane' Smith(2007年)
自主出版によるスミスの回想録。2007年にニュージャージー州で開催されたイベント『The Fest For Beatles Fans』で限定発売した際には、「オウ・ベイブ」を歌ったという。直後の2008年3月にスミスは他界

 1959年にEMIに入社したスミスは、1962年ごろにはエンジニアとして、信頼を獲得するポジションになっていた。もともとはミュージシャンで、管楽器やピアノ、ドラムスも演奏するスミスは、ビッグバンドの録音を得意とした。クラシック畑出身のジョージ・マーティンはジャズやロックの制作経験が少なかったため、音楽的にもスミスを頼りにしていたようだ。新人のアーティスト・テストも大抵はスミスが担当したという。

 ビートルズが初めてアビイ・ロードにやってくるという日、スミスがスタジオ2に入ると、コントロール・ルームにはマーティンが居た。アーティスト・テストはアシスタントに任されるのが常で、チーフA&Rであるマーティンが居ることはまず無い。故に、この日は何か特別なことがあるのだろうと、スミスは考えたという。1962年6月6日の初セッションはアシスタントのロン・リチャーズが仕切り、マーティンがスタジオに顔を出したのは「ラヴ・ミー・ドゥ」の録音からだったとされてきたが、スミスはマーティンが自分より先にスタジオへ入っていたと記憶しているのだ。

 ビートルズ到着後の彼らが持ち込んだアンプの問題や、終了後のコントロール・ルームでのジョークの飛ばし合いなどについては、スミスの自伝とルイソンの評伝の内容はほぼ重なり合う。もともと、ルイソンは記述のソースはスミスの証言なのだ。自伝の中ではスミスはこう書いている。

 「彼らが帰った後、マーティンにどう思うかと聞かれた。私はこう答えた。彼らには何かとても変わったものがある、どう考えても契約すべきだと思う」

 ただし、スミスによれば、それは1962年6月6日ではなく、別の日に行われたアーティスト・テスト後の会話だった。その後、EMIの記録にある通り、1962年6月6日に「ラヴ・ミー・ドゥ」のレコーディングが設定された。それはロン・リチャーズに任されたが、OKテイクを録ることはできず、次の録音は3カ月後となった。これが当事者であるノーマン・スミスが、彼の記憶に基づいて、語るところなのだ。

 EMIの記録にはもちろん、別の日のアーティスト・テストなど残っていない。スミス以外にそれが行われたと語る者も居ない。彼の記憶違いの可能性はあるだろう。

 ビートルズは6月2日までハンブルク公演に出ていた。とすると、スケジュール的にも6月6日より前ににアビイ・ロード初訪問があったとは考えにくい、しかし、アーティスト・テストと「ラヴ・ミー・ドゥ」のレコーディングが別の日の出来事だったならば、1962年6月6日にまつわる多くの疑問は解消され、辻褄があってくる。音楽業界には記録に残らないセッションもある。あったとして、当時、誰が気にしただろうか、というのがスミスの主張だ。

『ラヴ・ミー・ドゥ』
ザ・ビートルズ
(2012年/EMIミュージック・ジャパン)
『ラブ・ミー・ドゥ』発売50周年を記念し、オリジナルのパーロフォンのジャケットを用いた限定盤のレプリカ17cmアナログ・レコード(2009年のモノラル・リマスターを使用)。「ラブ・ミー・ドゥ」は6月6日のセッションの後、9月に2度再録音。ドラムはリンゴ・スター版とセッション・ドラマーのアンディ・ホワイト版があり、初回盤だけ前者、以後は後者(リンゴはタンバリン)となっている

『プリーズ・プリーズ・ミー』で試みられたギター・アンプのオフマイク録音

 ノーマン・スミスは、ジェフ・エメリックのように生涯をレコーディング・エンジニアの仕事に捧げる人間ではなかった。EMIに入社して、エンジニアの仕事に就いたが、1966年には昇進によって、エンジニアからプロデューサーに転じた。スミスがエンジニアリングの技術的なことを語る機会はほとんど無かったから、たまたまビートルズを担当することになったEMIのエンジニアとしか認識されず、存在を軽視されてきたところもありそうだ。

 だが、『John Lennon Called Me Normal』の中で、スミスは少しだけビートルズのエンジニアリングについて語っている。デビュー・シングルとなった「ラヴ・ミー・ドゥ」が1962年10月5日に発売され、全英チャートで17位に昇った後、1963年1月11日発売の2ndシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」でビートルズは全英チャートの1位を獲得した。このヒットを受けて、ジョージ・マーティンは急遽、アルバムの制作に乗り出した。

 リバプールでのビートルズのライブに感銘を受けていたマーティンは、当初、キャヴァーン・クラブに機材を持ち込んで、アルバムを録音することを計画したが、キャヴァーンの環境は録音向きでないと断念。アビイ・ロードでのスタジオ・ライブ録音を選んだ。そこでクラブでのライブ・サウンドを再現するために、スミスが新しいアイデアを試した。メンバーのアンプから数m離れたところにマイクをセットアップ。そのオフマイクが拾うサウンドをミックスするのだ。

リバプールのキャヴァーン・クラブ(2019年撮影)。2度の閉店を経て、現在も営業中。ザ・ビートルズは1961〜1963年に出演した
Photo:Hens Zimmerman CC BY-SA 3.0

 ギター・アンプのオフマイク・セッティングといえば、イギリスのロック史上で有名なのは、レッド・ツェッペリンの1stアルバムだ。このレコーディング中にジミー・ペイジがエンジニアのグリン・ジョンズに提案し、ギター・アンプにオフマイクを立てるようになった。ジョンズはこのとき、初めてそれを試したという。

 だが、レッド・ツェッペリンの1stは1968年録音。ビートルズ『プリーズ・プリーズ・ミー』は1963年録音である。ノーマン・スミスはグリン・ジョンズより5年も早かったことになる。シャドウズの録音も手掛けていたスミスはエレクトリック・ギターのサウンドにも通じていた。『プリーズ・プリーズ・ミー』中の「ツイスト・アンド・シャウト」では一発録りにもかかわらず、間奏部分で2本のギターを完全ユニゾンで並べ、ダブル・トラッキング的な効果を得ていたりもする。

『Please Please Me』
The Beatles(1963年/Parlophone)
ザ・ビートルズの1stアルバム。シングル2枚=4曲以外の10曲は、本文で紹介したようにアビイ・ロードのスタジオ2で、ライブさながらにレコーディングした。ライブ・レパートリーだったカバー曲が増えた理由はそこにあるという

 

『Led Zeppelin』
Led Zeppelin(1969年/Atlantic)
レッド・ツェッペリンのデビュー・アルバム。1968年10月、わずか9日間で制作された。エンジニアはグリン・ジョンズ。最新リマスターは2014年にワーナーミュージック・ジャパンより発売

ガイド・ボーカルを生かした「イエスタデイ」のダブル処理

 ボーカルのダブル・トラッキングは、ビートルズでは2ndアルバムの『ウィズ・ザ・ビートルズ』から多用されているが、スミスはアルバム『ヘルプ!』に収録の世紀の名曲、「イエスタデイ」の中で、1カ所だけダブル・トラッキングを凝らしたことも明かしている。1回目の“I said something wrong, now I long for yesterday”の部分だけ、ポールのボーカルがダブルなのだ。2度目の同じ歌詞の部分はダブルではない。スミスによれば、ポールが最初に録音したガイド・ボーカルに良い部分があったため、それを使ったということ。だが、このわずかな意匠は言われなければ、気付かない人が大半かもしれない。

『Help!』
The Beatles(1965年/Parlophone)
B面6曲目に「イエスタデイ」を収録した5thアルバム。A面は映画『ヘルプ!4人はアイドル』のサウンドトラックも兼ねている
 

 スミスがエンジニアリングを手掛けた1962年から1965年の間に、ビートルズのレコーディングはモノラルの一発録音から4trまで進んだ。アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』『With The Beatles』のころまではEMIの自社製のBTRレコーダーが使われたが、2tr止まりだった。1963年に最初の4trレコーダーとしてTELEFUNKEN M10が導入され、ビートルズの曲では「抱きしめたい」(I Want To Hold Your Hand)から使用された。1965年にはSTUDERの4trレコーダーJ37が導入され、スミスが最後に手掛けたアルバム『ラバー・ソウル』では全面的に使用された。

TELEFUNKEN M10。1953年から発売され、1970年代まで生産されていたこともあり、後期型の回路は真空管からソリッド・ステートへと変更された。モノラル〜ステレオ〜マルチトラックといった仕様もさまざま
Photo:Jürgen Howaldt CC BY-SA 3.0

『The Beatles 1962-1966』
The Beatles(1973年/Apple/Parlophone/EMI)
“赤盤”と呼ばれる、デビューから『リボルバー』までの曲からのコンピレーション。「抱きしめたい」はシングルとして全英で5週連続1位の大ヒットを放ち、米キャピトルもこの動きを見て発売権を獲得。日本デビューもこの曲となったが、オリジナル・アルバムには収録されなかった
 

 この4年ほどの間に、ビートルズはノーマン・スミスとともに、自分たちの求めるレコーディング手法を追求した。1998年に邦訳されたブライアン・サウソール、ピーター・ヴィンス、アラン・ラウズの共著による『アビイ・ロードの伝説』の中にも、スミスの貴重な証言がある。1962年の後半からアビイ・ロードを頻繁に訪れるようになったビートルズは、いつもたくさんのレコードを運んできたというのだ。

 「リヴァプールからレコードを山ほど運んできて、どんなサウンドを作りたいか、私たちに教えたんだ。彼らはポップ・プロダクション班の私たちがとてもかなわないほど、アメリカの音楽に精通していた」

 そんなビートルズに刺激されて、アビイ・ロードの雰囲気は大きく変わった。スミスもスタジオの空き時間を使って、録音手法の実験に励むようになったという。

 『アビイ・ロードの伝説』の中で、ジョージ・マーティンがスミスについて述べていることも興味深い。マーティンは世の中の評価とは裏腹に、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が録音技術において、何かを成し遂げたアルバムであるとは考えていない。それはノーマン・スミスが切り開いた道の先にあった。あのアルバムで変化があったのは、録音技術ではなく、むしろアーティスティックな部分だとしている。

アビイ・ロードの伝説
ブライアン・サウソール、ピーター・ヴィンス、アラン・ラウズ
内田久美子 訳(1998年/シンコーミュージック)
原著は1982年刊行で、2002年に改訂増補版がペーパーバックとして発売。ザ・ビートルズのレコーディングを挟みながら、EMIスタジオからアビイ・ロードへの変遷をたどる。序文をポール・マッカートニー、まえがきをジョージ・マーティンが寄せている

 

 考えてみれば、1963年から1965年にかけて、ポップ・ミュージックの世界で誰がNo.1エンジニアだったかと言えば、それはノーマン・スミスだろう。「イエスタデイ」を手掛けたエンジニアだというだけで、途方もない業績だ。

 『John Lennon Called Me Normal』の中で、スミスは当時、ブライアン・ウィルソンからビーチ・ボーイズのエンジニアになることを請われたと明かしている。ブライアンはマリブに家を用意するから、と誘ったそうだ。だが、スミスはEMIを離れることはなく、1966年以後はエンジニアを務めることもなかった。

 

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高橋健太郎

音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。
Twitterアカウントは@kentarotakahash

Photo:Hiroki Obara

 

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