昨年6月、音楽制作会社ラダ・プロダクション内に誕生した山麓丸スタジオ。南青山に位置し、これから発売予定の松原みき「真夜中のドア〜stay with me」の360 Reality Audio化を手掛けるなど、既に多くの実績を誇っている。所属エンジニアのChester Beattyと當麻拓美の両氏に話を伺ったので、レポートしていこう。
Text:Tsuji. Taichi Photo:Hiroki Obara
サブウーファーのクロスオーバーが重要
ラダ・プロダクションは、以前も南青山の同じ地にスタジオを構えていた。そこはMCIのアナログ卓を有するアトリエのような場であったが、入居していたビルの建て替えにより山麓丸スタジオへとリニューアル。「スタジオを前提に建物を設計できる余地があったので、アース棒を20〜30本も埋め込んだりと、自由にやらせてもらえたんです」と語るのはChester Beatty氏。当初はMCIコンソールを継続して使うつもりだったが、2020年の初頭にソニーPCLで360 Reality Audioを体験し、考えが180°変わったという。
「ソニーのSonic Surf VRをはじめ立体音響にはなじみがあったものの、360 Reality Audioには従来とは違う革新性を感じました。例えばプラグインで直感的にサウンド・デザインできるワークフロー、そして一般的なヘッドホンでもバーチャライズして聴けるという手軽さ。“これは伸びる。新しいスタジオには360 Reality Audioを導入しよう”と思いが、試聴を体験した弊社スタッフの全員に共通していました」
コントロール・ルームには、13台のGENELEC 8331Aに同社のサブウーファー7360Aを2台加えたスピーカー・システムがスタンバイ。360 Reality Audioミキシング用のプラグイン=AUDIO FUTURES 360 WalkMix Creator™の音声はAVID Pro Tools|MTRX StudioもしくはFERRO FISH Pulse 16 DXから出力でき、その13+2chの信号が7360Aの内蔵DSPで各スピーカーに分配される仕組みだ。「360 Reality AudioはLFEチャンネルを持ちませんが、超低域のチェックのために7360Aを追加しています。ポイントはクロスオーバーの設定ですね」とは當麻拓美氏の弁。
「クロスオーバーを上げ過ぎると、8331Aから出ている低音の定位の動きが見えづらくなるんです。最近は50Hzとか55Hz辺りに落ち着いてきましたが、ミキシングする曲に合わせてクロスオーバーを調整し直すか、そのときの設定のまま進めるかをよく考えています。360 Reality Audioの特性なのか、全天球の下の方に配置した音は少しだけ低域が強まる印象なので、そういう変化も含め、きちんとモニタリングするために7360Aを活用しているんです」
低域に関して、Chester氏はこう語る。
「360 Reality Audioコンテンツはヘッドホンで聴かれることが多いと思うので、ミキシング用のスピーカーにもヘッドホン・リスニングを想定できるような聴こえ方が欲しいんです。ヘッドホンとスピーカーの違いの一つに“低域の聴こえ方”というのがありますよね。だからこそ7360Aが必要ですし、低音のバランスや配置もすごく気にしています」
Chester氏は360 Reality Audioミキシングの際、低音楽器をはじめ、さまざまな要素を全天球の下半分(耳の高さ〜下のスピーカーで再生される領域)に配置するそう。「重心を下の方に作りつつ、上の空いたスペースに動きがはっきりと分かる音やボーカルを置くことが多いんです」と言う。
「また、そうすることで13台のスピーカーを能率良く鳴らせるというか、ミックス全体の音量を稼ぎやすくなるとも思います。ある特定のスペースに音を集め過ぎると、そこを再生するスピーカーがレベル・オーバーしがちですしね」
「ステレオ・ミキシングの延長線上、という考え方では、どうしても前の方に音を集めてしまう傾向があるように思います」と當麻氏が続ける。
「なので、各オブジェクトの配置のバランス計算しながらミキシングするとよいのではないでしょうか。位置をうまく分散させることができれば、書き出しの際にスタティック・オブジェクトがレベル・オーバーすることも無いでしょうし、各オブジェクトを十分な音量で鳴らせることにもつながります」
NEUMANN VMS70のカッティング室
コントロール・ルームの隣室は、360 Reality Audioとは打って変わってアナログ・レコードのカッティング・ルームとなっている。Chester氏はもともとテクノのアーティストで、ドイツの名門Tresorなどから自身の作品をレコードで発表してきた。盟友のDJ SHUFFLEMASTERこと金森達也氏とともに、いつかは自分たちでカッティングまで行えたらと切望していたそうだが、今その夢が叶いつつある。
「外来ノイズの除去などに手間暇をかけましたが、この春からやっと本格的に稼働させることができます。機材は主に金森さんのもので、NEUMANNのラッカー盤カッティング・マシンVMS70やアウトボード類のほか、モニター・スピーカーのB&W Matrix 801 Series 2などを置いています。スピーカーは、これとJBL 4320のどちらかにしようと思っていたんですが、聴き比べた結果、Matrix 801 Series 2の方がいいなと。1980年代に作られたもので、まさにアナログ・カッティングするためのスピーカーという特性です。また、カッティング・スタジオで使われているのをよく見かけるので、なるべく同じものが欲しかったんですよね」
カッティングはChester氏や金森氏、當麻氏が手掛ける予定だそう。何とプレスまで請け負うプランも構想しているらしく、さまざまなニーズに答えていきたいと言う。
「僕も金森さんも、ヨーロッパでダンス・ミュージックのカッティング現場をたくさん見てきました。低音の出し方などコツを心得ているつもりなので、そこが強みになりそうです」
360 Reality Audioという先進的な音楽体験とアナログ・カッティングなる普遍的な要素を併せ持つ山麓丸スタジオ。そのユニークな感性がアーティストたちのクリエイティビティを触発することは、火を見るよりも明らかだ。