Satoshi Tomiieが語る坂本龍一との制作 〜NYでの『Heartbeat』の制作と日本ツアー

Satoshi Tomiieが語る坂本龍一との制作

当時はDAWでのピッチ直しなんてできないから、ボーカルをサンプラーに取り込んで坂本さんが自らピッチを直していた

 2023年3月28日に坂本龍一さんが他界されて、1年を迎えた。この追悼企画では、ソロ作品を中心に坂本さんと共作したミュージシャンやクリエイター、制作を支えたエンジニアやプログラマー、総計21名の皆様にインタビューを行い、坂本さんとの共同作業を語っていただいた。

 1980年代末にニューヨークへ渡り、デヴィッド・モラレスやフランキー・ナックルズと共にDef Mix Productionsの一員として活動を行っていたSatoshi Tomiie(富家哲)。渡米して間もないころ、坂本から声がかかり、『Heartbeat』(1991年)に参加することになった。若きハウスクリエイターだった富家自身にとって、それは偶然の巡り合わせだった。

話の中で好きなミュージシャンの名前を挙げて、それで坂本さんが興味を持ってくれたのかも

——最初に坂本さんとお会いしたときの経緯は覚えていらっしゃいますか?

富家 初対面はニューヨークです。当時ディー・ライトをやっていたTEIさん(TOWA TEI)がもともと坂本さんとつながっていたので、紹介されました。“ハウスミュージックを新しいアルバムで取り入れたいから、誰かいない?”ということだったと思います。それで、確かTEIさんの自宅で会ったんです。

——その時点で、富家さんはTOWA TEIさんとお付き合いがあったということですか?

富家 そうですね。どうやって知り合ったのかはっきりとは覚えていませんが、近いシーンにいたので、付き合いが始まったと思います。この時代、日本人でクラブミュージックをやっている人はそんなにいなかったし、しかもニューヨークで、となると限られるから。

——富家さんは、いつからニューヨークへ?

富家 1988年くらいから何度かレコードを買いに行くようになって、移住したのは1991年。当時はまだ日本にハウスのシーンみたいなものはなかったし、自分で作ったレコードを友達に聴かせたら“いつになったらイントロが終わるの?”と言われるような時代でした。たまたまニューヨークにいたので、たまたま坂本さんに呼ばれて、なんともラッキーな出会いでした。

——それで、TOWA TEIさんのお宅に伺うと、坂本さんもいらっしゃってて、ハウスを取り入れたいから手伝ってくれないかと言われたのですか?

富家 TEIさんからは“紹介はするけど、坂本さんご本人がどう思うかは分からないから”ということを言われて、そりゃそうだろうと。その後、坂本さんが一度僕の部屋に一回いらっしゃって。「わっ!狭い」と言われて「すみません」と答えたことは覚えています。参加の経緯は記憶が定かではないですが、僕は当時からリミックスの仕事をしていたので、ハウスっぽいビートを作るのは慣れていたから、『Heartbeat』でもそういう役割……つまりハウスミュージックの制作現場の独特な手順を知っていたので、声をかけていただいたんだと思います。あと、僕はハウスの前はジャズをやっていて、その辺りの知識があったのも、もしかしたら坂本さんに呼ばれた理由の一つかもしれません。ジャズ的な知識そのものというよりは、話の中で好きなミュージシャンの名前を挙げて、それで坂本さんが興味を持ってくれたのかも。DJ的な要素に加えて、そういう音楽を通ってきたのが、珍しいと思ってくださったんじゃないかと。

——日本に居たころ、坂本さんの音楽に触れたことは?

富家 もちろん中学生のときにYMOを聴いていて、『パブリック・プレッシャー』『増殖 - X∞ Multiplies』(どちらも1980年)が好きでした。ボーカルが入っていても、楽器っぽいじゃないですか。だから、不思議な感じでしたね……子供のころ、テレビで見た坂本さんが目の前にいるという。東京だったらきっとこうはならない。もちろん坂本さんを前にすると緊張しましたけど、ニューヨークはもともと僕にとっても、恐らく坂本さんにとってもある意味“非日常的”なところだったので、カジュアルとは言わないまでも、あまり垣根を作らずに接していただいたのかなと思います。坂本さんも、日本だと周りを気遣わなくてはいけないことも多いでしょうから、気楽な部分もあったのかもしれません。その辺りは、僕には知る由もないですけど。本当に気さくに接していただきました。

関係ないレコーディングセッションも見せてくれたことで、スタジオワークの手順を見て学べた

——当時の富家さんの制作スタイルは、どのような感じだったのですか?

富家 当時のハウスのマナーですよね。基本的にパートごとにループを作って、最初から最後までそれを全パートで繰り返して、ミュートで構成を作っていました。コンソールでライブミックスしていくスタイル。アレンジというか、それがハウスのミックスの一つの手法ということですね。当時のSSLコンソールのコンピューターが時々バグるので、オートメーションのデータが飛んだりしたこともありつつ。それを最終的にアナログテープ……1/2インチにミックスダウンしていく。

——当時、富家さんはどういう機材を使ってらっしゃったのでしょうか?

富家 AKAI PROFESSIONALのサンプラーS950とE-MUの音源モジュールProteusとか。リズムマシンはRoland TR-909やTR-707、シーケンサーはRoland MC-500MKII。MC-500MKIIのフロッピーディスクはデータが絶対飛ばなかったので優秀でした。

——どこのスタジオで作業していたのでしょうか?

富家 プラチナム・アイランドが多かったですね。エレベーターホールにキース・ヘリングの壁画がありました。坂本さんのセッションだから、機材は当時最新のものが多かった記憶があります。作品では使わなかったけど、EMS Synthi Aを坂本さんが持ってきて「すごいだろ」「すごいですね」ということがあったのは覚えていますね。坂本さんの制作に同席する中で、こうやってやるのか!といろいろ発見させてもらいました。

——“こうやって”とは?

富家 自分でハウスを作ってきて、ニューヨークに来たばかりの僕としては、ほかのアーティストの人たちがどうやってスタジオで作業しているのか、全く知らなかったわけです。坂本さんは、集中したいときはエンジニアを追い出して一人で作業していたり、シンセでフレットレスベースみたいな音を弾いていて、うまいなぁと思ったり……当たり前なんですけど。

——坂本さんとの共同作業はどのように進んでいったのでしょうか?

富家 僕は現場でビートを打ち込んでいたと思います。毎日プラチナム・アイランドに行って、ビートは仮のものが入っているところに、オーバーダビングしたんじゃないかな。フロッピーディスクでサンプルを持っていって、その場で合わせる。そんなに時間かけないでやった方がいいというか、当時のハウスはそこにある機材でやってみるという感じもあって。

——アルバム内の曲で「Heartbeat」だけは、富家さんも、坂本さんとエンジニアのパトリック・ディレットさんと一緒にミックスしたとクレジットされています。

富家 さっき言ったSSLコンソールのミュートで作っていく“ハウスのミックス”だと思います。完全にハウスのフォーマットでやってみたかったということなんでしょうね。ニューヨークでも、当時まだハウスは発展途中だったので、音楽的冒険があったんじゃないかと思います。

——ビートとミックス以外で、坂本さんを手伝ったこともありますか?

富家 ハウスの女性ボーカリストを何人か紹介したりしましたね。でも、プロっぽくない歌……ハウスってそういうところを良しとする部分もあるから。だから、さすがに坂本さんとしては気になったらしく、当時はDAWでのピッチ直しなんてできないから、ボーカルをサンプラーに取り込んで、坂本さんが自らピッチを直していたりして。“うわ、すみません、紹介してしまったばかりに”と思いました。

——坂本さんは、あまり具体的な指示をしないと皆さんがおっしゃっていましたが、富家さんの場合もそうでしたか?

富家 うーん……僕も若気の至りで、そんなに考えずにどんどん進めていったから、何も言われなければこれでいいんだなと思ってやっていました。怒られた思い出もないし。僕が関係ないレコーディングセッション……管楽器のレコーディングとかも見せてくれたりして。僕も、どうやってスタジオを使っているのか、興味があったので。実際、僕もその後で同じスタジオを何回も使っているし、スタジオワークの手順を見て学んだりできました。

——スタジオワークに関しての最初の先生の一人が、坂本さんだったと。

富家 どの作品かは覚えていないのですが、坂本さんとGOH HOTODAさんがミックスで試行錯誤しているときに、たまたま僕がそこにいて、「ちょっとやってみて」と。後ろでGOHさんと坂本さんが座っている中でコンソールの前に座って、ものすごく緊張しましたね。ハウスではない普通の曲だったので当然うまくできるわけもなくて、「リミックスじゃないんだからさぁ」と言われたりしました。

——それは、富家さんにやってもらったら、何かヒントになればと思って振ってみたのでしょうかね。

富家 だめだったらだめでいいよ、みたいな感じですかね。僕も全然経験なかったし。ただ、当時のハウスミュージックはある意味素人っぽい音楽で、アンダーグラウンドから出てきたことにも価値があったし。それを坂本さんが取り入れたかったんだろうなとは思います。

『12』はピアノもシンセも全部、楽器の芯ではない部分の響きが琴線に触れる

——『Heartbeat』ツアーも参加されていますね。

富家 それも「ツアーに来い」と言われて「分かりました」と。

——ハウスのためにニューヨークに行ったはずが、坂本さんのツアーメンバーになって、日本での公演に出たのは、当時の富家さんにとっては不思議ではなかったですか?

富家 すべてが不思議ですよ。僕はそういうところを目指していたわけではなかったので。ただ、親戚に、僕が何をやっているか分かりやすいなとは思いました(笑)。ツアーでは「連弾やるよ」と言われて「東風」をステージで坂本さんと演奏しました。しかもスタートは坂本さんが左で僕が右だから、坂本さんが伴奏で僕がメロディを弾くんです。プレッシャーがしんどいでしょ?(笑)。若気の至りですよ。でも断る理由もなかったし、自分が主役のショーではないので、そういう意味では割り切れて、いい体験ができました。

——富家さんにとっては、ものすごく大きな脇道のようなものだったんでしょうね。

富家 ウルトラでかい脇道ですけどね。ちょっと来いみたいな感じで呼ばれて、引っ張られちゃう。でも、面白そうだから、誘われたらもちろん行くでしょ? 自分自身では絶対行けない場所でしたから。

——ですが、富家さんがいち早くニューヨークに飛び込んでいなかったら、こうはなっていなかったはずです。

富家 タイミングですよね。坂本さんと仕事をしたくてニューヨークに行ったわけじゃなくて、本当にハウスやエレクトロニックミュージックをやりたかっただけで。坂本さんのツアーも、自分が使っているものはともかくとして、機材も全然分からないし、ツアーって全体がこういうふうに動くのかと知る機会になりました。あと、坂本さんとアート・リンゼイのコンサートに呼ばれて、ちょっと手伝ってと言われたこともありました。そういう、自分が思ってもいなかった、ハウスとは別のニューヨークのアンダーグラウンドシーンにつないでいただいたり。自分で探していってできるものではなかったので、ありがたかったですね。

富家が参加した、『Heartbeat』ツアー日本武道館公演のPAレポート。1992年4月号より

富家が参加した、『Heartbeat』ツアー日本武道館公演のPAレポート。1992年4月号より

——その後、坂本さんとニューヨークでお会いする機会はあったのでしょうか?

富家 空港でばったり会ったりしました。坂本さんは、公共の場で発見されるのが嫌だと思うので、声をかけると一瞬ビクッとして、「富家です」と言うと「おお!」みたいな感じで。そんなときもすごく気を遣ってくださって、荷物を待っているときに世間話をしてくれたり。仕事でも、親分肌な感じではなくて、コラボレーターとして扱ってくれていたと思います。

——クラブミュージックを作っている方だと、一人で制作するのが基本にあると思いますが、坂本さんも同じようなスタイルで、かつさまざまな音楽を手掛けていたと思います。そこにシンパシーがあったのかもしれませんね。

富家 坂本さんとはレベルが違う気がするけど、坂本さんのように自分のピアノの音とか、響きのところまでこだわるのだったら、自分でやるしかないと思うし。僕は、坂本さんの作品で一番好きなのは『音楽図鑑』のような初期か、最後の『12』なんです。『12』はピアノの音よりリバーブの音の時間が長いので、それもこだわっているんだなと。ピアノもシンセも全部、楽器の芯の部分ではない部分が琴線に触れるというか。ホームレコーディングの響きを含めて、アルバムを通して素晴らしいなと思いました。

 

【Satoshi Tomiie】1966年生まれ。1989年にニューヨークに渡り、フランキー・ナックルズのプロデュースでシングル「Tears」でデビュー。以来、ハウスのクリエイター/DJとして活躍を続ける。その直後、坂本龍一『Heartbeat』の制作と、その後のツアーに参加。次作『Sweet Revenge』でもビートを提供した。近年はモジュラーシンセでのライブパフォーマンスも積極的に行う。最新作は昨年リリースした『Magic Hour』で、Kuniyuki Takahashiをフィーチャー

【特集】坂本龍一~創作の横顔

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