佐橋佳幸が語る坂本龍一との制作 〜「The Other Side of Love」『Smoochy』

佐橋佳幸が語る坂本龍一との制作

教授はとにかく最新のことにチャレンジする。俺が先陣を切ってやるんだっていう人だった

 2023年3月28日に坂本龍一さんが他界されて、1年を迎えた。この追悼企画では、ソロ作品を中心に坂本さんと共作したミュージシャンやクリエイター、制作を支えたエンジニアやプログラマー、総計21名の皆様にインタビューを行い、坂本さんとの共同作業を語っていただいた。

 日本を代表するセッションギタリスト佐橋佳幸は、1990年代güt期の坂本作品に多数参加。山下達郎や小田和正など名だたるアーティストをサポートしてきた彼の目から、坂本龍一とのセッションの特別な部分を語ってもらう。

「The Other Side of Love」は教授と青木君と僕の3人だけの演奏

——坂本さんとのお仕事、最初は高野寛さんが『Sweet Revenge』ツアー(1994年)の最終日だけ参加できないので、その日だけ佐橋さんが演奏されたと聞きました。

佐橋 実はもうちょっと遡る話がありまして。1980年代の後半に僕は、藤井丈司さんや飯尾芳史さんの事務所=トップへ移籍して、その辺りから坂本さんやYMO周辺の方々と徐々に接近していくことになりました。当時のマネージャーと年末にニューヨークへ遊びに行こうとなって、坂本さんのお宅にお邪魔したことがあったんです。それが初対面。その後、1994年に自分のソロアルバム『TRUST ME』を出すんですけど、この年、山下達郎さんのライブ『TATSURO YAMASHITA Sings SUGAR BABE』バンドに参加して、そのコンサートを教授が見に来ていたんです。公演後に、教授が達郎さんに「あの子誰?」って聞いたそうで。それで達郎さんに紹介していただいて、「何年か前にお宅へお邪魔しました!」「ああ!あのときの!」と。高野君のトラ(代演)は、それがあって声がかかったと思うんです。

——それで1公演だけ参加することになったと。

佐橋 僕はリハーサルに参加した記憶がなくて、高野君が参加したライブの音源と譜面をもらって。だって、ツアーはもう始まっていたから。当日、通しでリハをやらせてもらっただけだったと思う。違ったかな? 何しろずいぶん前のことなので記憶が曖昧ですけど、それで乗り切った。そのころ教授はgütレーベルを立ち上げた時期で、これをきっかけに教授からgütの仕事で呼ばれるようになりました。

——ツアーへの参加がきっかけで、レコーディングにも参加することになるのですね。

佐橋 当時は、仕事が早く終わったら「教授、やってるかな?」とかスタジオへ遊びに行ったり。駒沢にあった、当時のフォーライフのパラダイススタジオをロックアウトしていて、SSLコンソールの横にALESIS ADATがバーって積み上がっていて。

——商業スタジオのMTRといえば、SONY PCM-3348の時代ですよね? なぜADATが?

佐橋 ブラジルのジャケス(モレレンバウム/vc)だったり、いろんな演奏をやり取りするのにADATを使っていたし、日本ほど海外ではPCM-3348が普及していなかったので。それでニューヨーク、東京、ブラジルっていう感じで作業されていたと思うんですけど。『Smoochy』(1995年)やGEISHA GIRLS、あと中谷美紀ちゃん、(坂本)美雨ちゃんのデビューとなった「The Other Side of Love」(坂本龍一 feat. Sister M名義/1997年)とかも参加させてもらって。

——「The Other Side of Love」はドラマ『ストーカー 逃げ切れぬ愛』の主題歌として話題になりました。

佐橋 ドラムがスカパラの青木(達之)君で、あと僕と、教授の3人しか演奏していないんです。あとは全部教授が出している音です。事前に「今度ドラマの主題歌を録るから来てね」と言われて、「どんな感じですか?」と聞いたら「平たく言うとプロコル・ハルムだから」「分かりました」って言って。じゃあ、ブリティッシュな方がいいかなと珍しくHIWATTのアンプを持って行った。「おっ、でかいアンプ来たね」「だってアメリカンじゃないでしょ?」と。ゴールドのFender StratocasterとHIWATTの組み合わせでした。

——『ストーカー 逃げ切れぬ愛 オリジナル・サウンドトラック』は坂本さんと佐橋さんの共作となっています。

佐橋 「ドラマのサウンドトラックも頼まれたんだけど一緒にやらない?」と言われて。教授はニューヨークに戻っていて、「僕が上の句を書くから」といった感じで教授からモチーフが来て、その続きを作ってねみたいな感じでやり取りしました。今だったらリモートレコーディングは当たり前ですけど、そんな時代ではなかった。でも教授はそれをやりたいということで、モウリアートワークススタジオへ行ったら、飯尾さんが「教授がどうしてもニューヨークから東京にいる佐橋君にデータを送ってやり取りしたいって」と。マイクロソフトの社長さんがスタジオに来たり、見たことのない通信機器がスタジオへ持ち込まれていて、ブースを1つ分占領していたり。長時間かかってようやくダウンロードできたデータが、ピアノの5音だけだったりするんですけど。それを元に続きを作ったり、それをモチーフにしたりしながら作ったサウンドトラックでした。『Smoochy』や『D&L』ツアー(1995年)もそうだったんですけど、教授はとにかく最新のことにチャレンジする。俺が先陣を切ってやるんだっていう人だったので。

——ツアーで感じたその最新のことは?

佐橋 YAMAHAのMIDIグランド(ピアノ)。足元にペダルを置いて、音源モジュールを脇に置いて、みたいな感じで、新鮮でした。『D&L』ツアーは、映像作家の原田大三郎さんが、パッドに映像とかアサインして、みんなの演奏に合わせてアドリブで映像を切り替える。そういう新しいことをいっぺんに取り入れたツアーだったので、面白かったです。

ツアーでの“戦メリ”を「そんな生優しいひずみじゃなくてぶっ壊せ」と

——当時、坂本さんとはどんなやり取りを?

佐橋 教授は既にニューヨークを拠点としていたので、日本の音楽事情に関して、「誰かいいギター居ない?」「こういうミュージシャン知らない?」とか聞かれて、山本拓夫君(sax)たちSOLID BRASSのチームや、八木のぶおさん(harm)とか、いろいろ人を紹介したりもしました。あと、ものすごく音楽的だけど、あるときに「ぶっ壊せ」と。

——“ぶっ壊せ”とは?

佐橋 『D&L』ツアーのとき、“戦メリ”(「Merry Christmas Mr. Lawrence」)を、教授のMIDIグランドとクリス(ミン・ドーキー)のウッドベースと僕がヘビーメタルみたいにひずませたギターでやってるんですよ。そのアレンジを教授が思いついたときは、「佐橋君、そんな生優しいひずみじゃなくてさ、どうしちゃったの?ぐらいひずんだギターで、こういうパターンやってくれないかな」って。あとツアー中に「YMOの曲もやってもいいんじゃないか」ってスタッフが言って、「佐橋君、「Behind The Mask」知ってるよね?」と。僕が「知りません。僕はテクノ嫌いです」って答えたら、全員が黙っちゃったんだけど、教授が爆笑した瞬間に、全員が笑っていいんだって分かってその場は大爆笑になりました(笑)。

——テクノはお嫌いだったのですか?

佐橋 だって本当のことだし、僕にそこを頼られても役に立ちませんから。そういえば、『D&L』ツアーの初日に、教授がいつまでたっても来ないんですよ。そうしたら「ごめんごめん。時間がちょっとさぁ」と言って、教授が金色の髪で現れたんです。「うわぁ、やっちゃいましたね」「やっちゃったよ」とか言って。それで無事初日を終えて、隣の教授の楽屋から大声が聞こえて、「なんだろう?」と思っていたら、まだ教授のお父様(坂本一亀氏)がご存命で、「龍一、なんだその髪型は! なぜ音楽で勝負しない!?」って。外国人メンバーは、ボスである教授が怒鳴られているので最初不思議な顔をしていましたけど、僕が説明したら大笑いしていました(笑)。

佐橋が取材時に持参してくれた『D&L』ツアー時のスナップ

佐橋が取材時に持参してくれた『D&L』ツアー時のスナップ

エンジニアがいてもビックリするくらい教授自身がコンソールに触る

——スタジオでの作業はいかがでしたか?

佐橋 エンジニアはフェルナンド・アポンテで、彼が来ていないときは田中信一さんやスタジオのエンジニアが録っていました。ADATにいろいろな素材を取り込んでいたから、僕もレコーディングではいろいろなパターンを弾いて、「両方もらっておけば後で考えるから大丈夫」とか。そういうふうに後でリミックスしていく感覚でした。あの当時の最先端のやり方を、とにかく追求されてたなという。その後、コンピューターでオーディオを自由に動かしたりできるようになっていく前夜ぐらいのところだったんでしょうかね。

——坂本さんからのオーダーで難しかったことはありますか?

佐橋 難儀したのは『Smoochy』の「Tango」。すごい名曲だと思うんだけど、めちゃめちゃ難しくて。コードネームが分からないと言われて、ピアノでこういう押さえ方だよと。それを見ながら、その次も……とにかくハーモニーがすごいし、それをやらないと成立しないみたいに作曲されている。教授の編曲は作曲と同じライン上にあるので、これはこのままやらなきゃダメだよなと思って、大変苦労した覚えがあります。

——でも『Smoochy』の「Tango」のクレジットを見ると、佐橋さんのお名前は載っていません。

佐橋 じゃあ、僕の弾いたテイクは使われていないんだ。それも取捨選択の結果使われていないし、いろいろトライした末に、ヴィニシウス・カントゥアリアの演奏が使われてたんでしょうね。もちろんツアーでは「Tango」も弾きました。『Smoochy』で僕が割とはっきり入っているのは「Poesia」じゃないかな。

——あのトロピカルなナンバーですね。あとは「愛してる、愛してない」。

佐橋 ああ、なるほど。ツアーもやっているから、ちょっと記憶が曖昧になっています。驚いたのは、フェルナンドとかのエンジニアがいても、びっくりするぐらい教授自身がコンソールに触るんですよ。いろいろやって試してみて、これ要らないかな、あってもいいかなとか。それを教授の背中側でボーッと見ていました。教授はやっぱりSSLの卓が好きだったのかな。教授と仕事をしているときに、NEVEの卓だったことは一度もない気がするんですよ。教授が卓の前に座って、後ろのソファから話をしているとき、教授の後ろにSSLの卓があった記憶がある。あと、リズム録りを誰かとした曲はないんですよ。100%ダビングです、教授の仕事は。

——生ドラムではなく、プログラミングのビートが多い時代ですからね。

佐橋 中谷美紀ちゃんの「MIND CIRCUS」(1996年)などもそうでした。全部構築して、そこからどうしていこうということだったので。だから逆に言うと、「今日は佐橋君の日ね」って感じで呼ばれるわけですよ。「ちょっと2、3曲やってもらっていいかな」って。一応一通りの楽器を持って行って、リクエストがあったらパッと「ガットギターですね! これ、そっちの方がいいですよね」とか、こう一緒に選んでやっていく。

——ひょっとすると後で考えが変わったりしたら、それは使われないかもしれないですよね。

佐橋 そうそう。あの時代って、そういうことが起こり始めた。だから多分いろんな素材を集めてきてやるっていうモードだったんだけども、やってるうちに向かっていく方向が定まってくる。譜面も、「ここはラミソ」みたいに書かれた覚えが一回もない。道筋だけが分かるものが譜面としてあって、その上で「こういうイメージなんだけど、なんかアイディアある?」みたいなことが多かった。それで「ちょっと思いついたことがあるので、まずそれからやってみていいですか?」って。「そういうアプローチいいね、じゃあサビになったらさ……」とかって。そういう感じでやっていく。「MIND CIRCUS」がまさにそうで、今度は教授がそれに触発されてまた別のアイディアを出してくる。

——ほかの曲でもそういうやり取りが?

佐橋 GEISHA GIRLS「少年」(1995年)も、デモにギターのシミュレーションが入っていて。「これ、教授もしかして……」「そうだね。サイモンとガーファンクル『セントラルパーク・コンサート』の感じだね」とかがあってダビングしましたね。そうやってギターを録った後、「ちょっとお願いがあるんだけど……」って歌詞付きのメロ譜を渡されたんです。ダウンタウンのお二人のために渡す必要があるというから、譜面が読める僕が仮歌を歌わされた。完成した曲を聴くと僕の声もダブルで出ていることに後になってから気がつきました(笑)。

——佐橋さんから見て、坂本さんの独特なところは?

佐橋 プレイヤーというよりは音楽家だったんだろうなって思うんですよ。いつも全部を聴いているっていうか。プロデューサーであり、全体を一人で表現するときも、いろいろな人たちの力を借りて表現するときも、全体で一つのものを表現するという信念があった。その意味ではgüt時代のポップチューンも、晩年ピアノで一人で演奏しているものも、どこか変わらないんですよね。もちろんクラシックのアカデミックなことをすべて学んでらっしゃいますけど、実際にロックンロールだったりファンクだったり、ポピュラー音楽も意識されていた。現代のレコーディングに対する興味と実験は常にされていましたね。

 

【佐橋佳幸】1961年生まれ。1983年にUGUISSのメンバーとしてエピック・ソニーからデビュー。解散後はセッションギタリストとして、山下達郎、竹内まりや、佐野元春、小田和正など無数のレコーディング&ライブに参加。1980年代後半からは作編曲/プロデュースにも活動の幅を広げ、1994年にソロアルバム『TRUST ME』をリリース。『Smoochy』のほか、『ストーカー 逃げ切れぬ愛 オリジナル・サウンドトラック』などgüt期の作品で坂本をサポート

【特集】坂本龍一~創作の横顔

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