毛利泰士が語る坂本龍一との制作 〜オペラ版『LIFE』と『ZERO LANDMINE』

毛利泰士が語る坂本龍一との制作

教授は本当にコマ送りのように作っていった。それを目の前で見せてもらって勇気をもらいました

 2023年3月28日に坂本龍一さんが他界されて、1年を迎えた。この追悼企画では、ソロ作品を中心に坂本さんと共作したミュージシャンやクリエイター、制作を支えたエンジニアやプログラマー、総計21名の皆様にインタビューを行い、坂本さんとの共同作業を語っていただいた。

 1999年から2005年まで、世紀の変わり目に坂本をアシストしたシンセプログラマー毛利泰士。『御法度-GOHATTO-』のサントラやオペラ版『LIFE』(どちらも1999年)、一大プロジェクト『ZERO LANDMINE』(2001年)などに携わった。その後、2022年『坂本龍一Playing the Piano in NHK』の収録で再び坂本の傍で尽力することとなる。

CD-Rのバックアップで徹夜が続く中、「いいよ、いいよ、寝てて」と言われた

——毛利さんが坂本さんのプロジェクトに関わったのはいつからですか?

毛利 『LIFE a ryuichi sakamoto opera 1999』からです。それまでお世話になっていた門倉聡さんの下を離れることになり、門倉さんが教授の制作をサポートしていたオフィス・インテンツィオにつないでくれたんですよ。ちょうど『LIFE』のリハが始まるころでしたね。

——それで、入社後いきなりライブ現場に派遣されたと。

毛利 MIDIでの打ち込みや、もともとクラシック育ちなので音楽的なことはいけるだろうと自分では思っていたんですけど、分からなかったのは当時出てきたDIGIDESIGN(現Avid)Pro Toolsとデジタルオーディオのこと。とにかく現場に入って、前任の東浦(正也)さんに教えてもらいながら、そのまま現場をこなしました。

——そのときのマニピュレート業務は、いわゆるシーケンスの管理ですか?

毛利 Pro ToolsとOTARIの単体ハードディスクレコーダーRadar IIでオーディオを出しつつ、MIDIはOPCODE Vision。ここが止まったらすべてが終わる、システムの中核をフェルナンド(アポンテ)さんと2人でいきなり任されて。とにかく勉強して、どうにかして成功させようとだけ考えてるうちに終わりましたね。リハをしている段階でどんどん変わっていくので、Pro Toolsで編集してRadar IIへ流し込む。当時一番つらかったのはPro ToolsからRadar IIへ取り込む時間と、Pro Toolsデータのバックアップを取る時間でした。当時は650MBのCD-Rに分割保存していくしかなくて、教授の作品だからエラーがあってはいけないので等倍速や2倍速で頑張ってたんですよ。そうすると、次の日の作業が始まるまでにバックアップが間に合わない。CD-Rの書き込みを開始したら寝落ちして、書き込みが終わって“チーン”とアラートが鳴ったら、次のディスクを……それを夜中じゅうやっている。

——クリエイティブではない分、つらいですね。

毛利 1〜2年、そんな生活をしていた記憶がありますね。KAB(坂本の事務所)のスタジオでも、夜まで教授と作業して、教授が帰っていってもずっとバックアップを取ってデータ整理して。それをやっていたら、次の日の教授が来る時間になっていて、「……あ、おはようございます。すみません!」とあわてて起きたら「いいよ、いいよ、寝てて」と言われたり。

毛利が初めて坂本龍一をサポートした『LIFE a ryuichi sakamoto opera 1999』の本誌レポート(1999年11月号)

毛利が初めて坂本龍一をサポートした『LIFE a ryuichi sakamoto opera 1999』の本誌レポート(1999年11月号

サンプリングした何かに新しいハーモニーを当てる手法が完成していった

——そのスタジオはどんな感じだったのですか?

毛利 青山にあった作曲とプリプロをする部屋で、1999年から2001年くらいまではデモ作りや素材をサンプリングするような作業を、二人でずっとやってました。『LIFE』のオペラが終わって、『御法度』のレコーディングにそのまま突入して。それで初めて教授と2人っきりでずっと作業する時間になったんですね。教授がMacの前に座っていて、後ろの壁面に24Uのラックが並んでいる。そのラックの前に僕が座っていて、教授の背中をずっと見ていて。教授が何かしそうになったら、“次はこれに触るだろう”とそこにカーソルを持っていっておく。

——その時代、坂本さんはどんな手順で作曲をされていたのでしょうか?

毛利 音楽と音色を一緒に作っていくみたいなやり方をしていました。当時は、忙しかったこともありましたが、うなりながら作曲していましたね。そういうときは、丸一日、僕とも何の言葉も交わさずにいて。僕は、あまり緊張感を出さないでいられるタイプだから、大丈夫だったんだと思うんですよね。同じB型だし。一応緊張して同席しているんだけど、あんまりピリつかない。でも、教授は一度動き出すとガーっといくんです。すると突然「あれを録音してみよう」とボウルみたいなものを出してきて、「マイクを立てよう」と。それは録音というよりはAKAI PROFESSIONAL S3200にサンプリングするので、TUBE-TECH MP 1AからS3200につないで。

——曲としてはできていて、サウンドを作っていくときに急にそういうサンプリングのアイディアが出たりしたのでしょうか?

毛利 それも全部同時なんですよ。モチーフになるような音というか、教授の作品も、このくらいのころからミクスチャーになっていく。たぶん、自分で思っている何かを録るという感じで作っていたのが2000年くらいまでなんじゃないかな。もちろんそういうことはずっと続けてらっしゃるんですけど。当時N.M.L.『ZERO LANDMINE』というプロジェクトがあって。

——坂本さんが世界中の音楽家に呼びかけて行われた、地雷ZEROキャンペーンのための作品ですね。

毛利 世界中の民族音楽を実際に収録してきたものを、リハーモナイズする手法が大きく取り入れられました。『LIFE』のオペラもそうでしたけど、この時代から何かを使ってそこに新しいハーモニーを当てるという手法が完成していって。その先ではもっとランダムなノイズの方に傾倒していくわけですが、そういう素材感を、メロディのモチーフとは別に、ずっと探していたんだと思うんです。そういうものを常に情報として集めていて、常に誰かとE-Mailをやり取りしていた印象があるんですよ。スタジオで作業していても、ふっと手を止めたらもう誰かにE-Mailを送っていて。もちろん仕事の連絡もあると思うけど、音楽的なこととか、そういうインターネットでの情報のやり取りを常に誰かとしていて、そこからインスパイアされて作っていたんじゃないかなと思います。

——なるほど。後の『out of noise』(2009年)以降の作品にもつながる話です。

毛利 この取材前、『御法度 -GOHATTO-』のサントラを久しぶりに聴いていたんですけど、メロディのモチーフは1個だけなんですよ。『ZERO LANDMINE』も主題と変奏曲っていう形が明確になっている中で、サンプリングが足されていくという作りですよね。サンプリング自体は当時であっても最新ではないとは思うけど、“変奏の方法”と言うのか……テクスチャーを主題とぶつけてみるやり方。それを探している作業を手伝っている感じが面白かったです。僕自身、クラシック出身なので、ポップスやロックにちゃんとクラシックが吸着する感じ……“それがありなんだ!”と教授が目の前で見せてくれて、“これ、やっていいんだ!”って思わせてくれたんですよね。

——どういう意味でしょうか?

毛利 演奏家って、もっとフィジカルに音楽を作るじゃないですか。もちろん、それも一つの形だけど、教授は本当にコマ送りのように作っていって、一歩一歩でもこうやって先に作っていけばいつかできる……というふうに音楽を作っていいんだ、というのを目の前で見せてもらって、ものすごく勇気をもらったんです。そうか、ワーって演奏してできなくていいんだ、音楽って、と。教授は、それをどんな角度からでも探してらっしゃったと思います。面白かったのは、なにかのときに数式のグラフみたいなものを見て、それを和音に変換しようとしてたのか、どうなのか分からなかったですが、それを見ながら何かを作ろうとしていたこと。それそのものが理由なんでしょうね。音楽の何かの理由になる数式なんだろうなって、後ろで見ていて思いながら、そういう何かを音に変換する作業をたくさんやってらっしゃった。僕は、そこが教授のすごく好きなところ。“数式を音に変換したらこうなりました!”じゃなくて、しっかりと原因と結果を結び付けて形にしようとしていて、それが美しいか美しくないかを、一生懸命探していたんです。

教授のサウンドの妙は“にじみ”。奥行きやリバーブ感をフィルターで出す

——当時の制作でほかに思い出されることはありますか?

毛利 AKAI PROFESSIONALのサンプラーとか、YAMAHAの最新シンセとか、いわゆる電子楽器を駆使して音楽を手で作っていくというスタイルの教授の作業を手伝ったのは、たぶん僕が最後の世代。MIDIで録って、音色を作ってという作り方。それとサンプル素材を組み合わせるというミクスチャーの時代でした。この時期、中谷美紀さんとか坂本美雨ちゃんのアルバムで、歌モノもやられていたので、それは楽しかったです。『LIFE』のオペラとか『ZERO LANDMINE』とかと並行して、ポップな作品を作るスイッチというか。分かりやすいコードにメロディを加えてピアノを弾いている姿を見られたのが、すごく新鮮でしたね。

——作品の幅の広さも、坂本さんならではですね。

毛利 1999年、恵比寿ガーデンホールでの教授のピアノコンサートに槇原敬之さんがゲスト参加したんです。それがきっかけで今でも槇原さんと仕事でご一緒しています。それ以前にも一度だけ槇原さんの現場に入ったことがあったので、そのときに再会して。このコンサートで、教授が槇原さんの曲をピアノだけで伴奏したんですが、どこかブルージーだったんですよ。いつもより足踏みも大きくて、そういうスイッチが教授にあるんだなぁと。それと、当時、教授のシンセの使い方も以前とは変化していて、それを横で見ていたことが、シンセプログラマーとして槇原さんにすごい還元できたとも思うし。

——具体的には、どういう点で?

毛利 やっぱりフィルターなんですよね。教授の場合はピアノもそうですけど、妙は“にじみ”だと思うんです。湿度が高い音色っていうか、フィルターとレゾナンスが和音とにじんでいくっていうんですかね。奥行きとかリバーブ感をフィルターで出すというか、前に出てこないで奥に音が飛ぶように作る。当時はAKAI PROFESSIONALのサンプラーとCLAVIA(現Nord)Nord Leadが多かったかな。自分にとっても、“シンセってバキバキじゃなくていいんだ”というのが勉強になりました。あの時代の教授は、だんだんアンビエントに傾倒していきましたし、『out of noise』以降は非楽音と楽音がさらに溶けていく。偶然性とかランダムを探していく中でも、理由がなければいけないところから徐々に変化していって、最終的に『12』のように、あるものを受け入れるような音があるというような作品になっていったのがすごく興味深いです。

自分の環境でリラックスした状態での制作。そこに同席できたのは貴重だった

——その後、毛利さんは2005年にいったん坂本さんの下を離れることになります。

毛利 僕も30代〜40代の時期になっていくので、なるべく教授との仕事のようなことから離れていました。でも、振り返ってみるとそこで得たことが血肉になっているし、離れられない何かがある。当時は、オーディオも録音できるし、MIDIも全部動く……プリプロルームで大半のところまでは作れるようになった頃だったから、2人きりで作業することが多かったんだと思うんですよ。外のスタジオに行って、大勢人が来ると、“外行きの坂本龍一”になっちゃう。そうではなくて、自分の環境でリラックスした状態で作っている。そこに同席できたのは確かに貴重だったかもしれないですね。で、急に一昨年、『坂本龍一Playing the Piano in NHK』の収録に、久しぶりに呼ばれて。

——どういう役割で参加されたのですか?

毛利 僕は収録に途中から参加することになって、MIDIピアノのデータを収録して管理する役割だったんです。いつもそうですけど、特にあのときは失敗ができないというか、教授もご自身の体調のことがあってか、何度も演奏できる状態じゃなかった。技術面でトラブルがないようにと、17年ぶりにお声がかかってお手伝いすることになったんです。何かしらの恩返しができるタイミングが最後に来たのかなと思ったら、うれしかったですね。収録が終わった後、僕が東京のスタジオの管理もすることになったので、何度かお邪魔して話したりとかして、そのときはまだお元気だったんですよ。E-Mailのやり取りもしていて、まだ元気なんだなと思ってしまっていました。NHKの後も、映画音楽を作っていると聞いて驚いたし。昔ご一緒していたときは、何もやりたくない、何も浮かばないみたいなムードを教授が出しているようなところを見たこともあったから、教授は常に自分がスイッチオンでいられるように、外堀を埋めて頑張る人なんだなって当時は思っていたんですよ。でも、最後までそんなふうにずっと音楽を作っていたことに尊敬しかなく、恩返しどころか、最後まで教えていただいたな、という気持ちでいっぱいです。

 

【毛利泰士】1974年生まれ。作編曲家の門倉聡の元でシンセプログラマーとしてのキャリアをスタート。1999年から坂本龍一の専属となり、『御法度 -GOHATTO-』のサントラや『ZERO LANDMINE』の制作、『LIFE a ryuichi sakamoto opera 1999』や2005年のツアーなどのステージでサポートを務める。その後、槇原敬之、福山雅治、藤井フミヤなど多くのアーティストをサポートしながら、自身のバンド活動も精力的に行っている

【特集】坂本龍一~創作の横顔

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