トリッピー・レッド『A Love Letter To You 5』のミックスエンジニアが明かすヒット曲の音作り

トリッピー・レッド『A Love Letter To You 5』のミックスエンジニア、コーエン・ヘルデンスが音作りを解説

オランダ出身で現在はアメリカのフロリダ州、マイアミを拠点に活動するミックスエンジニア、コーエン・ヘルデンス。彼のワークスはこれまでにグラミー賞にノミネートされたほか、アメリカン・ミュージック・アワード、ビルボード・ミュージック・アワードといった音楽賞をはじめ、ダイヤモンドディスク2枚とプラチナディスク42枚というセールスを記録した。彼が携わった中で最も有名なアーティストとしては、2018年に強盗殺人事件の悲劇的な被害者となってしまったXXXテンタシオンが挙げられるだろう。この記事では、ヘルデンスが手掛けた近年の作品として、トリッピー・レッドのアルバム『A Love Letter To You 5』をピックアップ。ミックスを手掛けることになった経緯や使用スタジオ&機材に加え、後半ではアルバム内の楽曲「Wind」のミックス手法を詳しく解説する。彼のミックス信条や、磨き抜かれたテクニックを見ていこう。

Pick up Artist|トリッピー・レッド

トリッピー・レッド

Photo:Kris Knesel CC BY-SA 4.0

アメリカ、オハイオ州出身のラッパー。2017年にデビュー・ミックステープ『A Love Letter To You』を配信して以来、突き刺さるような歌詞とハードなボーカルパフォーマンスで世界中にインパクトを残している。23歳という若さで、現在までに300億回以上のストリーミングを記録し、7作連続でビルボード200アルバムチャートのトップ5にランクインした。ドレイク、トラヴィス・スコット、マシュメロらとのコラボレーションだけでなく、人気ラッパー兼コメディアンのリル・ディッキーの『DAVE』や、マシンガン・ケリーとモッド・サンの『グッド・モウニング/人生最悪のハイな1日』に出演するなど、俳優デビューも果たしている。

 Release 

『A Love Letter To You 5』
トリッピー・レッド

Musician:トリッピー・レッド(vo)、コービン(vo)、ザ・キッド・ラロイ(vo)、リル・ウェイン(vo)、ロディ・リッチ(vo)、スカイ・モラールズ(vo)、トミー・リー・スパルタ(vo)、ブライソン・ティラー(vo)、他
Producer:イゴール・マメット、他
Engineer:コーエン・ヘルデンス、イゴール・マメット、他
Studio:クライテリア・スタジオ、他

身軽なセッティングを心がけている

 トリッピー・レッドの5作目となるアルバム『MANSION MUSIK』は、期待されたほどの成功を収めることができなかった。これはハッキングの被害に遭い金銭を要求されたことによる制作遅延、それに伴い焦ってリリースされてしまったことが原因とされている。こうした理由から、『A Love Letter To You 5』は可能な限りベストな作品にするため、ミックスエンジニアとしてコーエン・ヘルデンスに声がかかった。トリッピー・レッドと常日頃からコラボレーターとして活動しているイゴール・マメットが全体の共作&プロデュース、さらにはレコーディングにまで関わっており、ヘルデンスいわく、ファイナルミックスの作業はマメットと共に行ったという。

 2人は、アルバム内の2曲のミックスを2022年に、残りを2023年の2カ月にわたり、マイアミのクライテリア・スタジオにて行った。最終的にこの作品はリル・ウェイン、キッド・ラロイ、ロディ・リッチなどのゲストプレイヤーを迎えることとなり、ラップソングというよりはバラード的なラブソングのコレクションという色合いの強い仕上がりとなった。これまでに数々の好意的な評価を受け、商業的にも成功を収めている。

 ヘルデンスは、マイアミにあるホームスタジオで作業をすることがほとんどだそうだが、ほかの場所に出向くことを求められた際には自分の機材を持っていくことが多いという。

 「自室はアコースティックパネルで音響を整えています。身軽なセッティングを心がけていて、GENELEC 8331とチューニング用のGLM Kitを入れるPELICAN Pelican Air case、それからSoftube CONSOLE 1と2台のSoftube CONSOLE 1 FADER、Apple Mac Studio M2 Ultra、Apple Mac Studio Displayを丸ごと収納できるケースもあります」

 DAWはApple Logic Proで作業するのが好きだというヘルデンス。理由は、CONSOLE 1がLogic Proと完璧に統合されていることだという。

 「CONSOLE 1とLogic Proでの作業はとても直感的で、まるで楽器を前にしたかのように感じられるんです。視覚に頼ることなく、耳だけで何が起こっているのか判断できるんですよ。それにCONSOLE 1を使うと、どれだけヘッドルームを確保しておくかを正確に把握できるので、自分なりのゲインステージを構成できるんです」

コーエン・ヘルデンスの自宅スタジオ

コーエン・ヘルデンスの自宅スタジオ。コンピューターはApple Mac Studio M2 Ultraで、モニターディスプレイApple Mac Studio DisplayとオーディオインターフェースAPOGEE Duet 3を接続している。デスクにはDAWコントローラーSoftube CONSOLE 1とSoftube CONSOLE 1 FADER×2を設置。モニタースピーカーはGENELEC 8331をGLM Kitで調整して使用しており、ヘッドホンはFOCAL Listen ProfessionalとApple AirPods Maxを使用している

ローエンドの判断はGENELEC 8331とGLM Kitで

 イゴール・マメットとトリッピー・レッドから『A Love Letter To You 5』のミックスの依頼がきたのは2022年のこと。当初は「Take Me Away」と「Thinking Bout You」の、2曲のみの依頼だったという。

 「この2曲は、クライテリア・スタジオのAスタジオにあるSolid State Logic SL 9000 Jシリーズのコンソールを使ってミックスしました。その後アルバムの残りの曲のミックスのオファーがくるまでは、しばらく間がありましたね」

 アルバムの残りの曲については、マメットとDスタジオで2カ月ほどかけてミックスを行ったという。

 「初日はGENELEC 1031AとYAMAHA NS-10M、それからスタジオにあったAUGSPURGERのラージモニターを使ってミックスしていました。スタジオ自体はとてもバランスの取れた音響だったのですが、なぜかローエンドだけはうまく判断がつかず、翌日に8331を持ち込んでGLM Kitでチューニングを行い、プレイバックしました。アシスタントですら“こんなに小さいスピーカーでなんでこんな低域まで聴こえるんですか!?”と驚いていましたよ。巨大なヘッドホンでモニターしているような感覚でしたね。GLM Kitは、卓の反響によって中域が乱れていたのも補正してくれました」

 ヘルデンスいわく、クライテリア・スタジオの特にEスタジオは、リル・ウェインがアルバム『カーター』を作ったところでもあり、レッドのお気に入りだそう。今回使われたDスタジオはヘルデンスによるチョイスだが、これはスタジオ自体が小さく、セッション中に大量のゲストがやって来る事態を避けるためだという。かつての閉じられた秘密の城的な存在だったスタジオ作業とは違い、バイブスを求めてひっきりなしにゲストが訪ねて来るというのが、今時のヒップホップの文化でもあるからだ。

『A Love Letter To You 5』の内「Take Me Away」と「Thinking Bout You」以外の楽曲のミックスが行われた、クライテリア・スタジオのスタジオD

『A Love Letter To You 5』の内「Take Me Away」と「Thinking Bout You」以外の楽曲のミックスが行われた、クライテリア・スタジオのスタジオD。コンソールは、Solid State Logic ORIGIN 32-Channel Consoleで、モニタースピーカーはAugspurgerのカスタム・ラージモニター、YAMAHA NS-10M、GENELEC 1031A MONITORSが並ぶ

どの曲もテープマシンSTUDER A820を通した

 Dスタジオでの作業は、マメットが作成したラフミックスのAvid Pro Toolsセッションデータを元に始まった。

 「基本的にミックスはDAW内完結で行いましたが、特筆すべきなのは、どの曲もハーフインチのテープマシンSTUDER A820を通したこと。テープはQUANTEGY 499を使いました。テープを通すだけでこんなにも音が良くなるのかとぶったまげましたよ」

アルバムのすべての楽曲を通したというハーフインチのテープマシン、STUDER A820

アルバムのすべての楽曲を通したというハーフインチのテープマシン、STUDER A820

 マメットのラフミックスは、ビートが2トラックにまとめられていたため、まずはパラデータがあるかどうか確認するところから始まったという。

 「普段からステレオトラックとボーカルトラックだけがあるようなデータをもらった場合は、バックの全トラックを別々にもらうことにしています。ファイナルミックス用のステムデータやパラデータの形式には厳格なガイドラインを定めているんです。“ステム”という言葉を使ったのは、すべての素材を別々に出力してもらう必要はないからです。例えば通常キックは2〜3個重ねてあることが多いですし、こういったレイヤーされたサウンドは一つにまとめてもらうんですよ。また、楽器類とバッキングボーカルはウェットなままで、リードボーカルだけはエディットが済んだドライのデータをもらい、エフェクト類は別トラックでもらうようにしています。Pro Toolsのセッションを丸ごともらう場合は、“なぜこのトラックはこのAUXに送られているのか”“なぜそこからまた別のAUXにいって不思議なEQ処理がされているのか”といったことに惑わされたくありません。すべてレンダーした状態でもらえる方がうれしいですね。再生ボタンを押せばラフミックスと同じものがそのまま流れるという状態から作業に取り掛かりたいんです。何かしら技術的に間違ったことがされていたとしても、視覚的にそれを直すよりは耳を使って正したいと思っているんですよ」

 しかし『A Love Letter To You 5』のデータは、前述のものとは対照的であった。マメットが作成したラフミックスのセッションをそのまま流用していたので、彼が行った処理やシグナルチェインなどがそのまま残っていたのだ。

 「まずは、イゴール(マメット)の元のセッションからトラックを移動したり色を変えたりして、自分に分かりやすいように整理をしました。1日あたり2、3曲をミックスしましたが、常に曲を変えて耳が慣れてしまわないようにしていましたね。全体では30曲くらいやったと思います。一通り作業して、最高の状態ではないまでも、一定のレベルにまでなったと思ったら次の曲に変えてまた気分を一新、そして後からまた元の曲に戻ってきて続きに取り掛かる、というやり方で進めたんです。ときにはまっさらの状態に戻して、一からやり直すなんてこともありました。ほかの曲と比べたときに全然見合わないと感じたからです」

 ヘルデンスはレコーディング時に使用された2ミックスをリファレンスにしていたというが、そのフィーリングを再構成するのにかなり時間がかかってしまったこともあったという。

 「ステムにする段階で失われていた処理があったんです。ビートのステムを取り込んだらボーカルをミュートして、リファレンスの2ミックスと比較しながら違いがあるか注意深く探りました。また、プロデューサーたちから提供されたビートが8小節しかないということも多く、それらを並べ直すといった作業が必要なこともありましたね。こうしてラフミックスのセッションの再構成が出来上がると、そこから本題に入ります。すなわち、“ここからどうしたらもっと良くできるか”ということです」

 ボーカルに関しては、基本的にイゴールが行った処理をほぼすべて残したというヘルデンス。全体の中での座りをよくするために、EQなどを微調整することはあったという。

 「今時のアーティストの多くはお気に入りのレコーディングエンジニアがいて、そのエンジニアがレコーディングの際に自分なりのサウンドを作り出していることがあります。今回はそれをそのままキープする方向が良いと思ったんです。僕がやったのは最終的に全体的な音響バランスを見て必要だと思ったときにEQを微調整するくらいでした。普段のミックスではもっと自分なりの手を加えるんですけどね」

 今回ヘルデンスがミックスの解説の題材として選んだのは、ザ・キッド・ラロイをフィーチャリングした「Wind」。次ページより、プラグインの画像とともに詳細をチェックしていこう。


◎続いては…「Wind」from 『A Love Letter To You 5』ミックスのポイントを解説!

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