シグマ・サウンドとダンスミックスの達人トム・モールトンの関係
トム・モールトンはDJでもなく、もともとはエンジニアでもなかったが、グロリア・ゲイナーやBTエクスプレスのヒット作に貢献し、ダンスフロアに向けたエクステンドミックスの達人として、ディスコムーブメントの中で唯一無二の存在感を放つようになった。だが、彼はディスコの現場よりもレコーディングスタジオを居場所として好んだようだ。
モールトンが誰よりも敬愛したレコーディングエンジニアは、シグマ・サウンドのジョー・ターシアだった。もともとフィラルデルフィア出身だったモールトンは、暇さえあれば、シグマ・サウンドに通い詰めた。モールトンはそこでエンジニアリングについて学び、一方でシグマ・サウンドはディスコをターゲットにしたミキシングのアドバイザーとして受け入れた。そんな関係だったものと思われる。
1974年にリリースされたフィリー・デヴォーションズの「I Just Can't Say Goodbye」はモールトンのシグマ・サウンドでの最初期の仕事のひとつだ。同曲のオリジナル7インチはドン・デ・レコードというマイナーレーベルからのリリースだったが、すぐにそれをコロムビア・レコードが買い上げて、再リリースした。プロデュースはジョン・デイヴィス、録音はシグマ・サウンドで、演奏陣はMFSB。まさしく、最盛期のフィラデルフィアサウンドが刻まれた一枚だが、再リリースされたコロムビア盤にはトム・モールトン・ミックスのクレジットがある。
しかし、正式なエンジニアではなかったモールトンの仕事は、クレジットが得られないことも多かった。1975年にフィラルデルフィア・インターナショナル傘下のTSOPレコードから発表されたピープルズ・チョイスの「Do It Any Way You Wanna」もそんな1曲として知られる。ピープルズ・チョイスはフィラデルフィア出身の5人組のファンクバンド。プロデューサーはケニー・ギャンブルだったが、「Do It Any Way You Wanna」というインスト曲を彼らの最大のヒット曲に仕立て上げたのは、ドラムとベースを重視したモールトンのミックスだった。
ハウスやダブ的な感覚を備えた「Love Is The Message」トム・モールトン・ミックス
そんな経験を積む中で、シグマ・サウンドのマネージャー、ハリー・ティピットと親しくなったモールトンは、ティピットから企画を持ちかけられる。それはフィラデルフィア・インターナショナル・レコードのギャンブル&ハフ作品をリミックスしてみないかという誘いだった。そこでモールトンが提案したのが、MFSBの「Love Is The Message」をリメイクすることだった。ケニー・ギャンブルはそれに反対した。「Love Is The Message」はヒットしなかった曲だというのが理由だった。だが、モールトンは「Love Is The Message」にこだわった。クラシックのシンフォニーのような展開があり、ディスコという場の精神性を表現している曲でもあったからだ。そして、6分30秒ほどのオリジナルバージョンを拡大するために、レオン・ハフのRHODESのオーバーダビングを目論んだ。
シグマ・サウンドの別スタジオでジャクソンズのプロデュースをしていたレオン・ハフを呼んで、モールトンはスタジオの録音中のランプを点けることなく、リズムトラックの上でリハーサルのつもりで弾いているハフのRHODESをワンテイクだけ録音した。エレクトリックピアノのソロではなく、軽くリズムと戯れるような演奏が欲しかったからだろう。そして、ハフには録音していたと告げることなく、OKテイクを手に入れ、11分以上に及ぶ「Love Is The Message」を作り上げた。
MFSBの「Love Is The Message」の最初のリリースとなった1973年の7インチシングルは、スリー・ディグリーズをフィーチャーした2分40秒ほどのショートバージョンだった。同年のアルバムに収録されたのは6分30秒を超えるロングバージョンだったが、そこではスリー・ディグリーズのコーラスは使われず、ベテランのサックス奏者ザック・ザカリーのソロを大きくフィーチャーしていた。モールトンはこのシングルバージョンとアルバムバージョンを融合し、サックスソロとスリー・ディグリーズのコーラスの絡み合いで曲を組み立てていく。加えて、モールトン・ミックスの真骨頂はサックスが3度目のソロを吹き終わってからの展開だった。
サックスも歌も消えた7分30秒後からは、レオン・ハフのエレクトリックピアノやストリングスのシーケンスをあしらったリズム主体のパートが続く。音を抜いたダブ的な展開をすると言ってもいい。あるいは、後のハウスミュージック的なダンストラックとなると言ってもいい。1975年にはトム・モールトンはそんな感覚を持つミックスに進んでいたのだ。
このトム・モールトン・ミックスの「Love Is The Message」は多くのDJに影響を与えた。ダニー・クリヴィットが1987年にリリースした「Love Is The Message」のリエディット盤はそれを象徴する。クリヴィットはラリー・レヴァンやフランソワ・ケヴォーキアンと並んで、1980年代のニューヨークのクラブシーンを代表するDJだが、彼の「Love Is The Message」はモールトンミックスの7分過ぎからの展開の拡大版で、スリー・ディグリーズは出てこないし、サックスも断片的にしか使われない。ダンスビートを軸にしたダブインストゥルメンタルが11分ほど続くものになっている。
テストカットの偶然から生まれた12インチ・ダンスシングル
トム・モールトンは、BTエクスプレスの「Do It ('Til You’re Satisfied)」では7インチシングルに5分35秒を詰め込んだ。だが、7インチの収録時間はそれがほぼ限界であり、長時間化するダンスシングルは必然的によりサイズの大きいビニール盤を欲した。
12インチシングルという形態は、ディスコブームの始まる以前にも試験的に制作されていた。1970年にジャズギタリストのバディ・ファイトがサイクロン・レコードからリリースした「For Once In My Life / Glad Rag Doll」が業界初の12インチ・シングルだったとされる。これは33回転で、音溝の部分は2cm幅ほどしかなく、音圧的には通常のLPと大きく変わらないものだった。
ディスコ向けの12インチシングルを最初に制作したのはトム・モールトンで、彼によれば、それは偶然から生まれたものだったという。1974年にモールトンはチェス・レコードのアル・ダウニング「I'll Be Holding On」というシングルを制作した。そのミックスを終えたモールトンは、メディアサウンドのマスタリングエンジニア、ホセ・ロドリゲスにアセテート盤のテストカットを依頼したが、折悪く7インチのアセテート盤のストックは切れていた。そこでモールトンはロドリゲスに12インチのアセテート盤をカットすることを求めた。
12インチの盤面をフルに使ってカットすると、溝幅は大きく使えるため、サウンドはラウドで、ダイナミクスに富んだものになった。この12インチ盤はDJに配られただけで、発売されることはなかった。また、それは12インチ盤ではなく10インチ盤だったとする説もある。
このアル・ダウニング「I'll Be Holding On」のテストカット以来、モールトンは10インチ盤あるいは12インチ盤でのテストカットをDJに渡すようになり、アトランティック・レコードほかのレーベルもそれに追随した。1975年後半にはかなりの数のプロモーション用途の12インチシングルがカットされたようだ。とはいえ、それはせいぜい10枚、20枚単位のアセテート盤だった。12インチのディスコミックス・シングルが一般に向けて販売されるようになるのは1976年から。その最初の1枚はサルソウル・レコードから発売されたダブル・エクスポージャーのシングル「Ten Percent」だった。
ダブル・エクスポージャーはフィラデルフィア出身のコーラスグループで、1970年代前半にはユナイテッド・イメージの名で活動していたが、1975年にサルソウルと契約して、ダブル・エクスポージャーと名を変えた。「Ten Percent」は彼らの改名後の2ndシングルで、プロデュースしたのはベイカー、ハリス&ヤング。つまり、MFSBを辞めたロニー・ベイカー、ノーマン・ハリス、アール・ヤングのチームだ。録音は当然ながらシグマ・サウンド。12インチのA/B面のエディット〜リミックスを手掛けたのは、ニューヨークの若きDJ、ウォルター・ギボンズだった。
「Ten Percent」はビルボードのポップチャートで54位に昇るヒットとなり、12インチシングルというフォーマットが一般マーケットでも有効であることを証明した。発売したサルソウル・レコードは1974年に設立されたばかりのニューヨークの新興レーベルだった。
多様なルーツを持つ人材が集ったサルソウル・レコード
サルソウル・レコードを興したのはジョセフ・カイリーと彼の兄弟のスタンリー、ケネスの3人で、彼らはそれ以前に繊維工場や8trテープカートリッジの製造などのビジネスを営んでいた。3兄弟はシリアにルーツを持つユダヤ系のファミリー出身で、メキシコやプエルトリコでもビジネスを展開し、ラテン音楽にも通じていた。そして、1973年にレコードの原盤制作へと踏み出す。1960年代のブーガルーの人気アーティスト、ジョー・バターンのアルバムを制作したのだ。
1970年代にはニューヨークのラテンシーンではブーガルーのブームは去り、サルサの時代がやってきていた。そんな中で次の方向性を模索していたジョー・バターンは1973年に『Salsoul』というアルバムを発表した。タイトルは言うまでもなく、サルサとソウルを合体させたものだ。内容的にはラテンとジャズやファンクを掛け合わせたフュージョンサウンドとともに、バターンのパンチのあるボーカルを聴かせる意欲作だった。
ジョセフ・カイリーがプロデュースしたバターンの『Salsoul』はメリカナ・レコードというレーベルから発売されたが、そのアルバムタイトルをもらって、3兄弟は1974年に新たにサルソウル・レコードを設立する。しかし、その設立の時点でレーベルの方向性は決まっていたわけではなかった。レーベルには音楽面のディレクターが不在だった。
そんな折、MFSBのビブラフォン奏者であり、アレンジ面でも多くを受け持っていたヴィンセント・モンタナJr.が、金銭の支払いをめぐって、ギャンブル&ハフと決裂した。モンタナは次の仕事場を探し、人の紹介でケネス・カイリーと知り合う。ケネスはモンタナが誰だか知らなかったが、ミーティングの場にはジョー・バターンもいた。バターンはモンタナの名を知っていた。彼のフィラデルフィアでの働きぶりも。バターンの強い推薦を得て、モンタナはサルソウル・レコードで職を得る。ジョセフ・カイリーはモンタナに1万ドルの小切手を渡し、フィラデルフィア・サウンドの曲を作ってくれと求めたという。
モンタナはサルソウル・レコードのために「Salsoul Hustle」という曲を書き、旧知のミュージシャンを集めて、それをレコーディングした。アール・ヤング、ロニー・ベイカー、ノーマン・ハリス、ボビー・イーライほか、それはギャンブル&ハフと距離を置くようになっていたMFSBの旧メンバーだった。録音はもちろんシグマ・サウンド。モンタナが率いるバンドはサルソウル・オーケストラと名付けられた。実質的にMFSBが名前を変えたようなものだ。
だが、フィラデルフィア・インターナショナル・レコードとサルソウル・レコードの差は明らかだった。サルソウル・レコードはディスコを主戦場と見定めたレーベルであり、プロモーションでもディスコのDJを重視し、制作面でもウォルター・ギボンズのようなDJをいちはやくリミキサーとして起用した。トム・モールトンもサルソウルの12インチのリミックスを数多く行ったが、彼らの名前はレーベル面に必ずクレジットされた。
サルソウルのレインボーカラーのレーベルマークはそれ自体がメッセージをはらんでいた。ディスコにはあらゆるルーツの人々が集まる。LGBTもそこでは差別されない。思えば、サルソウルはまさしく多様なルーツを持つ人材が作り上げたレーベルである。シリア系ユダヤ人のカイリー3兄弟は、セファルディ系のジューイッシュミュージックの記憶を持つのかもしれない。セファルディとは15世紀にスペインを追われて、地中海周辺に散ったユダヤ人を指すが、その音楽は極めてラテンの色が強い。ジョー・バターンはアフリカンとフィリピーノの混血だが、ニューヨークのラテンコミュニティで育った。ヴィンセント・モンタナJr.はイタリア系。ウォルター・ギボンズはアイリッシュ系。それぞれ出自は異なるが、ラテンとソウルを掛け合わせたダンスミュージックへの愛は全員に共通していた。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。X(旧Twitter)は@kentarotakahash
Photo:Takashi Yashima