12インチ・ダンスシングルの誕生とサルソウル・レコード【Vol.125】音楽と録音の歴史ものがたり

シグマ・サウンドとダンスミックスの達人トム・モールトンの関係

 トム・モールトンはDJでもなく、もともとはエンジニアでもなかったが、グロリア・ゲイナーやBTエクスプレスのヒット作に貢献し、ダンスフロアに向けたエクステンドミックスの達人として、ディスコムーブメントの中で唯一無二の存在感を放つようになった。だが、彼はディスコの現場よりもレコーディングスタジオを居場所として好んだようだ。

 モールトンが誰よりも敬愛したレコーディングエンジニアは、シグマ・サウンドのジョー・ターシアだった。もともとフィラルデルフィア出身だったモールトンは、暇さえあれば、シグマ・サウンドに通い詰めた。モールトンはそこでエンジニアリングについて学び、一方でシグマ・サウンドはディスコをターゲットにしたミキシングのアドバイザーとして受け入れた。そんな関係だったものと思われる。

 1974年にリリースされたフィリー・デヴォーションズの「I Just Can't Say Goodbye」はモールトンのシグマ・サウンドでの最初期の仕事のひとつだ。同曲のオリジナル7インチはドン・デ・レコードというマイナーレーベルからのリリースだったが、すぐにそれをコロムビア・レコードが買い上げて、再リリースした。プロデュースはジョン・デイヴィス、録音はシグマ・サウンドで、演奏陣はMFSB。まさしく、最盛期のフィラデルフィアサウンドが刻まれた一枚だが、再リリースされたコロムビア盤にはトム・モールトン・ミックスのクレジットがある。

『We're Gonna Make It』
Philly Devotions
(2011年/Essential Media)
7枚のシングルを網羅したコンピレーション。「I Just Can't Say Goodbye」は、マット・コヴィントンのファルセットボイス、駆け抜けるストリングス、軽快なリズムが組み合わさるフィリーソウルの王道サウンド

 しかし、正式なエンジニアではなかったモールトンの仕事は、クレジットが得られないことも多かった。1975年にフィラルデルフィア・インターナショナル傘下のTSOPレコードから発表されたピープルズ・チョイスの「Do It Any Way You Wanna」もそんな1曲として知られる。ピープルズ・チョイスはフィラデルフィア出身の5人組のファンクバンド。プロデューサーはケニー・ギャンブルだったが、「Do It Any Way You Wanna」というインスト曲を彼らの最大のヒット曲に仕立て上げたのは、ドラムとベースを重視したモールトンのミックスだった。

『Boogie Down U.S.A.』
People's Choice
(1975年/TSOP/Philadelphia International)
フランク・ブランソン(k)とデイヴィッド・トンプソン(ds)を中心としたファンクバンドのデビューアルバム。収録されたシングル曲「Do It Any Way You Wanna」は邦題「ディスコ天国」でも知られる

ハウスやダブ的な感覚を備えた「Love Is The Message」トム・モールトン・ミックス

 そんな経験を積む中で、シグマ・サウンドのマネージャー、ハリー・ティピットと親しくなったモールトンは、ティピットから企画を持ちかけられる。それはフィラデルフィア・インターナショナル・レコードのギャンブル&ハフ作品をリミックスしてみないかという誘いだった。そこでモールトンが提案したのが、MFSBの「Love Is The Message」をリメイクすることだった。ケニー・ギャンブルはそれに反対した。「Love Is The Message」はヒットしなかった曲だというのが理由だった。だが、モールトンは「Love Is The Message」にこだわった。クラシックのシンフォニーのような展開があり、ディスコという場の精神性を表現している曲でもあったからだ。そして、6分30秒ほどのオリジナルバージョンを拡大するために、レオン・ハフのRHODESのオーバーダビングを目論んだ。

 シグマ・サウンドの別スタジオでジャクソンズのプロデュースをしていたレオン・ハフを呼んで、モールトンはスタジオの録音中のランプを点けることなく、リズムトラックの上でリハーサルのつもりで弾いているハフのRHODESをワンテイクだけ録音した。エレクトリックピアノのソロではなく、軽くリズムと戯れるような演奏が欲しかったからだろう。そして、ハフには録音していたと告げることなく、OKテイクを手に入れ、11分以上に及ぶ「Love Is The Message」を作り上げた。

『Philadelphia International Records: Tom Moulton Remixes』
V.A.
(2021年/Philadelphia International/Sony Legacy)
PIRでトム・モールトンが手掛けたリミックス30曲を収録するコンピレーション。「Love Is The Message」は11分半に及ぶ

 MFSBの「Love Is The Message」の最初のリリースとなった1973年の7インチシングルは、スリー・ディグリーズをフィーチャーした2分40秒ほどのショートバージョンだった。同年のアルバムに収録されたのは6分30秒を超えるロングバージョンだったが、そこではスリー・ディグリーズのコーラスは使われず、ベテランのサックス奏者ザック・ザカリーのソロを大きくフィーチャーしていた。モールトンはこのシングルバージョンとアルバムバージョンを融合し、サックスソロとスリー・ディグリーズのコーラスの絡み合いで曲を組み立てていく。加えて、モールトン・ミックスの真骨頂はサックスが3度目のソロを吹き終わってからの展開だった。

 サックスも歌も消えた7分30秒後からは、レオン・ハフのエレクトリックピアノやストリングスのシーケンスをあしらったリズム主体のパートが続く。音を抜いたダブ的な展開をすると言ってもいい。あるいは、後のハウスミュージック的なダンストラックとなると言ってもいい。1975年にはトム・モールトンはそんな感覚を持つミックスに進んでいたのだ。

 このトム・モールトン・ミックスの「Love Is The Message」は多くのDJに影響を与えた。ダニー・クリヴィットが1987年にリリースした「Love Is The Message」のリエディット盤はそれを象徴する。クリヴィットはラリー・レヴァンやフランソワ・ケヴォーキアンと並んで、1980年代のニューヨークのクラブシーンを代表するDJだが、彼の「Love Is The Message」はモールトンミックスの7分過ぎからの展開の拡大版で、スリー・ディグリーズは出てこないし、サックスも断片的にしか使われない。ダンスビートを軸にしたダブインストゥルメンタルが11分ほど続くものになっている。

ダニー・クリヴィットがMr.K名義で手掛けた「Love Is The Message」(1987年/T.D. Records)。ラジオ向けの白盤として制作されたものだが、カップリング曲が異なる形で近年までさまざまなレーベルからリイシューが続けられている

ダニー・クリヴィットがMr.K名義で手掛けた「Love Is The Message」(1987年/T.D. Records)。ラジオ向けの白盤として制作されたものだが、カップリング曲が異なる形で近年までさまざまなレーベルからリイシューが続けられている

テストカットの偶然から生まれた12インチ・ダンスシングル

 トム・モールトンは、BTエクスプレスの「Do It ('Til You’re Satisfied)」では7インチシングルに5分35秒を詰め込んだ。だが、7インチの収録時間はそれがほぼ限界であり、長時間化するダンスシングルは必然的によりサイズの大きいビニール盤を欲した。

 12インチシングルという形態は、ディスコブームの始まる以前にも試験的に制作されていた。1970年にジャズギタリストのバディ・ファイトがサイクロン・レコードからリリースした「For Once In My Life / Glad Rag Doll」が業界初の12インチ・シングルだったとされる。これは33回転で、音溝の部分は2cm幅ほどしかなく、音圧的には通常のLPと大きく変わらないものだった。

『Billboard』1970年3月14日より、バディ・ファイト「For Once In My Life / Glad Rag Doll」12インチシングルに関する記事。LPと交互にかける際の利便性を考慮した、タワーレコードのマーケティング施策としてテスト販売された

『Billboard』1970年3月14日より、バディ・ファイト「For Once In My Life / Glad Rag Doll」12インチシングルに関する記事。LPと交互にかける際の利便性を考慮した、タワーレコードのマーケティング施策としてテスト販売された

 ディスコ向けの12インチシングルを最初に制作したのはトム・モールトンで、彼によれば、それは偶然から生まれたものだったという。1974年にモールトンはチェス・レコードのアル・ダウニング「I'll Be Holding On」というシングルを制作した。そのミックスを終えたモールトンは、メディアサウンドのマスタリングエンジニア、ホセ・ロドリゲスにアセテート盤のテストカットを依頼したが、折悪く7インチのアセテート盤のストックは切れていた。そこでモールトンはロドリゲスに12インチのアセテート盤をカットすることを求めた。

ホセ・ロドリゲス(1944〜1996年)。フランクフォード・ウェイン、メディアサウンド、スターリング・サウンドでマスタリング/カッティングを手掛けた

ホセ・ロドリゲス(1944〜1996年)。フランクフォード・ウェイン、メディアサウンド、スターリング・サウンドでマスタリング/カッティングを手掛けた
『The Chess Story 1965-1975』
V.A.
(2001年/MCA/Geffen/UMG)
ブラスとストリングスが彩るフィリーマナーのソウルにバンジョーが絡むアル・ダウニング「I'll Be Holding On」を収録したコンピレーション。5枚組リリース時のインタビュー収録盤とCD-ROMを除いたCD3枚組分が配信中

 12インチの盤面をフルに使ってカットすると、溝幅は大きく使えるため、サウンドはラウドで、ダイナミクスに富んだものになった。この12インチ盤はDJに配られただけで、発売されることはなかった。また、それは12インチ盤ではなく10インチ盤だったとする説もある。

 このアル・ダウニング「I'll Be Holding On」のテストカット以来、モールトンは10インチ盤あるいは12インチ盤でのテストカットをDJに渡すようになり、アトランティック・レコードほかのレーベルもそれに追随した。1975年後半にはかなりの数のプロモーション用途の12インチシングルがカットされたようだ。とはいえ、それはせいぜい10枚、20枚単位のアセテート盤だった。12インチのディスコミックス・シングルが一般に向けて販売されるようになるのは1976年から。その最初の1枚はサルソウル・レコードから発売されたダブル・エクスポージャーのシングル「Ten Percent」だった。

『Ten Percent』
Double Exposure
(1976年/Salsoul)
「Ten Percent」を収録したアルバムで、近年の再発では各エディットのほか、ディミトリ・フロム・パリ、マスターズ・アット・ワークなどによるリミックスも収録

 ダブル・エクスポージャーはフィラデルフィア出身のコーラスグループで、1970年代前半にはユナイテッド・イメージの名で活動していたが、1975年にサルソウルと契約して、ダブル・エクスポージャーと名を変えた。「Ten Percent」は彼らの改名後の2ndシングルで、プロデュースしたのはベイカー、ハリス&ヤング。つまり、MFSBを辞めたロニー・ベイカー、ノーマン・ハリス、アール・ヤングのチームだ。録音は当然ながらシグマ・サウンド。12インチのA/B面のエディット〜リミックスを手掛けたのは、ニューヨークの若きDJ、ウォルター・ギボンズだった。

ダブル・エクスポージャー「Ten Percent」12インチシングルのレーベル面。A面がウォルター・ギボンズが手掛けた9分15秒バージョン、B面にはケネス・カイリーによる7分07秒バージョンを収録

ダブル・エクスポージャー「Ten Percent」12インチシングルのレーベル面。A面がウォルター・ギボンズが手掛けた9分15秒バージョン、B面にはケネス・カイリーによる7分07秒バージョンを収録

ウォルター・ギボンズ(1954〜1994年)。マンハッタンのクラブ、ギャラクシー21を拠点にDJとして活躍。ダブミックスの手法を取り入れた先駆的存在としても知られる。サルソウルレコードで数々のリミックスを手掛けディスコヒットを送り出した

ウォルター・ギボンズ(1954〜1994年)。マンハッタンのクラブ、ギャラクシー21を拠点にDJとして活躍。ダブミックスの手法を取り入れた先駆的存在としても知られる。サルソウルレコードで数々のリミックスを手掛けディスコヒットを送り出した

 「Ten Percent」はビルボードのポップチャートで54位に昇るヒットとなり、12インチシングルというフォーマットが一般マーケットでも有効であることを証明した。発売したサルソウル・レコードは1974年に設立されたばかりのニューヨークの新興レーベルだった。

多様なルーツを持つ人材が集ったサルソウル・レコード

 サルソウル・レコードを興したのはジョセフ・カイリーと彼の兄弟のスタンリー、ケネスの3人で、彼らはそれ以前に繊維工場や8trテープカートリッジの製造などのビジネスを営んでいた。3兄弟はシリアにルーツを持つユダヤ系のファミリー出身で、メキシコやプエルトリコでもビジネスを展開し、ラテン音楽にも通じていた。そして、1973年にレコードの原盤制作へと踏み出す。1960年代のブーガルーの人気アーティスト、ジョー・バターンのアルバムを制作したのだ。

左からジョセフ、スタンリー、ケネスのカイリー兄弟。1984年にサルソウルから撤退した後はビデオソフト販売やビデオゲーム販売の会社を経営。2000年以降は不動産業に転じた

左からジョセフ、スタンリー、ケネスのカイリー兄弟。1984年にサルソウルから撤退した後はビデオソフト販売やビデオゲーム販売の会社を経営。2000年以降は不動産業に転じた

 1970年代にはニューヨークのラテンシーンではブーガルーのブームは去り、サルサの時代がやってきていた。そんな中で次の方向性を模索していたジョー・バターンは1973年に『Salsoul』というアルバムを発表した。タイトルは言うまでもなく、サルサとソウルを合体させたものだ。内容的にはラテンとジャズやファンクを掛け合わせたフュージョンサウンドとともに、バターンのパンチのあるボーカルを聴かせる意欲作だった。

『Salsoul』
Joe Bataan
(1973年/Mericana)
ジャズ・スタンダード「When Sunny Gets Blue」やデオダート「Super Strat」のラテンカバーを収録した、メリカナへの移籍アルバム。この作品が契機となり、サルソウル・レコードが設立された

 ジョセフ・カイリーがプロデュースしたバターンの『Salsoul』はメリカナ・レコードというレーベルから発売されたが、そのアルバムタイトルをもらって、3兄弟は1974年に新たにサルソウル・レコードを設立する。しかし、その設立の時点でレーベルの方向性は決まっていたわけではなかった。レーベルには音楽面のディレクターが不在だった。

 そんな折、MFSBのビブラフォン奏者であり、アレンジ面でも多くを受け持っていたヴィンセント・モンタナJr.が、金銭の支払いをめぐって、ギャンブル&ハフと決裂した。モンタナは次の仕事場を探し、人の紹介でケネス・カイリーと知り合う。ケネスはモンタナが誰だか知らなかったが、ミーティングの場にはジョー・バターンもいた。バターンはモンタナの名を知っていた。彼のフィラデルフィアでの働きぶりも。バターンの強い推薦を得て、モンタナはサルソウル・レコードで職を得る。ジョセフ・カイリーはモンタナに1万ドルの小切手を渡し、フィラデルフィア・サウンドの曲を作ってくれと求めたという。

ヴィンセント・モンタナJr.(1928〜2013年)は、MFSB参加前からジャズビブラフォン奏者&アレンジャーとして活動。MFSBやサルソウル・オーケストラでの活躍後、1978年に自身のレーベルであるフィリー・サウンド・ワークスを立ち上げる。後年ではニューヨリカン・ソウル「Runaway」(サルソウルのロリータ・ハラウェイによるヒット曲のカバー)やペット・ショップ・ボーイズ「New York City Boy」のストリングスアレンジも手掛けた

ヴィンセント・モンタナJr.(1928〜2013年)は、MFSB参加前からジャズビブラフォン奏者&アレンジャーとして活動。MFSBやサルソウル・オーケストラでの活躍後、1978年に自身のレーベルであるフィリー・サウンド・ワークスを立ち上げる。後年ではニューヨリカン・ソウル「Runaway」(サルソウルのロリータ・ハラウェイによるヒット曲のカバー)やペット・ショップ・ボーイズ「New York City Boy」のストリングスアレンジも手掛けた

 モンタナはサルソウル・レコードのために「Salsoul Hustle」という曲を書き、旧知のミュージシャンを集めて、それをレコーディングした。アール・ヤング、ロニー・ベイカー、ノーマン・ハリス、ボビー・イーライほか、それはギャンブル&ハフと距離を置くようになっていたMFSBの旧メンバーだった。録音はもちろんシグマ・サウンド。モンタナが率いるバンドはサルソウル・オーケストラと名付けられた。実質的にMFSBが名前を変えたようなものだ。

『Anthology』
The Salsoul Orchestra
(1994年/Salsoul)
「Salsoul Hustle」「Tangerine」「Salsoul Rainbow」などサルソウル・オーケストラの代表曲を収録したコンピレーション第1集

ヴィンセント・モンタナJr.が率いたサルソウル・オーケストラ。活動期間は1974〜1983年で、モンタナの在籍は1978年まで。アール・ヤング(ds)、ロニー・ベイカー(b)、ノーマン・ハリス(g)、ボビー・イーライ(g)、ラリー・ワシントン(perc)らMFSB陣のほか、ヴァン・マッコイのバンドやスタッフでの活動で知られるゴードン・エドワーズ(b)らが参加することもあった

ヴィンセント・モンタナJr.が率いたサルソウル・オーケストラ。活動期間は1974〜1983年で、モンタナの在籍は1978年まで。アール・ヤング(ds)、ロニー・ベイカー(b)、ノーマン・ハリス(g)、ボビー・イーライ(g)、ラリー・ワシントン(perc)らMFSB陣のほか、ヴァン・マッコイのバンドやスタッフでの活動で知られるゴードン・エドワーズ(b)らが参加することもあった

 だが、フィラデルフィア・インターナショナル・レコードとサルソウル・レコードの差は明らかだった。サルソウル・レコードはディスコを主戦場と見定めたレーベルであり、プロモーションでもディスコのDJを重視し、制作面でもウォルター・ギボンズのようなDJをいちはやくリミキサーとして起用した。トム・モールトンもサルソウルの12インチのリミックスを数多く行ったが、彼らの名前はレーベル面に必ずクレジットされた。

 サルソウルのレインボーカラーのレーベルマークはそれ自体がメッセージをはらんでいた。ディスコにはあらゆるルーツの人々が集まる。LGBTもそこでは差別されない。思えば、サルソウルはまさしく多様なルーツを持つ人材が作り上げたレーベルである。シリア系ユダヤ人のカイリー3兄弟は、セファルディ系のジューイッシュミュージックの記憶を持つのかもしれない。セファルディとは15世紀にスペインを追われて、地中海周辺に散ったユダヤ人を指すが、その音楽は極めてラテンの色が強い。ジョー・バターンはアフリカンとフィリピーノの混血だが、ニューヨークのラテンコミュニティで育った。ヴィンセント・モンタナJr.はイタリア系。ウォルター・ギボンズはアイリッシュ系。それぞれ出自は異なるが、ラテンとソウルを掛け合わせたダンスミュージックへの愛は全員に共通していた。

 

高橋健太郎

高橋健太郎

音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。X(旧Twitter)は@kentarotakahash

Photo:Takashi Yashima

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