ビル・シムジクとクライテリア・スタジオの目指した先端【Vol.116】音楽と録音の歴史ものがたり

ビル・シムジクのプロデュース能力

 ビル・シムジクとジョー・ザガリーノは1960年代末、ニューヨークのスタジオ、ヒット・ファクトリーで先輩/後輩の関係だった。しかし、僕がそのことを知ったのは、ずっと後のことだ。

 実をいうと、1970年代のアメリカン・ロックを代表するエンジニア/プロデューサーとなったビル・シムジクについては、僕はリアルタイムではあまり良い印象を持っていなかった。シムジクの音作りはマルチトラックの時代に対応し、精密なミキシングによって、分離の良いミックスを実現したものだった。イーグルスの1976年の大ヒット・アルバム『ホテル・カリフォルニア』は象徴的な作品だ。だが、僕はその分離感に抵抗があり、ハイファイを志向しつつも、バンド・サウンドのオーガニックな一体感も失わないジョー・ザガリーノの音作りの方を好んだ。1969年のザ・バンドの2ndアルバムにクレジットを持つザガリーノの方が、世代的には上のエンジニアだと信じてもいた。

ビル・シムジク(左)とマスタリング・エンジニアのテッド・ジェンセン。2014年撮影。シムジクは1943年、コロラド州生まれ。海軍技師を経て、ブリル・ビルディングでエンジニアとしての職を得る Photo:Diane Mileson CC-BY-SA 4.0

ビル・シムジク(左)とマスタリング・エンジニアのテッド・ジェンセン。2014年撮影。シムジクは1943年、コロラド州生まれ。海軍技師を経て、ブリル・ビルディングでエンジニアとしての職を得る
Photo:Diane Mileson CC-BY-SA 4.0

 実際にはザ・バンドの2ndアルバムは、アシスタントだったザガリーノがミキシング・エンジニアに抜擢された作品であり、シムジクはザガリーノに多くを教えた先輩のエンジニアだった。1943年生まれのシムジクは米海軍で潜水艦のソナー技術者として働いた経歴を持ち、1964年にブリル・ビルディング内のソングライターのためのデモ録音スタジオに職を得て、音楽界でのキャリアをスタートさせている。初めての仕事は何とキャロル・キングとゲリー・ゴフィンのデモ録音だったという。

 シムジクとザガリーノが出会ったヒット・ファクトリーは作曲家のジェリー・ラゴヴォイが設立。ラゴヴォイはローリング・ストーンズがヒットさせた「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」やジャニス・ジョップリンが歌った「心のかけら」(Piece Of My Heart)などの作者で、1969年にマンハッタンの西48丁目に同スタジオをオープンした。それ以前からラゴヴォイと親交を持っていたシムジクは、そのチーフ・エンジニアとして迎え入れられ、スタジオ開設に協力した。

 だが、エンジニアの仕事だけでは満足しないシムジクは、ABCレコードと交渉して、スタッフ・プロデューサーの座も得た。その最初の仕事となったのが、B.B.キングの1969年のアルバム『ライヴ・アンド・ウェル』だった。このアルバムはA面がフィル・ラモーンによるライヴ録音、B面がシムジクによるヒット・ファクトリーでのスタジオ録音で、B面のエンジニア・クレジットにはジョー・ザガリーノの名前もある。このB面の録音でシムジクはキングのレギュラー・バンドを使わず、ニューヨークのスタジオ・ミュージシャンを集めた。ブルースのレコーディングでは異例のセッションだったが、26歳のプロデューサーはキングを説得したのだ。

『Live & Well』
B.B. King
(1969年/ABC/BluesWay)
フィル・ラモーンが収録した1969年3月のライブと、同年1月に2日かけてヒット・ファクトリーで収録したテイクをまとめたアルバム。パーソネルはポール・ハリス(p)、ヒュー・マクラッケン(g)、ジェリー・ジェモット(b)ハービー・ラヴェル(ds)。同年ソロ・デビューしたアル・クーパー(p)も参加

 この『ライヴ・アンド・ウェル』でキングの信頼を得たシムジクは、同年暮れにはキングのスタジオ録音のフル・アルバム『コンプリートリー・ウェル』を制作した。ドラムスのハービー・ラベル、ベースのジェリー・ジャモット、ギターのヒュー・マクラッケンらによるファンキーな演奏、シムジクとザガリーノのコンビによるホットなサウンド作りによって、キングのモダン・ブルーズを新しい次元に導いた傑作アルバムだ。バート・デコトーの編曲によるストリングスを加えた「スリル・イズ・ゴーン」はそれまでのブルースにはありえないプロダクションだったが、これが大ヒット。B.B.キングの名は広くロック、ポップの世界にも轟きわたり、まさしく同時代のブルースマンの王座を確定させた。

『Completely Well』
B.B. King
(1969年/ABC/BluesWay)
「スリル・イズ・ゴーン」はロイ・ホーキンスが1950年に発表した曲のカバー。第13回グラミー賞で最優秀男性R&Bボーカル・パフォーマンス賞に輝いた

 この当時のヒット・ファクトリーについては資料が乏しいが、B.B.キングのレコーディング・レポートを読むと、コンソールはカスタムメイドで、ロータリー・フェーダーの真空管コンソールだったらしい。本連載第113回でニール・ヤング『ハーヴェスト(50thアニヴァーサリー・エディション)』のDVDに、アルバムのクレジットにはないニューヨークのスタジオでのスティーヴン・スティルス、デヴィッド・クロスビーとのコーラス録音シーンがあるということに触れたが、それがヒット・ファクトリーだったのではないかと思われる。

 旧友のジョー・ウォルシュが率いるロック・トリオ、ジェイムス・ギャングのデビュー・アルバムをプロデュースした後、ABCを離れたシムジクは、J・ガイルズ・バンド、ジョジョ・ガン、リック・デリンジャーなどを手掛けて、ハードなロック・ギター・サウンドを得意とするプロデューサーとして名を上げていく。だが、彼自身は全くギターが弾けなかったという。ザガリーノはバンドでのレコーディング経験も持つギタリストだったから、ギター・アンプのホットなサウンドのとらえ方などは、シムジクがザガリーノから学んだ部分があったかもしれない。

『Yer' Album』
James Gang
(1969年/ABC/BluesWay)
1975年にイーグルスへ加入するジョー・ウォルシュ(g、vo)を擁していたロック・トリオのデビュー・アルバム。オルガンやピアノなどをダビングし、ストリングスやホーンも加わったアレンジは、バンドとシムジク、デ・コトーによるもの
『The Morning After』
The J.Geils Band
(1971年/Atlantic)
メンバーのセス・ジャストマン(k)とシムジクの共同プロデュースによる2nd。R&Bに強い影響を受けたブルース・ロックで、骨太なサウンドを聴かせる。シムジクは1975年の『ホットライン』までプロデューサーとして参加

グリン・ジョンズと決別しハードなロックを指向したイーグルス

 あらためて、1970年代初頭に二人が手掛けたアルバム群を聴いてみると、シムジクとザガリーノの音作りには共通項が多い。しかし、前号で触れたようにザガリーノは1973年の初めに死亡する。一方、シムジクには1974年に大きな転機が訪れる。イーグルスのアルバム『オン・ザ・ボーダー』のプロデュースだ。

 イーグルスはデビュー以来、2枚のアルバムをグリン・ジョンズとともに制作。3作目の『オン・ザ・ボーダー』もロンドンのオリンピック・スタジオでグリン・ジョンズとともに制作を始めた。だが、オリンピック・スタジオでの2曲のセッションを終えたところで、バンドとジョンズの意見が対立する。バンドはよりハード・ロック的なサウンドを求めた。だが、ジョンズはそれは彼らの資質に合わないとした。ザ・フーを手掛けたプロデューサーは、イーグルスをハード・ロッカーとは認めなかったのだ。

『On The Border』
Eagles
(1974年/Asylum)
ドン・フェルダーがレコーディングに参加、そのままメンバーとして加入した3rdアルバム。「過ぎた事」 (Already Gone)、「ジェームス・ディーン」など、ギター・リフがリードする楽曲を中心に、トム・ウェイツのカバー「懐かしき '55年」などを収録

 イーグルスはロサンゼルスで結成されたバンドで、当時はウェスト・コースト・ロックの代表格ともされた。だが、メンバーにカリフォルニアの出身者は一人もいなかった。グレン・フライはデトロイト出身、バーニー・レドンはミネアポリス出身、ランディ・マイズナーはネブラスカ出身、ドン・ヘンリーはテキサス出身。中西部出身のメンバーが多く、もともとハードなロックへの志向性は備えていた。さわやかなカントリー・ロック系のサウンドで世に出てきたのは、イギリス人プロデューサー、グリン・ジョンズの方向づけによるところが大きかった。

 ジョンズと決裂し、オリンピック・スタジオでの制作を中止してロサンゼルスに戻ったイーグルスは、代わりのプロデューサーとしてビル・シムジクに白羽の矢を立てた。ジェームズ・ギャングやJ・ガイルズ・バンドのサウンド・プロダクションが起用の理由だったのは間違いない。ギター・サウンドの強化のため、バンドには新しいギタリストも迎え入れられた。レドンの古い友人だったフロリダ出身のドン・フェルダーだ。カントリー・ルーツのレドンとは対照的に、フェルダーはブルースやファンクの感覚を織り込んだハード・ドライビングなギターを得意とした。

ドン・フェルダー(1943年〜)。フローというバンドで1970年にCTIからデビュー。デヴィッド・リンドレーの後任としてデヴィッド・ブルーのツアーに参加。1975年作品『呪われた夜』からイーグルスに加入

ドン・フェルダー(1943年〜)。フローというバンドで1970年にCTIからデビュー。デヴィッド・リンドレーの後任としてデヴィッド・ブルーのツアーに参加。1975年作品『呪われた夜』からイーグルスに加入
Photo:TaurusEmerald
CC BY-SA 4.0

 『オン・ザ・ボーダー』はAPIコンソールを備えたロサンゼルスのレコード・プラントで制作された。この3rdアルバムはバンドの転換期の作品で、カントリー・ロック色も残されていたが、続く1975年の『呪われた夜』(One Of These Nights)でイーグルスのサウンドは大きく変化する。冒頭のタイトル曲は象徴的だった。R&B〜ファンク的なリフと何本ものギターがレイヤー化されたサウンド、ファルセット多用のコーラスを使ったバンドのイメージを完全に一新した。イーグルスは全員がソングライターで、ボーカルも取れるバンドだったが、この曲はドン・ヘンリーとグレン・フライの共作。演奏面ではドン・フェルダーのギターが大きくフィーチャーされていた。バンド内のバランス変化は明らかで、アルバム全体もヘンリーとフライが主導。彼らが書いたダークで危険な香りも放つロック・チューンが中心となり、カントリー・ルーツのバーニー・レドンの色は後退した。

『One Of These Nights』
Eagles
(1975年/Asylum)
初の全米1位を獲得した4th。前作以上にハードなサウンドを指向した。バーニー・レドン(g)が本作をもって脱退。後任としてジョー・ウォルシュが加入することになる

 加えて、大きく変化したのはサウンドの質感だった。ビル・シムジクによるミックスは精密で、かつ建築のような壮大さも放つ。その分、バンド演奏のライブ感は希薄になったが、レコード作品でこそ実現できる陶酔的なロック・サウンドをイーグルスが選び取ったのは明らかだった。

 この『呪われた夜』のレコーディングにはロサンゼルスのレコード・プラントとマイアミのクライテリア・スタジオが使われたが、レコード・プラントでの作業はダビングが主で、シムジクのミックスは全曲がクライテリアだった。シムジクの新しい拠点となったこのスタジオが、サウンドの変化に大きく貢献していたのは間違いない。

レコード・プラント・ロサンゼルスの前に立つ、創業者の一人クリス・ストーン。スタジオは1985年に移転し、経営者も変わったが現在も営業中

レコード・プラント・ロサンゼルスの前に立つ、創業者の一人クリス・ストーン。スタジオは1985年に移転し、経営者も変わったが現在も営業中
https://www.recordplantdiaries.com/2020/05/02/record-plant-diaries-chapter-37-east-coast-west-coast-split/

クライテリア・スタジオとMCIのコンソール&MTR

 フロリダ州のノース・マイアミにあるクライテリア・スタジオは1958年にマーク・エマーソンによって建設された。エマーソンはトランペット奏者で、自身のジャズ・レーベルのためにスタジオを建てたのだが、1960年代にはスタジオは映画やテレビの音楽制作に使われて、スタジオ・ビジネスは軌道に乗った。1965年にはエマーソンはスタジオを拡張し、クライテリアはフル・オーケストラの録音もできるルームを備えるようになった。

クライテリア・スタジオの外観(2011年)。1999〜2017年にはヒット・ファクトリー傘下のスタジオとして稼働していた

クライテリア・スタジオの外観(2011年)。1999〜2017年にはヒット・ファクトリー傘下のスタジオとして稼働していた
Photo:Ebyabe / CC BY-SA 3.0

 クライテリアの最初のコンソールはNBC系ラジオ局のエンジニアが制作した真空管コンソールだったとされる。だが、エマーソンはそのサウンドにノイズやひずみが多いことに気づき、マイアミ市の北、フロリダ州フォート・ローダデールでオーディオ・ショップを営むグローヴァー・ハーネッドに、そのメインテナンスを依頼した。ジープというニックネームでも知られる彼は、その後、クライテリア・スタジオのイクイップメントやメインテナンスにかかわり続けることになる。

MCI製品に囲まれたグローヴァー・ハーネッド(1930〜2003年)。愛称は“Jeep”。1960年にMCIを設立。1982年にソニー米国法人へ会社を売却

MCI製品に囲まれたグローヴァー・ハーネッド(1930〜2003年)。愛称は“Jeep”。1960年にMCIを設立。1982年にソニー米国法人へ会社を売却
https://www.reddit.com/r/audiophile/comments/6t5fnh/my_grandfather_surrounded_by_his_inventions_he/

 ハーネッドのオーディオ・ショップはMusic Center Incorporatedとういう名だった。クライテリア・スタジオのかかわりから、レコーディング機器のビジネスに興味を持ったハーネッドは、1965年からそこに本格参入する。ソリッド・ステートのカスタム・コンソールの製作に始まり、次いでマルチトラック・レコーダーの製作にも踏み出した。1968年にはロサンゼルスのTTGレコーディング・スタジオのトム・ヒドレーの依頼で、最初の24trレコーダーを製作。これはヒドレーが機械部分を改造し、2インチ・テープを走行させられるようにしたAMPEX 350レコーダーにさらに手を加え、ソリッド・ステート回路の24trレコーダーに仕立て上げたものだった。このレコーダーを運び込んだTTGレコーディング・スタジオは、ロサンゼルスで最初に24trレコーダーを備えたスタジオになった。AMPEXが最初の24trレコーダー、MM1000を発表する前年のことだ。

1983年12月号より、トム・ヒドレーのインタビュー。ヒドレーは1931年生まれ。日本でもセディック、CBS・ソニー信濃町スタジオ、フリーダム・スタジオ(現フリーダム・スタジオ・インフィニティ)などを手掛けた

1983年12月号より、トム・ヒドレーのインタビュー。ヒドレーは1931年生まれ。日本でもセディック、CBS・ソニー信濃町スタジオ、フリーダム・スタジオ(現フリーダム・スタジオ・インフィニティ)などを手掛けた

 この経験を生かして、ハーネッドは16trレコーダーMCI JH-16、24trレコーダーJH-24を製作。それに合わせたソリッド・ステート・コンソールも開発する。それらはもちろんクライテリア・スタジオにも導入された。そのレコーディング環境に注目したのが、アトランティック・レコードだった。1969年からアトランティックのプロデューサーであるアリフ・マーディン、ジェリー・ウェクスラーが頻繁にクライテリアを訪れ、アレサ・フランクリン、ブルック・ベントン、ウィルソン・ピケットなどのレコーディングを行うようになる。トム・ダウドもクライテリアを気に入り、オールマン・ブラザーズやデレク&ザ・ドミノスのレコーディングに使用した。

MCI JH-16。トランスポートはJH-10というユニットで、テープのテンションを一定に保ち巻き込みを回避する機構を備えていた

MCI JH-16。トランスポートはJH-10というユニットで、テープのテンションを一定に保ち巻き込みを回避する機構を備えていた

MCI JH-24とJH-45 Autolock(左)。さまざまな映像/音声レコーダーとの同期のほか、任意の位置へのロケート、オート・パンチなどの機能を実現した

MCI JH-24とJH-45 Autolock(左)。さまざまな映像/音声レコーダーとの同期のほか、任意の位置へのロケート、オート・パンチなどの機能を実現した
https://www.historyofrecording.com/MCI_JH-24.html

 クライテリア・スタジオの評判が高まるとともに、MCIのレコーダーやコンソールも市場を大きく拡大した。とりわけ、マルチトラック・レコーダーに関しては、AMPEXやSCULLYをしのぐ存在に躍り出た。

 1972年にMCIは2つの画期的な製品を発表した。一つは世界初のオート・ロケーター、JH-45だ。録音トラックの特定の位置を呼び出すためのプリセットを設定できるこのシステムは、多くのエンジニアの望むものだった。

 もう一つの画期的な製品はJH-400シリーズのコンソールだった。これはインプット・セクションとモニター・セクションを一体化したインライン・コンソールで、それによるコンパクト化が図られていた。個々のスタジオの依頼に応えたカスタム・コンソールの製作は高価格にならざるを得ないが、JH-400シリーズは価格を抑えた量産モデルだった。それまでのMCI製品はオール・ディスクリートだったが、400シリーズでは回路の一部にICオペアンプも採用された。

インライン・コンソールのMCI JH-400。合計200台以上が出荷された。OPアンプの採用でヘッド・ルームが向上し、SN比も改善したという

インライン・コンソールのMCI JH-400。合計200台以上が出荷された。OPアンプの採用でヘッド・ルームが向上し、SN比も改善したという

 このJH-400シリーズのコンソールはヒット商品となり、200台以上が出荷されたとされる。この開発にはMCIの社外のエンジニアもかかわっていた。後にHARRISONコンソールを世に出すデイヴ・ハリソンだ。ハリソンはクライテリア・スタジオで働いた後、ナッシュヴィルに移って、MCI製品の代理店を営んでいた。ハーネッドにインライン・コンソールの開発を提案したのはハリソンで、彼はその設計にも参加している。

 

高橋健太郎

高橋健太郎

音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash

Photo:Takashi Yashima

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