『メイン・ストリートのならず者』を手掛けたジョー・ザガリーノ
1970年にロサンゼルスのサンセット・サウンドに導入されたAPIコンソール(ブッシュネル・コンソール)の最初期のユーザーとなったのがジャニス・ジョップリンとジム・モリソンだった。ジャニスは同スタジオでアルバム『パール』をレコーディングをしている最中に死亡。モリソンもドアーズの『L.A.ウーマン』を同スタジオで完成させた後にパリで死亡している。
ブッシュネル・コンソールを入れたサンセット・サウンドのスタジオ1は、傑作の誉れ高いローリング・ストーンズの1972年のアルバム『メイン・ストリートのならず者』のセッションにも使用された。『メイン・ストリートのならず者』のレコーディングはフランスで開始されたが、1971年12月からはロサンゼルスに移動して、オーバー・ダビング・セッションが行われた。ミックスもサンセット・サウンドで行われて、3月に完成している。LAでのセッションはスタジオ・ミュージシャンも加え、アルバム未収録のトラックも数多く残されたとされる。オリジナル・アルバムはLP2枚組の18曲入りだったが、2010年に発表されたデラックス版には8曲もの未発表曲が加えられている。
このローリング・ストーンズの『メイン・ストリートのならず者』にも一人の早逝者が絡んでいる。プロデューサーのジミー・ミラーの片腕的存在だったエンジニアのジョー・ザガリーノだ。4カ月にも及んだサンセット・サウンドでのセッションにはアンディ・ジョーンズとジョー・ザガリーノの2人がエンジニアに起用された。
ザガリーノの存在はアルバム中の歌詞にも歌い込まれている。「トーン・アンド・フレイド」の中の“Joe’s got a cough, sounds kind a rough”という一節だ。これはザガリーノがトークバック越しに咳をしたことをミックがその場で歌詞に歌い込んだものだという。
しかし、現代ではジョー・ザガリーノというエンジニアの名前を知る人は決して多くはないだろう。というのも、『メイン・ストリートのならず者』が発表された1972年が、彼が多くのアルバムにクレジットを残した最後の年だったからだ。その後、彼は忽然と姿を消してしまったのだ。
ボブ・ラディックが生涯のベスト2に挙げるザガリーノが手掛けた『ザ・バンド』
実を言うと、僕がレコーディング・エンジニアという存在に興味を持ったのは、ジョー・ザガリーノというエンジニアがいたからだった。ザ・バンドの2ndアルバムやジェシ・デイヴィス『ウルル』、ジーン・クラーク『ホワイト・ライト』など、大好きなアルバムに彼のクレジットがある。注意深く聴いてみると、トム・ダウドやグリン・ジョンズ、ブルース・ボトニックといった同時代の有名なロック・エンジニアよりも、ザガリーノの作り出すサウンドの方が断然良いと思われた。50年近く前のそんな経験がなければ、僕が『サウンド&レコーディング・マガジン』でこんな連載を執筆するという未来もなかっただろうと思われる。
だが、僕がジョー・ザガリーノというエンジニアが最高だ、と思って、そのクレジットがあるアルバムを探し始めたころには、ザガリーノは既に死んでいたのだった。1972年のクリスマスの直前にロンドンからロサンゼルスに戻ってきたザガリーノは、何かのトラブルについて談判するために、ジミー・ミラー宅を訪れた。だが、彼はミラー宅で昏睡し、そのまま、意識が戻らず、1973年1月4日に死亡した。原因はドラッグの過剰摂取だったとされる。
このとき、ミラーはローリング・ストーンズのアルバム『山羊の頭のスープ』のためのセッションをジャマイカのダイナミック・スタジオで終えて、帰ってきたところだった。ミラー宅でのザガリーノの死亡事件は内密にされ、業界紙にも載らなかった。ザガリーノが1973年に死亡していたと僕が知ったのは45年後の2018年になってからだった。
ジョー・ザガリーノが優れたエンジニアだったことは、マスタリングの巨匠、ボブ・ラディックの言葉にも裏付けられる。ラディックは自身の過去の最も誇らしい仕事の2番目に、ザ・バンドの2nd『ザ・バンド』を挙げている。ザガリーノがミックスしたこのアルバムのマスタリングについては、ザ・バンドのロビー・ロバートソンもこんな証言を残している。ザガリーノとミックスした2ndをロバートソンは、当時はニューヨークのA&Rスタジオのマスタリング部門にいたラディックのもとに持ち込んだ。しかし、ラディックはサウンドがヘヴィー過ぎて、このマスタリングは難しいかもしれない、とロバートソンに告げた。
ところが数日後、ロバートソンのもとにラディックからの電話があった。ラディックは自分が間違っていた、アルバムのミックスは最高だったとロバートソンに告げたという。数十年後、ラディックはそのマスタリングを生涯で2番目に誇らしい仕事だと振り返ったが、1番目は私たちが聴くことができる音源ではない。故に、公に発表された作品の中ではラディックはザ・バンドの2ndアルバムを筆頭に挙げたことになる。
『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』幻のデモ音源
ボブ・ラディックの最も誇らしいと自負する仕事は、これもザ・バンドに関係する。デビュー・アルバムの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』の中の5曲は1968年2月にニューヨークのA&Rスタジオでレコーディングされた。この時点ではザ・バンドはレコード契約を得ておらず、バンド名すら決まっていなかった。
使われたA&Rスタジオは同年の初めに52丁目に移転したばかりだった。CBSの本社に隣接する、もともとはCBSの所有のスタジオだった物件をフィル・ラモーンのA&Rスタジオが譲り受けたのだ。当時のコンソールはLANGEVINのAM16プリアンプとMELCORのEQを組み合わせたものだったとされる。この新しいA&Rスタジオのマスタリング部門エンジニアとなったのが当時22歳のラディックだった。
ラディックはA&Rスタジオで録音された、まだ名前も決まっていないバンドの5曲をアセテート盤にカッティングした。それはレコード契約を取るためのデモ録音だった。結果、バンドはキャピトル・レコードとの契約を得て、アルバムの残りをロサンゼルスのキャピトル・スタジオでレコーディングする。完成したアルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』のマスタリングもキャピトル・スタジオで行われた。故に、ラディックは1968年に発表された『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』にはかかわっていない。
にもかかわらず、デモ録音の状態だった『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』中の5曲をカッティングしたことをラディックは生涯の最も誇らしい仕事として挙げているのだ。ということは、その5曲は完成版のアルバムとほぼ同じミックスだったのだろう。ラディックはキャピトル盤のマスタリングを聴いて、低音をカットし過ぎたサウンドにがっかりしたともいう。ラディックが保存しているはずのアセテート盤のサウンドがいつか日の目を見るときがあるのかどうかは分からない。
ロビー・ロバートソンが語る初期ザ・バンドのマルチトラック録音
ザ・バンドの初期のレコーディングは謎が多かったが、近年のリイシューや2016年に刊行されたロビー・ロバートソンの自伝『Testimony』(2018年に『ロビー・ロバートソン自伝 ザ・バンドの青春』として邦訳)によって、かなり全貌が明らかになった。『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』は4tr録音だったと語られることが多いが、2018年にリリースされた50周年ボックス・セットの内容から、これが誤りだったことも明らかになった。ボブ・クリアマウンテンによる全曲のニュー・ミックスはオリジナル・ミックスとはかなり楽器定位が変化している。その変化を解析すると、A&Rスタジオ録音の5曲も4trの一発録りではなく、2台の4trを使用したピンポンが行われていて、リミックス用に合計6tr分のマルチが残っていたことが分かるのだ。
さらに、オリジナルのトラック・シートの写真などから、キャピトル・スタジオ録音の6曲は8tr録音。それをA&Rスタジオに持ち帰ったときには、A&Rスタジオにも8trが導入されていて、8trと4trを同期させた12trを使って、オーバー・ダビング・セッションも行われていたことが判明する。50周年ボックス・セットの日本盤の謳い文句には“オリジナルの4トラック・アナログ・テープから、ボブ・クリアマウンテンが新たに作ったステレオ・ミックス”とあったが、名盤の制作過程はそんな単純なものではなかったようだ。
『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』のオリジナル・ミックスは誰が作ったのか? これも謎だった。クレジットはなく、歴史的名盤のエンジニアとして名乗り出る者もいない。A&Rスタジオでミックスされたのは間違いないが、フィル・ラモーンではない。しかし、ほかの誰があの荘厳なムードすら漂うミックスを作り上げたのだろうか? 現場を任されたのはA&Rスタジオのダン・ハーンとシェリー・ヤクスだったようだが、ハーンはジャズ畑のエンジニアでロック・バンドの録音の経験がなかったため、多くはアシスタントのヤクスに任されていたという。
僕の想像では、ボブ・ラディックがカットした最初のアセテート盤の音が既に完成度高く、それがアルバムの最終ミックスの方向性も決定づけたのではないかと思われる。その5曲では録りの段階で、A&Rスタジオの階段室を使ったリバーブが多く使われていた。さらに2台の4trを使ったピンポンが行われていたから、その時点でベーシックなバンド・サウンドは2trにミックスされていた。完成版のアルバムでも5曲のミックスはそのデモのままで、残る6曲もA&Rスタジオの階段室リバーブを効かせて、それに合わせた雰囲気に仕上げられたのではないだろうか。
となると、最も重要なミックス作業をしたのは、ピンポン作業時に4trを2trにまとめたエンジニアだということになる。これは当時22歳のアシスタント、シェリー・ヤクスだった、というのが僕の見立てだ。ヤクスは作曲家のミルトン・ヤクスの息子で、父親が経営するボストンのエース・レコーディング・スタジオで子供のころからレコーディング機材に親しんでいた。ニューヨークのA&Rスタジオやレコード・プラントで経験を積んだ後、ロサンゼルスに移り、A&Mスタジオのチーフ・エンジニアとなり、さらには同社の副社長にまで昇りつめている。
『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』のミックスで最も重要な働きをしたのは若き日のヤクスだった。しかし、アシスタントにミキシング・エンジニアのクレジットが与えられることはあり得なかった。故に、そこは空欄のままにされている、と考えると謎も解けそうに思われる。
旧友の著書で明らかになったザガリーノの音楽的背景
ジョー・ザガリーノがエンジニアにクレジットされているザ・バンドの2ndもやはり、そのレコーディングの経緯には謎が多かった。このレコーディングはロサンゼルスのサミー・デイヴィスJr.宅の倉庫に機材を持ち込んで行われた。しかし、そこにはエンジニアは不在で、プロデューサーのジョン・サイモンとロビー・ロバートソンが試行錯誤しながら、機材を操っていたことをロバートソンは『Testimony』の中で明かしている。
レコーディングはさらにニューヨークのヒット・ファクトリーで続けられ、オーバー・ダビングの後、エンジニアのトニー・メイによって一度、ミックス・ダウンされた。だが、ロバートソンはそれを気に入らなかった。そこでヒット・ファクトリーから紹介された若いエンジニアとミックスをやり直した。それがジョー・ザガリーノだった。
ロバートソンの『Testimony』にはそこまでの記述しかない。しかし、2015年にペーパーバックで刊行されたスティーヴン・ジェ・ジョンソンの『Walk, Don't Run: A Rockin' and Rollin' Memoir』という本が、ザガリーノの生涯について、多くを教えてくれた。
『Walk, Don't Run: A Rockin' and Rollin' Memoir』はハリウッドの映画界で脚本などの仕事をしてきたジョンソンの1960年代の回想記とも言える一冊で、ハイスクールで知り合ったバンド仲間との友情が描かれる。ジョーイ・ザガリーノとエディ・オルモスとスティーヴン・ジェ・ジョンソンの3人は1960年代の半ばにジョーイ&アップセッツというバンドを結成し、ロサンゼルスのローカル・シーンで活動を始めた。
だが、バンドに契約の話が舞い込んだところで、ジョーイは家族とともにニュージャージーに転居してしまう。エディとドラムスのスティーヴンはLAで活動を続け、パシフィック・オーシャンというバンドで人気をつかんでいく。一方、ギタリストだったジョーイはニュージャージーでチップス&カンパニーというバンドに加入。スティーヴンたちはジョーイをLAに呼び戻そうとするが、ヒット・ファクトリーでエンジニア修行も始めたジョーイは帰ってこなかった。つまり、このジョーイがヒット・ファクトリーのジョー・ザガリーノだ。ボブ・ラディックをうならせたザ・バンドのミックスは、彼が21〜22歳のころに作ったものだったことが同書の記述から分かる。初めてのミックス仕事だったのではないかと思われる。
ジミー・ミラーの片腕となったザガリーノがLAに戻ってきて、ジョンソンがローリング・ストーンズの『メイン・ストリートのならず者』セッションをのぞかせてもらうシーンもある。しかし、同書のラスト近くで、ザガリーノの1973年の死亡事件が明かされる。ザガリーノの死は内密にされ、近しいミュージシャンやエンジニア仲間にも知られずに時が過ぎていたようだ。ヒット・ファクトリーの先輩だったエンジニアのビル・シムジクが1976年のクリスマスに『ビルボード』誌に個人で広告を出している。それは連絡先が分からなくなった友人たちに宛てたクリスマス・カードだったが、その中にジョー&カレン・ザガリーノの名がある。カレンはジョンソンの本にも出てくるジョーの妻だ。同業のシムジクですら、1976年になってもザガリーノの死を知らずにいたことをその広告が物語っている。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash
Photo:Takashi Yashima