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JENSENトランスとAPIオペアンプ【Vol.114】音楽と録音の歴史ものがたり

ニール・ヤングのライブ盤とQUAD EIGHTのミキシング・オートメーション

 ニール・ヤングと行動をともにするようになったエリオット・メイザーは、1973年にはアルバム『Time Fades Away』(時は消え去りて)のエンジニアリングを手掛けた。『Time Fades Away』はストレイ・ゲイターズにグラハム・ナッシュ&デヴィッド・クロスビーを加えてツアーに出たニール・ヤングのライブ・アルバム。同年の2月から4月にかけて、QUAD EIGHTのコンソールと3Mの16trを載せたモバイルがコンサート会場を回り、メイザーが録音している。

『Time Fades Away』
Neil Young
(1973年/Repries)
ジャック・ニッチェを中心とするストレイ・ゲイターズとグラハム・ナッシュ、デヴィッド・クロスビーとのツアーを収録。荒々しいハードな演奏を、卓のダイレクト・アウトからマルチでとらえたという録音からは、音像の生々しさが感じられる

 この『Time Fades Away』のミックスには、QUAD EIGHTのCompumixシステムが使用されたとされる。QUAD EIGHTは1971年ごろからエンジニアのビル・ウィットロックが中心となり、コンピューター・ミックスのシステムを開発していた。それが実用段階になって、ニール・ヤングとエリオット・メイザーがいち早く提供を受けたものと思われる。

QUAD EIGHTのCompumixシステム。国内では冨田勲が使用していたことでも知られる

QUAD EIGHTのCompumixシステム。国内では冨田勲が使用していたことでも知られる

 『Time Fades Away』は後のパンク・ロックにも通ずるアグレッシブなバンド・サウンドが聴ける傑作ライブ・アルバムと言って良いと思うが、なぜかリイシューが進まなかった。2014年になって、LP4枚組のボックス・セットの一枚としてリリースされたのが初リイシュー。CDは2017年にボックス・セットの一枚としてリリースされたのが最初で、以後ようやくデジタル配信も始まった。

 オリジナルの1973年盤LPは、16trのマルチトラックをQUAD EIGHTのCompumixシステムでミックスし、ダイレクト・カッティングでマスター・ディスクが作られたという。このことも、長らくリイシューが行われなかったことに影響しているのかもしれない。

 QUAD EIGHTはいち早くコンピューター制御のミキシング・システムを開発し、1970年代後半には大型コンソールのデザインも進め、Pacifica、Ventura、Colonadoなどのモデルを発表した。だが、NEVEやAPIのコンソールほどの評価は得られなかった。1980年代にはQUAD EIGHTは三菱のプロ・オーディオ部門の一部となったが、音楽スタジオでも映画スタジオでもかつてのような成功を収めることはなく、1980年代後半に閉鎖された。QUAD EIGHTのチーフ・エンジニアだったビル・ウィットロックは、後にJENSEN TRANSFORMERSに移籍した。

QUAD EIGHT Colorado

QUAD EIGHT Colorado
https://www.orphanaudio.com/portfolio/qee-coronado-console-stock-series/

Compumixの開発者ビル・ウィットロック

Compumixの開発者ビル・ウィットロック。QUAD EIGHTの後はレーザー・ライト・ショウ機器の開発やEMIでの技術開発を経て、1989年にJENSEN TRANSFORMERSの社長兼チーフ・エンジニアに。2014年に退職後はコンサルタント業に従事している
https://www.jensen-transformers.com/history/

ディーン・ジェンセンが手掛けたトランスとオペアンプ

 JENSEN TRANSFORMERSは現在でもオーディオ用のトランスのトップ・メーカーとして知られるが、1974年にディーン・ジェンセンが設立した。ジェンセンは1971年までQUAD EIGHTに在籍。最も人気の高かった時期のQUAD EIGHT/ELECTRODYNEのコンソールを手掛けたエンジニアだ。

ウォーリー・ヘイダー・スタジオのTシャツを着たディーン・ジェンセン(1942〜1989年)

ウォーリー・ヘイダー・スタジオのTシャツを着たディーン・ジェンセン(1942〜1989年)。QUAD EIGHT退職前に後任としてウィットロックを雇用。JENSEN TRANSFORMERSも、自らの死の前に再びウィットロックに後継を託すことになる
http://proaudioencyclopedia.com/building-a-legacy-the-story-of-jensen-transformers/

 ディーン・ジェンセンは1942年にメリーランド州で生まれ、ニュージャージー州プリンストンで育った。父親はノルウェー出身の物理学者のアーサー・S・ジェンセンで、ディーンが子供のころ、アルバート・アインシュタインがジェンセン家を訪れたこともあったという。アーサー・S・ジェンセンは軍関連の電子映像の専門家となり、RCAやウェスティングハウスの研究所でも働いた。

 ペンシルバニア大学で物理学と電気工学を学んだディーン・ジェンセンは放送局やレコーディング・スタジオで働いた後、1966年にロサンゼルスへ移り、UREIの前身、STUDIO ELECTRONICSの技術者となった。1968年にQUAD EIGHTに参加。サンフランシスコのウォーリー・ヘイダー・スタジオのスタジオAにQUAD EIGHT 2082コンソールをインストールしたのはジェンセンだったという。

ウォーリー・ヘイダー・スタジオ

ウォーリー・ヘイダー・スタジオ。1980年以降はハイド・ストリート・スタジオとなり現在も営業中
https://www.facebook.com/WallyHeiderRecording/photos/a.266960570066016/266970360065037/

 1971年にQUAD EIGHTを退社したジェンセンは、ウォーリー・ヘイダー・スタジオに移り、1972年にはニューヨークのAPIに出向。ウォーリー・ヘイダーのためのAPIコンソールを監修した。このころからジェンセンは2つの課題に取り組んでいた。一つはQUAD EIGHT時代に音質向上の鍵であると気づいたトランスとオペアンプのマッチングだった。その最適解を得るにはコンピューターの計算能力を必要とすると考えたジェンセンは、サーキット設計用のコンピューター・ソフトの開発に取り組み、HEWLETT PACKARDの計算機用ソフトウェアComtran Circuit Modellingを完成させた。

当時のHEWLETT PACKARD(HP)のプログラマブル計算機

当時のHEWLETT PACKARD(HP)のプログラマブル計算機。ディーン・ジェンセンが専門家2人と協業し、Rocky Mountain Basicという言語で開発したソフトComtran Circuit Modellingは、HPから初のサード・パーティ・ソフトウェアとして販売されることになる
https://www.jensen-transformers.com/history/

 1974年に設立されたJENSEN TRANSFORMERSでは、このソフトウェアを使って正確にモデリングされたトランスが開発された。JENSENのトランスをいち早く採用したのはAPIで、同社のマイク・プリアンプ312、512などにはJENSENの入力トランスが長く使われた。

 もう一つ、ジェンセンが長く取り組んだのはディスクリート・オペアンプの開発だった。QUAD EIGHT時代から開発を進めていた990オペアンプは1979年に完成。その回路図をジェンセンはパブリック・ドメインのものとして発表した。

 誰でもライセンスや許可を必要とせず製作できるジェンセン設計の990オペアンプにいち早く注目した中には、シカゴ在住のエンジニアだったジョン・ハーディがいた。ハーディは1980年に雑誌で990オペアンプについて知り、1981年から990オペアンプを使ったMCIコンソール用のリプレイスメント・モジュールを製作するようになった。このマイクプリの音質が評判を呼び、1987年にはハーディはJOHN HARDYの最初の製品となるマイク・プリアンプ、M-1を発売した。入力トランスにJENSEN JT-16-Bを搭載したM-1はクリアかつ温かみのあるサウンドで現在でも評価が高い。QUAD EIGHT、APIにもかかわったディーン・ジェンセンの才覚が注ぎ込まれた名機と言っていい。しかし、ジェンセンは1989年に47歳の若さで急死した。

JOHN HARDY M-1(4chモデル)

JOHN HARDY M-1(4chモデル)。内部にJENSEN JT-16-BとJOHN HARDY製990Cオペアンプが並んでいる

JOHN HARDY 990C+

JOHN HARDY 990C+。同社の資料によれば、入手不能なパーツを代替していくなど、徐々に仕様が変更されているそう

APIコンソールの誕生とNYアポストリック・スタジオ

 ディーン・ジェンセンの990オペアンプは基本的にはAPIの2520オペアンプと互換性を持つものだった。樹脂で固めたキャラメルのような立方体から5つのピンが突き出たスタイルのAPI 2520オペアンプは現在でも多くのAPI製品に搭載されているが、その開発は1968年ごろに遡る。API(AUTOMATED PROCESSES INCORPORATED)が正式に設立されるのは1969年。APIのコンソールが発表された同年秋のAESで、スタジオに納品されたのは1970年からのようだ。NEVEと人気を二分することになるAPIのコンソールは1970年代に極めて短期間でシェアを拡大し、QUAD EIGHTに取って代わる存在になったのだ。

API 2520

API 2520

 APIはルー・リンダウワーとサウル・ウォーカーの二人によって設立された。事の起こりは1966年、ニューヨークのレコーディング・エンジニアだったリンダウワーが、ミュージシャンのジョン・タウンリーからスタジオ建設の相談を受けたことだった。タウンリーは当時のグリニッチ・ヴィレッジの音楽シーンの一員で、シンガー・ソングライターのデヴィッド・ブルーや後にモンキーズで人気者になるピーター・トークとともにザ・マジシャンズというバンドで活動していた。ラヴィン・スプーンフルのライバルとも目されたザ・マジシャンズは1965年にコロムビアと契約。数枚のシングルを残すが、タウンリーは1966年に脱退して、グリニッチ・ヴィレッジにスタジオを建設する道に進んだ。というのも、彼は叔母から85,000ドルの遺産を相続したのだ。

ルー・リンダウワー。AESによるインタビューのダイジェスト

ルー・リンダウワー。AESによるインタビューのダイジェスト
https://youtu.be/XND9FP2d6P4

サウル・ウォーカー(1927〜2016年)

サウル・ウォーカー(1927〜2016年)。ルー・リンダウワーとともに1960年代末にAPIを設立。オペアンプ2520や各種モジュールなど、現在に至る同社の礎を築く
https://www.apiaudio.com/saulwalker.php

 タウンリーはSCULLYに12trのレコーダーを発注し、リンダウワーにそれに合わせたコンソールの製作を依頼した。そこでリンダウワーは知り合いのサウル・ウォーカーに助力を仰いだ。といっても、ウォーカーはそれまではオーディオ業界の人間ではなく、ニューヨーク大学で物理学や電気工学を学び、航空機やミサイルに搭載する制御装置の設計をしていたエンジニアだった。航空機畑の経験を持っていたというのは、ルパート・ニーヴとも似ているが、ウォーカーは1927年生まれで、世代的にもニーヴに近い。

 リンダウワーとウォーカー製作のコンソールを導入したタウンリーのスタジオはアポストリック・スタジオと名付けられ、1967年にオープン。その開設当初にスタジオのヘビー・ユーザーとなったのが、当時はニューヨークを拠点としていたフランク・ザッパだった。1968年から1969年にかけて発表されたマザーズ・オブ・インベンション名義の『ウィー・アー・オンリー・イン・イット・フォー・ザ・マニー』『クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ』『アンクル・ミート』とフランク・ザッパ名義の『ランピー・グレイヴィ』はその大半がアポストリック・スタジオでの録音。同時代のロックからオールディーズR&B、ジャズ、クラシック、現代音楽などを自在に横断するザッパの作曲家としての異才が噴出する傑作群だ。

アポストリック・スタジオのパンフレット

アポストリック・スタジオのパンフレット。SCULLY製の12trレコーダーや、ウォーカー&リンダウワーによる真空管コンソールが写っている
https://www.psychedelicbabymag.com/2021/03/ocean-a-lost-recording-of-the-family-of-apostolic-john-townley-interview.html
『Uncle Meat』
Mothers of Invention
(1969年/Verve)
制作されながら長らく公開が延期された同名の映画のためのサウンドトラック。ジャズやクラシックなどの要素を持ちながら、さまざまな音楽やSE的なサウンドの断片をカットアップ的に織り交ぜる

 タウンリーのアポストリック・スタジオはヴァンガード・レコードと契約を結び、ラリー・コリエルのアルバムなどの原盤制作も行った。アグレッシブなジャズ・ロック・ギターだけでなく、ボーカルも聴かせる初期のコリエルのアルバムも、当時のアポストリック・スタジオの尖った熱気を感じさせる。スタジオの評判が広がると、リンダウワーとウォーカーの元にはさらにコンソール製作の依頼がやってきた。

『Lady Coryell』
Larry Coryell
(1969年/Vanguard)
いち早くジャズ・ロック的なサウンドを指向していたギタリストのラリー・コリエルのソロ・デビュー作。これ以降、1970年代前半までは時代を反映してサイケデリック指向の楽曲が多く、ボーカルを務める機会も多かった

APIコンソールの名声を築いたサンセット・サウンドと2つのロック名盤

 アポストリック・スタジオのために2人が製作したコンソールは真空管式だったが、ウォーカーは新しくトランジスター回路のコンソールを構想した。そして、API 2520オペアンプを開発するのだが、ただし、それはMELCORの1317オペアンプと同規格のものだった。初期のAPI製品にはMELCOR 1317オペアンプを搭載したものもあり、その後、MELCORからAPIに引き抜かれた技術者が改良版となる2520オペアンプの設計に協力したようだ。つまり、JENSEN 990もAPI 2520もルーツはMELCOR 1317だったということになる。

MELCORE 1731の再現を狙ったLINDELL AUDIOのVintage OPA 1731

MELCORE 1317の再現を狙ったLINDELL AUDIOのVintage OPA 1731。同社のAPI 500互換モジュール用に作られたもの(国内未発売)

 1968年に2520オペアンプを完成させたサウル・ウォーカーは1969年にはEQモジュールのAPI 500を開発する。これは1971年に発表されるAPI 550Aの前身となるモデルで、その後の500シリーズ・モジュールの原型となった。APIの500シリーズ規格のモジュールは21世紀になって、数多くのメーカーがその製造に参入し、大ブームを引き起こしたが、その規格は1969年に遡るのだ。

 1969年に発表されたAPIコンソールの最初期のユーザーにはレス・ポールがいた。レスはこのころ低迷期で録音作品も残していないが、20インプットのデスクをオーダーしたようだ。このコンソールは現存していて、2012年にオークションで売買されている。

レス・ポールが所有していたAPIコンソール。写真は2017年、レストアのためにAPIに預けられたところ。2012年の落札価格は約10万ドル

レス・ポールが所有していたAPIコンソール。写真は2017年、レストアのためにAPIに預けられたところ。2012年の落札価格は約10万ドル。レスが書いたチャンネル名のドラフティング・テープが残っている
https://www.apiaudio.com/news.php?id=6600

 APIコンソールの特徴は2520オペアンプを使った500シリーズ規格のモジュールを組み合わせて、クライアントのオーダーに合わせた仕様のコンソールを容易に製作できることだった。NEVEコンソールのPENNY+GILESフェーダーと同じく導電プラスチックを使用したフェーダーを採用し、信頼性と耐久性を高めたことも高評価の一因だった。

 1970年にロサンゼルスのサンセット・サウンドに導入されたAPIコンソールは、音楽業界でのAPIの評価を急速に高める役割を果たしたと思われる。このコンソールはAPIモジュールを使って、ビル・ブッシュネルが組み上げたもので、ブッシュネル・コンソールとも呼ばれる。

 サンセット・サウンドが1967年にイギリスからSOUND TECHNIQUESコンソールを輸入したことは以前に本連載の中で書いたことがある(第104回)。SOUND TECHNIQUESコンソールを導入したスタジオ2はエレクトラ・レコードのジャック・ホルツマンやプロデューサーのポール・ロスチャイルドのお気に入りとなった。続いて、サンセット・サウンドはスタジオ1にそれまでの真空管式カスタム・コンソールに代わる新しいコンソールを欲し、1969年にブッシュネルにコンソール製作を依頼。ブッシュネルはAPIの500シリーズ・モジュールを使用し、24インプット/16バス・アウトのコンソールを組み上げた。

サンセット・サウンドのスタジオ1で使われていたブッシュネルAPIコンソール

サンセット・サウンドのスタジオ1で使われていたブッシュネルAPIコンソール。後にプロデューサーのTボーン・バーネットの手に渡るが、2020年に約60万ドルで売却された
https://youtu.be/XND9FP2d6P4

 このブッシュネルAPIコンソールでレコーディングされた最初期のアルバムの一つがジャニス・ジョップリンの『パール』だった。新編成のフル・ティルト・ブギー・バンド、プロデューサーのポール・ロスチャイルドとともにサンセット・サウンドのスタジオ1でアルバムの制作は進められた。だが、歌入れもあと1曲を残すところになった1970年10月4日のセッションに、ジャニスは姿を現さなかった。不安に思ったロスチャイルドがバンドのローディをジャニスの滞在しているホテルに送ったところ、部屋に倒れている彼女が発見された。ヘロインの過剰摂取が死亡原因だったとされている。

 彼女の死後に完成したアルバム『パール』は1971年1月にリリースされた。タイトなバンド演奏を得て、オリジナリティあふれた熱唱をするジャニスの最高傑作の誉れ高いアルバムだ。サウンドのほとばしるエネルギーはまさしくAPIコンソールの音を思わせる。

『Pearl』
Janis Joplin
(1971年/Columbia)
「ジャニスの祈り」(Move Over)や「クライ・ベイビー」、「ハーフ・ムーン」などを収録した遺作。全米1位を9週キープ。ジャニスの歌声はもちろん、タイトなリズムとツイン・キーボードの厚みも聴きどころ

 1971年4月にリリースされたドアーズの『L.A.ウーマン』も同じくサンセット・サウンドのスタジオ1でレコーディングされた。デビュー以来のプロデューサーだったロスチャイルドに代わって、エンジニアのブルース・ボトニックがプロデュースも手掛けたこのアルバムが、ジム・モリソン在籍時のドアーズの最終作となった。アルバム完成後、パリに旅立ったモリソンは7月3日にパリのアパートの浴槽で死体で発見されたからだ。

『L.A. Woman』
The Doors
(1971年/Elektra)
ジム・モリソン(vo)最後の参加アルバム。ゲストにジェリー・シェフ(b)、マーク・ベノ(g)が加わることで、レイ・マンザレク(k)の演奏の自由度が増したことが奏功してか、ブルースに根ざした太さに軽快さが加わる

 

高橋健太郎

高橋健太郎

音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash

Photo:Takashi Yashima

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