ビンテージNEVEの評価を支えてきた奇跡的とも言える堅牢性
1969年にメルボルンの新しい工場に移転したNEVE ELECTRONICSは、大型コンソールの生産を本格化させた。NEVEがPENNY+GILESのフェーダーを採用したのも1969年からだった。
PENNY+GILESは航空業界で記録装置を手掛けてきたメーカーだったが、導電性プラスチックを使ったフェーダーを発案。それをNEVE ELECTRONICSに持ち込んだ。NEVEの協力を得て、PENNY+GILESはフェーダーの開発を進め、従来のカーボン式フェーダーよりも信頼性/耐久性に優れた導電性プラスチック式のフェーダーを完成させた。
このPENNY+GILESのフェーダーの採用は重要な変更だった。というのも、NEVEコンソールに対するエンジニアの高評価は、その音質だけなく、堅牢さに負うところも大きいからだ。PENNY+GILESのフェーダーの驚くべき耐久性は、それを象徴する。現在も世界各地のスタジオでオールドNEVEのコンソールが現役で活躍しているのは、フェーダーやスイッチ類のような可動部品の耐久性が極めて高いからだ。
モジュール式で、メインテナンスもしやすい構造だったことも、NEVEコンソールの利点だった。ビンテージ機材としての人気を得たのもそれゆえで、堅牢なNEVEモジュールは、コンソールが維持できなくなっても、単体の機材としてラック化し、長く使い続けることができる。半世紀以上前に生産されたエレクトロニクスがほとんど捨て去られることなく、稼働し続けているという奇跡を起こしているのが、NEVEのマイクプリ/EQモジュールなのだ。
とはいえ、当時のNEVEはテレビ局やラジオ局、あるいは映画スタジオなどを主要なカスタマーとして、業績を伸ばしていた。NEVEコンソールのレコーディング・スタジオへの進出が本格化するのは、1970年代に入ってからだった。
前回、NEVEのマイクプリ/EQモジュールがゲルマニウム・トランジスターからシリコン・トランジスターに切り替わるのは1066モジュールからと書いてしまったが、正しくは1063モジュールからだった。1063〜1065のモジュールは過度期的なモデルで、パネル・デザインもそれぞれ違っていたが、1066は1063のパネル・デザインを採用。MARINAIRと共同開発したトランスを搭載し、アンプ・カードなども熟成されて、以後のNEVEのスタンダード・モデルとなった。現代で最も人気の高い1073モジュールも、基本構成は1066と同一で、EQのポイントが異なるだけだ。
1066モジュールを搭載したNEVEコンソールは、ロンドン市内ではレコーデッド・サウンドやCBSスタジオなどに納品されていったが、1970年10月、1066モジュールを搭載した2台のNEVEコンソールを備える新しいスタジオが市の中心部にオープンする。ジョージ・マーティンがスタートさせたAIRスタジオだ。
ジョージ・マーティンが集めたプロ集団AIRとEMIとの関係性
AIRはAssociated Independent Recordingの略称で、ジョージ・マーティンは1965年にそれをスタートさせていた。マーティンがAIRを設立したきっかけは、ビートルズが巨大なセールスを挙げても、EMIはマーティンにボーナスを支払わなかったからだ。『ビートルズ・サウンドを創った男〜耳こそはすべて』の中で、マーティンは1963年の暮れを振り返っている。ビートルズが人気爆発したこの年、EMIは社員にクリスマスのボーナスを支払ったが、その額は4日分の給料に過ぎなかった。そして、そのわずかなボーナスすら、マーティンには支払われなかった。年棒3,000ポンドを越える社員には、クリスマス・ボーナスの支払いはないという規定があったのだ。
翌年7月、マーティンはEMIの専務取締役レン・ウッドに対して、ビートルズのレコード・セールスから印税が支払われることを契約更改の条件とした。ウッドは印税を支払うことに同意したが、彼の提示した条件にはトリックがあった。EMIがビートルズで上げた利益の3%を印税とし、そこからマーティンがビートルズの制作に要した経費を差し引いた額を支払うとウッドは申し出たのだ。
1963年のEMIはビートルズで220万ポンドの利益を上げていたので、その3%の6万6千ポンドが印税となる。だが、マーティンが使ったビートルズの制作費は5万5千ポンドだったから、差額の1万1千ポンドを支払うという形だ、とウッドは説明した。マーティンはEMIが上げた利益の巨大さを知るとともに、印税から経費を引くというウッドの契約の罠をすぐに見抜いた。EMIの利益が150万ポンドだったら、マーティンは逆に1万ポンドを支払わねばならないことになる。
マーティンのウッドに対する不信は決定的なものになり、マーティンは翌年の契約更新を拒否した。
AIRを設立したマーティンはEMIから多くの人材を引き抜いた。マーティンとともにAIRの中心となったジョン・バージェスはアダム・フェイスやフレディ&ザ・ドリーマーズ、ピーター&ゴードンなどのヒット作を手掛けてきたEMIの社内プロデューサーだった。マーティンのアシスタントのロン・リチャーズや秘書たちも行動を共にした。EMI出身だが、1962年にデッカに移籍して、ルルやトム・ジョーンズのプロデューサーとして大成功したピーター・サリヴァンもAIRに加わった。
とはいえ、AIRを設立後もビートルズのプロデューサーとしてのマーティンの仕事は大きくは変わらなかった。AIRはビートルズのイギリス国内のセールスから0.5%の印税を受け取る契約をEMIと締結した。EMIがキャピトルに配給したライセンス料からは5%を受け取る契約だった。マーティンやバージェスはそれまで通り、EMIの所属アーティストのプロデュースを多く手掛けた。AIRが原盤を制作する場合も、EMIがその第一選択権を持つという取り決めがされていたようだ。
ビートルズの印税収入は巨大だったが、それ以外のAIR設立後のマーティンのプロデュース・ワークの成績は芳しいものではなかった。ヒット作となったのはシーラ・ブラックくらいで、ポール・マッカトニーの弟のマイク・マクギア(本名はピーター・マイケル・マッカートニー)を含むスキャフォールドなど、幾つかのアーティストを手掛けて、古巣のパーロフォンから発売したが、ヒットにはほど遠かった。
ロンドンの繁華街に設立された最初のAIRスタジオ
独立系のプロダクションが制作費を抑えるには、自社スタジオを持つ必要があったが、ロンドン市内に新しいスタジオを建設するのは簡単ではなかった。十分な広さを得ようとすると、郊外に出なければならない。だが、1969年にマーティンはオックスフォード・サーカスのピーター・ロビンソン百貨店の4階のサロン・スペースが空いていることを耳にした。
かつてそこは百貨店で買い物を終えた上流階級の人々が紅茶を飲み、スイーツを食べる場所だった。だが、そんな上流階級は既に消え去りつつあった。アーチ型の天井や大理石の柱のあるスペースはオフィスにも不向きで、借り手がない状態だったが、その高い天井を見て、マーティンはレコーディング・スタジオにはうってつけだと確信した。
ただし、そのロケーションには問題もあった。ロンドンの繁華街の真ん中過ぎるのだ。筆者は1980年代の終わりにディーコン・ブルーというバンドの取材でAIRスタジオを訪問したことがあるが、日本でいえば、銀座四丁目の交差点にあるデパートの最上階にレコーディング・スタジオがあるようなものだ。交差点の喧騒は激しい。加えて、真下には地下鉄も走っている。この地下鉄の振動を遮断するために、AIRスタジオはコントロール・ルームやレコーディング・ブースをビルから独立させ、フローティング構造にするという方法を採らねばならなかった。ノイズ対策と空調の両立にも困難があったようだ。
設計を依頼された建築家のビル・ローゼルは当初、マーティンに予算を6万6千ポンドと伝えていた。だが、建設費はどんどん膨れ上がり、最終的には13万6千ポンドに達した。これは建設費だけであり、機材費にはさらに20万ポンドを支出が必要となった。AIRは資金難に陥ったが、スタジオ経営の成功を信じて、突き進むしかなかった。
16trレコーダーを駆使したAIRスタジオ収録の名盤の数々
機材への投資で最も大きかったのは。言うまでもなく、NEVEコンソールだ。1970年10月のオープンまでに、AIRスタジオは1066モジュールを搭載した2台のNEVEコンソールを運び入れていた。スタジオ1用のA29コンソールと、スタジオ2用のA45コンソールだ。どちらも24インプット/16アウトで、16chのモニター・セクションも持っていた。オープンの時点ではAIRスタジオはまだSTUDERと3Mの8trレコーダーしか備えていなかったが、16trレコーダーへの対応を主眼に、NEVE ELECTRONICSに製作依頼していたことが分かる。
AIRスタジオは1970年10月7日、8日に盛大なオープニング・パーティを開いた。ジョージ・マーティンがロンドンの中心地にレコーディング・スタジオを建設したのだから、音楽業界の注目が集まらないわけはない。それはNEVE ELECTRONICSにとっても、大きなプロモーションの機会になっただろう。AIRスタジオでの最初のレコーディング・セッションは、10月9日のシーラ・ブラックだったと、マーティンは記している。
AIRスタジオのチーフ・エンジニアに迎え入れられたのは、デッカ・スタジオにいたビル・プライスだった。プライスはデッカからジョン・パンターを連れてきた。アビイ・ロードからはクリス・トーマスが引き抜かれ、少し遅れて、EMIを辞めてからアップル・スタジオで仕事していたジェフ・エメリックもAIRの一員となった。トライデント・スタジオからはアラン・ハリスが移籍した。後にジャパンやXTCのプロデューサーとして名を上げるスティーヴ・ナイはこの時期に、テープ・オペレーターとして、AIRスタジオで働き始めている。
イギリスで最初に8trレコーダーを導入したトライデント・スタジオにはデッカからロイ・トーマス・ベイカーが、アビイ・ロードからケン・スコットが移籍して、マルコム・トフトが製作したTRIDENTコンソールとともにブリティッシュ・ロックのサウンド・イメージを決定づける多くの名作を生み出したが、次はAIRスタジオの番だった。1970年のうちに、AIRスタジオには16trレコーダーの3M M56が運び込まれた。さらに4台のNEVEコンソールも追加された。
アビイ・ロードではジョージ・マーティンはEMIのルールに縛られ、ほかのスタジオが8trレコーダーやソリッド・ステート・コンソールを導入していく中、4trレコーダーと真空管コンソールで仕事せねばならなかった。だが、1971年には立場は逆転。AIRスタジオはロンドンで唯一、16trレコーダーを備えたスタジオとなった。上質なアンビエンスと高音質を誇るNEVEコンソールを備え、気鋭のエンジニア達が集まっているAIRスタジオが人気を集めるのには時間がかからなかった。
1971年には16trを駆使したブリティッシュ・ロックの名盤がAIRスタジオから次々に生み出された。1971年4月にリリースされたプロコル・ハルムの『ブロークン・バリケーズ』は同年2月から3月にかけて、同スタジオの16tr環境でフルに制作されたアルバムだ。バンドとしては通算5作目。プロデュースはクリス・トーマスが務めているが、アビイ・ロードで録音された1970年の前作『ホーム』もクリス・トーマスが手掛けているので、興味深い聴き比べができる。『ホーム』からギタリストのロビン・トロワーが加入して、バンドはハード・ロック色を強めた。次作でも音楽性に大きな変化はないが、音の太さ、解像度、ステレオ空間の使い方など、サウンド面では1年の差とは思えない違いがある。
ジョン・パンターがエンジニアを務めたアフロ・ロック・バンド、オシビサの1971年のアルバム『ウォイヤヤ』はスタジオ・アンビエンスを生かしたハイファイな録音だ。プロデューサーはトニー・ヴィスコンティ。オシビサは同年に同じくヴィスコンティのプロデュースで『オシビサ』というアルバムも残しているが、こちらはエンジニアのマーティン・ラシェントが所有するアドヴィジョン・スタジオでの録音だ。アドヴィジョン・スタジオもロンドンの重要なスタジオの一つだったが、2枚を聴き比べると、『ウォイヤヤ』の音の良さが際立つ。
ピンク・フロイドがアビイ・ロードで録音していたアルバム『おせっかい』(Meddle)の途中で、16trを求めて、AIRスタジオにやってきたのも有名な話だが、このアルバムはさらにウィルスデンのモーガン・スタジオで完成している。キャラヴァンの名作『グレイとピンクの地』(In The Land Of Grey And Pink)もレコーディングの前半はデッカ・スタジオで、後半はAIRスタジオで行っている。B面の組曲はデッカ録音だが、A面の4曲はAIR録音のようだ。アラン・ハリスとジョン・パンターがエンジニアを務めた。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash
Photo:Takashi Yashima