ザ・ビートルズ“ゲット・バック・セッション”とレコーディング機器【Vol.107】音楽と録音の歴史ものがたり

映画『ザ・ビートルズ:Get Back』が明らかにした当時のスタジオ・ワーク

 1968年10月のオリンピック・スタジオでレコーディングを終えた時点では、レッド・ツェッペリンはレコード契約を持っていなかった。ジミー・ペイジとマネージャーのピーター・グラントは同年11月、ニューヨークに飛んで、アトランティック・レコードにアプローチした。

 1960年代後半のアトランティックは主力商品をR&Bからロックへと転換しようとしていた。だが、最も力を入れていた西海岸のロック・バンドだったバッファロー・スプリングフィールドが1969年の春に解散。傘下のATCOレーベルではイギリスのロック・バンド、クリームを手掛けていたが、これも同年11月に解散することが決まっていた。

 ペイジとグラントがアトランティックの本社を訪れたのは、そんな折だった。彼らが持ち込んだマスター・テープを聴いたレーベル総帥のアーメット・アーティガンはすぐに契約を申し出て、アトランティックとレッド・ツェッペリンは11月11日に契約締結。1stアルバムはアメリカで1969年1月12日に発売されて、英本国よりも先に評判を呼んだ。イギリスでの発売は2カ月以上遅れた3月末だった。

 レッド・ツェッペリンの1stを手掛けたエンジニアのグリン・ジョンズは、心底すごいアルバムが完成したと思って、ミック・ジャガーやジョージ・ハリスンに聴かせたが、二人とも反応はさっぱりで、むしろ嫌悪を示したという。とはいえ、レッド・ツェッペリンの影響で、ローリング・ストーンズやビートルズのサウンドも変わることになる。そのレコーディングを通じて、グリン・ジョンズが発見したレコーディング手法は、ビートルズやストーンズの録音にも応用されていくからだ。

 1969年の年明けから、グリン・ジョンズはビートルズの制作現場にかかわることになった。後に『レット・イット・ビー』として発表されることになるアルバムの録音現場だが、ジョンズがポール・マッカートニーから誘いの電話を受けたときには、テレビ番組の制作が最初の目的としてあり、アルバムの計画は定まっていなかった。ジョンズはそれまでビートルズとはほとんど仕事したことはなく、ポールから話をもらったときには、宝くじに当たったような気分だったという。

 ビートルズのアルバム『レット・イット・ビー』の制作経緯については、本連載の中でフィル・スペクターについて書いた時期に触れている。だが、2021年の秋にピーター・ジャクソン監督による映画『ザ・ビートルズ:Get Back』が公開された。これは1969年1月2日に始まり、1月30日のルーフ・トップ・コンサートを経て、1月31日で終了するアルバム『レット・イット・ビー』のオリジナル・セッション(ゲット・バック・セッション)のドキュメンタリーだ。

『ザ・ビートルズ:Get Back』。当初2020年に公開予定だったが、新型コロナの影響で延期。2021年にディズニープラスで配信開始となった

『ザ・ビートルズ:Get Back』。当初2020年に公開予定だったが、新型コロナの影響で延期。2021年にディズニープラスで配信開始となった

 3部構成の全編を見るには8時間近くを要するが、しかし、見始めたら一瞬たりとも目が離せなくなる。ビートルズのメンバー間の確執、それでも4人が集まって、演奏していくうちに、名曲が形を整えていくさまなど、ドキュメンタリー映画としてのスリルもさることながら、なにしろ、この時代のレコーディング・スタジオで何が行われていたのかがつぶさに観察できるのだ。自分もスタジオに居合わせて、セッションを見ているような感覚になるのは、残された16mmフィルムやアナログ・テープを現代のデジタル・テクノロジーによってリフレッシュし、徹底的な編集を凝らしているからだろう。これまで、どのビートルズ本にも書かれていなかった発見も数多くあり、レコーディングの歴史に興味のある人は必見と言っていい。 

『ザ・ビートルズ:Get Back』の監督、ピーター・ジャクソン(1961年〜)。『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズの監督として知られる。2018年公開の第1次世界大戦のドキュメンタリー『彼らは生きていた』で古いフィルムの修復を行ったことが、『〜Get Back』でも生かされているという Photo:Gage Skidmore CC BY-SA 2.0

『ザ・ビートルズ:Get Back』の監督、ピーター・ジャクソン(1961年〜)。『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズの監督として知られる。2018年公開の第1次世界大戦のドキュメンタリー『彼らは生きていた』で古いフィルムの修復を行ったことが、『〜Get Back』でも生かされているという Photo:Gage Skidmore CC BY-SA 2.0

自らのスタジオを持ったビートルズ 機材は真空管からソリッド・ステートへ

 セッションは当初、トゥイッケナムのフィルム・スタジオで始められた。がらんとした大きな部屋に楽器が運び込まれ、ビートルズの4人はそこでリハーサルを始める。1968年の『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』のレコーディングではメンバー全員が参加しない曲も多く、バンドのアルバムというよりは、各メンバーのソロ作品の寄せ集めのような2枚組を産み落とすことになった。その反動から、バンドの初期と同じように4人だけの演奏で、ライブ・スタイルのレコーディングをする。そのために曲作りから4人でリハーサルして進めるというのが、ポール・マッカートニーの発案だった。とはいえ、当初のテレビ番組制作を軸にした企画は途中で立ち消えていき、何を作っているのか判然としないまま、4人はリハーサルを重ねることになる。

 グリン・ジョンズはトゥイッケナムのフィルム・スタジオに呼ばれたものの、映像用の音声はマイケル・リンゼイ・ホッグが率いるフィルム・クルーがクレーンからつり下げたマイクからNAGRAのレコーダーに録音していた。一方で、そこにはジョージ・マーティンは居なかった。そのため、ジョンズがメンバーから助言を求められ、アレンジの提案をしたりするようになる。映画『〜Get Back』の中には、「レット・イット・ビー」のリフレインから間奏に入る間のピアノとベースの下降フレーズをジョンズが指定するシーンがある。この曲はジョンズのアレンジだとポールが言うシーンもある。

 ジョンズはトゥイッケナムのスタジオの一角に、IBCスタジオから借り受けたロータリー・フェーダー式の真空管コンソールを置き、少しずつ、レコーディングの準備を進めていったようだ。レコーダーはジョージ・ハリスンの自宅から3Mの8trレコーダーが運び込まれた。アビイ・ロードでの8trレコーディングがなかなか実現しないことに業を煮やしたジョージは、個人でそれを購入していたのだ。日にちが進むにつれて、ジョンズが楽器用のマイクをきちんと立てて、トゥイッケナムでもマルチトラック・レコーディングができる態勢を整えていったことがよく分かる。

 ところが、1月10日に事件が起こる。ジョージが脱退宣言をして、帰ってしまうのだ。ジョージの3Mの8trレコーダーもトレーラーに積まれて帰っていく様子が映画『〜Get Back』には映し出されている。このままメンバー3人になるのか、進めてきた企画は何かの形になるのか、ビートルズは全く先が見えない宙ぶらりんの状態に陥る。が、数日後、ジョージの家で全員が話し合った結果、フィルム・スタジオでの収録は終了とし、建設中だったアップル・スタジオに場所を移して、撮影とレコーディングを行うという話がまとまる。

 サヴィル・ロウのビル地下室のアップル・スタジオは、ジョージが中心となって、設備投資してきたものだった。だが、ジョージとともにスタジオを訪れたジョンズは、冗談のような状況を目にする。ビートルズはヤニ・アレックス・マルダスという自称サイエンティストを引き入れて、アップル・エレクトロニクスという会社まで設立していた。だが、“マジック・アレックス”と呼ばれた彼は大ボラ吹きだった。自分はアップル・スタジオに72trレコーディング・システムを作ることができると豪語していたが、ジョンズがチェックしてみると、何一つスタジオは機能する状態になかった。そこでジョンズはジョージ・マーティンに相談。マーティンの手配で、アビイ・ロードからコンソールやアウトボードが運びこまれることになる。

サヴィル・ロウのアップルの旧オフィス・ビル。地下にはジョージ・ハリソン主導でスタジオを建設。この屋上でルーフトップ・コンサートが行われた

サヴィル・ロウのアップルの旧オフィス・ビル。地下にはジョージ・ハリソン主導でスタジオを建設。この屋上でルーフトップ・コンサートが行われた

本稿で触れた時期の少し後、1971年撮影のアップル・スタジオ。HELIOSコンソールが導入された後のようだ

本稿で触れた時期の少し後、1971年撮影のアップル・スタジオ。HELIOSコンソールが導入された後のようだ

 このころ、アビイ・ロードは機材の入れ替え時期にあった。ビートルズが初期のレコーディングから使用してきたREDDシリーズの真空管コンソールに代わって、8trレコーダーに対応した自社開発のソリッド・ステート・コンソール、TG12345が1968年11月には稼働を始めていた。アップル・スタジオはそこでお役御免になりつつあった2台のREDDコンソールを借り受けることができた。一台はREDD37、もう一台はREDD51だ。ジョージ・ハリスン所有の3Mの8trレコーダーを使用するため、2台を必要としたのだろう。

 アウトボードで目を引くのはコンプレッサーだ。FAIRCHILD 660が2台、ALTEC 436をEMIの技術陣がモデファイしたRS124コンプレッサーも2台置かれている。さらには、極めてレアな一台も見ることができる。660の上に置かれた小さなボックスは、EMI RS168ジナー・リミッターだ。このRS168リミッターは製作数も限られたようだが、CHANDLER LIMITEDが1台、実機を保有しているようだ。しかし、CHANDLER LIMITEDが復刻しているのは、その後継機種、TGシリーズになった後のジナー・リミッター、TG12413だ。

アビイ・ロードのWebサイトに掲載されたFAIRCHILD 660

アビイ・ロードのWebサイトに掲載されたFAIRCHILD 660
https://www.abbeyroad.com/news/fairchild-660-gearthatmadeus-3188

アビイ・ロード・スタジオのEMI RS124。ALTEC 436を元に改造を施したコンプレッサーで、現在はWAVESがプラグイン化している

アビイ・ロード・スタジオのEMI RS124。ALTEC 436を元に改造を施したコンプレッサーで、現在はWAVESがプラグイン化している
https://www.abbeyroad.com/news/rs124-compressor-gearthatmadeus-3174

CHANDLER LIMITED EMI TG12413 Zener Limiter。EMIのリミッターはRS114からRS168など多数の派生モデルが生まれ、TG12413に結実。2006年にCHANDLER LIMITEDがアビイ・ロード・スタジオからのライセンスを受けて復刻した。なおプラグイン版はSOFTUBEからリリースされている

CHANDLER LIMITED EMI TG12413 Zener Limiter。EMIのリミッターはRS114からRS168など多数の派生モデルが生まれ、TG12413に結実。2006年にCHANDLER LIMITEDがアビイ・ロード・スタジオからのライセンスを受けて復刻した。なおプラグイン版はSOFTUBEからリリースされている

 映画『〜Get Back』ではこうした機材が仔細に眺められる。中には正体の分からないものもある。灰緑色のモノラルのポータブル・レコーダーだ。テープ・スピードには38cm/sと76cm/sの表示があるから、プロ用の機材に違いなく、カラーリングや録再ヘッドが通常とは逆の方向に置かれたレイアウトから、EMIの製作したものには思われる。アップル・スタジオでは3M M23の8trに録音した素材の仮ミックスをこのモノラル・レコーダーに落としていたのか、あるいは映画用の音声記録に使われていたのか、謎の多い機材だ。

 アップル・スタジオに移動後のビートルズは、ジョージの脱退騒動などなかったかのように、バンドらしさを取り戻していく。たまたま遊びに訪れたキーボード奏者のビリー・プレストンが5人目のメンバーとして引き入れられ、一発録音でもサウンドがまとまるようになる。自分たちのスタジオを手に入れた喜びが、狭いコントロール・ルームの中で身を寄せて、プレイバックを聴くメンバーの表情にもうかがわれる。

 映画中のセッション映像では、AKGのマイクロフォンC30が目立つ。アップル・スタジオの屋上で行われ、ビートルズの最後のライブ演奏となったルーフトップ・セッションでも、このC30が大活躍している。細長いグースネックの先に付いた小さな球状のマイクは頼りなさげに見えるが、このC30はC28のグースネック版で、AKG C12と同じAC701チューブを使っている。真空管回路の入ったC28と共通のボディ部分は床近くに置かれ、長いグースネックの先にカプセルだけが付いている構造なのだ。C28(あるいはC29、C30)はボーカルにも楽器にも使えるオールラウンドなマイクで、同時期のBBCの音楽番組でも多く見ることができる。

AKG C28Cシリーズのカタログ。CK28カプセルを採用し、トップ・アドレスのC28C、33cmグースネックのC29C、1mグースネックのC30Cがラインナップされていた

AKG C28Cシリーズのカタログ。CK28カプセルを採用し、トップ・アドレスのC28C、33cmグースネックのC29C、1mグースネックのC30Cがラインナップされていた

 もう一つ、マイクロフォンで多用されているのはNEUMANN U 67で、リンゴのドラムにはU 67が2本立てられ、まさしくグリン・ジョンズ・メソッドのマイキングが施されている。コントロール・ルームでドラムのフィルがステレオ展開するのを聴きながら、ポールが“ドラムに2trを使うんだ”と言うシーンもある。レッド・ツェッペリンの1stアルバムのレコーディングを機に、ロック・ドラムの録音方法が書き換えられたことが実感される。

50周年版で日の目を見たグリン・ジョンズ・ミックスの『レット・イット・ビー』

 『レット・イット・ビー』のセッションの後、アップル・スタジオにはグリーン・カラーのHELIOSコンソールが導入された。だが、ビートルズはそれを使うことはなく、1969年7月1日からアビイ・ロードのEMIスタジオに戻って、新しいアルバムのレコーディングを始めた。彼らの最後録音作品となる『アビイ・ロード』だ。2021年に邦訳されたケネス・ウォマックの著書『ザ・ビートルズ 最後のレコーディング〜ソリッドステート(トランジスター)革命とアビイ・ロード』は、そのアルバムの製作過程を追った一冊だが、そこではEMIの新しいソリッド・ステート・コンソール、TG12345が時代を象徴するアイコンとして据えられている。

『ザ・ビートルズ 最後のレコーディング〜ソリッドステート(トランジスター)革命とアビイ・ロード』 ケネス・ウォマック、湯田賢司訳 (2021年/DU BOOKS) 『アビイ・ロード』を軸に、当時導入されたさまざまなレコーディング技術やエンジニア陣の奮闘なども描いた一冊。筆者が解説を寄せている

『ザ・ビートルズ 最後のレコーディング〜ソリッドステート(トランジスター)革命とアビイ・ロード』
ケネス・ウォマック、湯田賢司訳(2021年/DU BOOKS)
『アビイ・ロード』を軸に、当時導入されたさまざまなレコーディング技術やエンジニア陣の奮闘なども描いた一冊。筆者が解説を寄せている

 といっても、これまで述べてきたように、ビートルズの制作環境は時代の最先端に位置していたわけではなかった。彼らはEMIの保守性に縛られていて、レコーダーのマルチトラック化にも、ミキシング・コンソールのソリッド・ステート化にも遅れてついていく形になっていた。TG12345がアビイ・ロードに導入されて、ようやくビートルズはライバルたちに追いついたのだった。

 TG12345は8trレコーダーに合わせて開発され、8バスの構成となった。インプットも24ch以上に拡大された。最大の特徴は各チャンネルにEQだけでなく、コンプレッサーも内蔵していたことで、これは後のSSLコンソールにも通ずるチャンネル・ストリップの在り方を先取りするものだった。各モジュールを着脱できるカセット式にすることで、メインテナンスも容易なものになっていた。

EMI TG12345。EMI初のソリッド・ステート・コンソール

EMI TG12345。EMI初のソリッド・ステート・コンソール
https://www.abbeyroad.com/news/behind-abbey-road-studios-emi-tg12345-console-2604

 EMIのチーフ・エンジニア、マイク・バチェラーを中心としたTG12345の開発チームは、ディック・スウェットナムが製作したオリンピック・コンソールを多分に意識していたのではないかと思われる。初期型のTG12345はゲルマニウム・トランジスターを使用し、それが生み出す倍音を積極的に扱って、真空管コンソールに通ずる音質を得ようとしていたようだ。それでもアルバム『アビイ・ロード』の制作途中からビートルズのエンジニアに復帰したジェフ・エメリックは、REDDコンソールに比べて、TGコンソールは音質的に大人しく、当初は戸惑ったと語っている。EMIの機材は当時は門外不出のものだったが、現代ではCHANDLER LIMITEDがTG12345のチャンネル・ストリップを元にした復刻機材を発売しているし、WAVESなどからプラグインも発売されている。

TG12345のチャンネル・ストリップをモデリングしたWAVESのプラグイン、EMI TG12345 Channel Strip。コンプレッサーのサイド・チェイン・ハイパス・フィルターやパラレル・コンプレッション、ドライブ・コントロールなど、現在のミキシング環境に合わせた機能も追加されている

TG12345のチャンネル・ストリップをモデリングしたWAVESのプラグイン、EMI TG12345 Channel Strip。コンプレッサーのサイド・チェイン・ハイパス・フィルターやパラレル・コンプレッション、ドライブ・コントロールなど、現在のミキシング環境に合わせた機能も追加されている

 1969年9月に発表された『アビイ・ロード』は1960年代の最後を飾るロック・アルバムの金字塔となった。アップル・スタジオで1969年1月にレコーディングされたマルチ・テープは、グリン・ジョンズがオリンピック・スタジオに持ち込んで、ミキシングを繰り返したが、メンバーのOKは得られなかった。実質的にプロデューサーの役割も果たしたジョンズは、誰よりもアルバムのリリースを強く望んでいた。だが、彼のミックスが採用されたのは1969年4月発売の「ゲット・バック」と「ドント・レット・ミー・ダウン」のシングル・バージョンのみだった。アルバム『レット・イット・ビー』はビートルズの解散後、フィル・スペクターによるポスト・プロダクションを経て、当初のコンセプトとは大きく異なる形で世に出ることになる。

『Abbey Road』
The Beatles
(1969年/Apple)
ゲット・バック・セッションの後に録音された、録音順で言えばビートルズ最後のアルバム。MOOGシンセの導入やB面後半のメドレーなど、大胆なクリエイティビティが発揮された。2019年には50周年記念アニバーサリー・エディションがリリース

 ジョンズが1969年にミックスした各曲は、2021年にリリースされた『レット・イット・ビー』のスペシャル・エディション(スーパー・デラックス)に収録されて、聴くことができるようになった。ジョンズは一発録音のラフなフィーリングをそのまま残すことにこだわっていた。音質的にもそれはREDDコンソールで録られたホットなサウンドを持っていた。『アビイ・ロード』はTG12345コンソールによるクリーンなサウンドで制作されたが、リリース順ではラスト・アルバムとなった『レット・イット・ビー』ではビートルズはREDDコンソールの真空管の音に回帰していたのだ。

2021年に限定生産でリリースされた『レット・イット・ビー スペシャル・エディション[スーパー・デラックス]』。未発表の1969年『ゲット・バックLP』(グリン・ジョンズ・ミックス)のほか、未発表テイクやDolby Atmos版なども収録

2021年に限定生産でリリースされた『レット・イット・ビー スペシャル・エディション[スーパー・デラックス]』。未発表の1969年『ゲット・バックLP』(グリン・ジョンズ・ミックス)のほか、未発表テイクやDolby Atmos版なども収録

 ビートルズの初期からの大ファンだったというジョンズは、そこにも意識的だったに違いない。「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」のOKテイクが録れた後、その日、アップル・スタジオを訪れていたジョージ・マーティンがストリングスやホーンを入れたら、とアドバイスするが、ジョンズはこのままで十分に良い、と力説する。『レット・イット・ビー』(ゲット・バック・セッション)のオリジナル・コンセプトを最も正しく伝えるのが、2021年のスペシャル・エディションで初めて日の目を見たジョンズのミックス群であるのは間違いない。

 

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高橋健太郎

音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash

Photo:Hiroki Obara

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