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セイント・ヴィンセント【前編】〜『Daddy's Home』を手掛けたエンジニアのシアン・リオーダン氏が語るミックスの極意

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アメリカ出身のシンガー・ソングライター、セイント・ヴィンセントことアニー・クラーク。グラミーを2部門受賞した前作に引き続き、6枚目のアルバム『Daddy's Home』をリリースした。ミックス・エンジニアはスリーター・キニーやベックなどのミックスを手掛けてきたシアン・リオーダン氏。クラシックなサウンドをコンセプトに制作された本作のサウンド・メイキングをひも解いていこう。

Text:Paul Tingen Translation:Takuto Kaneko

良いミックスは作品をよりはっきり見えるようにする

 シンガー・ソングライターのセイント・ヴィンセントが、6枚目となるアルバム『Daddy’s Home』を今年5月にリリースした。第61回グラミー賞において“最優秀ロック・ソング”“最優秀レコーディング・パッケージ”の2部門を受賞した前作『MASSEDUCTION』に引き続き、ジャック・アントノフを共同プロデューサーに迎え制作された本作。サイケデリックなオルタナティブ・ロックの仕上がりで、1970年代の影響も色濃く感じられる。ミックスを担当したシアン・リオーダン氏は、スリーター・キニー、フォクシジェン、ミニ・マンションズ、ドイル・ブラムホールII、ベス・ディトー、ベックなど、さまざまなアーティストの作品のミックスを手掛けてきた人物だ。彼にミックスの極意や、『Daddy's Home』の制作について話を聞くことができた。

 

 「良いミックスとは、まるでカーテンを開けるかのようであるべきです。これは“作品をよりはっきりと見えるようにする”ということで、ときにはミックス前には聴こえなかったものが聴こえてくることもあります。その結果、アーティストやプロデューサーが制作段階に戻ってやり直すこともありますが。作品がよりクリアになるとアーティストはこう言うでしょう。“これだけクリアに自分の歌が聴こえると、もう今のパフォーマンスで満足できるか分からないな。もう一回歌い直してもいいかい?”とね」

 

 実際『Daddy’s Home』の制作においてセイント・ヴィンセントことアニー・クラークは、リオーダン氏の最初のミックスを聴いてボーカルを録り直すことにしたという。まさに、彼が語ったことがそのまま起こったのだ。クラークと共同プロデューサーのアントノフ、それにリオーダン氏の3者間では何度も作品のやりとりを繰り返し、ミックスのやり直しが数十回を超えることも珍しくなかったそうだ。

 

 「アルバムの制作は、新型コロナ・ウィルスのロックダウンの最中に秘密裏に行われたので時間的な制約はありませんでした。出来上がったミックスをアントノフとクラークに送り、それを聴いた彼らがプロダクションをさらに詰めていったんです。新しいパートが付け加えられたり、ボーカルを録り直したりというのもよくあることでした。中にはあまりにもアレンジが変わったためそれまでのミックスをすべて破棄し、最初からやり直した曲も1、2曲あったと思います」

クラークのビンテージ機材が“クラシックなサウンド”の鍵

 『Daddy’s Home』の制作に新たな見地を与えたリオーダン氏は、ミックス界の新生スターと言えるだろう。一方でミックスだけではなく、ドラムの演奏やレコーディングにも参加している点は興味深い。

 

 「クラークはホーム・スタジオを持っており、そこにはかなりの数のビンテージ機材があるんです。大量のアウトボードやシンセ類、それに1970年代のOPAMP LABS製の12チャンネル・コンソールなどがありました。そこで彼女のワーク・フローやアイディアを形作る手伝いをし、ときには打ち込みより速いからという理由で彼女のドラム・セットを借りて演奏することもありました。また、それに加え幾つかの曲では追加でエンジニアリングのクレジットもされています。制作の初期段階でスタジオに居たのが私でしたからね。例えば「Something Like Me」では、メインのリズム・セクションを私がレコーディングしました」

 

 音楽プロデューサー、エリック・ヴァレンタインのベアフット・スタジオでアシスタントをした経験もあるというリオーダン氏。彼のスタジオではテープとアウトボードが重要だったそう。多くの人がプラグインで使っている機材の実物を使えるのは素晴らしい経験であったとリオーダン氏は語る。アニー・クラークのスタジオでの共同作業はアウトボードの重要性の再確認になったという。

 

 「実際にスタジオ内でサウンドを作り込んでいると、コンプレッサーをオーバードライブさせたりSCULLYのテープ・マシンでひずませたりする方がずっと素早く目的のサウンドを得られまし、ずっとエキサイティングです。クラークは非常に直感的で仕事の速いアーティストで、エフェクトをかけたものをそのままレコーディングしてしまうことにためらいがありません。後から元のサウンドに戻す必要性が無いんですよ。彼女のようなアーティストと仕事をする際、アウトボードを使うことは非常に理にかなった方法と言えます」

 

 今回のアルバムは、どうやって超クラシックなサウンドにするかが重要だったというリオーダン氏。セイント・ヴィンセントの前作とは対極的なコンセプトだ。リボン・マイクを古い機材に通すことで、このコンセプトは半分程度達成できたらしい。

 

 「クラークは自身のリード・ボーカルを自宅でセルフ・レコーディングしており、BEYERDYNAMIC M160というダブル・リボンのマイクを相当気に入って使っていましたね。たまたまデモを録ったときに使ったのがこのマイクで、超指向性だったこともあってちょうどフィットしたんです。そのほかには彼女のRCA 44を借りて録ったこともありました。また、彼女が使っていたマイクプリは大体がOPAMP LABSコンソールのもので、EQで少しだけブライトに処理されていました。アウトボードのEQでリボン・マイクの高域を持ち上げるのは私も非常に好きな手法です」

ミックスは低音がヘビーな状態で始める

 リオーダン氏がミックスを行ったのは、カシータ・レコーディングという自身のミックス用スタジオ。モニターにATC SCM25A ProとRHYTHMIK AUDIO FV15HPという15インチのサブウーファーを組み合わせて使っており、コントローラーはDANGEROUS MUSIC Monitor STを採用している。

 

 「ATCは非常に明りょうなサウンドのモニター・スピーカーで、これを使っていれば聴き漏らしが起こる可能性は非常に低く済むでしょう。RHYTHMIK AUDIOのサブウーファーを使っているのはエリック・ヴァレンタインのベアフットで働いていたときの名残です。当時はレコーディング中のモニタリング環境において、ローエンドにできる限りのヘッドルームを持たせようとしていましたから。この名残で今でも巨大なサブウーファーを使用しています」

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リオーダン氏のミックス用スタジオ。メイン・スピーカーはATC SCM25A ProとサブウーファーのRHYTHMIK AUDIO FV15HPだ。デスク右側のラックにはアウトボードを積んでいる。左下の棚上部にはチャンネル・ストリップのUTA MPEQ-1が2台。右下は上からコンプレッサーのHIGHLAND DYNAMICS BG-2が2台、その下にリミッターのFEDERAL AM-864が設置されている

 リオーダン氏が低音にこだわるのはモニタリング環境に限った話ではない。彼がミックスした作品を幾つか聴いてみると低音好きなのは明らかである。ほとんどの曲がオルタナティブ・ロックであるにもかかわらずだ。

 

 「私にとって低音は非常に重要です。ドラムとベースを演奏しますし、どちらも低音が同じくらい重要なんですよ。“このロックっぽいキックをどうやってROLAND TR-808みたいにボディのしっかりしたサウンドにすればいいんだろう?”ということをよく考えます。DAWで作業していて、ヘッドルームやローエンドの管理に気を払いつつ、マスタリングの際に全体がバラバラにならないように注意しているときは特にですね。これらを上手にこなしておかないと、後でラウドネスを上げた際にミックスが破たんしてしまうんです」

 

 リオーダン氏はミックスを“家を建てるようなもの”と考えているそうだ。後から低域を足すのではなく、あらかじめ低音から組み立てていくことで、全体がよりまとまる可能性が高くなるとリオーダン氏は語る。

 

 「大体低音がヘビーな状態でミックスを始めることが多いですね。その方が気持ち良いですから。30~50Hz辺りのサブ領域がどこから出ているのか、50~100Hz辺りの低域はどうなっているかに注意してミックスします。早い段階からトータル・コンプやリミッターを通して全体のラウドネスを上げてモニタリングをし、そこで初めて低音を減らしながら全体のバランスをとりつつ高域と中域を足していくんです」

 

 DAWはAPPLE iMac Proに最新のAVID Pro Tools|Ultimate。アウトボードにはUTA Unfairchild 670M、HIGHLAND DYNAMICS BG-2とUTA MPEQ-1が2台ずつ、それにFEDERAL AM-864などを取りそろえているという。

 

 「ミックスで使用したDAW以外の機材で一番重要だったのはHIGHLAND DYNAMICS BG-2ですね。ボーカルに使うととても良いコンプレッサーです。UTA MPEQ-1はチ
ャンネル・ストリップですが、このEQを使って高域を足すということもたまにやります。ほとんど使うことはありませんが、OTARI MX-5050という4trのテープ・レコーダーやROLAND RE-501 Chorus Echoをディレイに使うこともなくはないですね」

 

 リオーダン氏は自身があらかじめ作成しておいたテンプレートを元に、ミックスを進めるという。

 

 「私のテンプレートは、基本的にバス周りのセッティングが主になっています。例えばMusic bus、Vocal bus、Drums busといったバスが、それぞれによく使うプラグインをあらかじめインサートした状態でそろえてあります。ドラムにはクリーンな状態のバス、パラレル・コンプ用のバス、ひずみ用のバスを用意しており、それぞれを最終的にDrum masterでまとめています。そのほかエフェクト用のセンドも幾つかあって、スラップ・エコーやリバーブ類がスタンバイしています。もちろん曲に合わせて細部は調整しますが、こうして初期状態をあらかじめセットアップしておくに越したことはありません」

 

レポート後編に続く(会員限定)

 

レポート後編(会員限定)では、 アルバム収録曲「Pay Your Way in Pain」のPro Toolsセッション画面とともに、各トラックのミックスについてリオーダン氏が詳しく解説します。

Release

『Daddy’s Home』
セイント・ヴィンセント
ヴァージン・ミュージック:UICB-10004

Musician:アニー・クラーク(vo、g、syn他)、ジャック・アントノフ(ds、b、g他)、トーマス・バートレット(p、org)、エヴァン・スミス(sax、fl他)、シアン・リオーダン(ds)、リン・フィッドモント(cho)、ケニア・ハサウェイ(cho)他
Producer:アニー・クラーク、ジャック・アントノフ
Engineer:シアン・リオーダン、ローラ・シスク他
Studio:プライベート、カシータ・レコーディング、他

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