2023年3月に誕生した栃木県足利市のTSUKIHANA SOUNDS STUDIOは、大谷石や聚楽壁、檜や杉、竹などの木材をふんだんにあしらい、障子や絹ガラスなどもデザインに用いられた独創的な和モダンのレコーディング・スタジオだ。31畳のレコーディング・ルームと15畳のコントロール・ルーム、そして4.2畳と3畳のブースを備え、天井高は最大で約3mと余裕の空間を持つ本スタジオの中核には、アナログ卓のSOLID STATE LOGIC ORIGIN 32が据えられている。オーナーの栗原希氏は、MMOやメタバース用のゲーム・サーバー開発、構築、運用を行うジェットブラックフラワーズ(以下、JBF)を運営する傍ら、ゲーム音楽やサウンド・デザインにも携わっている。今回は同社で音楽制作を手掛ける石井裕氏をはじめ、設計/施工を担当したアコースティックエンジニアリング、システム・プランニングや機材コーディネイトなどに携わったコグレ楽器、ソリッド・ステート・ロジック・ジャパン、宮地商会 RECORDING PROSHOP MIYAJI、サウンド・プランニングの各社のご協力を得て取材させていただいた。
Photo:Hiroki Obara
SOLID STATE LOGIC ORIGIN 32に一目ぼれしたことからすべてがスタート
栗原氏はピアノ、電子オルガン、フルート、サックス、ドラムを演奏するだけでなく、大学で作曲理論を、大学院では湯浅讓二に師事して電子音楽を学んだ生粋の音楽人。しかし卒業後は趣味として楽しむのみだったという。ところが近年、JBFはクライアント・ソフト開発の依頼も増えたことから、ギタリスト/作詞家/作曲家であり、自身のユニットGlowlampでも活動する石井裕氏をゲーム音楽作家として迎え入れ、栗原氏自身も音楽やSEなどの制作に乗り出す中で、以前から夢であったスタジオ設立の気持ちに再び火が着いたそうだ。
「最初は地元にあるコグレ楽器の店長、山田(一彰)さんに“SSLかNEVEの卓を見たい”とお願いしたんです。その時点では“欲しい”ではなく“見たい”だけでしたし、まだスタジオを造る話にもなっていなかったんですけど(笑)」
山田氏にソリッド・ステート・ロジック・ジャパンを紹介され、SOLID STATE LOGICの各種コンソールを見学した栗原氏はORIGINに一目ぼれしてしまったそう。
「何よりアナログというところが魅力でした。それで、会社に卓を置ける場所があるかどうかを確認してもらうために、アコースティックエンジニアリングの入交(研一郎)さんをご紹介いただいて、足利まで来ていただいたんです。そうしたら、すぐに採寸が始まって仮図面が出てきたんですよ」
ここからスタジオ造りが本格化。入交氏からどのようなスタジオにしたいかを尋ねられた栗原氏は、“和”をテーマに挙げたそう。またバンドが演奏できる広いレコーディング・ルームやボーカル・ブースなども希望したという。一方で、マシン・ルームは設けなかったそうだ。
「最近はエンジニアの方がPCを持ち込んで使われることも多いと聞きますし、私も石井さんもそれぞれDAWのシステムを持っているので、必要であればそれを使えばいいかなと。それでマシン・ルームをなくしてブースを2つにしました。1つはボーカル用で、1つはピアノを入れる予定です」
“和”に関して栗原氏は、写真などの資料を入交氏へ送って参考にしてもらったという。「むちゃばかり言いました(笑)。例えば栃木の特産品、大谷石を使ってほしいとか」と栗原氏。ところが入交氏も「実は使いたいと思っていた」と語る。
「大谷石はもともと好きで使ったこともあり、音響的にすごく特徴的なマテリアルです。コントロール・ルームとレコーディング・ルームの壁の一部で使っていますが、どちらも表面加工や厚みの異なるものを複数組み合わせて、各ルームで大きさも変えています。音響的には拡散の効果がありますが、多孔質構造であるため一定の吸音性能もあって、石材の中では柔らかい響きが特徴です」
また壁の一部が、わらを練り込んだ聚楽壁と呼ばれる土壁だが、これも栗原氏のチョイス。入交氏いわく「茶室に使うような塗り壁ですが、やはり柔らかい響きです」とのこと。さらにコントロール・ルーム後方には“縁側”が設けられ、頭上には軒屋根がせり出している。これに関して栗原氏は「だんごを食べてお茶が飲めるお茶屋さんのような場所を作ってほしいとお願いしました」と語る。音響面が気になるが、入交氏によれば「見た目的には鼻隠し板と垂木で軒先のような雰囲気に作っていますが、屋根の部分は吸音天井になっています」とのこと。この屋根と縁側の間の壁の一部は杉の下見板張で、その裏にもグラスウールを詰めることで高域を少し反射しつつ、低域を確実に吸音する構造になっているそうだ。
月見窓、障子、絹ガラスなどに彩られた心地良いサウンドのレコーディング・ルーム
和のしつらえはこれだけにとどまらない。壁には檜のインテリアラーチによる杉桟が品良くデザインされ、聚楽壁には竹がアクセントとして埋めこまれている。しかも、ボーカル・ブースだけは色が異なる竹を使うという凝りようだ。そして何より目を引くのが、レコーディング・ルームの円形にくりぬかれた壁のデザインだろう。それはまるで大きな月が浮かんでいるような、あるいは寺院の月見窓のような風情だ。もともと、JBFのオフィスには月の間と呼ばれる会議室があり、その壁も月が浮かんでいるようなデザインだそう。これも栗原氏のアイディアで、その発想をスタジオにも生かしたのだという。月見窓の内側には織物の椅子生地が貼られ、その内側にはグラスウールが仕込まれている。さらにレコーディング・ルームには和紙を貼った障子まであり、2枚のガラスの間に絹を挟んだ絹ガラスが組み込まれていて、とても美しい。
上方に目を向けると7本の梁があり、その間には山型と谷型の勾配が付いた吸音パネルが交互に並ぶ。これは栗原氏の弦や管といったアコースティック楽器の録音にも対応できるようにという希望に応えたもの。入交氏は、「和の素材を多用したことでレコーディング・ルームがデッドになりすぎる懸念があったため、稼働後でも天井の布の中に板を入れて反射面を作れるようにしてあります」と工夫を明かしてくれた。
しかし、これは無用の心配だったようだ。本格的なレコーディングはまだ行っていないものの、石井氏や山田氏、それに栗原氏のドラムの師匠がレコーディング・ルームでセッションしている音を、コントロール・ルームでモニターした栗原氏は、「ずっと弾いていてくれればいいのにと思うくらい心地良かった」と語り、石井氏も「すごく演奏しやすいです」と吸音と響きのバランスに大満足の様子。今後は自社スタジオとしてのみならず、外部利用も考えているそうで、音楽以外にナレーションやアフレコなどでも活用してもらいたいと栗原氏。
「今、足利市内の小中学校の皆さんにも使ってもらえるように構想中です。卒業式のときの合唱や呼びかけなどを録音してもらえたりするといいかなと思って」
この印象的な空間での録音はまさに一生の思い出になることだろう。そんな夢いっぱいの本スタジオから、今後どのようなサウンドが生まれていくのか、とても楽しみだ。