U-zhaanが記す坂本龍一との共演 〜「TECHNOPOLIS」「energy flow -rework」

U-zhaanが語る坂本龍一との制作

入念なリハーサルを繰り返す、みたいな現場は一度もなく、いつも自由に演奏させてくれました

 2023年3月28日に坂本龍一さんが他界されて、1年を迎えた。この追悼企画では、ソロ作品を中心に坂本さんと共作したミュージシャンやクリエイター、制作を支えたエンジニアやプログラマー、総計21名の皆様にインタビューを行い、坂本さんとの共同作業を語っていただいた。

 タブラ奏者のU-zhaanは、特に2010年代になってから坂本とライブ共演機会が多かった。坂本に代わってラジオ番組のパーソナリティを務めるなど、変わった形での関わりもあったが、「TECHNOPOLIS」「energy flow」などの再解釈やTX系ドラマ『きょうの猫村さん』主題歌など、録音作品での共作も多数。2月、インド滞在中であったU-zhaanにはE-Mailで質問を送った。

「Smile」のアレンジを教授に相談してみたら、僕が考えていたよりもさらに半分の音数を提案された

——坂本さんと最初にお会いしたのは、どんなときでしたか?どのようなお話をして、どのような印象を持たれましたか?

 2007年、教授がプロデュースしていた『ロハスクラシックコンサート』というイベントに出演したんですが、そのリハーサルで初めてお目にかかりました。僕がそのころ所属していたASA-CHANG&巡礼の曲を教授がいろいろなところで紹介してくれていたので、そのお礼を伝えたら「え、巡礼のタブラって君がたたいてるの? ASA-CHANGじゃないんだ!」と少し驚かれました。

 そのリハーサルの、昼休憩のときに出演者たちに配られた弁当がそんなにおいしくなかったんですよね。教授もこれを食べているんだろうか、と教授のいる部屋をちょっとのぞいてみたら、軽快にざるそばを手繰っている姿が目に入りました。しかも1枚だけではなく2枚目に突入していて、僕もそっちがいいなと思いました。

 サウンドチェックのときに教授がマイキングをしてくれたんですが、タブラの打面からかなり離れた位置にマイクを立てたので、こんなに遠くて大丈夫なのだろうか、客席に音は届くのだろうかと少し不安に感じながら演奏したのを覚えています。それからしばらくして教授と大貫妙子さんの『UTAU』ツアーを見に行ったとき(2010年)、マイクの存在を感じさせないような、実に自然な音がホールを心地よく満たしているのを聴き、あのとき教授が鳴らしたかったのもこういう音だったんだろうなあと3年半を経て理解しました。

——坂本さんと最初に共演したのはいつですか? どのような経緯で、どのようなやり取りがありましたか?

 初めて一緒に演奏したのは、2011年8月の『フェスティバルFUKUSHIMA!』ですね。震災後に大友良英さんが立ち上げたプロジェクトFUKUSHIMA!が主催したイベントで、2011年7月に急逝されたレイ・ハラカミさんも出演予定でした。ハラカミさんと僕が2人でよくYMOの「TECHNOPOLIS」をカバーしていたことから、教授と一緒にそのカバーをやってみようということになり、大友良英さんと勝井祐二さんも交えて4人で演奏したのがフィジカルでの初共演です。

 録音物での共演はもうちょっと早くて、2009年が最初です。ASA-CHANG&巡礼がリリースした「影の無いヒト」という曲に声で参加してもらいました。教授って、いい声ですよね。本人はそんなに自分の声を気に入ってなさそうでしたが、僕はとても好きでした。

U-zhaanの初ステージ共演となった『フェスティバルFUKUSHIMA!』(2011年)DAX -Space Shower Digital Archives X-チャンネルより

U-zhaanの初ステージ共演となった『フェスティバルFUKUSHIMA!』(2011年)
DAX -Space Shower Digital Archives X-チャンネルより(https://youtu.be/TLTvbL8siv0

——坂本さんと実際にお会いする以前、音楽家としての坂本さんにどのようなイメージを持っていらっしゃいましたか?

 子どものころに受けていた印象は“とても偉い音楽家”みたいな感じでしたね。教授の名前を聞くときはいつも“日本人初のアカデミー作曲賞を受賞”とか“オリンピック開会式の音楽を担当”(1992年バルセロナ五輪)とか、なんかすごそうなニュースがセットだったので。

 音楽をきちんと認識したのは中学に入ってからです。お兄さんが熱烈なYMOファンだという同級生がいて、その子をきっかけにYMOの曲を幾つか知りました。

 その後、高校の同級生にも教授のファンが1人いたり、1年インドに行って帰ってきたら「energy flow」がCMでめちゃくちゃ流れてたりして、ゆっくり教授の音楽を知っていった感じです。

 「TECHNOPOLIS」のカバーは、レイ・ハラカミさんの提案がきっかけで始めた感じですね。もちろん聴いたことはある曲でしたが、演奏してみるまで曲の全体像は知りませんでした。楽しい曲ですよね。

——U-zhaanさんのアルバム『Tabla Rock Mountain』(2014年)でその「TECHNOPOLIS」を坂本さんと演奏されています。その共演のときのことを教えてください。基本はハラカミさんとの演奏を踏襲する形ですが、後半の展開などはその場で決めていかれたのでしょうか?

 曲の中盤で教授にピアニカソロを吹いてもらうのはなんとなく頭にあって、そのバックでループするアルペジオ的なコードについては事前に決めていきました。

 イントロで僕が(編注:アルトホルンを)吹いている伴奏フレーズは、教授が譜面を書いてくれましたね。鉛筆で五線譜に書き込んでいる教授を見ながら「あ、そういえば教授って左利きだったな」と思った記憶があります。あと、2番のBメロ部分での僕の演奏も教授が考えたんじゃなかったかな?

 2回だけ録って、アルバムに収録されているのはテイク2です。演奏が終わった直後に「いまいちだな」と教授が言ったのが好きで、その声をそのまま残してあります。

——U-zhaanさんは、どちらかというと、ライブやテレビセッションで坂本さんとご一緒する機会が多かったような印象があります。アレンジもその場で決めるものが多かったのではないかと推察しますが、その際に坂本さんとの間でどのようなやり取りがあったかご記憶でしょうか?

 そうですね。入念なリハーサルを繰り返す、みたいな現場は一度もありませんでした。細かいアレンジの指示とかもあんまりなかったです。いつも自由に演奏させてくれました。

 2012年だったかな? 配信の番組で、教授が弾き出したピアノに合わせて即興で参加したことがあったんですけど、その番組が終わった後に渋谷慶一郎さんから連絡があって。「さっき演奏してたの『The Last Emperor』って映画のテーマで超有名な曲なんだけど、ユザーン全くあの曲のことを知らないまんま適当に入っていってたでしょ。マジですごい勇気あるよね」って言われました。そんなときも教授から怒られたりはしなかったので、優しい人なんだと思います。

 そういえばNHK-FMの『坂本龍一ニューイヤー・スペシャル』(2013年)で、細野晴臣さんと青葉市子さんが歌う「Smile」というスタンダードナンバーの伴奏をしたことがあるんですが、どんな感じに音を出したらいいか迷ってたんですよね。かなりゆったりとしたテンポだったので、リズム楽器がどう参加したらいいかなあと。

 それで教授に相談してみたら、僕が考えていたよりもさらに半分の音数を提案されたんですよ。基本的に1小節に2音だけしか鳴らさない演奏。これで大丈夫なのかな、と半信半疑でその通りやってみたんですが、プレイバックを聴いてみたら本当にいい感じで。あのときも心から「教授すげえな」と思いましたね。

完成度が高いとか技術が優れているとか、そういうことも大事だけれども本質ではない

——U-zhaanさんが坂本さんと共演した録音作品として「energy flow -rework」(2018年)があります。これはラジオで坂本さんの曲に合わせて演奏したことをきっかけに、「energy flow」をループにしてラップにしたいというアイディアがあり、坂本さんに話をしたら共演することになったと聞きました。ラップ版「エナジー風呂」も含め、当時のやり取りで覚えていらっしゃることはありますか? また制作はどのような形で「共演」だったのでしょうか?

 2015年、教授が療養中に収録されたNHK-FM『坂本龍一ニューイヤー・スペシャル』を、なぜか僕が代役として司会することになって。その番組の中で、教授の既発音源とタブラでセッションするという企画をやったんです。「Tibetan Dance」と「Asience」の2曲を選びましたが、それがとても面白かった。楽譜を見ながら真剣にアレンジを考えたりすると、当然ですが曲のことがよく分かってくるんですよね。

 教授の曲を使って、もっと何かやってみたいなと思って作ったのが「energy flow -rework」の元となった8小節のループです。『BTTB』の20周年記念盤(2018年)の発売に合わせて、そのループに教授のシンセやギターを足してもらってリリースすることになりました。教授はニューヨークにいたので、制作はオンラインでのやり取りでした。

 「エナジー風呂」の方は、2019年のNHK-FM『坂本龍一ニューイヤー・スペシャル』でのスタジオライブのためにラップパートを書き足したバージョンです。教授と同じ空間で演奏したのは、あれが最後になってしまいました。

——松重豊&U-zhaan&坂本龍一名義での『猫村さんのうた』(2020年)ではタブラと作詞で参加されています。演奏のみで参加する場合と違ったことなどはありましたか?

 この曲は最初、作詞のみのオファーだったんですが、教授のトラックが出来上がってきてから「タブラも入れといてね」と言われた感じです。タブラ奏者だからタブラもたたかせてあげようかな、という思いやりだったのかもしれません。あくまでも作詞がメインでした。

 演奏のみで参加する場合とは、やっぱり全然違いますよね。ドラマの監督と打ち合わせしたり、原作の漫画を読み込んだり、いろんな準備を日本でした後にインドで書きました。

 「作詞を先にやってもらって、それに合わせて曲をつけるから」と教授は言っていたのですが、歌詞を送ってから「曲に合わないので後半を書き直すべし」というようなメールが来て、ちょっと笑いました。でも結果的に書き直した後の方がずっとよかったので、言ってもらってよかったなと思ってます。

——坂本さんからかけられた言葉で、最も印象に残っていることは?

 2014年に教授が病気の治療で活動を休止されている間、J-WAVE『RADIO SAKAMOTO』も何度か教授の代わりに進行役を務めました。番組に投稿された音楽作品の選評をするオーディションコーナーというのがあったんですけど、その審査をするにあたっての心構えとして「プロにはできない、アマチュアらしい、ヘンテコなものを見つけるようにしてね」というアドバイスをもらったのが印象に残っています。

 教授が番組に復帰して一緒に審査をするようになってからも、教授は一貫してそういった個性的な作品に高評価をしていました。完成度が高いとか技術が優れているとか、そういうことも大事だけれども本質ではないということを、収録を通じて教えてもらっていたような気がします。

——あらためて、U-zhaanさんにとって坂本さんはどんな方だったのでしょうか?

 僕が2010年に『ムンバイなう。』(P-Vine Books)という本を出したときに教授がラジオで紹介してくれたんですが、そのコーナーの最後に「ちょっと友達の本の宣伝をしてみました」って教授が言ったのがうれしかったんですよね。あ、僕のことを友達だと思ってくれてるんだ、って。

 今考えれば収録で少しリップサービスしただけなのかもしれませんが、それを聞いて以来ずっと、僕は教授のことを友達だと思っていました。

 もちろん、今でもそう思っています。もし教授から「別に友達じゃねえよ」って言われたら、「でも、教授の方がそう言い出したんじゃないですか」って答えるつもりです。

 

【U-zhaan】1977年生まれ。オニンド・チャタルジー、ザキール・フセインの両氏にタブラを師事。2000年よりASA-CHANG&巡礼に加入し、『花』『影のないヒト』など4枚のアルバムを発表(2010年に脱退)。ソロ活動のほかレイ・ハラカミ、蓮沼執太、環ROY、鎮座DOPENESS、BIGYUKI、mabanuaなど数多くのアーティストと共演/共作をしている。坂本とは多数のライブの共演のほか、「energy flow - rework」「エナジー風呂」「猫村さんのうた」などの録音作品がある

【特集】坂本龍一~創作の横顔

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