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滝瀬 茂が語る坂本龍一との制作 〜『エスペラント』『未来派野郎』『ラストエンペラー』

滝瀬 茂が語る坂本龍一との制作

好きな音のときはニコっと笑ってくれるんです。教授の笑顔に導いてもらうといい感じになっていく

 2023年3月28日に坂本龍一さんが他界されて、1年を迎えた。この追悼企画では、ソロ作品を中心に坂本さんと共作したミュージシャンやクリエイター、制作を支えたエンジニアやプログラマー、総計21名の皆様にインタビューを行い、坂本さんとの共同作業を語っていただいた。

 『エスペラント』(1985年)から坂本作品のエンジニアを務め、主にミディ期の制作を支えた滝瀬茂。その後、EPICソニーでの制作ディレクターを経て、現在はソニー・ミュージックレーベルズのアナログ専門レーベルGREAT TRACKSでプロデュースを担当。もちろん彼が手掛ける再発には、多くの坂本作品も含まれている。

教授がミックスすることによって、自分がアレンジを理解していないとショックを受けた

——滝瀬さんは1980年に音響ハウスへエンジニアを目指して入社されたわけですが、当初から坂本さんと接点があったのでしょうか?

滝瀬 いいえ、あまりなかったんです。『戦場のメリークリスマス』(1983年公開)のレコーディング辺りから、教授が所属していたヨロシタミュージックが音響ハウスの2stを年間契約するようになったんです。楽器をバラさなくても済むアトリエ的なところとして。でも、当初、教授の現場のアシスタントエンジニアには同期が就くことが多くて、僕は彼の代わりに何回か入ったくらい。2年かけて『音楽図鑑』(1984年)をレコーディングしていましたが、そのうち5〜10日くらいですね。それでもクレジットしていただいていますが。

——それなのに、『エスペラント』でメインエンジニアに抜擢されることになったのは?

滝瀬 当時、スタジオ作業の合間に同世代の仲間と深夜一緒に食事に行っていて……まだコンビニもあまりない時代ですから。その中に教授のマネージャーがいて、「教授が新しいエンジニアを探しているけど、滝瀬やってみない?」と。田中信一さんが教授のメインエンジニアをしていたのですが、教授が打ち込んだりする間までずっと付き合っていると、ほかのアーティストの仕事を受けられないので、録音は若手が担うような分業になってきていたんです。それで『エスペラント』に取り掛かるのですが、サンプリングループを作って、それをテープの頭から最後までずっと録って、後で編集するという形だったので、それが録れているか確認するために、30分間同じループをずっと聴かなくてはいけなくて。プレイバックが終わるころには、教授も僕も……アシスタントエンジニア以外誰もいなくなっていました。

——当時のサンプラーは?

滝瀬 サンプラーはFAIRLIGHT CMIだったと思いますが、8ビットなのでどうしても独特な粗い音になってしまう。15ビットディレイのAMS DMX 15-80 Sで3秒のサンプリングができたので「教授、これでループ作っていいですか?」と言って、ベースの音をもらって、スタートとエンドの編集をして。そこにFAIRLIGHTでほかの音源をかぶせていく形でした。

——当時の坂本さんは、曲作りもスタジオで?

滝瀬 制作以外の仕事も全部スタジオでやっていました。アトリエ代わりというか、いろいろな方がいらっしゃって、“ちょっと打ち合わせがあるから休んでいて”と言われることもありましたね。僕は1985年に音響ハウスを辞めて、ミディに転職しているのですが、そのときは教授がプロデュースした矢野顕子さんの『峠のわが家』のレコーディング中でした。でも僕の所属会社が変わるだけで、やることは何も変わらなかったのです。このとき、ミックスは頭の3曲だけやって、僕は現場を離れることになりました。

——ほかの仕事があったからですか?

滝瀬 それもあったのですが、教授がSSLコンソールの使い方を理解してきていたので。「あそこを上げて」と言いながら、もう教授の手が出てくる。フェーダーの上げ下げ……下げはしないんですけどね。聴こえないものをどんどん上げていく。マスターが振り切れちゃうので、僕がマスターフェーダーをどんどん下げていく係になっていた。各トラックの音は僕が作ってバランスを取り始めると教授が参加してきて、2人で1曲仕上げるというスタイルでした。だから、もう教授自身でミックスできると思い、「教授、申し訳ないんですが、ここから先は教授がやってくれませんか」と言って、教授とアシスタントエンジニアの赤川(新一)君に任せて、心配だったほかの現場に行きました。それはやっぱり心残りではありましたが。

——ミックスも坂本さんご自身がやりたかったのでしょうか?

滝瀬 教授は頭の中に鳴っている音があって、本能的にそれに近づけていたような気がします。だからミックス中に、もっとこうした方がいいと思って手が動いていたんでしょう。そのとき、自分が教授のアレンジを理解してないということに気づかされて、毎日ショックを受けていたんです。この音はこのハーモニーのために入れていたんだと、教授がミックスすることによって気づかされた。

「エレピ、いつものEQにして」と言われて、ちゃんと聴いてくれているんだとうれしかった

——坂本さんのソロ作では、次は『未来派野郎』(1986年)。『エスペラント』とはだいぶ雰囲気が変わります。

滝瀬 拠点がビクタースタジオの201stに移ったんですが、僕の役割として、やっぱり教授が気持ち良く仕事ができるようにいろいろな要望に応える、ということは変わりませんでした。そのころYAMAHA DX7が導入されて、ドラムのパターンを打ち込んだら、DX7のエレピの音でアイディアを練るんです。僕はそれを聴いて、もうちょっと硬くてヌケた方がいいなと思って自分なりにEQをかけていた。あるとき、EQしなくていいかなと思っていたら、教授がコードを弾きながら「エレピ、いつものEQの音にして」と言ったんですよ。ちゃんと聴いていてくれるんだと思ったし、うれしかったです。ほかにも随分いろいろ教えてもらいましたよ。

——その“教えてもらったこと”とは?

滝瀬 音のバランス感覚みたいなこと。例えば音作りでも、教授がこっちが好きだということをやっていくと良い音になっていったり。具体的には何も言わないけれど、教授が好きな音のときはニコっと笑ってくれるんです。だから教授の笑顔をたくさん見たくて、教授に導いてもらうといい感じになっていく。

——確かに坂本さんは、あまりはっきりと“ああしろ、こうしろ”とはおっしゃらなかったそうですね。

滝瀬 「Ballet Mechanique」で、本物のオルゴールを12ビットのサンプラーで鳴らそうとしてサンプリングしたら、最初は花瓶をたたいたみたいな太い音になっちゃって。教授が帰った後、夜中にプログラマーの藤井(丈司)さんと、高域を思いっきり上げてサンプリングしてみたらオルゴールっぽくなるんじゃないか?と思って頑張ってみたんですよ。それを翌日教授に聴かせたところ、すごく喜んでくれると思ったら「いいんじゃない?」くらいの反応で。嫌だったら嫌だって言うと思うんですよ。だから、もう次のことを考えていて、先に進みたいんだと察するんです。

——そのほかに当時のやり取りで覚えていらっしゃることは?

滝瀬 「Broadway Boogie Woogie」で、音程のついたシンセドラムの打ち込みがあるじゃないですか? それを打ち込みしているときに教授が「あれ? これ、最後どうする?」と言ったんですよ。僕はその当時、"クロマチック”という言葉を覚えたてだったので、「教授、クロマチックで駆け上がったりしたらいいんじゃないですか?」と言ったら、その通り打ち込んでくれたんです(注:3:37付近)。

——やってみたらよかったので採用してもらえたと?

滝瀬 そうですね。教授は意志が強く、独特の考えを持っているように思われるかもしれませんが、時々、他人が喜ぶことをやりたがったり、誰かの指示通りにやって、「どう?」って笑顔で聞いていました。僕にもだんだん聞いてくれるようになっていったんです。

『未来派野郎』制作時のスナップ。手前は藤井丈司。後ろはアシスタントを務めていた松本大英

『未来派野郎』制作時のスナップ。手前は藤井丈司。後ろはアシスタントを務めていた松本大英

日曜の朝に教授から電話があって、「サントラ頼まれたけどどうすればいい?」と

——この時期の大きな仕事としては『ラストエンペラー』のサントラがあります(1988年リリース)。

滝瀬 教授が映画の撮影で中国に行くので、2カ月不在期間があって。その後、「教授、映画のサントラ、いつやるんですか?」と何度も聞いていたんです。「オファーがないんだよね」と言われて。『戦場のメリークリスマス』や『子猫物語』、『オネアミスの翼 −王立宇宙軍−』のサントラをやっていたので、『ラストエンペラー』のサントラも教授がやるものと思っていたから。

——『戦場のメリークリスマス』のように、出演も音楽もやるものだと思ってしまっていたと。

滝瀬 だから、無神経に聞いてしまったと反省していました。そういう伏線があって、1987年の梅雨時期、日曜日の朝に、教授からうちに電話がかかってきたんです。「坂本です。今、ベルトルッチ監督から電話があってサントラ頼まれた。どうすればいい?」と。当時教授はヨロシタミュージックから独立したばかりで、制作担当スタッフが周りにいなかったのもあるけど、僕がしつこくサントラはやらないのか?と聞いていたからでしょう。それで「いつからレコーディングしますか?」と聞いたら、「1週間後。デジタルMTRで、3週間ロックアウトできるところ」と言われました。今と違ってスタジオでないと制作できない時代ですから、そんなすぐ長期間押さえられるスタジオがあるわけもないけれど、探しまくって。最終的に加藤和彦さんのプライベートスタジオをお借りできて、そこにSONY PCM-3324を運び込みました。3週間で40曲制作すると聞いたので、当時ミディを辞めたばかりの篠崎恵子さんに相談して、アディショナルの編曲を別のスタジオで作業してもらいました。

——滝瀬さんは、坂本さんが作曲していた加藤和彦さんのスタジオに詰めていたのですか?

滝瀬 はい。教授が曲を書いて、何小節あるかを言うので、僕が電卓をたたいてシーンの尺に合うテンポを割り出していました。それで、メインテーマ曲はモチーフが2つあったんです。どっちがいいかベルトルッチに決めてもらうのに、できるだけいい音でロンドンに音を送りたいと。当時SONY PCM-F1という、βのビデオにPCMで録る機材がヨーロッパで普及していて、それを使うことになりました。そうしたらビデオの規格が日本(NTSC)とヨーロッパ(PAL)で違うので、PAL方式のβデッキを探したり。それでなんとか送って、3日後ぐらいにベルトルッチから返答が来て、あのテーマ曲に決まったんです。

——では幻のテーマ曲がある?

滝瀬 もう1つのモチーフは後に「Rain」という曲になりました。僕は密かにそちらの方がいいなと思っていました。そちらがメインテーマになっていたらまた違ったアレンジになっていたと思いますが、結果的にはあのメインテーマほどの重厚さは出せなかったのかもしれません。当時は毎日明け方までレコーディングしていて、終わるとうれしそうに「行く?」と飲みに誘ってくれるんです。そこで、YMOのワールドツアーの話とか、いろいろ聞かせてもらいました。ここでは話せないようなことがほとんどですが(笑)。でも、教授が話してくれた技術的なことは後年参考になりました。『NEO GEO』のレコーディングはニューヨークのパワー・ステーションで、ジェイソン・コーサロがこうミックスしていたんだよと。いつもドラムのグループフェーダーを握りしめていて聴きながら上げ下げしているとか、イギー・ポップのボーカルに左は何ms、右は何msのディレイをつけて、左右でフィードバックさせてディレイをかけているんだよ、とか。ライブのミックスではそれと同じようにやってみようとしたりしましたね。

——近年、滝瀬さんはアナログ専門レーベルGREAT TRACKSのプロデューサーとして、坂本さんの作品のアナログ再発もたくさん手掛けてらっしゃっていますね?

滝瀬 2016年にまたアナログ盤の制作を始めたのは、教授の作品をはじめ、エンジニアとして自分がかかわったものをアナログ化したいなと。許諾をいただいて、『B-2 UNIT』『音楽図鑑』……と来て、2019年に映画『音響ハウス Melody-Go-Round』のインタビュー収録で教授に再会したのですが、そこで次は『戦場のメリークリスマス』を出したいと話すと、「出し過ぎじゃない?」と言われました。今でもGREAT TRACKSの仕事は継続していますが、会社員としては定年退職を控えていたので、僕の気持ちが焦っていたところもありました。

——そういう再発を通じて、当時の坂本さんの作品に触れることが多いと思いますが、あらためて感じることは?

滝瀬 いい意味で、素直じゃなくて癖になるなぁというのは、よく感じますね。弦の響きとかピアノの音とか、どうしてこんな不思議な音をしているんだろうと。僕は楽理のことはそこまで詳しくないですが、エンジニアとしてコードのテンションを意識しだしたのは、教授とご一緒するようになってから。コードの響きも、おしゃれなだけじゃなくて、気持ちを揺さぶられる感じがするんです。少し年が離れた兄貴のような存在でたくさん教えてくれた。未熟な僕と仕事をしてくれて本当に感謝しています。

【滝瀬茂】1980年に音響ハウスへエンジニアを目指して入社。坂本龍一『エスペラント』(1985年)でメインエンジニアに抜擢。1985年にはミディに移籍。坂本がニューヨークに拠点を移す前後まで、エンジニアを務める。同時期、エンジニアとして矢野顕子、大貫妙子、EPOなどの作品に携わった後、EPIC・ソニーで佐野元春の制作ディレクターを担当。現在はソニー・ミュージックレーベルズのアナログ専門レーベルGREAT TRACKSプロデューサーとして手腕を発揮

【特集】坂本龍一~創作の横顔

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