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野見祐二が語る坂本龍一との制作 〜おしゃれテレビと『子猫物語』『オネアミスの翼』『ラストエンペラー』

野見祐二が語る坂本龍一との制作 〜『作品名』

技術的には何もなかった僕から、ルーツが共鳴する部分を坂本さんはかぎ分けていた

 2023年3月28日に坂本龍一さんが他界されて、1年を迎えた。この追悼企画では、ソロ作品を中心に坂本さんと共作したミュージシャンやクリエイター、制作を支えたエンジニアやプログラマー、総計21名の皆様にインタビューを行い、坂本さんとの共同作業を語っていただいた。

 『耳をすませば』『猫の恩返し』『日常』『窓際のトットちゃん』など数多くの映像作品で音楽を手掛ける野見祐二も、坂本龍一に見出された一人。自身のプロジェクト“おしゃれテレビ”の同名アルバムを坂本がミディ内に興したSchoolレーベルからリリースしたほか、当時の坂本制作のサントラにも参加していた。しかし、野見は、当時を振り返るたびに“よく分からなかった”と語る。その真意はどこにあるのか?

スタジオにいきなり呼ばれて、僕の曲を「使わせてくれ」と言うんです

——最初の坂本さんとのコンタクトは、どのような形だったのでしょうか?

野見 僕は音楽関係のこと、ほとんど何もやってなかったんですね。音大でもないし、バンドをやってたわけでもないんですよ。中学高校とロックバンドでキーボードをやってたんですけども、技術もない。普通の大学へ行ったのですが、音楽じゃなかったらアートっぽいものをやりたいなとずっと思っていたんです。美術をやっている仲間たちが1980年代の前半から中盤にかけて、画廊でアートパフォーマンスをやるのが流行しました。彼らは、僕がバンドをやっていたのを知っていたから、音作れと言って。でも、バンドメンバーを集めても全然演奏にならなかったんですね。それで4trのMTRとシンセを1台買ってきて、ダビングで音を作ることにしたんですよ。美術の仲間が六本木のシネ・ヴィヴァンという映画館でバイトしていて、その連中がね、僕が作った曲のテープをロビーで勝手に流していた。その上にアール・ヴィヴァンという、アート系書店があってね。そこの店長が、この音楽面白いからちょっと貸してくれという話になって。当時坂本さんが、あるイベントで流すために既存の音楽を編集していて、その店長からレコードを借りていたそうです。そうしたら、僕の音楽もそこに紛れていて、坂本さんが聴いたら面白かったので、スタジオにいきなり呼ばれて、「使わせてくれ」と言うんです。結局、そのイベントにはピッタリと当てはまらなくて、使わなかったそうですが。

——野見さんは、当時坂本さんが立ち上げたミディのSchoolレーベルから『おしゃれテレビ』(1986年)をリリースすることになりますが、このテープがきっかけですか?

野見 そのテープに、『おしゃれテレビ』のベースになる音楽が入ってたんです。坂本さんが、レコード会社を今度作るからって言って、ミディで制作することになりました。でも、ほとんど予算がつかない状態で。僕が一人でカセットテープで作ったものではプワすぎるので、例えば、今日は大貫(妙子)さんが早く帰ったからと電話がかかってきて、そのスタジオに18時にワーって行って、それでシンセを並べて夜中まで録音する。そんなふうにゲリラ的なレコーディングをしました。それが『おしゃれテレビ』です。

——今ではとても考えられない話ですね。

野見 プロじゃないから、やり方も何も、分からないんですよ。当時の僕はね。今だったらデスクトップで作れますけども、そのころはまだ単体のシーケンサーしかないし、譜面を書いて持ってって、それをシンセプログラマーに入れてもらって。坂本さんもそうやってたし、その流儀に習って作ったんです。だからいいんだか、悪いんだか、自分でもよく分からない。ピンとこないものが出来上がった。今『おしゃれテレビ』を聴いて、面白いと感じてもらえるとしたら、その素人くさいところが面白いんじゃないかと思うんですけど。自分としても妥協に次ぐ妥協っていうか、“そんなもんでいいですよ”みたいなノリになってしまっていたんです。今考えるとね。

——リリースの時系列では、『おしゃれテレビ』の前に、『子猫物語』のサントラが(1986年)発売されましたが。

野見 『おしゃれテレビ』のレコーディング自体は『子猫物語』より前からやってるんですが、そんな形だったのでなかなか進まなかったんです。途中までできたらこれは完成させようということになって、浅草の安いスタジオを借りて、最後は1週間くらいまとめてやって仕上げた感じでした。

普通のポップスをやりたくもなさそうだ。坂本さんには僕の姿勢が分かっていた

——そんな中、並行して『子猫物語』のサントラに参加することになったわけですね。

野見 状況は同じです。坂本さんからは、主題歌のアレンジを頼まれて。主題歌を作っているときは坂本さんと一緒にいて、メロディを考えているところからずっと見ていました。先にコード進行やベースを考えるんですよ。クリックに合わせてキーボードを弾いて、その後にメロディを作っていく。とにかく坂本さんはサウンドっていうか、ハーモニーから入る人。たぶん、そういうやり方をやりだした人なんじゃないですかね。それより昔だったら譜面を書いてただろうから、きっと。その後で、アレンジしてくれとなったんだけど、やはりなんだかよく分からない中でやりました。

——後年、『子猫物語』の主題歌は、当時のテクノポップ・ボーカル曲の名作だと評価されることも多いです。だから、今、野見さんから“よく分からない”と言われると、当惑してしまいます。

野見 当時の自分は、ポップスの作り方を踏まえていなかった。ポップスっぽくは作っていたんですが、きちんとしたポップスの作り方ではないと思います。でもね、自分から、“分かりたくない”とも思っていた。『おしゃれテレビ』も、ポップスを内側からやるんじゃなくて、外側からやるというか、ポップス的な要素をコラージュ的にくっつけるようなやり方でいこうという感じだったんですよ。そもそも原型は、アートパフォーマンスのための音楽ですから、パフォーマンスが前提としてあったんです。ポストモダンが流行っていたころなので、構築するんじゃなくて、コラージュだと。そういう目論みもありました。でも、後になって、そんなの意味がないということがよく分かり、ちゃんと構築するようになるんですけども。当時は若気の至りで、そういうめちゃくちゃを分からない状態でやるみたいな時代が、そうさせたってのがありますよね。

——“よく分からない”とはそういうことだったんですね。でも、野見さんがそういう姿勢だったからこそ、坂本さんの耳に止まったのではないかと思います。

野見 坂本さんも、僕の姿勢のそういうところが分かっていて、面白いと思ったんじゃないですか。普通のポップスをやりたい人と全然違うな、やりたくもなさそうだな、みたいなのが見えたんじゃないでしょうか。

「これを見てオーケストラを書くんだよ」と伊福部昭『管弦楽法』を見せてくれた

——では続く『オネアミスの翼 −王立宇宙軍−』のサントラ(1987年)も、野見さんにとっては同様のとらえ方だったと?

野見 そうですね。坂本さんが作ったテーマみたいなものがあったけれど、僕とほかに参加した二人(上野耕路と窪田晴男)も坂本さんの色合いと関係ないことをやっていたし、それを坂本さんがまとめるわけでもなかった。これは大きなプロジェクトで、音響ハウスを借り切って、誰かがどこの部屋っていう感じでした。坂本さんって、基本的にゼロからスタジオでやるから、ずっとスタジオにいるんですよね。朝から晩まで。それでちょっとずつ塗っていくみたいな感じで音楽を作っていくから、時間がかかるんです。スタジオに住んでいるみたいな人でした。少なくとも当時のスタイルでは。今みたいに、家のラップトップで完結できるような時代じゃなかったから。

——野見さんは「歌曲「アニャモ」」という見事な歌曲をここで書いています。

野見 あれは架空の国の架空の文化だから、その歌曲を作るということで。これもまた、訳も分からずやってますよ。シンセを重ねていますが、本当の生楽器を使ったことがない。クラシックは子供のころから好きだったんですけど、別に習ったわけではないし。でも、ずっとロックとかジャズとかと一緒にバッハも聴いていて、大学ではバッハを歌う合唱団に入って、勉強になったんです。「ミサ曲 ロ短調」という複雑な大曲を、1年間ずっと譜面を端から端まで勉強していたんですが、これがポリフォニーとかハーモニーとかベースラインとかの参考になった。そういうのがベースにあるんですよね、このころは。そういうのも、坂本さんには分かっただろうと思います。直接バッハの話はしませんでしたが。

——でも生楽器を扱ったことのない当時の野見さんが、『ラストエンペラー』のサントラ(1987年)では、上野耕路さんとともに、オーケストレーションを担当されることになります。

野見 これは完全に坂本さんが作ったものを補佐するというスタイルでした。最初からずっとスタジオで作業を見ていましたよ。ほとんど初めて生楽器を使うことに直面するんですけども、これもまた、いきなりそんなことやらせるってのもすごいなと、今にして思います。こんな大事な仕事なのに、やったこともない僕にオーケストラの譜面を書かせる。

——さすがに荷が重いですよね。

野見 「オーケストラなんか書いたことはないけど、どうするんですか」と言ったら「これを見て書くんだよ」と、伊福部昭の『管弦楽法』という分厚い本を見せてくれて、すぐ買いに行きました。それは今でも、僕がオーケストレーションをするときは見ています。オーケストレーションの方法が書いてあるわけじゃなく、楽器の機能について書いてあるだけなんですけども、とにかく「これを見て書くんだ」と坂本さんは言いました。このときの僕のオーケストレーションなんてロクでもないですよ。全然ね。出来が悪い。最終的には、坂本さんが手を入れてちゃんとなっていますけども。

——それなのに、なぜ坂本さんは野見さんにオーケストレーションをやってもらおうと思われたのでしょうか?

野見 もちろん手が欲しいという事情もあったし、最終的に坂本さん自身が直せばいいとかもあったと思います。ただ、基本的に坂本さんと僕で共通するところがあるとすると、バッハとかドビュッシーとかが好きだということ。当時の僕に技術は何もなくても、音の根本的な部分……和音の動きとか、そういうところにルーツになるものが感じられるというか、坂本さんと共通した何かルーツがある気がするんです。そういうルーツにあるサウンドの好き嫌いというか、ルーツの部分の構造に隠されたものが、何か共鳴するのを、坂本さんは何となくかぎ分けていたのかもしれない。だから下手くそでもひどいことにはならんとか、センスの悪いものは出てこないだろうとか、思われていたのかも。技術よりもそっちの方を取ったんじゃないかしら。

『キーボード・マガジン』1988年2月号の坂本龍一『ラストエンペラー』インタビュー

『キーボード・マガジン』1988年2月号の坂本龍一『ラストエンペラー』インタビュー

——その極めつけとして『NEO GEO』(1987年)で、『おしゃれテレビ』の「アジアの恋」が「FREE TRADING」としてカバーされます。

野見 「アジアの恋」は『おしゃれテレビ』がレコードになるということで新たに作った曲なんです。ほかの曲と同様、パフォーマンスを考えて作った曲ですが、確かにちょっと坂本さんっぽさもある。だからたぶん、坂本さんは自分がこの曲を素材として扱うと、もっと面白くなるんじゃないかとか、そういうふうに思ったのかもしれないです。

——この時代の経験は、野見さんの現在のお仕事に直結してらっしゃるのかなと思います。

野見 『ラストエンペラー』はオーセンティックなオーケストラのアレンジなので、そういうものを理解するきっかけにはなってますよね。今は、そういう音楽をやってますから、例えばドビュッシーでもラベルでもいいんですが、音の構造がうまい人はどういうふうに音を組み合わせるといいサウンドになるかっていうことを極めているから、でたらめにやらずそういうところから学んだ方がいい。坂本さんもそう思っていたんじゃないかしら。

——でも、坂本さんがそれを野見さんに直接教えようということはなかった。

野見 全然なくて。

——野見さんのお言葉を借りれば、サウンドのルーツのようなものに自分と共通したものを感じたから、坂本さんはそこに期待はされてたんでしょうね。

野見 そうですね。坂本さん自身も変化する人だったと思うし、実際に1980年代、坂本さん自身がすごく変化している。当時、デジタル技術が入ってきて、状況が非常に変わってきたので、いわばパイオニアとして、坂本さん自体がどうやってそういう機械を使ってどういう世界を作るのか。それを切り開く人だったから。だから、完成した方法論を持っていたわけではないだろうなと思うんですよ。みんなにも自由に新しいものを作り出せるものならばやってみればいいんじゃないかという姿勢であって、“先生”ではなかったと思います。坂本さんに共鳴する人がいるように、もっと少なくても、僕の作ったものに共鳴する人がいれば、僕もこの仕事を続けていけるんじゃないでしょうか。

 

【野見祐二】1958年生まれ。1986年、坂本龍一が立ち上げたミディより『おしゃれテレビ』でデビュー。並行して、当時坂本が手掛けていた『子猫物語』『オネアミスの翼 −王立宇宙軍−』『ラストエンペラー』の映画音楽制作にも参加。その後は映画を中心にドラマ、ゲーム、イベントなどの音楽制作で活躍。ジブリ映画『耳をすませば』(1995年)、神戸ルミナリエ(1998〜2000年)、テレビアニメ『日常』(2011年)、劇場アニメ『窓ぎわのトットちゃん』(2023年)などを手掛ける

【特集】坂本龍一~創作の横顔

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