岸 利至が語る坂本龍一との制作 〜『Heartbeat』ツアー、『テクノドン・ライヴ』、セビリア万博

岸 利至が語る坂本龍一との制作

音楽の話をしていると絶対そこに入ってくるんですよ。「それ何? 教えて!聴かせて!」と

 2023年3月28日に坂本龍一さんが他界されて、1年を迎えた。この追悼企画では、ソロ作品を中心に坂本さんと共作したミュージシャンやクリエイター、制作を支えたエンジニアやプログラマー、総計21名の皆様にインタビューを行い、坂本さんとの共同作業を語っていただいた。

 布袋寅泰をはじめ多くのアーティストを支えるシンセプログラマーとしての活動に加え、作編曲やメンバーとして参加するバンドでも活躍中の岸利至。大学在学中にオフィス・インテンツィオに入社し、坂本のサポートを務めることになったのがキャリアのスタートだった。

Performerのチャンク機能は僕が教授に教えました

——坂本さんとの最初のお仕事は?

 『Heartbeat』ツアー(1992年)のマニピュレーションからです。僕は大学在学中にオフィス・インテンツィオに入社したのですが、このツアーが大学の試験期間と重なっていたんです。僕としては試験を受けないで絶対このツアーに行きたいと言っていたのですが、そのことが教授の耳に入って「大学は卒業しなさい。ツアーはいいから、試験は受けなさい」と言われました。結果、留年したんですけどね(笑)。その後は、CMのお仕事などでご一緒させてもらったり、YMO『テクノドン』ライブでのサポート(1993年)をしました。また、セビリア万博(1992年)にも同行しました。『Heartbeat』ツアーでは、シーケンスセクションの操作と、教授が演奏するキーボードの音色の管理をしていました。ステージ上にはYAMAHAのMIDIピアノとKURZWEIL MIDIBOARD(MIDIキーボード)しかステージには置いてないので、MIDIでレイヤーさせて幾つかのシンセを鳴らしてました。

——ステージ演出などの事情でそういうセットになっていたのでしょうか? あるいは坂本さんが演奏に集中したいから?

 演出に関しては推察するしかないですけど、そういう狙いに加えて、MIDIピアノはシンセパッドなどのシンセ音がレイヤーされて鳴っていましたし、演奏するシンセの音色が1台で完結しない時代で、複数の音を混ぜたり、ミキサーでエフェクトをかけたりしていてセッティングが複雑だったので、僕の方で音色の切り替えやコントロールができるようにしていました。サンプラーのメモリー容量も少なかったので、複数台使い、ライブ中にロードして、使うサンプラーを切り替えていました。

岸が『Heartbeat』ツアーで使っていた、セットリストに準拠した音色管理表。KORG T3 EX、T2、YAMAHA SY77、AKAI PR OFESSIONAL S1000、ROLAND S-770が使われていたことが見て取れる

岸が『Heartbeat』ツアーで使っていた、セットリストに準拠した音色管理表。KORG T3 EX、T2、YAMAHA SY77、AKAI PR OFESSIONAL S1000、ROLAND S-770が使われていたことが見て取れる

——制作において、例えば高橋幸宏さんと坂本さんとの場合で、岸さんの仕事の内容はどういう点が違うのでしょうか?

 幸宏さんの場合は、ある程度こちらに任せていただける部分がある……もちろん判断は幸宏さんがします。幸宏さんのリクエストに対して、打ち込みも音色も僕が作って一度提案をし、それに対して幸宏さんがジャッジしたり、エディットをしたりする形でした。教授の場合は、セッティングは僕がしますが、音作りは基本的に全部自分でやられてました。サンプラーなど、僕が教授に音作りを頼まれる機会もほんの数回ありましたが、必ず教授が手を加えていました。今となっては笑い話ですが、当初、僕が一生懸命音を作って「教授、こんな音どうですか?」と提案してみたんですよ。後日、インテンツィオの社長が電話で「うちの岸、大丈夫ですか?」と教授に聞いたら「あいつ、生意気なんだよな。俺に音の提示をしてくるんだよね」と(笑)。そんな人はそれまでいなかったらしく。教授は、サンプラーの細かいエディットさえ全部自分でやっていましたから。

——スタジオでの制作で記憶に残っている作品は?

 覚えているのは、後に『CM/TV』(2002年)に収録されたToshiba BS-ARENA「Ominous Adolescence」。教授はスケッチも何もない状態でスタジオに入り、ピアノを使って冒頭部分を作り、ビートを組んで、パーカッションを入れてと、あっという間に完成して驚きました。このとき、MOTU Performerのチャンク機能を使うと、CMの秒数違いのバージョンを作るのが簡単ですよ、と僕が教授に教えたのを覚えています。それまで、教授はファイルを2つ用意して、修正の度にファイルを立ち上げていましたから。

——当時はどこで、どんなセットアップで作業を?

 Bunkamuraスタジオに名前が変わる前のTOKYU FUNが多かったかな。機材は、24Uラックが2個と、ハードウェアシンセ数台、マスターキーボードとコンピューターというセットでした。それをディレクター席に座る教授の横にセッティングし、僕はやや後ろで控えている感じ。基本的には全部教授が一人でやるので、シーケンス、シンセとサンプラー音色の保存、管理と、何か必要があるときにお手伝いするのが僕の役割でした。そういえば、一度、教授が作業しているニューヨークのスタジオへ遊びに行ったことがあって。アズテック・カメラのプロデュースをしていたときで(『ドリームランド』1993年)。教授が「よく来たね」と言ってくれて「聞きたいことがあるんだけど」と。「何ですか?」と聞き返したら「岸はケーブル、どこにしまっているの?」。ニューヨークに来て、教授からそんなことを聞かれると思っていないから“えっ?”と思って。

——随分唐突ですね。どういう意図だったのでしょうか?

 恐らく、当時ニューヨークではまだスタッフがそろっていなくて、機材は運んでもらえても、その担当者はテックではないので、パッキングは教授が自分でしなきゃいけなかった。フェルナンド(アポンテ)がエンジニアリングとプログラミングを教授の下でやっていたわけですが、やっぱり教授一人でやらなくてはいけない部分も多かったらしく。「どうやって巻いて、どこにしまうの?」と言われて、「僕やりましょうか?」というやり取りをしたのを覚えています。

音を止めるな。トラブルやハプニングがあってもそれを音楽にしろ

——当時の制作は、どんな感じだったのでしょうか?

 実際に音を作る前の準備を僕がする感じです。ピアノにパッドを混ぜたいと言われたら、シンセのレイヤーをさっと組むとか、言われたサンプルのロードをするとか。最終的な音作りは教授は全部自分でやります。例えば『テクノドン』ライブのオープニングSE。心臓の鼓動とシンセが“ブイーン”と鳴っているだけなので、僕が一応事前にミックスしておいたんですけど、結局教授が自分でミックスをやり直しました。僕のミックスが良い悪いということではなく、必ず自分でやる、という。ライブ用にYMOの旧曲のマルチからトラックを抜き出す際も、教授がわざわざスタジオにいらっしゃって。マルチを立ち上げて、EQしたりバランスを取ったりして音を確認していました。ただこのライブの「東風」「Fire Cracker」など旧曲のオリジナル部分は僕の打ち込みを採用してもらいました。もうひとつ、東京ドームでのドラムのサウンドチェックで、幸宏さんがたたく前に、まずはテックがドラムをたたいてチェックしていたのですが、「そんなに弱い音じゃチェックにならない」と言って教授がキックを踏んだりしていました。

——坂本さんがご自身でやりたがるのは、“音楽的なDIY”のような意識かなと感じてきました。

 たぶん、ピアノを弾く、シンセの音色を作るといったことの延長としてミキシングがあると考えていたと思うんですよね。ピアノを弾くのと同じようにミックスもする。ですからミックスにもこだわりがあったんだと思います。YMO『BGM』の「HAPPY END」とか、「Steppin' Into Asia」とか、リリース後にミックスを入れ替えたりしていますしね。

——坂本さんの現場で、強く印象に残っていることは?

 セビリア万博で、メインスピーカーの到着が遅れたために、夜に行う予定のリハーサルが真っ昼間になっちゃったんです。炎天下でやるのは避けたかったのですが、まんまとMIDIBOARDに直射日光が当たり続け、熱でシンセが暴走したんですよ。レイヤーされているシンセが鳴りっぱなしに。しかもどのシンセが鳴りっぱなしなのか分からない状況でした。それで僕はYAMAHAのデジタルミキサーDMP11で一つずつチャンネルをミュートしていき、ようやく原因のシンセが分かり音が止まりました。と、その曲が終わったら教授が怒ってこちらに来て。事情を説明したんですが、「だったらフェードアウトしろ。カットアウトするな」と。カットしたら完全にトラブルに聴こえる、フェードアウトすれば意図的にやってるようにも聴こえるじゃないですか。“音を止めるな”と。トラブルとかハプニングがあっても、それを音楽にしろということなんですよね。その後、同じトラブルに遭ったことはありませんが、他のトラブル時も同じことが言えるので、今も教訓として生きています。

キーボード・マガジン1992年10月号、セビリア万博のレポート

キーボード・マガジン1992年10月号、セビリア万博のレポート。炎天下でのリハでのトラブルについても触れられていた

ハウスや沖縄民謡を取り入れても教授のものになっている

——岸さんは、その後アーティストや作編曲家/プロデューサーとしても活動されていますが、その面で坂本さんから受けた影響はありますか?

 たくさんありますね。僕が関わっていた頃は、ハウスや沖縄民謡にインスパイアされた作品が多く見られましたが、ただのインスパイアでなく、全く新たな独自の作品として音作りをしているところがすごいなと思います。どんなジャンルの音楽もすべて教授の音楽になる。とにかく、いろいろな情報、アイディア、インスパイアがあったとしても、自分の音楽にすることが大事だと学びました。

——キャリアの最初期から、坂本さんのツアーでマヌ・カッチェ(ds)やヴィクター・ベイリー(b)といった世界レベルのプレイヤーが演奏する現場に帯同していたことも大きな糧になったのでは?

 ありがたいことですよね。僕のたどたどしい英語でも、メンバーはフランクに話してくれました。マヌのシンバルワークは、衝撃的でしたね。それもあって、今日は『Heartbeat』ツアーメンバーのサインの入ったCDを持ってきました。そういえば、バイオリンのエヴァートン・ネルソンには、去年の夏、布袋寅泰さんのロンドンでのレコーディングで再会しました。彼が1stバイオリンで、彼いわく、当時はオーケストラの中で1stを預かるレベルではなかった。でも教授に呼んでもらって、その後も何本もツアーもやって、いろいろな経験をして1stになったと。教授への哀悼の意と感謝を語っていました。

——岸さんから見て、坂本さんが特別な部分はどこだと思いますか?

 教授は何よりバイタリティが強く、絶対にすべて自分でやりたがる人でした。“好奇心旺盛”で、常にあらゆる方面にアンテナを立てていて、すべてを把握したい人だったと思います。スタジオや現場の端の方で音楽の話をしていると、必ずその会話に入ってくるんです。「〇〇の新しいアルバムいいね」と言っていたら、「それ何? 教えて!聴かせて!」みたいに。なので教授の前では中途半端な知識で話せない、という雰囲気がありました。さっきのPerformerのチャンクの話もそうですが、知ったかぶりなどすることなく、いろいろなことに耳を傾けていましたね。それが、教授独自の広い音楽性にもつながっていたと思います。

——その点は、坂本さんの本質的な部分ですね。

 当時、ハウスや沖縄民謡にアンテナを張っていたのもそういうことだと思うんです。教授にとってはそういう姿勢が自然だったと思うんですよね。仕事上必要だからアンテナを張っていなきゃ、みたいなことではなくて、新しいことに興味がある。自分の知らないことを知りたいと考えてらっしゃったと思いますね。晩年は、もう少し自分の世界を追求されていたというか、アンテナは立てていても、自分の向きたい方に向くと決めてやってらっしゃったのかなという感じはします。

——それこそ、『out of noise』以降の集中力に向かっていった原動力だと思います。

 はい、ご病気のこともあり『out of noise』以降の作品は特別ですね。『坂本龍一 Playing the Piano in NHK』も、正直、公開当時は見るのがつらかったのですが、今回の取材の前に、NHKでオンエアされたものを久々に見て、ようやく音楽として受け止められました。本当に特別で、素敵な音楽、素晴らしい演奏でした。

——最後に、坂本さんの作品で岸さんが最も好きなものは?

 数日ずっと考えていますが、難しいですね。でも自分にとって最初に出会った作品は外せなく、「千のナイフ」と「東風」を選ばせてもらいます。言うまでもなく教授の作品はコードワークが秀逸ですが、この2曲はメロディと共にコードがどんどん動いていきながらも、テクノミュージックに収まっているのがかっこよく、またオリエンタルな音が伝統的でなくクールに響いているところにやられます。また、確か教授のFM番組『サウンドストリート』で初めて聴いた「Merry Christmas Mr. Lawrence」の衝撃も忘れられません。曲、シンセ、パーカッション、すべて素敵すぎますね。そういえば、ユッスー・ンドゥール&スーパーエトワールとのライブを日本武道館でやったときに(1991年)、ピアノのサウンドチェックを客席からしたいので「誰か“戦メリ”弾いてくれ」と急に言われて、まだ当時ローディだった僕が恐れ多くも弾かせてもらったんです。当然ひどい演奏ですが、サウンドチェックとはいえ、武道館で、教授の前で戦メリを弾くというなかなかない貴重な体験でした。

 

【岸 利至】1969年生まれ。大学在籍中にオフィス・インテンツィオに入社。『Heartbeat』ツアー(1992年)よりシンセサイザープログラマーとして坂本のアシストをする。1994年以降作曲/演奏/アレンジ/プロデュースと活動を拡大。abingdon boys school、NUL.などにメンバーとして参加しつつ、布袋寅泰のレコーディング、ツアー参加、映画『RED SHADOW 赤影』の音楽監督、Jリーグ公式入場曲『THE GLORY』やTX系『ガイアの夜明け』メインテーマの作編曲、ゲーム『Dragon Ball』シリーズの作編曲を担当。また最近では亀梨和也「Cross」の編曲を手掛けた

【特集】坂本龍一~創作の横顔

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