GOH HOTODAが語る坂本龍一との制作 〜『テクノドン』『スネーク・アイズ』

GOH HOTODAが語る坂本龍一との制作

坂本さんのような人はもう後にも先にも絶対いない。その意味ではやっぱり“世界のサカモト”ですよね

 2023年3月28日に坂本龍一さんが他界されて、1年を迎えた。この追悼企画では、ソロ作品を中心に坂本さんと共作したミュージシャンやクリエイター、制作を支えたエンジニアやプログラマー、総計21名の皆様にインタビューを行い、坂本さんとの共同作業を語っていただいた。

 国内外で活躍を続けるエンジニア、GOH HOTODAは、再生YMO『テクノドン』(1993年)や1990年代の坂本作品のミックスを手掛けていた。共にニューヨークを拠点に活躍していたトップクリエイターの二人の間に、どのようなやり取りがあったのだろうか?

当時の坂本さんたちがやろうとしたのは、僕が手掛けていたような音楽だった

——HOTODAさんが坂本さんと関わるのは、再生YMO『テクノドン』からですか?

HOTODA そうなんです。あるとき、KAB(坂本の事務所)から電話がかかってきて、“坂本が今、YMOの制作をしているからミックスを一緒にやってもらえないか?”と誘われたんです。

——それまで接点はなかったのですか?

HOTODA 僕は1987年にシカゴからニューヨークへ移ってきて、マドンナ「ヴォーグ」をやったのが1990年。坂本さんがニューヨークに拠点を移したのがそのころで、たまにアクシスというスタジオに坂本さんが来ていたのは知っていました。そこはフランソワ・ケヴォーキアン(フランソワ・K)のスタジオで、フェルナンド(アポンテ)が坂本さんのアシスタントとしてついていて。僕もそのスタジオでリミックスをしていたりしたので、全く知らない仲ではなかったんですが、さすがに一緒に仕事をすることはなくて。

——実際に坂本さんとお会いする前、坂本さんの作品についてはどのくらいご存じでしたか?

HOTODA 『ラストエンペラー』(1987年)があったので、映画音楽の人という印象が強かったかもしれません。あと、ジョン・ケージのような実験音楽。それ以前、YMOが1980年代に活動していたころは、シカゴのレコード屋にもちゃんと置いてあったから、アメリカのアーティストと同じように普通に買えたはずだし、何曲か耳にしていました。

——それで、『テクノドン』の現場で坂本さんと顔を合わせることになるわけですね。

HOTODA まず、YMOの3人がレコーディングしていたスカイラインというスタジオへ行きました。レコーディングだけど、ライブのようにそれぞれのセットが並べてあって。坂本さんのところには当時のでかいMacと楽器、細野(晴臣)さんのところにもでかいMacと楽器、そして(高橋)幸宏さんのドラムセット。そこで初めて紹介されて、“よろしくお願いします”ということで、ミックスはライト・トラックというスタジオで行いました。

——当時のHOTODAさんは、ダンスミュージックのエンジニアとして名声を高めていらっしゃるところでした。そこにYMOからオファーが来たというのは意外な気がします。

HOTODA でも、当時の坂本さんたちがやろうとしたのは僕が手掛けていたような音楽だったんですよ。ハウスそのものではないけれど、4つ打ちだったり、即興でミックスを作っていくようなもので、音が全部鳴っている状態からこれをどうミュートしていこうかという。それで僕が適役だと思われたのかもしれない。あと、エフェクトかな。僕は当時、12インチのリミックスを数多くやっていて、それ用のエフェクトというものがありました。そんなリミックスで使うエフェクトをYMOの中に生かしていくのに、たぶん僕が適任だと思ったんじゃないかと。

——どんなエフェクトですか?

HOTODA やっぱりディレイとかとリバーブ。あとはフランジャーなどのモジュレーション系ですね。今はプラグインだけど、当時はまだアウトボードしかなかったので、SSLコンソールのオートメーションを使ってそういうセッティングを仕込む。僕はそれに慣れていて。ここでセンドするとか、ミュートを外すとか、エフェクトの有無で同じトラックを別のチャンネルフェーダーに立ち上げるとか。今でもやっていることはそれに近いですけれどね。サウンドの流行はもちろん違うけど。

——ハウスのスペシャリストであるHOTODAさんに、その文法で『テクノドン』をまとめてほしいということだったと。

HOTODA たぶんそういうことだと思います。3人ともほとんど任せるという感じでしたね。最後の仕上がりだけ聴いて、もうちょっとこうしてほしいとか、リクエストはそのくらいで。

——HOTODAさんは、東京ドームのライブでもYMOと一緒にステージへ上がり、コンソールの操作をしていましたね。

HOTODA まさか自分がドームのステージに立つなんて思っても見なかったです。幸宏さんが”GOH君がいいんじゃない?”と言ったそうで。どうして?と思ったけど、昔も松武(秀樹)さんが立っていたから。役割としたら、何をやっているのか見えないようなものだったけれど、すごい経験でした。ステージで昔のYMOの曲もやりましたが、例えば「Behind The Mask」とか、格好良かったですね。時代を経て、その当時の「Behind The Mask」になっていて。

普通とは違う坂本さんとの仕事だからオーケストラ録音もやれた

——YMOの後、しばらくは坂本さんのソロ作品もHOTODAさんがミックスを手掛けるようになります。

HOTODA 坂本さんが作ったgütレーベルには、アート・リンゼイとかTOWA TEIさんとか、坂本さんと親しい人たちが集まっていて、つまり坂本さんがかなり自由にできる環境だったわけです。だからミックスはそのままライト・トラックでやりました。坂本さんはあのスタジオが結構好きだったんです。あの当時、坂本さんは忙しかった……gütの中で、自分だけじゃなくほかのアーティストの作品も出さなきゃいけなかったから。

——どういうスタジオだったのでしょうか?

HOTODA 48丁目の楽器街にあったんです。A/BそれぞれのスタジオにSSLの大きなコンソールがあったのですが、途中から片方がNEVEのデジタルコンソールCapricornになって。坂本さんも僕も新しいものが好きだから、Capricornでミックスしたこともありました。

——YMOのときとは違って、坂本さんとの1対1のやり取りも密になってきたと思います。

HOTODA 坂本さんは、ミックスのトータル的なことはやらないけれども、自分でもコンソールをいじれるし。僕が当時一緒にやった仕事は、歌ものが多いし、ほかのアーティストの作品のプロデュースの場合は、僕にほとんど任されたこともありました。ボーカルの処理までは坂本さんの範囲ではないから。あと、当時はシングルを切ることが多かったから、僕がリミックスを作っていたりもして、それも楽しかった。坂本さんに違う解釈を聴いてもらうのも楽しかったし。「面白い解釈だね」ということで、カップリングに収録されていたりもする。

——当時、HOTODAさんが参加した坂本さんの作品の中には、オーケストラやサウンドトラックもありました。

HOTODA ある時期に坂本さんが近所に引っ越してきたので、よくプリプロをのぞきに行ったりしていました。“こんなふうにしようと思っているんだけど”という話をもらって、それに答えていた流れでレコーディングの依頼を受けたり。例えば映画『スネーク・アイズ』(1998年)のサントラを一緒にやりましたね。最初に映画音楽で坂本さんを知って、すごいなと思っていたから、一番印象的な仕事でした。ちょうど、レコーディングのセットアップの図面が出てきたんですよ。坂本さんと相談して、左に第1バイオリンが8人、右に第2バイオリンが6人、ビオラ10人とチェロ4人が中央という、ベートーヴェンとかを録音するやり方にしてみたんです。バイオリンを左右にしたので、ビオラの人数を増やして、内声がすごいことになっている。しかも、ホーンも一発録りだし。コントラバスが3人いる中の1人がロン・カーターだったので、坂本さんに耳打ちして確認したりして。インペグがミュージシャンを手配するから、誰が来るか分からないんですよ。

取材時に話題に挙がった『スネーク・アイズ』(1998年)のオーケストラ録音のセットアップ図。第1バイオリンと第2バイオリンが左右に分かれていることと、ビオラが最多の10名であることが大きな特徴。金管や木管もワンフロアでの同録。なお、後にブライアン・デ・パルマ監督から修正の要望があったため、別のスタジオでの再録音も行ったという

取材時に話題に挙がった『スネーク・アイズ』(1998年)のオーケストラ録音のセットアップ図。第1バイオリンと第2バイオリンが左右に分かれていることと、ビオラが最多の10名であることが大きな特徴。金管や木管もワンフロアでの同録。なお、後にブライアン・デ・パルマ監督から修正の要望があったため、別のスタジオでの再録音も行ったという

——シカゴ時代からハウスのミキサーとして知られてきたHOTODAさんが、オーケストラを録るのは珍しいことでは?

HOTODA シカゴのユニバーサル・レコーディング・スタジオにアシスタントとして居たころに、CM録音をやっていたんです。こんなに大きい規模ではありませんでしたが、まだ打ち込みではこういうオーケストレーションはできなかったから、CMでも生のオーケストラを録るしかなかったので。だけど、ニューヨークへ行ってからだと、こんなチャンスは坂本さんとの仕事くらいしかなかった。本当に久しぶりでしたね。日本での『Playing the Orchestra 1997 "f"』も録音とミックスをしました。でも、坂本さんとの仕事だからオーケストラ録音もやれたんだと思います。当時の坂本さんが考えていたのは、普通のオーケストラとちょっと違っていたので。シンセサイザーも入るし、衛星回線やネットで遠隔地とつながっているし。だからリスペクトしていたし、一緒に仕事をするのも楽しかったんです。

鍵盤を離すときの独特なタイム感。次に音を鳴らすまで待っているのが坂本さんらしさ

——HOTODAさんは世界中のミュージシャンと仕事をしていますが、坂本さんとの仕事で印象的だったことは?

HOTODA 坂本さんは、自分が欲しいものを分かってますよね。アメリカ人アーティストだと、途中で「分からなくなった!どう思う?」と言ってきて、「それでいいと思うよ」と答えると自信を持ち直したりする。でも、坂本さんはそういうのはなかった。自分ではっきりと、自分の世界を持っている。あと、坂本さんの曲は、影がある音楽が多かったかもしれない。

——和声が独特なので、HOTODAさんにはそう聴こえていたんでしょうね。

HOTODA 和音のこと、特に内声のあり方は、坂本さんから勉強しましたね。あと、坂本さんはリズムにこだわっていた。ピアノの、こう……独特な、鍵盤を離すときのタイム感。2022年に、矢沢永吉さんのDolby Atmosリマスタリングをしたのですが、「時間よ止まれ」(1978年)を聴いたときに、すぐに坂本さんの演奏だと分かりました。

——なるほど。普通の人が譜面通りに弾いても、坂本さんの演奏のようには聴こえない一因は、そこかもしれません。

HOTODA そう。次の音が出るまでの“間”(ま)ですよね。『坂本龍一 Playing the Piano in NHK』(2023年)もそうで、次に音を鳴らすまで待っているのが坂本さんらしい。ご自身でも言っていましたよ。「この一音が大事なんだ。それを生かしたバランスにしてください」と。特に1990年代は、一音の重要性よりもインパクトの方が求められていましたが、坂本さんはそうではなかった。そうすると、どうしても影のある音楽になりがちだったのかも。

——1990年代は、坂本さんはハウスに接近しましたが、ハウスやダンスミュージックの文脈とは、坂本さんの音楽は、結果としてそれらと全く違ったものになっていたと思います。

HOTODA 坂本さんと僕が出会うまでも、坂本さんもいろいろなことに挑戦していたはずですが、やっぱりニューヨークへ渡ったことで、随分変わったんじゃないかと僕は思うんですよ。ニューヨークは、新しいことをやっていく街。だから、坂本さんはハウスやヒップホップの要素を取り入れたりしようとしていたんだと思います。当時、技術的なことに関してはよく話し合いましたね。後にだんだんとご自宅で仕事されるようになっていきますが、外のスタジオと往復していたころの、僕が知っている坂本さんは、ものすごくエネルギッシュだった。寝なくても大丈夫だ、みたいな。政治や環境問題への発言も多かったけれど、坂本さんは気になり始めたら自分で手を付けないと止まらない人で、機材についてもそうなんですよね。新しいプラグインで“こんなことができますよ”と説明すると、もう次はそれで何か作っていたり。

——坂本さんと仕事をしてきたエンジニアには、坂本さんの仕事を支えるアシスタントとしてキャリアを積んだ方が多いですが、HOTODAさんの場合は関係性が違いますよね。

HOTODA そうなんです。だからこそ、ずっとは一緒に仕事できないと思っていました。奇麗に並べてミックスするだけなら坂本さんでもできる。でも、そうじゃなくて、トラックをカットして最終ミックスを作り上げていくという作業を、一緒にやりたかったんじゃないかな。僕はそういう仕事のやり方に慣れていた……バージョンAもBもCもあるし、それでも意に沿わないならまた違うものを考えましょうという。だからこそ、やっぱりあるタイミングで仕事としての関係性は終わりを迎えたわけです。

——それは、坂本さんが向いた先の方向とHOTODAさんのそれとが、一致しなくなったからですよね。

HOTODA そうです。坂本さんは、僕にとってはニューヨークの人なんですよ。ニューヨークで知り合って、一緒に仕事して、お互いにやりたいことをやらせてもらった。だから世界のサカモトというよりニューヨークのサカモトというか……ある意味ではニューヨーク自体が世界なんだけど(笑)。でも、坂本さんのような人は、もう後にも先にも絶対いないだろうという気持ちもある。その意味ではやっぱり“世界のサカモト”ですよね。

 

【GOH HOTODA】1960年生まれ。1979年にシカゴへ渡り、数多くのハウスのミックスを手掛ける。1987年にニューヨークへ拠点を移し、マドンナ「ヴォーグ」の制作を担当。その後、YMO〜坂本龍一との仕事と並行して、デペッシュ・モード、チャカ・カーンなどの作品でも手腕を振るう。2007年には日本にプライベートスタジオstudio GO and NOKKOを設立。近年は松任谷由実、TOWA TEIなどの作品に参加するほか、リマスタリングやDolby Atmosミックスも行う

【特集】坂本龍一~創作の横顔

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