デビュー・シングル「Love, Day After Tomorrow」がヒットし、これまで発売したCDのトータル・セールスは2,000万枚以上を誇るシンガーの倉木麻衣。昨年12月には、2021年にストリーミング配信した無観客ライブ動画を収録するDVD&Blu-ray『Mai Kuraki Live Project 2021 “unconditional L♡VE”』を発売した。同作のBlu-ray版はDolby Atmosに対応しており、エンジニアの市川孝之氏がミックスを手掛けている。ここでは市川氏に、この作品におけるDolby Atmosミックスの手法やこだわりを伺ってみよう。
14本のアンビエンス・マイクを会場内に設置
2021年のコロナ禍、有観客で開催予定だった全国ツアーを一度きりの無観客ライブに変更し、これをストリーミング配信した倉木麻衣の制作チーム。このとき、既に彼らは配信動画をDVD&Blu-ray『Mai Kuraki Live Project 2021 “un conditional L♡VE”』としてリリースすることと併せて、Blu-ray版にはDolby Atmos音源を収録することを決めていたという。この作品におけるDolby Atmosミックスを任された市川氏は、当時の状況をこう振り返る。
「倉木チームは新しい試みの一つとしてDolby Atmosに着目しており、今回のライブ映像と合わせて現場さながらの臨場感あるリスニング体験をファンにしてほしいと考えていたようです。全く経験が無かった自分はドルビージャパンの方に話を聞いたり、サンレコの記事を読んだりしてノウハウを集めました。そして、後のDolby Atmosミックスを見据えたアンビエンス・マイクを配置して、収録することに決めたんです」
無観客ライブのため、会場となった羽生市産業文化ホールではマイクを自由に配置できたと市川氏は語る。
「ボーカルやコーラス、ピアノ、ギター、ベース、ドラム、ストリングス、サックス、筝といったステージ上の楽器に関しては、PAの方がマイクのプランニングとチョイスをして設置していましたが、ELECTRO-VOICE CardinalやYAMAHA SKRM100 Subkickなど、いつもの倉木(麻衣)さんのライブでは使っていないようなマイク……どちらかというとPAよりも録音向けのものをチョイスされていたように思います。自分は全部で14本のアンビエンス・マイクを会場内にセッティング。具体的にはオーディエンスの耳の高さに合わせたマイクをステレオで、ステージに一番近い席から遠い席まで、定めたポイントに配置したんです。こうすることによって、ミックス時に空間の広がりをコントロールできると思ったので。SENNHEISER MKH 416-P48U3、AKG C451 B、C414 XLⅡ、NEUMANN KM 184といったモデルを使用し、ビット/サンプリング・レートは24ビット/96kHzで収録しています」
ILoud MTMは定位感が分かりやすい
市川氏は、こうして収録したすべての音声をスタジオBIRDMAN WESTへ持ち帰り、2ch、5.1ch、そしてDolby Atmosのレイアウトである7.1.2chという3種類のミックスに取りかかったそう。Dolby Atmos用のモニターには、IK MULTIMEDIA ILoud MTMとサブウーファーのYAMAHA HS8Sを導入したという。
「渋谷のRock oNであらゆるスピーカーを試しました。普段、2chのミックスではFOCAL CMS65やSolo6 BEを使用しているのですが、そこから7.1.2chに切り替えたときに違和感が一番なかったのがILoud MTMだったんです。キャリブレーション機能は使わず、リア・パネルに搭載されたハイパス・フィルター・スイッチを80Hzに設定して使用しています。何よりILoud MTMは解像度が高く、定位が分かりやすいのでミックス作業がはかどりますね。サブウーファーも幾つか試しまして、ローエンドの空気感がILoud MTMと相性の良かったHS8Sを購入しました」
市川氏はDolby Atmosミックスをするにあたって、2chミックスで使用したAVID Pro Toolsのセッションを軸に作業を進めたという。
「2chミックスで作った音像を微調整したものに、14本のマイクで収録したアンビエンスを会場に立てたマイクと同じ位置になるように配置していきましたが、ハイトだけは違いました。ここには、前から6列目の椅子に設置したマイクで録ったアンビエンスを用いたんです。理由は、これが最も頭上から降ってくるように聴こえたから。天井につるしたマイクで集音した音よりも、非常にリアルだったんですよ。おそらく、天井の反射音が、ちょうど6列目の椅子辺りに届いていたんでしょうね」
コール&レスポンスのやりとりを再現
Pro Toolsのセッションを見ると、ライブの動画ファイルを読み込んだビデオ・トラックをはじめ、マスター、ボーカル、ドラムの各パーツ、ベース、アコギ、コーラス、FXやガヤ、シンセ、バイオリン、チェロ、サックス、箏、会場のアンビエンスといったトラックのほか、ドラムのバス、バンド楽器をまとめたバス、リバーブ用のFXセンド・トラックなどが並んでいる。市川氏は、その中でも大胆に書かれたオートメーションについて詳しく説明してくれた。
「後半に登場する「Love, Day After Tomorrow」のイントロ部分では、倉木さんがバンド・メンバーの方へ歩みより、一人ずつ紹介していくシーンがあるんです。そこではカメラも倉木さんと一緒に移動するので、毎回メンバーがそれぞれアップで映るんですよ。この映像に合わせて、倉木さんのボーカル・トラックにパンニングのオートメーションを書いています。つまりカメラマンの目線に立って、音像と映像をリンクさせているんですね。せっかくのDolby Atmos作品なので、この音響の素晴らしさをリスナーに分かりやすく伝えるにはこのシーンが一番適切だと判断し、パンニングしたんですよ。ちなみに今回、オブジェクト・チャンネルは使用していませんね」
さらに、こう続ける市川氏。
「アンコールの3曲目「always」では、倉木さんとオーディエンスがコール&レスポンスするシーンがあるんですが、実際は無観客なので、ここではアルバム制作時にファンの方から募集した音声をミックスしているんです。このとき倉木さんの声はL/C/Rのみ、オーディエンスの声はL/C/R以外の全スピーカーから鳴るようにしています。こうすることで、コール&レスポンスのやりとりを分かりやすく再現できると考えたからです。実際にこのシーンを聴いていただくと、リスナーが客席の真ん中にいる感じがリアルに分かると思います」
Dolby Atmosは大きな可能性を秘めている
マスターには、コンプのSSL G-Master Buss CompressorとEQキャプチャーのQ-CloneといったWAVESプラグインがインサートされている。
「G-Master Buss Compressorで全体を軽く整え、Q-Cloneでは、実機のSONTEC MES-432Cをキャプチャーし、 71Hz、3.4kHz、23kHzをブーストしています。23kHzをブーストすることによって、全体の空気感がより分かりやすくなりました」
なお、自宅の視聴環境がDolby Atmos対応ではないリスナーのために、Blu-ray版の『Mai Kuraki Live Project 2021 “unconditional L♡VE”』には、収録曲「Love, Day After Tomorrow」のバイノーラル・フォーマットでの試聴方法を記載した用紙が同梱されている。このバイノーラル・フォーマットのミックスについて、市川氏はこう語る。
「Dolby Atmos Production Suiteをバイノーラル・モードにし、モニター・ヘッドフォンのFOCAL Listen ProとSONY MDR-CD900STを併用しながら、主にサイドの音量バランスを微調整していきました。Listen ProとMDR-CD900STを併用したのは、両者でステレオ感が異なったためです」
今回が初のDolby Atmosミックスだったという市川氏。事前にリファレンスとして幾つかの映像作品を見たそうだが、実際にやってみて発見することの方が多かったと話す。
「イメージとしては、目の前の演奏をリスナーが客席で聴いているような没入感ある音像です。ただ、今回は曲によって楽器の音は変わるけれど、ステージや会場はずっと変わらない……つまり、空間の大きさは終始同じなわけです。なので、その空間の響きをリアルに再現するというより、曲によって空間の響きをデフォルメした方がより演奏を魅力的に聴かせられると判断しました。例えば、静かな曲ではサイド・スピーカーとバック・スピーカーの音量を抑え気味にしたり、激しい曲ではこれらの音量を大きくしたりといった具合です。こうすることで曲ごとにメリハリが出せるため、ミックスしている側としてもやりがいを感じましたね」
市川氏は、初のDolby Atmosミックスについて「非常に興味深い経験となりました」と語る。
「そもそもDolby Atmosは映画を想定した音響から始まっているので音楽に特化したものではないかもしれませんが、今回のライブ映像のように、やり方次第では面白くなるということが分かりました。またアーティストがリリースする楽曲においては、Dolby Atmosの音響をフルに使ったミックス作品がもっと出てきても面白いかもしれませんね。音楽業界におけるDolby Atmosはまだまだ試行錯誤の時代。ほとんどのエンジニアは“やってみると面白い”と思うでしょう。収録した現場の空間をリアルに再現するのか、はたまた現実ではあり得ない音像を作るのか、Dolby Atmosミックスはたくさんの可能性を秘めていると思います」
Release(DVD&Blu-ray)
『Mai Kuraki Live Project 2021 “unconditional L♡VE”』
倉木麻衣
(NORTHERN MUSIC)
※DVD版(VNBM-7037)は、5.1ch/2chに対応
※Blu-ray版(VNXM-7037)は、Dolby Atmos/5.1ch/2chに対応
Musician:倉木麻衣(vo)、増崎孝司(g)、徳永暁人(b)、持山翔子(p)、大津惇(ds)、中園亜美(sax)、藤﨑美乃(vln)、友田唱(vc)、吉永真奈(koto)、WAKASA(cho)
Producer:倉木麻衣
Engineer:市川孝之
Studio:BIRDMAN WEST