2022年、シングル『バッド・ハビット』がTikTokを中心に話題となり、2022年10月に全米ビルボードチャートで3週連続1位を獲得。同曲を収録するアルバム『ジェミニ・ライツ』が、第65回グラミー最優秀プログレッシブ・R&Bアルバムを受賞したスティーヴ・レイシー。2024年2月14~16日に来日公演を控え、今や名実共に世界的なアーティストと言えるだろう。その『ジェミニ・ライツ』のミックスを手掛けたのがニール・H・ポーグ氏。タイラー・ザ・クリエイター、ケイトラナダらの作品を手掛け、5度のグラミー受賞を誇るトップエンジニアだ。大ヒットした『ジェミニ・ライツ』および『バッド・ハビット』の音作りは、どのように行われたのか。その全貌に迫っていこう。
Pick up Artist|スティーヴ・レイシー
アメリカ・カリフォルニア州コンプトン出身のソングライター/プロデューサー。まだ17歳だった2015年に、ギタリストとしてLAのソウル/R&Bバンドのジ・インターネットに加入。2017年にはEP『スティーヴ・レイシーズ・デモ』でソロデビューするほか、ケンドリック・ラマー、J・コール、ソランジュ、ヴァンパイア・ウィークエンドなど、数多くのアーティストの楽曲プロデュースを行う。2019年に1stアルバム『アポロ21』を、2022年に2ndアルバム『ジェミニ・ライツ』をリリース。2024年2月14、15日に東京・立川ステージガーデンで、16日に大阪・Zepp Osaka Baysideで来日公演を行う。
Release
『ジェミニ・ライツ』
スティーヴ・レイシー
ソニー
Musician:スティーヴ・レイシー(vo、g、b、prog、他)、フーシー(vo)、ジョン・キャロル・カービー(org、syn)、イーライ・ライズ(p、k、syn)、カリーム・リギンス(ds)、クリスタル・トーレス(horns)、バレリー・レイシー(vo)、バリン・スポッツビル(vo)、ベイジ・ウェブ(vo)、エイジャ・レイシー(vo)
Producer:スティーヴ・レイシー、ダヒ、マット・マーシャンズ
Engineer:ニール・H・ポーグ、カール・ウィンゲイト
Studio:The HotPurplePettingZoo、The Village、他
1970~80年代のレコードが持つサウンドを目指す
「バッド・ハビット」は今までのヒットソングと比して最もジャンルの垣根を超えた楽曲であり、各所で“ありえないヒット”や“あらゆる意味で異質”などと評されている。そのプロダクションは、人によってはデモと勘違いするかもしれないサウンドと言っていい。Roland TR-808系のベースも、ハードなドラムも、超タイトにクオンタイズされたサンプルも、Antares AUTO-TUNEで加工したボーカルも、眼前に迫るサビのフレーズも全くなく、今どきのポップスのヒットソングで使われる手法がことごとく欠けているからだ。その代わりにこの曲が持つのは強固な意志であり、これこそがTikTokでの大ヒットを生み商業的な大成功につながった。
スティーヴ・レイシーにとって低予算でDIY的な制作、リリースはお手の物と言っていいだろう。彼の最初のEPである『スティーヴ・レイシーズ・デモ』は、Apple iPhoneのGarageBandのみで作られた作品で、初のソロアルバム『アポロ21』は録音からミックスに至るまですべてを自身で行っている。対してメジャーからのデビュー作となった『ジェミニ・ライツ』では、プロダクションとソングライティングはほぼ自身で行ったものの、コライターやプロデューサー、ミュージシャン、それにビッグネームのミックスエンジニアなど、外部のスタッフが強力にサポートしている。
「バッド・ハビット」を収録する『ジェミニ・ライツ』のミックスを担当したニール・H・ポーグ氏は、5度のグラミー受賞を成し遂げている人物だ。そうそうたる面々の作品でその名を残しつつも、スターがひしめくポップミュージック界とは離れたポジションを確立する急進的なミックスエンジニアとしてよく知られる。ポーグ氏は語る。
「ほかの誰かのフリをすることも、何かにすがることもない。自分が気に入るミックスができるように、声をかけられるのを待っているだけさ。今ではやりたいものとそうでないものを選べるレベルになれたんだ。スティーヴ・レイシーのように純粋で控えめなアーティストと一緒にやるのは好きでね。「バッド・ハビット」は純真無垢(むく)なところから生まれた偽りのない作品で、よくあるポップスとは異なりパンクやニューウェーブみたいなフィーリングがある。彼は単一のジャンルに当てはまるアーティストじゃないんだ」
LAにあるポーグ氏の自宅スタジオには、作業を行うデスクのほか、棚一杯にレコードも置かれている。
「1970年代や1980年代のレコードのサウンドやフィーリングが、ミックスするときのインスピレーションの元になる。レコードと、CDやストリーミングを聴き比べれば全然サウンドが違うだろう。何年も前になるが、トーキング・ヘッズの曲のレコード版とCD版を聴き比べたら、レコードのあまりのすごさにたまげてしまったよ。CDのクリーンなサウンドが良いのはもちろん分かっているが、それでもレコードの持つローエンドは素晴らしいんだ」
もちろん1970~80年代のレコードは、ポーグ氏の作るサウンドにも大きな影響を与えているそうだ。
「今あらためて当時の曲を聴いていると、“こんなパートがあったなんて全然気づかなかった”と思うことがあり、そんなふうに時間がたってから気づくことがあるようなミックスが好きなんだ。私のミックスがほかと違うと言われるのは、これが理由なんじゃないかな。何でもかんでもレベルを持ち上げて、前に出てくるようにしないのがポイントさ」
ミックスでは部屋のような空間をイメージして、音の配置を考えているというポーグ氏。音を詰め込みすぎないようにしているという彼なりの方法だ。
「曲中のすべてが聴こえるようにしたがるプロデューサーやアーティストはとても多いが、それで曲がより面白くなることはない。心理学的な問題だよ。一度にすべてが見えてしまったら、またその場所に戻って見直したり後ろに回ってみたりしないだろう。隠された宝石を探すようなものだよ」
The HotPurplePettingZoo
ミックスへの考え方がレイシーとマッチ
ポーグ氏のレコードへの情熱からすれば全く驚くことではないが、彼はアナログ機材のファンでもある。予算が潤沢なプロジェクトでは、外部のスタジオでアナログコンソールを使ってミックスを行うそうだ。何がポーグ氏をそこまでアナログに駆り立てているのだろうか。
「音そのものがすべてで、アナログ作業の過程そのものに魅力を感じているわけじゃない。ある瞬間に特別な何かを感じたり、聴きとったりできることが大事なんだ。もしくは何かしらを思い出すきっかけ……例えば、“これをあのサウンドで試したらもっといいかもな”みたいな感じでね。説明は難しいが、アナログはシンプルにウォームでソフトなんだ」
そう語るポーグ氏だが、実際にスタジオでミックスをするときは必ずアウトボードを使用するわけでもなく、慣れ親しんだ機材類を想起させるプラグインを多用するとのこと。
「どんなムードなのかによるし、アウトボードを使いたい気分ならそうするだろう。だが作業中はグルーブに乗っているからそのままの気分で進めたいことがほとんどで、DAWから離れずそのまま作業を続けるね。いちいち席を外してパッチングや操作をするのは流れを邪魔することになる。DAWなら指先を動かすだけですべて完結できるからね」
「バッド・ハビット」のミックスを行うにあたっては、どのような方向性を持って取り組んだのだろうか。
「別に難解で科学的なことをしているわけじゃなく、奥行きとバランスを作りながら、ミックス全体があるべき形で響くようにしている。スティーヴの曲と同じ方向性のニューウェーブ/パンクロックの時代を生きてきたから、彼が何を目指しているのかは簡単に分かったよ。あとは、全体的なサウンドに一貫性を持たせるようにもしている。ボーカルを超デカくしたがるクライアントはとても多いが、そういうときは“オケが聴こえる余地がないよ?”とね」
またラフと同じサウンドを求められることも多いそう。
「時にはラフがそこまで良いサウンドじゃないこともあって、それでもなぜ合わせないといけないのか。クレジットされるのは私の名前だし、それは見過ごせないよ。クライアントの中にはラフを数カ月も聴き続けていて、こっちが少し変えただけで間違いだと思われてしまうこともたまにある。その場合はラフを分析して、何がクライアントにとってポイントになっているのかを探る。“この超デカいシンセが必要なのか”みたいにね。すると、そのシンセを持ち上げるだけでOKが出る。こういうちょっとしたことさえしっかりしておけば、残りのミックスで自分なりのやり方をできるようになるのさ」
「バッド・ハビット」を含む『ジェミニ・ライツ』は、ポーグ氏のスタジオでミックスが行われた。ポーグ氏とレイシーは、純粋にミックスへの考え方がマッチしていたようだ。
「スティーヴは自分のボーカルを大きくしすぎず特定の箇所にしっかりと収めて、ボーカルとオケを一体としてくれと。まさに私が好きなミックスそのもので、とてもうれしくなったよ。彼の曲で私が主にやったのは、奥行きを出すこと。どの曲もシンプルでストレートだったしね」
「バッド・ハビット」をミックスする上でポイントとなったのは、メインのギターパートだったとポーグ氏は語る。
「とても耳に残る、聴く者を引きつけるギターで、それ以外はすべてギターをサポートするためのものだった。非常に主観的で皆がこういうふうに聴くとは限らないが、それでも私にとってはこのギターこそがこの曲のポイントだったんだ」
ミニマルなほど求めるフィーリングが得られる
『ジェミニ・ライツ』に限らず、アルバムをミックスする際にポーグ氏は、各曲を別物として扱うようにしているそう。
「テンプレートも全く使わない。毎回違う何かを求めているので、ミックスをする際には真っさらの状態から始めるんだ。クリエイティブでいたいからね。当然、多用する手法やプラグインはあるので毎回全く違うことをするわけではないが、気分によっては何か違うものをあえて探すこともある。何のプラグインを持っているのかも忘れているから、ひたすら新しいものを求めてスクロールしまくるんだ。そして、最初のバージョンのミックスを完成させたら、いったんクライアントに送ってコメントをもらう。スティーヴからは、“ギターを少しだけ上げてくれ””ボーカルを少しだけ下げてくれ”といった感じの、最小限のリクエストが多かった。大体のアーティストはボーカルをもっと大きくするように言ってくるから、この反応はちょっとした驚きだったよ」
実際のミックスの手順についても聞いていこう。
「ドラム、ベースの順に音作りを行っていく。私はドラマーでもあるから、グルーブは常に何よりも先なのさ。「バッド・ハビット」はギターによってドライブされる曲だったので、次に手をつけたのはギターだった。それからキーボードで、どこか埋もれているように感じるだろう。それでもちゃんと聴こえるべきところでは聴こえてくるようになっている。それから残りのボーカルとコーラスに手を付けていった」
ポーグ氏は「ドラムでやった処理は、ほとんどがキックについてだね。キックにはWAVES SSL系のチャンネルストリップを何にでも使っているよ」と語る。ベース、ギター、ボーカルの各パートの処理については、次のページでプラグイン画面とともに解説しているので、そちらをご覧いただきたい。ここではマスターバスの処理について聞いていこう。
「マスターバスには通常、WAVES L2とiZotope Ozone 9、最近はOzone 10も使う。Ozoneでは、EQとMaximizer、それにImagerが気に入っている。各トラックのインサートとは違い、マスターバスではほかのセッションと共通のセッティングを使うことが多い。同じ筆で描くのが好きなんだろうね。マスタリングに送る前にマスターバスのエフェクトをすべてバイパスするエンジニアが多いが、ちょっと私には理解できない。処理に時間を費やしたのに、なぜそれをオフにする必要があるんだい? 私にとってはマスターバスの処理も含めて私のサウンドなんだから、マスタリングエンジニアに送るものもそれでなきゃいけないんだ」
多くのプラグインを使用せず、その使い方もシンプルなもの。ただ、氏が楽曲をどう輝かせるかを理解しているからこそ、「バッド・ハビット」は大きなヒットとなったのだろう。
「つまらないエンジニアだろ(笑)。でも、大量の処理を詰め込む必要性を感じたことが全くないんだ。ひたすら新しいプラグインを使いまくる今時のやり方は謎だよ。もちろんこれは人それぞれだし、非常に主観的だとは思うが、ミニマルであればあるほど私が求めるフィーリングを得られるんだ」
◎続いては…「バッド・ハビット」のミックスをプラグイン画面とともに解説!