フィリーサウンドが隆盛したが故の本家PIR制作体制の瓦解
レーベル設立から3年後、MFSB feat. ザ・スリー・ディグリーズの「TSOP(The Sound of Philadelphia)」が全米チャートのNo.1を獲得した1974年がフィラデルフィア・インターナショナル・レコード(PIR)の絶頂期だった。しかし、MFSBの名の下に集まったフィラデルフィアのミュージシャンたちも、最新鋭のレコーディング環境を備えたシグマ・サウンドも、PIRの独占物ではなかった。競合レーベルが同じミュージシャン、同じスタジオを使って、ヒットレコードを作ろうとする動きも活発化していた。
PIR設立以前からアーチー・ベル&ザ・ドレルズやウィルソン・ピケットのアルバム制作をギャンブル&ハフに任せていたアトランティック・レコードは早くからその動きを見せたレーベルの一つだった。PIRが快進撃を始めた1972年には、アトランティックはデトロイト出身のコーラスグループのプロデュースをトム・ベルに任せた。スピナーズは1967年からモータウンに在籍、1970年に「It’s A Shame」のヒットを放ったが、その後にリードボーカルのG.C.キャメロンが脱退。フィリップ・ウィンが加入した新体制でアトランティックに移籍し、その第1作をフィラデルフィアでレコーディングすることになった。
トム・ベルがプロデュースし、ジョー・ターシアがエンジニアリングを手掛けたスピナーズの3rdアルバム『Spinners』(フィラデルフィアより愛をこめて)は1973年発表。「I’ll Be Arround」(いつもあなたと)、「Could It Be I'm Falling in Love」(フィラデルフィアより愛をこめて)、「One Of A Kind(Love Affair)」(たわむれの愛)の3曲がR&BチャートのNo.1を獲得する大成功を収めた。アトランティック・レコード作品ながら、現代までフィラデルフィアサウンドの名盤として語り継がれる一枚だ。アトランティックは続いて、R&Bシンガーのジャッキー・ムーアやシンガーソングライターのダイアン・スタインバーグのデビュー・アルバムなどをシグマ・サウンドで制作した。
日本では“フィリー詣で”とも呼ばれるこうした動きは1973年以後、急加速する。ウィスパーズ、ニューヨーク・シティ、パーシュエイダーズ、マンハッタンズ、リトル・アンソニー&インペリアルズ、マイティ・クラウズ・オブ・ジョイなどなど、フィラデルフィア出身ではないコーラスグループのフィラデルフィア詣でが列を成し、デヴィッド・ボウイ、B.B.キングなどのビッグネームのフィラデルフィア録音も相次いだ。需要に応えるために、シグマ・サウンドではジョー・ターシア以外のエンジニアがチーフに昇格して、多くの仕事をこなすようになった。
仕事が急増したフィラデルフィアのミュージシャンの中でも変化は起こった。ギャンブル&ハフに頼らなくても仕事が取れるMFSB周辺のミュージシャンはPIRから離反していく。1974年にはビブラフォン奏者のヴィンセント・モンタナが金銭上のトラブルからギャンブル&ハフと決別。同じ頃にはギタリストのボビー・イーライもプロデューサーとして自立して、ギャンブル&ハフと距離を置くようになる。ドラマーのアール・ヤング、ベーシストのロン・ベイカー、ギタリストのノーマン・ハリスは5人組のディスコファンクバンド、トランプスを結成し、1975年にデビューアルバムを発表。ベイカーやハリスのアレンジャー/プロデューサーとしての仕事も増えて、ギャンブル&ハフは彼らを使うことも困難になっていった。
さらに、1976年にはMFSBのメインアレンジャーだったボビー・マーティンがフィラデルフィアを離れ、ロサンゼルスに拠点を移す。かくして、MFSBの最良の時期はあっけなく終わりを告げた。MFSBという名前は残り、1980年までアルバム制作は続けられたものの、1970年代後半にはその実体は全く別のものになっていた。PIRの中ではデクスター・ワンセル、マクファデン&ホワイトヘッドなど、新世代のプロデューサーが台頭。しかし、1970年代前半のレーベルの勢いが戻ってくることはなかった。
その理由の一つは、ギャンブル&ハフが彼らの大成功の背景にあったディスコ文化の興隆を十分に把握していなかったことかもしれない。
最初期のディスコチャートを席巻したグロリア・ゲイナー「Never Can Say Goodbye」
ソングライターチームからスタートしたギャンブル&ハフは、あくまでもソングオリエンテッドなプロデューサーだった。ディスコという場でDJがその曲をどう使うかまでを意識して、音楽を制作するという感覚は持っていなかったと思われる。
「TSOP(The Sound of Philadelphia)」の全米チャートのNo.1獲得の半年後、『Billboard』誌は新しくダンス/ディスコチャートを掲載するようになった。1974年10月、そのチャートで最初に1位に輝いたのは、グロリア・ゲイナーの「Never Can Say Goodbye」だった。フィラデルフィア・インターナショナル・レコードは1975年にハロルド・メルヴィン&ブルー・ノーツの「Bad Luck」とオージェイズの「I Love Music」で同チャートの1位を獲得したが、大きなディスコヒットはそこで途切れている。同チャートをにぎわしたのは、PIRよりもずっとディスコに狙いを定めた音楽であり、皮肉なことにそれはギャンブル&ハフから離反したフィラデルフィア勢やフィラデルフィアサウンドを模倣したニューヨーク勢などが生み出したものだった。
グロリア・ゲイナーの「Never Can Say Goodbye」は、当時は全く無名だったゲイナーがMGMレコードから発表した最初のシングルだった。1943年にニュージャージー州に生まれたゲイナーは、1965年に1枚だけシングルを残しているが、その後に長いブランクがあった。成功のきっかけをつかむのは、1973年にコロムビア・レコードと契約し、「Honey Bee」というシングルをリリースしてから。この「Honey Bee」はスピナーズの「Could It Be I'm Falling in Love」の作者でもあったフィラデルフィアのソングライター、メルヴィン・スティールズが書いた曲で、アレンジャーを務めたのはMFSBのノーマン・ハリス。正調フィラデルフィアディスコと言ってもいいダンサブルな曲だった。
コロムビアからのリリースは1枚だけに終わったが、翌1974年にMGMと契約を結んだゲイナーは、ジャクソン5の曲をディスコ向けにアレンジした「Never Can Say Goodbye」をレコーディングする。プロデュースを手掛けたのはミーコ(ミーコ・モナルド)、トニー・ボンジョヴィらのチーム。ミーコはジャズトロンボーン奏者からポップスのアレンジャーに転身したミュージシャンで、1960年代からニューヨークのスタジオシーンで活躍してきたが、1973年にディスコに狙いを定めたプロダクションチームを組んだ。チームの一員となったトニー・ボンジョヴィはメディアサウンドのエンジニアで、後にパワー・ステーション・スタジオを立ち上げたことで名高い。
1973年にドン・ダウニングの「Dream World」をヒットさせたミーコのチームは、フィラデルフィアサウンドに学びつつ、4つ打ちのキックを大きく強調したプロダクションを打ち出した。ゲイナーの「Never Can Say Goodbye」では4つ打ちのキックとオープンハイハットのコンビネーションが、持続感のあるディスコビートを生んでいる。
『Billboard』誌でこのゲイナーの「Never Can Say Goodbye」を強烈にプッシュしたのが、当時同誌で「Disco Action」という連載コラムを持っていたトム・モールトンだった。そして、モールトンは1975年の初めに発表されたゲイナーのデビュー・アルバム『Never Can Say Goodbye』の制作に関わった。『Never Can Say Goodbye』は8曲入りのアルバムだったが、A面にはシングルでも発表された「Honey Bee」「Never Can Say Goodbye」「Reach Out I’ll Be There」の3曲だけが収録された。それらの3曲は7インチのシングル盤ではどれも3分台だったが、アルバムでは6分を超えるエクステンドバージョンになり、さらに曲間のないメドレー構成になっていた。このA面の19分はポストプロダクションを任されたモールトンがテープ編集で作り上げたものだった。
トム・モールトンはいかにしてエクステンドバージョンを作り上げたのか?
こんなDJミックスとも言える音源がアルバムの片面を占めるというのは、グロリア・ゲイナーの『Never Can Say Goodbye』以前にはありえないことだった。ただし、そのA面のエディット〜ミックスを作り上げたトム・モールトンはDJではなかった。彼が何者だったかを語るのは難しい。ジャーナリストであり、エンジニアであり、プロデューサーであり、リミキサーであり、ディスコやDJの文化興隆に大きな貢献を果たした人物だが、実はDJをやったことは一度もなかったという。ディスコに足しげく通う人間でもなかったようだ。しかし、彼は異なる世界に通じている中間的な媒介者として、大きな役割を果たした。レコード業界がディスコの現場からのフィードバックを得て、制作や宣伝に臨むようになったのは、モールトンという特異な存在の影響力ゆえだったと言ってもいい。
1940年にニューヨーク州のスケネクタディに生まれたモールトンは、フィラデルフィアで少年時代を過ごした後、1950年代の終わりにロサンゼルスで音楽業界に足を踏み入れた。両親はジャズミュージシャンで、彼はロックンロールに熱中した世代だった。最初に職を得たのはジュークボックスメーカーのSEEBURGで、ジュークボックスに入れるレコードのバイヤーを務めた。その後はキングレコードでセールスプロモーションを担当。さらにRCAやユナイテッド・アーティストでもプロモーションの仕事をしたが、1960年代には一度、音楽業界を去っている。
ヨーロッパを放浪した後、アメリカに戻ったモールトンはニューヨークでモデルの仕事を得て暮らしていたが、1971年に友人に誘われて、ニューヨーク州のファイヤー・アイランドに足を運んだ。1960年代からゲイのリゾート地としてにぎわっていたファイヤー・アイランドは、ビル・ブリュースターとフランク・ブラートンの『Last Night a DJ Saved My Life ~ The History of Disc Jockey』でもディスコ文化の発祥の地のひとつとして紹介されている。モールトンはそのファイヤー・アイランドのクラブで、ゲイの白人たちがアル・グリーンなどのリズム&ブルースで踊る光景を目にした。
モールトンはその雰囲気に引かれたが、一方でDJのプレイには不満を覚えた。1曲が終わるたびにダンスフロアの人々のダンスも止まってしまう。もっと1曲が長ければ良いのに。曲と曲をつなげて聴かせられたら良いのに。そう考えたモールトンは、自宅のテープレコーダーでお気に入りの曲を編集することを始めた。最初に作った45分のテープは、制作に80時間かかったという。
モールトンはそのテープをファイヤー・アイランドのクラブに持ち込んだ。クラブのオーナーが彼のテープをかけると、ゲイのダンサーたちはそれに熱狂した。モールトンはオーナーから次のテープを作ってほしいという依頼を受ける。そこでモールトンが考えたのは、一曲一曲をもっと長くしたいということだった。7インチシングルの収録時間は3分程度しかない。A面にパート1、B面にパート2を収録した7インチシングルは1960年代からあったが、それらは大抵長い1曲の前半と後半をA/B面に分けて収録したものだった。モールトンが望んだのは1曲のインストゥルメンタルパートを拡大し、ダンサーの足を止めないエクステンドバージョンを作ることだった。そのためにはボーカル抜きのカラオケバージョンがあればいい。
音楽業界で働いた経験を生かして、モールトンはレコード会社各社に交渉して回った。結果、何曲かのボーカル抜きバージョンの提供を受けて、エクステンドバージョンの編集をすることができた。一方で、モールトンはレコード会社から依頼を受けるようにもなった。レコーディングスタジオで同様のエクステンドバージョンを制作してほしいという依頼だ。
最初のクライアントはニューヨークのセプター・レコードだった。ブルックリン出身のファンクバンド、BTエクスプレスのデビューシングル「Do It(’Til You’re Satisfied)」を5分35秒のバージョンに仕上げたのが、エンジニア経験のなかったモールトンがスタジオで働いた最初の曲となった。7インチシングルに5分35秒を収録した同曲は1974年8月に発売され、R&Bチャートで1位、ポップチャートでも2位を獲得する。
セプター・レコードは先述のドン・ダウニングの「Dream World」を発売したレーベルでもあった。同曲のオリジナルシングルは2分36秒しかなかったが、1974年に再発売されたトム・モールトン・ミックスのシングルでは4分13秒に拡大された。この「Dream World」のミックスを通じて、ミーコやトニー・ボンジョヴィと親交を得たことも、グロリア・ゲイナーの『Never Can Say Goodbye』のA面の編集仕事へとつながったものと思われる。
モールトンが編集した『Never Can Say Goodbye』のA面を聴いて、グロリア・ゲイナーはインストパートが長く、自分のボーカルが少ししか出てこないことに憤慨したという。しかし、結果として、それはゲイナーに最初のディスコクイーンという称号を与えた。モールトン自身はそれをDJたちへのプレゼントだったと語っている。19分間、1枚のレコードをかけっぱなしにできれば、DJはその間にトイレへも行けるし、サンドイッチを食べることもできるからだ。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。X(旧Twitter)は@kentarotakahash
Photo:Takashi Yashima