Allison Researchが示したモダンコンソールの原形【Vol.122】音楽と録音の歴史ものがたり

サーフミュージックと初期ザッパの拠点となったポール・バフのパル・レコーディング・スタジオ

 Allison Researchはエンジニアのポール・バフが1960年代の終わりに設立したカリフォルニアのガレージメーカーだった。バフは1935年生まれで、カリフォルニア州ランチョ・クカモンガ出身。父親は音楽出版にかかわっていて、音楽的な環境で育ったという。そして、米軍の海兵隊で航空電子機器の開発に携わった後、1958年、ランチョ・クカモンガにパル・レコーディング・スタジオを開設した。

コンソールの前に座るポール・バフ

コンソールの前に座るポール・バフ。パル・レコーディング・スタジオの名前は、両親が経営していた音楽出版社Pal-O-Mineにちなんで付けられた

 ロサンゼルスの東のランチョ・クカモンガは太平洋岸のビーチからは100km近く離れた内陸部にあるが、バフのパル・レコーディングはサーフィンサウンドを生み出したスタジオとして名を上げた。1962年にザ・シャンテイズが「Pipeline」のオリジナル・デモを録音。同年暮れにはザ・サーファリズが「Wipe Out」をレコーディング。サーフインストゥルメンタルの定番として、数多くのアーティストにカバーされるこの2曲を生み出したのが同スタジオだったからだ。

ザ・サーファリス「Wipe Out」のオリジナル盤ジャケット(Dot Records)

ザ・サーファリス「Wipe Out」のオリジナル盤ジャケット(Dot Records)。1963年1月にリリースされ、同年夏にはビルボード・ホット100で2位を獲得

 パル・レコーディングはバフの自作コンソールとハーフインチのレコーダーを改造した5trレコーダー、さらにはディスクのカッティングマシンも備えていた。このため、レコード会社に売り込むデモ盤の製作のために、ロサンゼルスからランチョ・クカモンガまでやってくるバンドが多かったようだ。

 1960年にパル・レコーディングにやってきたザ・マスターズもそんなバンドのひとつだった。バフがプロデュースも手掛けたこのマスターズのベース奏者、ロニー・ウィリアムズがフランク・ザッパの友人で、バフとザッパを引き合わせた。1961年、ザ・マスターズの2ndシングルB面の「Breaktime」では、ザッパがギターを弾き、バフがピアノを弾いた。以後、ザッパはパル・レコーディングに通い詰め、スタジオ・ミュージシャン、プロデューサーとして働きながら、バフからレコーディング・テクニックを学ぶことになる。

 バフは自身でもドラム、ベース、ギター、キーボード、サックスなど多くの楽器を演奏した。この時期にパル・レコーディングで録音された数多くの音源は2012年に編纂された『Paul Buff Presents Highlights From The Pal And Original Sound Studio Archives Early Recordings』というCD5枚組のコンピレーションにまとめられている。収録曲の中には20代前半のザッパの演奏も数多く含まれている。

Paul Buff Presents Highlights From The Pal And Original Sound Studio Archives Early Recordings

『Paul Buff Presents Highlights From The Pal And Original Sound Studio Archives Early Recordings』
V.A.
(2012年/Crossfire Publication)
パルでの録音作を集めたコンピレーションで、CD20枚分を収めたUSBドライブも後年に発売。ザッパが参加したザ・マスターズ「Breaktime」を皮切りに、サーフミュージックや実験作を収録

 バフがロサンゼルスのオリジナル・サウンド・レーベルのスタジオで仕事することが増えると、ランチョ・クカモンガのパル・レコーディングは完全にフランク・ザッパの拠点となった。ザッパは1964年にスタジオを買い取り、スタジオZと改名。後にキャプテン・ビーフハートとなるドン・ヴァン・ヴリートや、マザーズ・オブ・インベンションのオリジナル・メンバーとなるレイ・コリンズらと多くの実験的な録音を残した。ザッパの1996年のアルバム『ロスト・エピソード』や1998年のアルバム『ミステリー・ディスク』には当時の録音が含まれている。

パル・レコーディング・スタジオを買い取り改称したスタジオZの入口に立つ若きフランク・ザッパ

パル・レコーディング・スタジオを買い取り改称したスタジオZの入口に立つ若きフランク・ザッパ
https://www.facebook.com/Zappa/photos/frank-zappa-buys-pal-recording-studio-in-cucamonga-ca-from-paul-buff-onthisday-i/3163211137072716/
『Lost Episodes』
Frank Zappa
(1995年/Rykodisc/Zappa Records)
1958〜1992年の未発表音源や会話を収録。晩年のザッパ自身が病魔と戦いながら編集した。パル・レコーディング・スタジオ/スタジオZでの録音や、バフがエンジニアを務めた音源を数多く収めている

 

『Mystery Disc』
Frank Zappa
(1998年/Rykodisc/Zappa Records)
1980年代にリリースしたLPボックスセットの添付ディスク収録曲から構成。バフからスタジオを買い取る資金を得た西部劇映画『Run Home Slow』主題曲、スタジオZのオープニングパーティの録音をコラージュした作品などを収録

 ザッパは1965年までスタジオZを住居とする日々が続いたが、軽犯罪で逮捕されたことをきっかけにスタジオ閉鎖を余儀なくされ、スタジオの建物も1966年には取り壊された。しかし、その跡地にはカリフォルニア議会から発行された“サーフミュージック革命の発祥地”というプレートが設置されているという。

 一方、ポール・バフはパル・レコーディング〜スタジオZのコンソールのために自作したディスクリートのマイクプリアンプを他社に提供するようになり、スタジオビジネスよりもレコーディング機材の設計/製造へと向かった。ハリウッドの音楽産業の中心地だったサンセット・ブールヴァードにAllison Researchを設立。その最初の製品となるKEPEXは1970年に発売されると、すぐにヒット商品となった。KEPEXはKeyable Program Expanderの略称で、KEPEX 500がノイズゲート/エクスパンダーモジュール。そのモジュールを収めるKEPEX 501、KEPEX 508、KEPEX 516という3種類の電源ラックが同時に発売された。KEPEX 508では8モジュール、KEPEX 516では16モジュールが縦に並ぶ形になっていた。

Allison Research KEPEX(KEPEX 500)

Allison Research KEPEX(KEPEX 500)。ノブは上からレンジ(リダクション量の決定)、リリース、スレッショルド。下の白いスイッチはキー入力、赤いスイッチはオン/オフ
https://www.oneflightup.com.au/allison-research

 ノイズゲートは大きな信号が入ってくると回路を開き、信号が一定以下になると回路を閉じて、バックグラウンドノイズを遮断するシステムだ。それ自体は1930年代に発明され、映画音楽の録音などでは早くから使われていたという。アビイ・ロード・スタジオも1960年代にはそれを備え、ザ・ビートルズ『アビイ・ロード』では主にボーカルにノイズゲートが使用されたとされる。しかし、ノイズゲートを単体の製品として販売したのは、Allison ResearchのKEPEXが最初だったようだ。

 Allison ResearchのAllisonはバフの妻の名で、初代のKEPEXにはアリソンの顔を描いたエンブレムが貼られていた。コントローラーはレンジ、リリース、スレッショルドの3つだけだったが、サイドチェイン信号を入力できた。KEPEXのプロモーションのためにAllison Researchが配布したデモディスクでは、アリソン・バフがしゃべって、KEPEXの効果を解説している。バックグラウンドノイズの遮断だけでなく、ドラムトラックからシンバルの余韻を取り除く効果なども示され、KEPEXがポール・バフのレコーディングエンジニアとしての経験を反映した製品だったことがうかがわれる。

KEPEXのデモディスクのレーベル

KEPEXのデモディスクのレーベル。Allison Researchのエンブレムとして、アリソン・バフのイラストが描かれている

 KEPEXが16モジュールを収納するラックとともに発売されたのも、バフがマルチトラック化に進むレコーディングスタジオの状況を熟知していたからにほかならないだろう。トラック数が増えれば増えるほど、テープヒスの総和は大きくなる。Dolbyなどのノイズリダクションでそれを軽減しても、各チャンネルのラインアンプやアウトボードが発するノイズは、ミキシングコンソールのフェーダーの数だけ残る。ならば、すべてのチャンネルにノイズゲート/エクスパンダーを装備したらどうだろうか。バフはそう考えて、モジュール式のKEPEXとそのラックを開発したに違いない。

 KEPEXに続いて、Allison Researchは翌1971年にGAIN BRAINというコンプレッサーを発表した。これもKEPEXと同じくラックに収納するモジュール式で、各チャンネルに装備することを前提としていた。Allison Researchはコンソールメーカーではなかったが、全チャンネルにノイズゲート/エクスパンダーとコンプレッサーを装備した、後のSSLコンソールが実現するミキシングコンソールの在り方を構想していたのだ。

Allison Research GAIN BRAIN

Allison Research GAIN BRAIN。最上段のファンクションノブは、スレッショルドの感度をピーク〜RMS間で調整するもの。その下にリリースと、アウトプット/インプットのノブが並ぶ
https://www.oneflightup.com.au/allison-research

ジョー・ターシアが重用したAllison Researchのオートメーションシステム

 ジョー・ターシアはそんなAllison Research製品の愛用者だった。1970年代初頭のELECTRODYNEコンソールを使用していた時期のシグマ・サウンドのコントロールルームにもKEPEXとGAIN BRAINのラックの写真を見ることができる。ノイズの低減はターシアにとって重要なテーマで、シグマ・サウンドはDolbyのノイズリダクションも装備していたし、エレクトリックベースやエレクトリックギターの録音はオリジナルのDIボックスを使って行われていた。

シグマ・サウンド・スタジオのコントロールルーム

シグマ・サウンド・スタジオのコントロールルーム。右のパッチ盤上に、GAIN BRAINとKEPEXが3台ずつ見える
https://youtu.be/5EIt_n1nY6o

 ターシアは当時のスタジオシーンの印象として、映画産業が技術革新をもたらしていく西海岸に比べて、東海岸は保守的で、新しい技術に抵抗感を持つ人々も多かったと振り返っている。ミキシングコンソールのオートメーション化も1970年にSMPTE(米国映画テレビ技術者協会)が同期信号の規格を定めたことから、開発が進むことになった。だが、ELECTRODYNEほかのコンソールメーカーのオートメーション卓を試用しても、どれも実用性に欠けるというのがターシアの判断だったという。

 そこでターシアはAllison Researchのポール・バフに声をかけた。同世代で、レコーディングエンジニアとテクニカルエンジニアの両面を持つターシアとバフは話が合ったのだろう。バフはシグマ・サウンドのために、ミキシングオートメーションのシステムを開発していくことになる。最初の試作機は1972年、シグマ・サウンドがまだ2台目のELECTRODYNEコンソールを使用していた時期に持ち込まれたようだ。VCAを使ったオートメーションのシステムだったが、コンソールのフェーダーを動かすのではなく、特定のチャンネルのフェーダーをコンソールの外部の“Memories Little Fader”と呼ばれるオートメーション動作のためのフェーダーに置き換え、ミキシングを行う形だった。

Memories Little Fader
Memories Little Helper
Allison Researchの外付けオートメーションシステム。スモールフェーダーボックスのMemories Little Fader(左)とラックのMemories Little Helper(右)とで構成されている
https://youtu.be/5EIt_n1nY6o

 何本かの“Memories Little Fader”を収めたフェーダーボックスがコンソールの脇に置かれ、それでボーカルチャンネルだけに集中してミキシングオートメーションを書く。次にベースチャンネルだけに集中してミキシングオートメーションを書く。こうした作業が可能になったのは、革命的なことだったとターシアは振り返っている。ただし、オートメーションの記録にはレコーダーの2trを使用した。16trの時代には、それはオーディオ録音には14trしか使えなくなることを意味した。

 シグマ・サウンドが3Mの24trレコーダーを購入し、コンソールがMCIのJH-400シリーズに置き換わると、Allison Researchはコンソール内のフェーダーをムービングフェーダー化し、さらにMCIコンソールのスイッチ類のリレー動作を記憶するシステムを作り上げていった。それはまさしくフィラデルフィア・インターナショナルがヒット曲を連発し、巨大なディスコブームを築き上げていく時期だった。1973年にはミュージシャン集団のMFSBがアーティストデビューし、同年発表の2ndアルバムからコーラスグループのスリー・ディグリーズをフィーチャーした「TSOP (The Sound Of Philadelphia)」と「Love Is The Message」の2曲が大ヒットとなった。1974年にテレビ番組『Soul Train』のオープニングテーマ曲となった前者は、ディスコブームの象徴として世界中に知れわたった。同曲は日本では「ソウル・トレインのテーマ」のタイトルでも知られる。

『Love is the Message』
MFSB
(1973年/Philadelphia International)
「ソウル・トレインのテーマ」こと「TSOP (The Sound Of Philadelphia)」はグラミーのベストR&Bインストゥルメンタル・パフォーマンス受賞

当時のスリー・ディグリーズ(1974年撮影)

当時のスリー・ディグリーズ(1974年撮影)

 こうした大成功に伴い、シグマ・サウンドも発展した。1973年にはフィラデルフィアのサウス・ブロード・ストリート309番地のフィラデルフィア・インターナショナル・レコードの本社内にシグマ・サウンド・サウスがオープン。1976年にはターシアはニューヨークのブロードウェイに面するエド・サリヴァン・シアター・ビルディング内にもシグマ・サウンドを設置した。3カ所のシグマ・サウンドは最大時には11のルームを持ち、そのほとんどにMCIのJH-400もしくはJH-500シリーズのコンソールが置かれていた。ミキシング用のコンソールには当然ながら、Allison Researchのオートメーションシステムが組み込まれていた。

シグマ・サウンドNYC

シグマ・サウンドNYC。コンソールは32chのMCI JH-440で、Allison Research 65K Memory Plusを採用していた。右奥のラック上に見える、横一列にランプが見えるのがフェーダー動作の記録を行う65K Programmer
https://youtu.be/5EIt_n1nY6o

Valley Peopleへの発展〜退任後ポール・バフは写真照明の道へ

 ミキシングオートメーションのオーソリティとなったターシアは、MCIがVCAオートメーションを組み込んだJH-600シリーズのコンソールを開発するにあたって、アドバイザーも務めた。ポール・バフのAllison Researchは本拠地をロサンゼルスからナッシュヴィルに移し、1976年にはミキシングオートメーションをさらに進化させた65K Memory Plusシステムを発表した。これはフェーダーオートメーションのみならず、EQやパンなどの設定のトータルリコールも可能にするものだった。

65K Memory Plusの製品ガイド表紙

65K Memory Plusの製品ガイド表紙。写真はノブのないフェーダー=Fablous Faderで、ベルトの動きを光学センサーで読み取り、フェーダー位置を決定する方式を採用した

 1970年代後半にはAllison ResearchはVally Peopleへと発展する。初代のKEPEXやGAIN BRAINはFETベースのディスクリート構成だったが、Valley Peopleから発売されたKEPEX IIとGain Brain IIはICを使用し、より小型化された。1981年にDrawmerがDS201を発表し、周波数検知動作するノイズゲートで革命を起こす以前は、世界中のレコーディングスタジオでKEPEX IIがノイズゲートの定番とされていた。SSL SL4000シリーズのノイズゲート/エクスパンダーも当然ながら、KEPEX IIの機能を踏襲したものだった。

 あるいは、フェーダーオートメーションやトータルリコールを含めたSSLコンソールの構成も、ポール・バフが最初に考案したものだったと考えていい。それは現代のDAWのワークフローの基礎となってもいる。だが、ポール・バフは1980年代にはオーディオの世界から遠ざかっていった。Dynamiteという名のコンプレッサーを発表した後、バフはValley Peopleでのオーディオ製品の設計を他のデザイナーに譲り、1984年には同社を退職。一方で、1981年に設立したPaul C. Buff, Inc.で、写真撮影用のフラッシュ照明の開発/製造を行った。

Paul C. Buff, Inc.の会社概要に掲載されているポール・バフ(1935〜2015年)の写真

Paul C. Buff, Inc.の会社概要に掲載されているポール・バフ(1935〜2015年)の写真
https://www.paulcbuff.com/About-Us.html

 Paul C. Buff, Inc.は現在でもプロ用照明機材のトップメーカーだが、その創業者が初期のサーフミュージックや無名時代のフランク・ザッパにかかわり、フィラデルフィアのディスコサウンドの技術面を支えた人物だったことは意外に知られていないかもしれない。

 

高橋健太郎

高橋健太郎

音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。X(旧Twitter)は@kentarotakahash

Photo:Takashi Yashima

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