人気番組『American Bandstand』とカメオ・パークウェイの蜜月
フィラデルフィアのシグマ・サウンドは1970年代にフィリー・ソウルの名盤を数多く生み出しただけでなく、1990年代以後はザ・ルーツ周辺のミュージシャンの拠点となり、ネオ・ソウルの興隆にも貢献した。この歴史的なスタジオは2014年に閉鎖されたが、同スタジオがあった212 North 12th Streetのビルディングは、現在でもフィラデルフィア市の歴史委員会が管理する史跡として保存されている。残念ながら、僕は同スタジオを訪れた経験はないのだが、Sigma Soundのステッカーが貼られた放出品のAPI 550Aモジュールを持っているのが、ちょっとした自慢だったりする。
シグマ・サウンドを設立したのはジョー・ターシアというエンジニアだった。本名をジョセフ・ドミニク・ターシアという彼は1934年9月23日に生まれ、2022年11月1日に没した。多くの追悼記事が出て、貴重な写真も見ることができたのは、まだ記憶に新しい。ターシアがシグマ・サウンドを設立するのは1968年のことだが、それ以前から彼のキャリアはフィラデルフィアの音楽シーンと深く結びついたものだった。
ターシアはもともとはテクニカル・エンジニアで、電気工学を学び、フィラデルフィアに本拠を置く電気メーカーPHILCOの研究所に職を得ていた。その一方でショー・ビジネスにも興味を惹かれていた彼は、夜間の副業としてレコーディング・スタジオの機材メインテナンスを請け負った。時は1950年代の後半。フィラデルフィアの音楽シーンが全米的な注目を集めるようになった時期だ。
そのきっかけを作ったのは、1952年にフィラデルフィアのテレビ局、WFIL-TVがスタートさせたテレビ番組『Bandstand』だった。ラジオ・ディスクジョッキー出身のボブ・ホーンが司会し、レコード演奏に合わせてティーンエイジャーが踊る同番組はローカルで人気を集めたが、1956年にホーンが飲酒運転で逮捕されたことから、司会がディック・クラークに交代。翌1957年には番組はタイトルを『American Bandstand』と替えて、ABCの全国放送となった。
『American Bandstand』の初回の放送は1957年8月5日だったが、2日後の8月7日の放送に出演したライブ・アクトが、大センセーションを巻き起こす。それは前月に自作曲「ダイアナ」をABCパラマウントからリリースした16歳のポール・アンカだった。アンカの「ダイアナ」はR&Bチャートで1位、ポップ・チャートで2位まで昇る大ヒットとなり、きっかけを作った『American Bandstand』も瞬く間に全米的な人気番組へと成長した。
『American Bandstand』はフィラデルフィアにダンスとDJの文化を深く根付かせるとともに、フィラデルフィアの音楽産業も活性化した。ソングライター・チームのバーニー・ロウ&カル・マンが1956年にスタートさせたカメオ&パークウェイ・レコードは、とりわけ同番組との結びつきが深かった。ディック・クラークと親しいカメオ&パークウェイはいつでも番組に自社のアーティストをブッキングできたと言われる。
1958年、カメオ&パークウェイはディック・クラークから紹介された本名をアーネスト・エヴァンスという17歳のシンガーと契約する。1960年に「ザ・ツイスト」をヒットさせて、巨大なツイスト・ブームを巻き起こすチャビー・チェッカーだ。「ザ・ツイスト」はもともとはハンク・バラード&ミッドナイターズが1958年にシングルのB面として発表した曲だった。1960年にこの曲がダンス・ヒットとして人気上昇すると、ディック・クラークはハンク・バラード&ミッドナイターズに『American Bandstand』への出演をオファーした。だが、2回の出演要請が叶わなかったため、カメオ&パークウェイにチャビー・チェッカーによるカバー・バージョンを制作させた。1960年8月6日、チェッカーが『American Bandstand』で「ザ・ツイスト」を披露すると、それは翌月には全米No.1を獲得した。
そんな時期にカメオ&パークウェイのスタジオに出入りしていたジョー・ターシアは、次第にレコーディング・エンジニアとしての技術も身につけ、1962年にはカメオ&パークウェイに正式入社して、フルタイムで働くようになる。ボビー・ライデル、オーロンズ、ダヴェルズ、ディー・ディー・シャープなどを擁し、『American Bandstand』向けのダンス・シングルを量産したカメオ&パークウェイはこの時期、アメリカで最も勢いのあるインディペント・レーベルのひとつだった。ターシアはそのヒット曲のほとんどの録音を手掛け、不眠不休で働いたと言われる。しかし、1963年のザ・タイムス「So Much In Love」(なぎさの誓い)を最後に、カメオ&パークウェイのヒットは途切れた。ディック・クラークが『American Bandstand』とともにロサンゼルスに移転してしまったからだ。
ギャンブル/ハフ/ベル 〜フィリー・ソウルの立役者たちの出会い
ディック・クラークと『American Bandstand』を失ったフィラデルフィアの音楽産業は急な低迷期を迎える。折しも、ザ・ビートルズがアメリカに上陸し、モータウンが大躍進し、音楽シーンが大転換した時期でもあった。それまでのルーティンで作られたロックンロールやR&Bではヒットは望めなくなった。フィラデルフィア・シーンが栄光を取り戻すには、新しい才能と新しいムーブメントが必要だった。
1943年生まれのケニー・ギャンブルはこのころ、病院で働きながら、ソングライターとして成功するチャンスを狙っていた一人だった。彼の才能を最初に見出したのは『American Bandstand』のアナウンサーから音楽プロデューサーへと転身したジェリー・ロスで、ロスはギャンブルが17歳のときに彼とソングライター契約を結んだ。ギャンブルは友人のトム・ベルを誘って、ロスの持つヘリテージ・レーベルから1962年にケニー&トニー名義でシングル『Someday (You'll Be My Love) / I'll Get By Without You』をリリース。ロスのプロダクションは甘美なドゥーワップ・ソングが多いが、この2曲もまさにその例に漏れない。ギャンブルとベルはその後、ロメオズというグループを結成して、フィラデルフィアのクラブで演奏もしていたという。
トム・ベルは同じく1943年生まれだが、ジャマイカのキングストン出身で、4歳のときに両親とともにフィラデルフィアに移住した。音楽的な家庭に育ち、クラシック・ピアノを学んだ彼は姉を通じて、ギャンブルと知り合ったという。ベルは10代からカメオ&パークウェイでセッション・ミュージシャンとして働き、そこで無名時代のダリル・ホールとも出会っている。
ケニー・ギャンブルがレオン・ハフと出会ったのは、ジェリー・ロスの事務所が入っていたシューベルト・ビルディングのエレベーターの中だったという。1943年生まれのレオン・ハフはニュージャージー州カムデンで育ったが、高校卒業後、音楽の職を求めてフィラデルフィアに移った。そして、やはりシューベルト・ビルディング内にあるソングライター・チームのジョン・マデラ&デヴィッド・ホワイトの事務所で働いていたときに、エレベーター内でギャンブルに声をかけられた。レオン・ハフがピアニストとして参加したレコードに、マデラ&ホワイトが手掛けた1963年のラヴェンダーズのシングル『One More Time / One More, Once』があるが、時期的にその少し後だったようだ。ギャンブルはキャンディ&ザ・キッシズの「The 81」という曲のセッションにハフを誘った。ジェリー・ロスとケニー・ギャンブルが共作し、1964年にカメオ&パークウェイからリリースされたこのシングルが、ギャンブル&ハフがともに働いた最初のレコーディング・セッションだった。
こうして1960年代の半ばまでにはケニー・ギャンブル、レオン・ハフ、トム・ベルという3人の才人が出会い、フィラデルフィアの音楽シーンは次のフェイズへと移行していく。とはいえ、彼らとジョー・ターシアが巨大な帝国を築き上げるには、まだ数年の時が必要だった。
華麗なオーケストレーションによる新しいフィリー・サウンド
新しいフィリー・サウンドの最初の一曲は、バーバラ・メイソンの「Yes, I’m Ready」だったとジョー・ターシアは明言している。「Yes, I’m Ready」はフィラデルフィア出身のメイソンが1965年にリリースした3枚目のシングルで、18歳の彼女のオリジナル曲だった。アークティックというフィラデルフィアのインディー・レーベルからのリリースだったが、この曲はR&Bチャートの2位、ポップ・チャートの5位まで昇るヒット曲になった。
レコーディングが行われたのはギタリストのフランク・ヴァーチュが所有するスタジオだったが、このころにはフリーランスとなったターシアがエンジニアを務め、ケニー・ギャンブルがセッションを采配したようだ。演奏したのは後にシグマ・サウンドに常駐するミュージシャン集団、MFSB(Mother Father Sister Brother)の中心メンバーになるドラマーのアール・ヤング、ベースのロニー・ベイカー、ギタリストのボビー・イーライ、ローランド・チェンバースら。この顔合わせのセッションはこの日が初めてだったという。
音楽的にはメジャー7thコードを使ったスウィートなコード進行と冒頭から展開する華麗なオーケストレーションが新しいフィリー・サウンドを印象づける。それまでのR&Bにはないスケール感と細やかなアレンジが凝らされたオーケストレーションがフィリー・サウンドの特徴だとターシアも考えているようだ。
1966年にはケニー・ギャンブルはギャンブル・レコードを設立。プロデューサー・チームとなったギャンブル&ハフはそこでコーラス・グループのイントゥルーダーズを手掛け、「(We’ll Be) United」などのヒットを放つ。MFSBのオーケストラ・アレンジャーになるボビー・マーチンがチームに加わったのも、そのイントゥルーダーズのセッションからだったようだ。
一方、トム・ベルはコーラス・グループのデルフォニックスと組み、メンバーのウィリアム・ハートとのコンビで曲を書き、1967年の暮れに名曲「La-La(Means I Love You)」を発表する。デルフォニックスのマネージャーでもあったスタン・ワトソンが設立したフィリー・グルーヴ・レコードからリリースされた「La-La(Means I Love You)」はR&Bチャートで2位、ポップ・チャートで4位まで昇るヒット曲となった。その後、無数のカバー・ヴァージョンも生んだ同曲は、トム・ベルの代表曲のひとつとして知る人も多いだろう。
しかし、この時期までのギャンブル&ハフやトム・ベルのプロダクションはドゥー・ワップを底に置いた歌ものが基本で、ヒット曲もスローからミディアムテンポが多かった。1967年にギャンブル&ハフが手掛けたブルー・アイド・ソウル・グループ、ソウル・サヴァイヴァーズの「Expressway(To Your Heart)」はラテン〜ブーガルー風味のダンス・チューンで、ポップ・チャートの4位まで昇った。だが、サウンド的にはピアノ・トリオに近いシンプルなサウンドで、1970年代のフィラデルフィアで開花するディスコ・サウンドとは大きな距離があった。
MFSBメンバーによるB面インストがヒットした「The Horse」
1968年にオハイオ出身のR&Bシンガー、クリフ・ノーブルズがフィラデルフィアのインディー・レーベル、フィルL.A.オブ・ソウル・レコードからシングルを発表した。『Love Is All Right / The Horse』というこのシングルは当初はノーブルズのボーカル入りの「Love Is All Right」をA面に、そのカラオケ・バージョンである「The Horse」をB面に置いていた。ところが、人気を博したのはB面の「The Horse」の方だった。キャッチーなホーン・セクションのメロディとともに疾走するダンス・チューンとして、インスト版が好まれたのだ。このため、レーベルは「The Horse」をA面にして、シングルを発売し直した。最終的に「The Horse」はポップ・チャート、R&Bチャートの両方で2位を記録するヒットになった。
このクリフ・ノーブルズのシングルをプロデュースしたのはジェシー・ジェイムスだった。ジェイムスはフィラデルフィアを拠点にしていたソングライターで、1967年にサウスカロライナ出身のファンタスティック・ジョニー・Cをプロデュース。フィルL.A.オブ・ソウル・レコードからリリースした「Boogie Down Broadway」をR&Bチャートの5位、ポップ・チャートの7位に送り込むヒットにしていた。
そのジェシー・ジェイムスがクリフ・ノーブルズのセッションのために呼び集めたのが、アール・ヤング、ロニー・ベイカー、ボビー・イーライら、後のMFSBのメンバーだった。アレンジャーはボビー・マーティンで、ホーン・セクションもMFSBで活躍する面々だったとされる。ギャンブル&ハフもトム・ベルも関わっていないが、音楽的には「The Horse」はまさしく後のMFSBのディスコ・チューンのプロトタイプと言えるもので、1970年代のフィラデルフィア・サウンドの呼び水になった曲に思われる。
もうひとつ、1968年のシグマ・サウンドのオープン前に、ギャンブル&ハフ、トム・ベル、ボビー・マーチン、そして、MFSBの面々はひとつ大きな仕事をこなしている。それはテキサス州オースチン出身のアーチー・ベル&ザ・ドレルズのレコーディングだった。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash
Photo:Takashi Yashima