キング・クリムゾン『リザード』の未発表テイクで聴けるNEVE A88での“録り音”
多くのトップ・エンジニアが現在でもマイクプリ/EQのファースト・チョイスに挙げるNEVE 1073が開発されたのは1970年だった。1073モジュールはそれ以前の1066モジュールとほぼ同じデザインだったが、EQのポイントが異なる。内部的には使用するトランジスターの変更があった。
1969年の暮れにNEVEが発表したラジオ局用のスモール・コンソール、BCM10/2の初期モデルに搭載されたのは1066もしくは1066から出力トランスを省いた1068モジュールだったと言われるが、1970年以後に出荷されたBCM10/2は1073モジュールを搭載していた。
1073モジュールを搭載したNEVEの最初の大型コンソールは、1970年にロンドンのウェセックス・スタジオの依頼に応えて制作したA88だった。ハイブリー・パークのウェセックス・スタジオはゲルマニウム・トランジスター使用の1053モジュールを載せた18インプットのコンソールを所有していたが、A88コンソールは16trレコーダーに対応する28インプットのコンソールだった。1970年の暮れに発表されたキング・クリムゾンのアルバム『リザード』はこのA88コンソールで録音されている。
『リザード』はキング・クリムゾンの3作目のアルバムで、前2作と同様にウェセックス・スタジオで、エンジニアのロビン・トンプソンとともに制作された。だが、ベース/ボーカルのグレッグ・レイクやドラムスのマイケル・ジャイルスはグループを離れ、代わりに起用されたゴードン・ハスケル(b、vo)とアンディ・マックロウ(ds)はアルバム完成後のライブには登場することがなかった、キング・クリムゾンとしては過度期の作品とされ、前2作ほどの評価やセールスは得られなかった。
『リザード』ではリーダーのロバート・フリップと作詞家のピート・シンフィールドがスタジオ・セッションで試行錯誤を重ね、曲を組み上げていったとされる。メル・コリンズ(sax)、キース・ティペット(p:ゲスト)らとのジャズ的なインプロビゼーションも多く挟み込まれる。ロバート・フリップのこのアルバムへの思い入れは強いようで、近年のキング・クリムゾンのツアーでも曲を多く演奏している。2009年にはフリップとスティーヴ・ウィルソンによるリミックスおよび5.1chミックスが制作されているし、さらに2020年には膨大なセッション・テープからの抽出音源のダウンロード販売も行われている。
その中にはギター、ピアノ、Mellotron、フルートなどの単体トラックも含まれている。つまり、1073モジュールを載せたA88コンソールでの各楽器の録り音がそのまま聴けるのだ。同様のダウンロード販売は前2作のセッション・テープからも行われているので、ゲルマニウム・トランジスター使用の1053モジュールと1073モジュールの音質差を聴き比べることもできる。
サウンド・シティのNEVE 8028とフリートウッド・マック
ウェセックス・スタジオのA88コンソールは、その後のNEVE 80シリーズのコンソールの基礎となった。80シリーズのコンソールは現在も世界各地のスタジオで稼働しているが、1073の系統のモジュールを搭載していたのは、1970年代初頭に製作された8014、8028などのコンソールだ。
80シリーズのコンソールとともに、NEVE ELECTRONICSの北米進出も本格化する。1970年にはカナダのトロントとニューヨーク市に近いコネチカット州ベッセルに営業所を開設。1973年までにはロサンゼルスやナッシュビルにも営業所を置いた。
ロサンゼルスに運び込まれた80シリーズ・コンソールで、近年、大きな話題を集めたものがある。フー・ファイターズのデイヴ・グロールが自身のスタジオに設置した8028コンソールだ。これはサウンド・シティ・スタジオが1973年から所有していたもので、それを購入したグロールは、サウンド・シティについてのドキュメンタリー映画も制作。この映画『サウンド・シティ - リアル・トゥ・リール』は2013年に公開された。
サウンド・シティはハリウッドの北にあるヴァン・ニュイに1969年にオープン。1972年以前にもニール・ヤングの『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』やドクター・ジョンの『ガンボ』などのロック名盤にも使われている。スタジオのオーナーはジョー・ゴットフリートとトム・スキーターで、彼らは1973年に7万6千ドルを投じて、28インプットのNEVE 8028コンソールを購入。自宅購入の倍の金額だったと、ゴットフリートは映画の中で振り返っている。
この8028コンソールは1073モジュールではなく、1084モジュールを搭載していた。1084は回路構成的には1073とほぼ同じ。ミッドEQのQ可変スイッチがあり、モジュールの大きさが異なるので、番号的には108Xとなっている。1073に比べると、かなりレアなモジュールだ。
1973年のサウンド・シティ・スタジオで、最初にNEVE 8028を使ったレコーディングを行ったのはバッキンガム・ニックスというアーティストだった。バッキンガム・ニックスはカリフォルニア州アザートンの高校の音楽仲間だったリンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスのデュオで、2人はロサンゼルスでエンジニア/プロデューサーのキース・オルセンと出会ったことから、オルセンが拠点としていたサウンド・シティ・スタジオでアルバムをレコーディングする機会を得た。
同年にポリドールからリリースされたバッキンガム・ニックスのアルバムは成功にほど遠かったが、翌年にサウンド・シティで2ndアルバムのためのリハーサルをしていたときに、大きな偶然が訪れる。Bスタジオにいたリンジー・バッキンガムがAスタジオを覗くと、そこには3人のイギリス人ミュージシャンが居たのだ。それはロサンゼルスに拠点を移してきたフリートウッド・マックのミック・フリートウッドとジョン&クリスティン・マクヴィーだった。ボーカル/ギターのボブ・ウェルチが脱退したため、彼らは後任のギタリストを探していた。
キース・オルセンがリーダーのミック・フリートウッドにバッキンガム・ニックスのアルバムを聴かせると、フリートウッドはバッキンガムのギターを気に入った。しかし、バンドへの加入を持ちかけられたバッキンガムは1つ条件を出した。加入するなら、彼女のスティーヴィー・ニックスも一緒だと。かくして、スティーヴィー・ニックスとリンジー・バッキンガムをフロントに立てた新しいフリートウッド・マックが誕生することになる。映画『サウンド・シティ - リール・トゥ・リアル』の中でもこのエピソードは詳細に語られている。
1975年の初めに新生フリートウッド・マックはキース・オルセンとともにサウンド・シティ・スタジオでアルバム『ファンタスティック・マック』(Fleetwood Mac)をレコーディングする。1975年7月にリリースされたこのアルバムは1年以上かけて全米チャートを昇っていき、1976年9月にアルバム・チャートの首位に輝いた。このフリートウッド・マックの成功が引き金となって、サウンド・シティは人気を呼び、1970年代後半にリック・スプリングフィールド、チープトリック、トム・ペティ&ハートブレイカーズなどのヒット・アルバムを生み出すことになる。
NEVEの米進出以前にアメリカ音楽界を支えていたコンソールたち
NEVE ELECTRONICSは、1972年には1081モジュールを開発する。1073モジュールのアンプが純A級動作だったのに対して、この1081モジュールではAB級動作になった。1073の内部はアンプ・カードやEQカードをソケットに装着する構造になっていたが、1081からは小さな正方形の基盤上にディスクリート構成のオペアンプを組み、それをメインボードに刺していく構造になった。1081とほぼ同じ回路構成を持ちながら、ラジオ局用コンソールのために小型化された33114、33115といったモジュールも開発された。そこでも1081と同じディスクリート構成のオペアンプが使われている。
1081モジュールを搭載した大型コンソールのNEVE 8048は1974年に発表。33114/33115モジュールを搭載したラジオ局用のMelbourneコンソールが発表されたのも同年だ。純A級動作からAB級動作に変わったこの世代のコンソールとともに、NEVE ELECTRONICSはアメリカでのシェアを大きく拡大する。逆から言うと、純A級動作の1073あるいは1084モジュールの時代には、まだNEVEの大型コンソールを稼働させていたアメリカのレコーディング・スタジオは数少なく、サウンド・シティは例外的な存在だったとも言える。
1975年にルパート・ニーヴはNEVE ELECTRONICSを売却する。この時点で同社はイングランドとスコットランドに製造拠点を持ち、全世界に500人の従業員が居たという。10年間は競合製品を製造しないという条件でニーヴ・エレクトロニクスを去ったルパート・ニーヴは妻のエヴリンとともに、ARN CONSULTANTS社を設立。1985年にFOCUSRITEを設立するまでは、コンサルティングや専門学校での指導を行った。
現代において、オールドNEVEとして特別な価値が置かれているのは、ルパート・ニーヴの在籍時に基本設計が行われた1970年代の製品群だ。8088までの80シリーズ・コンソールや、内部がIC化されていく以前のMelbourne、Kelsoなどの小型コンソール、リミッター/コンプレッサーの33609などである。しかし、それらの機材は1970年代においては、特別な価値が置かれていたわけではない。どこのスタジオにもオールドNEVEやそれ系のサウンドを狙った機材があるというような状況は、21世紀になって生まれたものだ。
筆者には『スタジオの音が聴こえる 名盤を生んだスタジオ、コンソール&エンジニア』(2015年)という著書がある。これは主に1970年代のロックやソウルの名盤を生み出したイギリスやアメリカのレコーディング・スタジオについて書いたもので、2009年から数年間続いた雑誌連載が元になっている。
その連載のために、当時のスタジオについてのリサーチを始めたころには、聴き親しんだ1970年代の名盤の多くで、1073や1081を載せたNEVEのコンソールが使われているものと僕も思っていた。ところが、実際はそうではなかった。単行本化するときに書き加えた終章で、僕はこう書いている。
「ヴィレッジ・レコーダーを含めた19のスタジオの内側を調べていく中で、僕がもっとも意外に感じたことは、ニーヴ・コンソールを使っていたスタジオが少なかったことだ」
イギリスではHELIOSやSOUND TECHNIQUES、TRIDENTのコンソールが使われていたし、アメリカではQUAD EIGHT、ELECTRODYNE、SPECTRASONICS、AUDIOTRONICS、API、MCI、HAECOなど、さまざまなメーカーのコンソールが使われていた。この本の中でNEVEコンソールが出てくるのは、ニューヨークのA&Rスタジオとメディアサウンド・スタジオの章くらい。その2つのスタジオが所有したのは8068と8078で、1970年代後半の話になる。
『スタジオの音が聴こえる 名盤を生んだスタジオ、コンソール&エンジニア』
高橋健太郎
(2015年/DU BOOKS)
『ステレオサウンド』誌での連載を元に書籍化。1960〜70年代の名盤を、スタジオという軸で切り取り、機材や録音手法を交え、アーティストとエンジニアの共同作業の成果としての総合芸術=“レコード”の形に迫る
僕は1970年代前半のアメリカン・ミュージックに強く惹かれてきた人間で、それ故ビンテージ機材に興味を持ったのだが、その時代はまだカスタマイズ可能なアメリカン・コンソールが好まれていたのだ。NEVEはその堅牢さや信頼性ゆえに、放送業界ではシェアを伸ばしていたが、インディペンデントなレコーディング・スタジオが購入するには高価過ぎた。24trレコーディングが常識化する1970年代後半になり、多くのスタジオがNEVEの大型コンソール導入に踏み切ったという流れだったようだ。
それ以前のアメリカのレコーディング・スタジオで、最もポピュラーだったのはQUAD EIGHT〜ELECTRODYNEのコンソールだろう。ELECTRODYNEは1940年代から真空管アンプなどを手掛けていたメーカーで、1960年代にそのELECTRODYNEのトランジスター回路を使ったレコーディング・コンソールの制作を始めたのがQUAD EIGHTだった。このコンソールはELECTRODYNE、あるいはSPHEREというブランドでも販売されることもあった。
南カリフォルニアを本拠とするQUAD EIGHTは映画産業との強い結びつきによって、コンソール・メーカーとして急成長した。ワーナー・ブラザーズ、ユニバーサル、20世紀フォックスなどが、そのクライアントとなった。
『スタジオの音が聴こえる』では、ベアズヴィル・スタジオ、ウォリー・ハイダー、シグマ・サウンド、ヴィレッジ・レコーダーの章で、QUAD EIGHT〜ELECTRODYNEのコンソールの話題が登場する。キャピトル、A&M、モータウン、スタックスのスタジオでも、QUAD EIGHT〜ELECTRODYNEのコンソールは使われていたという。ここまでのシェアを誇り、1970年代前半のアメリカン・サウンドを彩ったにもかかわらず、QUAD EIGHT〜ELECTRODYNEの名を知る人は多くはない。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash
Photo:Takashi Yashima