「DSDライブ・ストリーミング」が開く可能性

限りなく原音に近い録音ができることで知られるデジタル・レコーディング・フォーマットDSD(Direct Stream Digital)。昨今のハイレゾ・ブームの中でも最高峰のフォーマットとして注目され、オーディオ・メーカーが競うように対応製品をリリースしているのは皆さんもご存じのことだろう。サウンド&レコーディング・マガジンでも2010年からスタートしたライブ・レコーディング・イベント=Premium Studio LiveでこのDSDフォーマットを採用。高音質で記録した音源をDSDのまま配信して好評を博している。

そんなDSDフォーマットを使った“ライブ・ストリーミング”の公開実験が、さる4月5日(日)、東京・上野で開催中の「東京・春・音楽祭 2015」の協力のもと行われた。インターネットが普及した現在、ライブ・ストリーミング自体は珍しくないが、それをDSDで行うというのは相当にチャレンジングな試みだ。というのもDSDはその音質とトレードオフする形でデータ量が莫大なものになるからだ。弊誌が2010年8月に清水靖晃+渋谷慶一郎『FELT』を世界で初めてDSD配信した際も、“こんな巨大なデータをダウンロードするリスナーがいるのか?”と、他ならぬ自分たちが懐疑的であった。それから約5年がたち、技術革新とネット環境の整備が進み、ついにはストリーミングが可能になったことに驚きを禁じ得ない。

公開実験の総監修を務めたのは、DSDに造詣の深いエンジニアとして知られるオノ・セイゲン氏。氏を中心にKORG、SONYといったDSD関連機器を開発しているメーカー、さらにはインターネット・プロバイダーの草分けであるインターネットイニシアティブ(IIJ)がチームを組む形で行われた。会場となった上野の東京文化会館小ホールにオノ氏がマイクを設置し、その信号をKORGのMR-0808UというDSDワークステーションClarity用に開発されたオーディオI/Oを使ってDSDフォーマットに変換、同じくClarityをベースに開発したDSDストリーミング・ソフトLimeLightを使ってインターネット回線へと送るという流れである。

▲DSDライブ・ストリーミング公開実験のシステム図 ▲DSDライブ・ストリーミング公開実験のシステム図
▲東京文化会館小ホールの録音室に用意されたエンコーディング用のシステム。DPAのマイク6008が拾った音はGRACE DESIGNのプリアンプM801を経由してKORG MR-0808UでDSDに変換された ▲東京文化会館小ホールの録音室に用意されたエンコーディング用のシステム。DPAのマイク4006が拾った音はGRACE DESIGNのプリアンプM801を経由してKORG MR-0808UでDSDに変換された
▲WindowsマシンにインストールされたKORG LimeLightによって、DSDフォーマットの信号がインターネット上にアップロードされていく ▲WindowsマシンにインストールされたKORG LimeLightによって、DSDフォーマットの信号がインターネット上にアップロードされていく

ライブ・ストリーミングの対象に選ばれたのは「東京・春・音楽祭 2015」の名物プログラムとして知られる「東京春祭マラソン・コンサート」。午前11時から夜の20時くらいまで演奏が続けられるもので、今年は“≪古典派≫~ウィーンの音楽家たち”というテーマのもと第I~V部に分けて行われ、そのすべてがDSDでライブ・ストリーミングされたわけだ。筆者は17時からの第IV部「ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」のライブ・ストリーミングを、演奏が行われている東京文化会館小ホールの別室にて体験した。隣の部屋でやっているコンサートをインターネット回線を通じて聴くという、いささか不思議なシチュエーションである。

▲東京文化会館小ホールの別室に仮設された試聴ルーム。KORGの再生ソフトPrimeSeatをインストールしたMac/WindowsにKORG DS-DAC-100とSONY UDA-1を接続。それをSONYのアンプTA-A1ES、スピーカーSS-AR1で鳴らした ▲東京文化会館小ホールの別室に仮設された試聴ルーム。再生用に使われたのはKORGのPrime Seatというソフトで、DSDに対応したプレイヤー・ソフトとして知られるAudio Gateをベースに作られたもの。これをKORGのUSB-DAC DS-DAC-100、SONYのUSB-DACアンプUDA-1それぞれに接続し、SONYのアンプTA-A1ES、スピーカーSS-AR1で鳴らした

まずは2.8MHzのDSDにて、プログラムの1曲目である津田裕也のピアノ・ソロ「ルール・ブリタニアによる5つの変奏曲 ニ長調」を聴く。この日、オノ氏はステージから6mくらい離れた客席の上、高さ7.2mの位置にDPAの無指向性マイク4006を2本吊っており、通常からするとかなり高めの位置なのだが、ステージからのピアノの直接音のみならず、ホール全体の鳴りを見事にとらえていることに驚いた。一方で、プログラムをめくる音や咳など観客が発するノイズまでもがくっきり聴こえるのも気になった。音に没入していくというよりは、ちょっと離れたところからホールの中で発生している音を観察しているような体験である。

続く2曲目は甲斐雅之と神田寛明のフルート・デュオで「フルート二重奏曲(アレグロとメヌエット)ト長調」。演奏者とマイクとの距離が信じられないくらい、それぞれのタンギングのニュアンスやブレスまでもがクリアに聴き取れ、それが実に心地良いリズムを生み出す。正弦波に近い波形を持つフルートは、録音(デジタイズ)するとキツイ音になりがちだが、そのようなことがまったくなく、実に滑らかな音色であった。

そして3曲目、松山冴花のバイオリンと津田裕也のピアノによるザロモン「ロマンス ニ短調」では、5.6MHzのDSDによるストリーミングに切り替えて試聴。それまでの2.8MHzと比べると明らかに解像度が上がっており、ホールの中に自分が投げ込まれたようだ。変な話だが、このモードになると観客の咳が気になるというよりも、自分が咳をしてはいけないという緊迫感に襲われた。ホールの中空に設置されたマイクは、ポジション的には観客の耳からは遠く離れているのだが、ほどよく全体をキャプチャーし、スピーカー前のリスナーにバーチャル・リアリティ的に空間を現出せしめるのだ。

試聴の間にオノ氏が今回の実験意義についてこう話してくれた。

「パッケージ・メディアは、曲順やマスタリングなど、さまざまな処理が施されて初めてリスナーの耳に届く。でも、DSDというフォーマットの魅力を堪能するためには、なるべく信号処理をせずにロー(RAW)データのままの方がいい。そういう意味で今回のライブ・ストリーミングは“何も手を加えない”ということにこだわった手法なんです」

▲DSDストリーミング・ライブの意義について熱く語るエンジニアのオノ・セイゲン氏 ▲DSDストリーミング・ライブの意義について熱く語るエンジニアのオノ・セイゲン氏

“パッケージ・メディアの死”についての意見がかまびすしい昨今、その後継と目されているストリーミングには音質面で触手が動かない方も多いことだろう。正直筆者もそんな1人だ。しかし、DSDストリーミングとなると話は別だということが分かった。こんなに素晴らしい音質で世界中のコンサート・ホールやジャズ・クラブ、ライブハウスからリアル・タイムで音が届けられるのなら、それはきっと我々に新たな音楽体験をもたらしてくれることだろう。

今週末、4月11日(土)のドイツ時間19時(日本時間は深夜)には、公開実験の第二弾としてベルリン・フィル・ハーモニー・ホールからベルリン・フィルのDSDライブ・ストリーミングが行われる予定だ。2009年からハイビジョン&高音質によるストリーミング・サービス「デジタル・コンサートホール」を展開しているベルリン・フィルだけに、この実験の成否によってはDSDでのストリーミングがレギュラー化されるのも夢ではないだろう。KORG、SONYのDACのユーザーはぜひともPrimeSeatをダウンロードし、いち早く自宅をベルリン・フィル・ハーモニー・ホールにしてみてはいかがだろうか。