意外にもNEVEが登場しない1960年代のUKロック・シーン
1960年代後半のブリティッシュ・ロックの興隆と、ロンドンのスタジオ・シーンを見ていくと、サウンド・テクニクス・スタジオやオリンピック・スタジオといったインディペンデント・スタジオから、ミキシング・コンソールのソリッド・ステート化の波が起こったことが分かる。SOUND TECHNIQUESのコンソールや、オリンピック・スタジオのテクニカル・エンジニアだったディック・スウェットナムが立ち上げたHELIOSのコンソールが、アメリカにも輸出されて、ブリティッシュ・コンソールの優秀さを印象づけた。そして、1969年にはアビイ・ロードのEMIスタジオも自社開発のTG12345コンソールを導入し、ビートルズは最後のレコーディング作品となったアルバム『アビイ・ロード』で、そうした流れに追いついた。
ところで、こうしたストーリーを追っていくと、そこにNEVEのコンソールが登場しないことを不可思議に思う読者もいるのではないだろうか。ブリティッシュ・コンソールといえば、誰もが最初に思い浮かべるのはNEVEのそれだ。ビンテージ機材のマーケットでも、NEVEの製品は圧倒的な人気を誇る。1960年代後半のブリティッシュ・ロックの名盤の多くは、NEVEコンソールで制作されていたと思っていた人も少なくないのではないかと思う。
だが、実際にはこのころはまだ、NEVEコンソールは現在のような評判を築いていたわけではなかった。ルパート・ニーヴ率いるNEVE ELECTRONICSは1961年から真空管式のコンソールを作り始めていて、1964年にはソリッド・ステート・コンソールの開発を始めていた。1965年には最初のソリッド・ステート・コンソールをロンドンのフィリップス・スタジオのために製作している。だが、SOUND TECHNIQUESやHELIOSのコンソールに比べると、当時の音楽シーンの中でのNEVEの存在感は薄く、ミュージシャンと絡んだエピソードや、それを象徴する作品はさほど残されていないのだ。
若きルバート・ニーヴが生んだデスモンド・レズリーの真空管ミキサー
現代のレコーディング・ソサエティでは、ルパート・ニーヴの名声を知らぬ者はいないだろう。プロ・オーディオの世界で突出した称賛を浴び続けてきたニーヴは、本誌にも過去、何度も登場している。だが、ここでは音楽史と交差させながら、あらためて、ルパート・ニーヴの足跡をたどってみよう。
ルパート・ニーヴは1926年7月31日にイギリスのニュートンアボットで生まれている。生後3カ月で、宣教師だった父親がアルゼンチンのブエノスアイレスに派遣されたため、そこで育った。早くから電気回路に興味を持ち、12歳のころにはラジオ製作を始め、14歳のころには自作のオーディオ機器を売っていたという。
17歳のときに第2次大戦に従軍するため、イギリスに戻り、陸軍の通信兵となった。戦後はそのまま電気技師としての道を歩み出すが、イギリス社会の厳格さが肌に合わず、ホームシックに陥ったという。規格や常識にとらわれず、音質を追求したルパート・ニーヴの開拓精神は、故郷のアルゼンチンで培われたものだったのだろう。
1940年代後半、ニーヴはデヴォン州のプリマスで、公開の催しでのPAや録音を行って、日銭を稼いでいたという。テープ・レコーダーの普及以前で、78回転のラッカー盤へのディスク・レコーディングだった。エリザベス王女やウィンストン・チャーチルのPA/録音を手掛けたこともあったという。だが、1951年、結婚したのを機にオーディオ・メーカーに就職。REDIFFUSION、FERGUSON RADIOなどで設計を担当した。この時期にトランスの設計に携わったことが、後のNEVEコンソールの成功にもつながっている。
1950年代の後半にはルパート・ニーヴは独立して、コンシューマー・オーディオの会社を興している。CQ AUDIOというこのメーカーは短命に終わったが、当時としては斬新なデザインのスピーカーやプリメイン・アンプをラインナップしていた。とりわけ、プリメイン・アンプは真空管式ながら、コンパクトなボックスに収められていて、1960年代に登場するトラジスター・アンプのルックスを先取りしたものに見える。
1959年、ルパート・ニーヴはデスモンド・レズリーの発注に応えて、小型のミキサーを製作した。これがNEVEコンソールの誕生のきっかけとなる。レズリーは第2次世界大戦中に英国空軍のパイロットとして活躍し、戦後はジョージ・アダムスキーと共同でUFOの研究をして、有名人となった。さらに彼は電子音楽も制作。BBCのレディオフォニックのメンバーに混じって、テレビ番組『ドクター・フー』に音楽を提供してもいる。
レズリーはニーヴにミュージック・コンクレート制作用の4インプット/ステレオ・アウトのミキサーを発注した。4台のテープ・レコーダーのサウンド編集用だったため、マイクプリは含まないライン・ミキサーだった。レズリーが所有していた、現在はホテルになっているアイルランドの古城に、このミキサーは今も保管されている。当時のレズリーの電子音楽作品は『Music Of The Future』という1960年のアルバムに聴くことができる。音楽的な評価はあまり芳しいものではないが、NEVEコンソールが使われた最初の録音作品はこれになるだろう。
NEVE草創期の真空管コンソールでの録音とトランジスターへの転換
ステレオの時代がやってきて、プロ・オーディオ機材へのニーズが高まっていることを実感したルパート・ニーヴは、1961年にNEVE ELECTRONICSを設立する。ケンブリッジシャー州のリトル・シェルフォードという村に拠点を構えたNEVE ELECTRONICSは、同年、ロンドンのレコーデッド・サウンド・スタジオのために10chのコンソールを製作した。これは真空管式のコンソールで、この時点ではニーヴはまだトランジスター回路について、知識や経験を持っていたわけではなかった。
レコーデッド・サウンド・スタジオはエンジニアのレオ・ポリーニが所有したスタジオで、1960年代に相当数のレコーディングを残しているはずだ。残念ながら、この時代の英国盤にスタジオのクレジットがあることは少ないが、ポリーニはNEVEの真空管コンソールを長く愛用したということだから、1960年代後半のレコードでもそれが使われていた可能性はある。1967年にポリーニが録音を手掛けたトミー・ウィットル・カルテットのアルバム『Sax For Dreamers』は、希少なNEVEの真空管コンソールのサウンドが聴ける盤ではないかと目されている。
ニーヴがトランジスター回路の設計を始めたきっかけは、英空軍から依頼された仕事だった。航空機内ではそれまでカーボン式のマイクが使われていたが、ムービング・コイル式のダイナミック・マイクを使って、より明瞭な通信をすることを空軍は望んでいた。カーボン・マイクよりも出力の低いダイナミック・マイクを使う場合には増幅回路が必要になる。振動の多い航空機内では真空管回路よりもトランジスター回路での増幅が好ましい。このニーズに応えるために、ニーヴはトランジスターの研究を始めた。
当時のトランジスターはノイズが多く、オーディオ的なクオリティは真空管に遠く及ばないものだった。だが、TEXAS INSTRUMENTS製のトランジスターは低ノイズで、ネガティブ・フィードバックを多くかけることでさらにSN比を上げられることにニーヴは気づいた。
空軍のマイクロフォン設計に続いて、1964年にニーヴはフィリップス・レコードから開発依頼を受けた。同社のテクニカル・エンジニア、ロン・ゴドウィンが手紙で、スタジオのコンソールに挿入するEQセクションの開発を依頼してきたのだ。ニーヴは送られてきた既存のコンソールの図面を元に、そこへ挿入するカセット・タイプのEQモジュールを設計することになった。
ゲルマニウム・トランジスターを使った3バンドのEQセクションを完成させたニーヴはそれをロンドンのフィリップス・スタジオに納品した。スタジオのエンジニアたちはEQを使って、A/Bの試聴テストを繰り返し、首を傾げることになった。というのは、そのEQを通すだけで、音が良くなっていたからだ。余計な回路を通っているはずなのに、音が良くなっている。ルパート・ニーヴのサウンド・マジックが始まった日だった。
1965年、ニーヴは再びフィリップス・レコードのロン・ゴドウィンから相談を受けた。オランダのPHILIPSに新しいコンソールを発注する計画について、意見を求められたのだ。ニーヴは自分ならPHILIPSの開発費の半分以下の金額で、高性能のコンソールを製作できるとゴドウィンに伝えた。すぐに話はまとまった。
10chと6chのミキサー2台を連結して、16chミキサーとしても使えるようにしたコンソールをNEVEはフィリップス・スタジオのために設計した。ライン・アンプやEQセクションの回路は既に開発済みだったから、ポイントはマイクプリの開発だった。機能的なデザインとメインテナンスを容易にする各部のプラグイン・モジュール化が、NEVE ELECTRONICS初の大型コンソールのポイントだった。
翌1966年にはNEVEはフィリップス・スタジオに20chのミキシング・コンソールも納品した。ゲルマニウム・トランジスターを使ったこの時期のNEVEのマイクプリ/EQモジュールは1053〜1062の品番を持つものだった。心臓部にはどれも同じB100というアンプ・カードが使われていた。当時のフィリップス・レコードでは、1963年にソロ・デビューしたダスティ・スプリングフィールドがヒット曲を連発しているが、この時期の彼女の録音はNEVEのEQに彩られていると考えて間違いない。
黒い初期NEVEコンソールで録音された『クリムゾン・キングの宮殿』
この第1世代のNEVEのソリッド・ステート・コンソールのカラーリングは黒だった。フィリップス・スタジオに続いて、黒いNEVEコンソールを導入したスタジオには、ロンドンのチャペル・スタジオがある。1057モジュールを使った20インプット/4アウトのそのNEVEコンソールは、実はビートルズのレコーディングに使われている。
1967年7月、まずはポール・マッカートニーがチャペル・スタジオを訪れた。マッカートニーはブリティッシュ・ジャズ・シーンの重鎮、クリス・バーバーのグループに曲を提供した。その「Cat Call」という曲の録音が、チャペル・スタジオで行われたのだ。レコーディングには、ポールもコーラス隊の一員として参加した。
続いて、同年8月22、23日にはジョージ・マーティンとビートルズがチャペル・スタジオにやってきて、テレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』の挿入曲となる「ユア・マザー・シュッド・ノウ」をレコーディングした。どちらのセッションもエンジニアはジョン・ティムパーリーが務めた。
黒いNEVEコンソールはロンドンのハイバリー・パークにあるウェセックス・スタジオにも導入された。1053モジュールを使った18chのデスクは、フィリップス・スタジオのために製作されたそれに近いが、2251リミッター・モジュールも内蔵していた。19世紀に建てられた教会を改造したこのウェセックス・スタジオでは、1969年にビッグ・アルバムが産み落とされている。キング・クリムゾンのデビュー・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』だ。
ロバート・フリップ(g)、イアン・マクドナルド(k、woodwinds、vo)、マイケル・ジャイルズ(ds、vo)、グレッグ・レイク(b、vo)にピート・シンフィールド(lyrics)を加えた5人編成のキング・クリムゾンは、同年初めにムーディー・ブルーズのプロデューサーだったトニー・クラークとともに、ロンドンのウィルスデンにあるモーガン・スタジオでレコーディングを開始したが、クラークのやり方では自分たちのアルバムは作れないと判断して彼を解雇。ウェセックス・スタジオに場所を移し、セルフ・プロデュースで、デビュー・アルバムを完成させた。
ウェセックス・スタジオにはAMPEX AG-440 8trレコーダーがあり、18chの1053モジュールを備えたNEVEコンソールも8tr用に改造されていた。エンジニアリングはハウス・エンジニアのロビン・トンプソンで、レコーディングは7月から8月にかけての15日間で終了した。アルバムが発売されたのは10月10日。ザ・ビートルズの『アビイ・ロード』の2週間後だった。
『クリムゾン・キングの宮殿』は全英チャートで最高位5位まで昇った。全米チャートでは最高位28位だったが、50万枚以上を売り上げて、ゴールドディスクを獲得した。しかし、プログレッシヴ・ロックの金字塔として名高いこのアルバムが、NEVEの第1世代のソリッド・ステート・コンソールで制作されたことは、意外に知られていないだろう。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash
Photo:Takashi Yashima