ルパート・ニーヴのコンソールが1960年代に名声を得ていく過程【Vol.108】音楽と録音の歴史ものがたり

意外にもNEVEが登場しない1960年代のUKロック・シーン

 1960年代後半のブリティッシュ・ロックの興隆と、ロンドンのスタジオ・シーンを見ていくと、サウンド・テクニクス・スタジオやオリンピック・スタジオといったインディペンデント・スタジオから、ミキシング・コンソールのソリッド・ステート化の波が起こったことが分かる。SOUND TECHNIQUESのコンソールや、オリンピック・スタジオのテクニカル・エンジニアだったディック・スウェットナムが立ち上げたHELIOSのコンソールが、アメリカにも輸出されて、ブリティッシュ・コンソールの優秀さを印象づけた。そして、1969年にはアビイ・ロードのEMIスタジオも自社開発のTG12345コンソールを導入し、ビートルズは最後のレコーディング作品となったアルバム『アビイ・ロード』で、そうした流れに追いついた。

 ところで、こうしたストーリーを追っていくと、そこにNEVEのコンソールが登場しないことを不可思議に思う読者もいるのではないだろうか。ブリティッシュ・コンソールといえば、誰もが最初に思い浮かべるのはNEVEのそれだ。ビンテージ機材のマーケットでも、NEVEの製品は圧倒的な人気を誇る。1960年代後半のブリティッシュ・ロックの名盤の多くは、NEVEコンソールで制作されていたと思っていた人も少なくないのではないかと思う。

 だが、実際にはこのころはまだ、NEVEコンソールは現在のような評判を築いていたわけではなかった。ルパート・ニーヴ率いるNEVE ELECTRONICSは1961年から真空管式のコンソールを作り始めていて、1964年にはソリッド・ステート・コンソールの開発を始めていた。1965年には最初のソリッド・ステート・コンソールをロンドンのフィリップス・スタジオのために製作している。だが、SOUND TECHNIQUESやHELIOSのコンソールに比べると、当時の音楽シーンの中でのNEVEの存在感は薄く、ミュージシャンと絡んだエピソードや、それを象徴する作品はさほど残されていないのだ。

ルパート・ニーヴ(1926〜2021年)。NEVE、FOCUSRITE、AMEK、そしてRUPERT NEVE DESIGNで数々の名機を生み出してきたことで知られる。写真は本誌2007年10月号、設立間もないRUPERT NEVE DESIGNSの現地取材時に撮影

ルパート・ニーヴ(1926〜2021年)。NEVE、FOCUSRITE、AMEK、そしてRUPERT NEVE DESIGNで数々の名機を生み出してきたことで知られる。写真は本誌2007年10月号、設立間もないRUPERT NEVE DESIGNSの現地取材時に撮影

若きルバート・ニーヴが生んだデスモンド・レズリーの真空管ミキサー

 現代のレコーディング・ソサエティでは、ルパート・ニーヴの名声を知らぬ者はいないだろう。プロ・オーディオの世界で突出した称賛を浴び続けてきたニーヴは、本誌にも過去、何度も登場している。だが、ここでは音楽史と交差させながら、あらためて、ルパート・ニーヴの足跡をたどってみよう。

 ルパート・ニーヴは1926年7月31日にイギリスのニュートンアボットで生まれている。生後3カ月で、宣教師だった父親がアルゼンチンのブエノスアイレスに派遣されたため、そこで育った。早くから電気回路に興味を持ち、12歳のころにはラジオ製作を始め、14歳のころには自作のオーディオ機器を売っていたという。

 17歳のときに第2次大戦に従軍するため、イギリスに戻り、陸軍の通信兵となった。戦後はそのまま電気技師としての道を歩み出すが、イギリス社会の厳格さが肌に合わず、ホームシックに陥ったという。規格や常識にとらわれず、音質を追求したルパート・ニーヴの開拓精神は、故郷のアルゼンチンで培われたものだったのだろう。

 1940年代後半、ニーヴはデヴォン州のプリマスで、公開の催しでのPAや録音を行って、日銭を稼いでいたという。テープ・レコーダーの普及以前で、78回転のラッカー盤へのディスク・レコーディングだった。エリザベス王女やウィンストン・チャーチルのPA/録音を手掛けたこともあったという。だが、1951年、結婚したのを機にオーディオ・メーカーに就職。REDIFFUSION、FERGUSON RADIOなどで設計を担当した。この時期にトランスの設計に携わったことが、後のNEVEコンソールの成功にもつながっている。

 1950年代の後半にはルパート・ニーヴは独立して、コンシューマー・オーディオの会社を興している。CQ AUDIOというこのメーカーは短命に終わったが、当時としては斬新なデザインのスピーカーやプリメイン・アンプをラインナップしていた。とりわけ、プリメイン・アンプは真空管式ながら、コンパクトなボックスに収められていて、1960年代に登場するトラジスター・アンプのルックスを先取りしたものに見える。

1957年設立のCQ AUDIO時代のプリメイン・アンプ。会社自体はニーヴ氏が妻エヴリンと設立したもので、長く続けることはできなかったそう

1957年設立のCQ AUDIO時代のプリメイン・アンプ。会社自体はニーヴ氏が妻エヴリンと設立したもので、長く続けることはできなかったそう

 1959年、ルパート・ニーヴはデスモンド・レズリーの発注に応えて、小型のミキサーを製作した。これがNEVEコンソールの誕生のきっかけとなる。レズリーは第2次世界大戦中に英国空軍のパイロットとして活躍し、戦後はジョージ・アダムスキーと共同でUFOの研究をして、有名人となった。さらに彼は電子音楽も制作。BBCのレディオフォニックのメンバーに混じって、テレビ番組『ドクター・フー』に音楽を提供してもいる。

デスモンド・レズリー(1921〜2001年)は、UFOに関するものを中心とした著作や映画/テレビの脚本/演出、電子音楽制作などを手掛けた人物。レズリー家は1060年代までさかのぼることができる家柄で、アイルランドに古城を所有していた。デスモンドはそこをゴルフ・コースを備えたホテル&ナイトクラブとして営業開始。2004年には、ポール・マッカートニーと前妻ヘザー・ミルズの結婚式もこのレズリー城で行われた

デスモンド・レズリー(1921〜2001年)は、UFOに関するものを中心とした著作や映画/テレビの脚本/演出、電子音楽制作などを手掛けた人物。レズリー家は1060年代までさかのぼることができる家柄で、アイルランドに古城を所有していた。デスモンドはそこをゴルフ・コースを備えたホテル&ナイトクラブとして営業開始。2004年には、ポール・マッカートニーと前妻ヘザー・ミルズの結婚式もこのレズリー城で行われた

 レズリーはニーヴにミュージック・コンクレート制作用の4インプット/ステレオ・アウトのミキサーを発注した。4台のテープ・レコーダーのサウンド編集用だったため、マイクプリは含まないライン・ミキサーだった。レズリーが所有していた、現在はホテルになっているアイルランドの古城に、このミキサーは今も保管されている。当時のレズリーの電子音楽作品は『Music Of The Future』という1960年のアルバムに聴くことができる。音楽的な評価はあまり芳しいものではないが、NEVEコンソールが使われた最初の録音作品はこれになるだろう。

レズリー城に展示されているルパート・ニーヴ製作の4ch真空管ミキサー

レズリー城に展示されているルパート・ニーヴ製作の4ch真空管ミキサー
Photo:Patrick Delany
http://postfade.co.uk/early-rupert-neve-consoles-and-their-stories-part-one-1959-1962-the-valve-mixers/
『Music of The Future』
Desmond Leslie
(1960年/Musique Concrete)
ジャケットは2005年、Trunk Recordsによる再発のもの。自作の映画やテレビ作品のテーマ曲を中心に収録したミュージック・コンクレート作品で、ピアノと思われる弦をかき鳴らす音や自動車のホーンなどを編集している

NEVE草創期の真空管コンソールでの録音とトランジスターへの転換

 ステレオの時代がやってきて、プロ・オーディオ機材へのニーズが高まっていることを実感したルパート・ニーヴは、1961年にNEVE ELECTRONICSを設立する。ケンブリッジシャー州のリトル・シェルフォードという村に拠点を構えたNEVE ELECTRONICSは、同年、ロンドンのレコーデッド・サウンド・スタジオのために10chのコンソールを製作した。これは真空管式のコンソールで、この時点ではニーヴはまだトランジスター回路について、知識や経験を持っていたわけではなかった。

レコーデッド・サウンド・スタジオにNEVEが納入した10chの真空管コンソール。現在はAMS NEVE本社に置かれている

レコーデッド・サウンド・スタジオにNEVEが納入した10chの真空管コンソール。現在はAMS NEVE本社に置かれている
https://www.ams-neve.com/consoles/history-of-1073/

 レコーデッド・サウンド・スタジオはエンジニアのレオ・ポリーニが所有したスタジオで、1960年代に相当数のレコーディングを残しているはずだ。残念ながら、この時代の英国盤にスタジオのクレジットがあることは少ないが、ポリーニはNEVEの真空管コンソールを長く愛用したということだから、1960年代後半のレコードでもそれが使われていた可能性はある。1967年にポリーニが録音を手掛けたトミー・ウィットル・カルテットのアルバム『Sax For Dreamers』は、希少なNEVEの真空管コンソールのサウンドが聴ける盤ではないかと目されている。

『Sax For Dreamers』 Tommy Whittle Quartet (1967 年/ Masquerade Records) トミー・ウィットル(1926〜2013 年)はスコットランド出身のジャズ・サックス奏者。NEVE 真空管コンソールで録られたと目される本作は、スタンダード・バラードを集めたアルバムで、柔らかく落ち着いたトーンが魅力

『Sax For Dreamers』
Tommy Whittle Quartet
(1967 年/ Masquerade Records)
トミー・ウィットル(1926〜2013 年)はスコットランド出身のジャズ・サックス奏者。NEVE 真空管コンソールで録られたと目される本作は、スタンダード・バラードを集めたアルバムで、柔らかく落ち着いたトーンが魅力

 ニーヴがトランジスター回路の設計を始めたきっかけは、英空軍から依頼された仕事だった。航空機内ではそれまでカーボン式のマイクが使われていたが、ムービング・コイル式のダイナミック・マイクを使って、より明瞭な通信をすることを空軍は望んでいた。カーボン・マイクよりも出力の低いダイナミック・マイクを使う場合には増幅回路が必要になる。振動の多い航空機内では真空管回路よりもトランジスター回路での増幅が好ましい。このニーズに応えるために、ニーヴはトランジスターの研究を始めた。

 当時のトランジスターはノイズが多く、オーディオ的なクオリティは真空管に遠く及ばないものだった。だが、TEXAS INSTRUMENTS製のトランジスターは低ノイズで、ネガティブ・フィードバックを多くかけることでさらにSN比を上げられることにニーヴは気づいた。

 空軍のマイクロフォン設計に続いて、1964年にニーヴはフィリップス・レコードから開発依頼を受けた。同社のテクニカル・エンジニア、ロン・ゴドウィンが手紙で、スタジオのコンソールに挿入するEQセクションの開発を依頼してきたのだ。ニーヴは送られてきた既存のコンソールの図面を元に、そこへ挿入するカセット・タイプのEQモジュールを設計することになった。

フィリップス・レコードのロン・ゴドウィンがニーヴに宛てたEQモジュール製作依頼の手紙(1964年3月13日付)

フィリップス・レコードのロン・ゴドウィンがニーヴに宛てたEQモジュール製作依頼の手紙(1964年3月13日付)
http://postfade.co.uk/early-rupert-neve-consoles-and-their-stories-part-two-1962-1968-a-revolution-has-occurred/

 ゲルマニウム・トランジスターを使った3バンドのEQセクションを完成させたニーヴはそれをロンドンのフィリップス・スタジオに納品した。スタジオのエンジニアたちはEQを使って、A/Bの試聴テストを繰り返し、首を傾げることになった。というのは、そのEQを通すだけで、音が良くなっていたからだ。余計な回路を通っているはずなのに、音が良くなっている。ルパート・ニーヴのサウンド・マジックが始まった日だった。

 1965年、ニーヴは再びフィリップス・レコードのロン・ゴドウィンから相談を受けた。オランダのPHILIPSに新しいコンソールを発注する計画について、意見を求められたのだ。ニーヴは自分ならPHILIPSの開発費の半分以下の金額で、高性能のコンソールを製作できるとゴドウィンに伝えた。すぐに話はまとまった。

 10chと6chのミキサー2台を連結して、16chミキサーとしても使えるようにしたコンソールをNEVEはフィリップス・スタジオのために設計した。ライン・アンプやEQセクションの回路は既に開発済みだったから、ポイントはマイクプリの開発だった。機能的なデザインとメインテナンスを容易にする各部のプラグイン・モジュール化が、NEVE ELECTRONICS初の大型コンソールのポイントだった。

フィリップス・スタジオに納入されたトランジスター・コンソール。左が6イン/ステレオ・アウト、右が10イン/3chアウトで、組み合わせて16chで使用できる

フィリップス・スタジオに納入されたトランジスター・コンソール。左が6イン/ステレオ・アウト、右が10イン/3chアウトで、組み合わせて16chで使用できる
https://rupertneve.com/history

 翌1966年にはNEVEはフィリップス・スタジオに20chのミキシング・コンソールも納品した。ゲルマニウム・トランジスターを使ったこの時期のNEVEのマイクプリ/EQモジュールは1053〜1062の品番を持つものだった。心臓部にはどれも同じB100というアンプ・カードが使われていた。当時のフィリップス・レコードでは、1963年にソロ・デビューしたダスティ・スプリングフィールドがヒット曲を連発しているが、この時期の彼女の録音はNEVEのEQに彩られていると考えて間違いない。

1フレームに10chが収まる20ch仕様のNEVEコンソール

1フレームに10chが収まる20ch仕様のNEVEコンソール
http://postfade.co.uk/early-rupert-neve-consoles-and-their-stories-part-two-1962-1968-a-revolution-has-occurred/

プリアンプ+3バンドEQで構成された1053モジュール。アンプ・ゲインや周波数切替のノブはオリジナルのベークライト製。マイク・ゲインが最大80dBもあることがパネルから読み取れる

プリアンプ+3バンドEQで構成された1053モジュール。アンプ・ゲインや周波数切替のノブはオリジナルのベークライト製。マイク・ゲインが最大80dBもあることがパネルから読み取れる
http://postfade.co.uk/early-rupert-neve-consoles-and-their-stories-part-two-1962-1968-a-revolution-has-occurred/
『20th Century Masters - The Millennium Collection: The Best of Dusty Springfield』
Dusty Springfield
(1999年/ユニバーサル)
1966年の「この胸のときめきを」のほか、「恋の面影」「プリーチャー・マン」など多くのヒットを放ったソウル・シンガーのベスト

黒い初期NEVEコンソールで録音された『クリムゾン・キングの宮殿』

 この第1世代のNEVEのソリッド・ステート・コンソールのカラーリングは黒だった。フィリップス・スタジオに続いて、黒いNEVEコンソールを導入したスタジオには、ロンドンのチャペル・スタジオがある。1057モジュールを使った20インプット/4アウトのそのNEVEコンソールは、実はビートルズのレコーディングに使われている。

チャペル・スタジオの20chNEVEコンソール

チャペル・スタジオの20chNEVEコンソール
http://postfade.co.uk/early-rupert-neve-consoles-and-their-stories-part-three-1967-1968-more-little-shelford-neves/

 1967年7月、まずはポール・マッカートニーがチャペル・スタジオを訪れた。マッカートニーはブリティッシュ・ジャズ・シーンの重鎮、クリス・バーバーのグループに曲を提供した。その「Cat Call」という曲の録音が、チャペル・スタジオで行われたのだ。レコーディングには、ポールもコーラス隊の一員として参加した。

 続いて、同年8月22、23日にはジョージ・マーティンとビートルズがチャペル・スタジオにやってきて、テレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』の挿入曲となる「ユア・マザー・シュッド・ノウ」をレコーディングした。どちらのセッションもエンジニアはジョン・ティムパーリーが務めた。

『Magical Mystery Tour』
The Beatles
(1967年/Parlophone)
イギリスではEP2枚組でリリースされた同名テレビ映画のサントラに、アメリカで既発シングル曲を加えてLP化。現在もこのスタイルのリリースでの再発が定着し、最新リイシューは2009年のリマスターがユニバーサルからリリース

 黒いNEVEコンソールはロンドンのハイバリー・パークにあるウェセックス・スタジオにも導入された。1053モジュールを使った18chのデスクは、フィリップス・スタジオのために製作されたそれに近いが、2251リミッター・モジュールも内蔵していた。19世紀に建てられた教会を改造したこのウェセックス・スタジオでは、1969年にビッグ・アルバムが産み落とされている。キング・クリムゾンのデビュー・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』だ。

ウェセックス・スタジオのNEVEコンソール。左上のメーター部に2251リミッターが3基インストールされている

ウェセックス・スタジオのNEVEコンソール。左上のメーター部に2251リミッターが3基インストールされている
http://postfade.co.uk/early-rupert-neve-consoles-and-their-stories-part-two-1962-1968-a-revolution-has-occurred/

 ロバート・フリップ(g)、イアン・マクドナルド(k、woodwinds、vo)、マイケル・ジャイルズ(ds、vo)、グレッグ・レイク(b、vo)にピート・シンフィールド(lyrics)を加えた5人編成のキング・クリムゾンは、同年初めにムーディー・ブルーズのプロデューサーだったトニー・クラークとともに、ロンドンのウィルスデンにあるモーガン・スタジオでレコーディングを開始したが、クラークのやり方では自分たちのアルバムは作れないと判断して彼を解雇。ウェセックス・スタジオに場所を移し、セルフ・プロデュースで、デビュー・アルバムを完成させた。

『In The Court Of Crimson King』
King Crimson
(1969年/Island)
ジャズやクラシックの要素を巧みに取り入れた、プログレッシブ・ロック草創期の金字塔。表題曲や「21世紀のスキッツォイド・マン」「エピタフ」などを収録。2019年のスティーヴン・ウイルソン・ステレオ・ミックスがユニバーサルからSHM-CDで発売中

 ウェセックス・スタジオにはAMPEX AG-440 8trレコーダーがあり、18chの1053モジュールを備えたNEVEコンソールも8tr用に改造されていた。エンジニアリングはハウス・エンジニアのロビン・トンプソンで、レコーディングは7月から8月にかけての15日間で終了した。アルバムが発売されたのは10月10日。ザ・ビートルズの『アビイ・ロード』の2週間後だった。

 『クリムゾン・キングの宮殿』は全英チャートで最高位5位まで昇った。全米チャートでは最高位28位だったが、50万枚以上を売り上げて、ゴールドディスクを獲得した。しかし、プログレッシヴ・ロックの金字塔として名高いこのアルバムが、NEVEの第1世代のソリッド・ステート・コンソールで制作されたことは、意外に知られていないだろう。

 

高橋健太郎

高橋健太郎

音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash

Photo:Takashi Yashima

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