2年前に編集部から声をかけてもらい、染谷和孝さんの一言がきっかけとなって引き受けた連載も今回で最後になります。2019年、スタジオの改装を決意し、会社を立ち上げ、借金をし、無謀にもスタジオ施工会社を通さずに始めたDolby Atmosスタジオは、2年の歳月を経てなんとか形になりました。まだ世界に情報が少ない中、ただただ自分が新しい技術を探求したいからという軽い気持ちで始めたので、このスタジオの詳細な設計図は存在しません。正直、同じことをまたやれと言われたら、二度とやりたくないです。でもその過程の中から、普通なら経験できないことを学べました。やってよかったと心の底から思えます。
Dolby Atmosアルバム・マスタリングの注意点
先日、Adoのアルバム『狂言』(Dolby Atmosミックス)、Michael Kanekoのミニ・アルバム『The Neighborhood』(Dolby Atmosマスタリング)、ベルマインツ『笑ってほしいよ』(録音/ミックス/マスタリング)、和ぬか『青二才』の4曲(Dolby Atmosミックスのスタジオ貸し出し)という4タイトルが同日に配信されました。ありがたいことにどれもApple Musicの空間オーディオ:J-Popプレイリストに取り上げてもらっています。
でも一番うれしかったのは、初めて全曲がノートラブルで、メーカー・チェックも一発OKだったことです。昨年6月、Apple Musicの空間オーディオが始まってOfficial髭男dismの作品に携わらせてもらって以来、手探りの中、数多のバグに悩まされてきました。日本のレーベル側も納品形態が定まっていないところが多く、そのたびに、P's Studioの村上智広さん、ポニーキャニオンマスタリングの多田雄太さんたちと、その問題に立ち向かっていきました。特にDolby Atmosのアルバム・マスタリングは細心の注意が必要で、一歩間違えたら、ミックス・エンジニアの作ったオブジェクトのパン情報とオートメーション、バイノーラル情報を、すべて一発で消してしまう危険性があります。そしてそれを気づかずに配信できてしまいます。そんな危険があるので、僕らは、絶対に一人で作業をしないようにして、ダブル・チェックを徹底し、トラブルを未然に防ぐ仕組みを作りました。そこまでやっていても、提供されたステレオ音源の長さが実は違っていたとか、チェック用MP4にだけノイズが乗るとか、ADM BWFからMP4を書き出せないとか、予期せぬことがたくさん起こりました。
シングル曲だと一曲なので簡単なのですが、アルバムは本当に危険だということを痛感しています。そんな中、今回の4作品が無事リリースできたことを本当にうれしく思います。
またP's Studioの近藤貴春さんとも日々いろいろとトライしています。昨年12月、NeSTREAM LIVEというアプリが発表されました。これは何が優れているかというと、スマートフォンでリアルタイムにDolby Atmosライブ配信をAPPLE AirPodsやDolby Atmos対応Android携帯などで聴くことができるのです。今までのサービスではスマホにはステレオ音声しか送れず、Dolby Atmosを聴くにはApple TVやFire TVにAVアンプ、そして多数のスピーカーが必要だったのですが、NeSTREAM LIVEはダイレクトにスマホからアプリを介してヘッドフォンにも飛ばせるし、スピーカーを持っている人はそちらにも展開できます。先日あるライブ会場でTACTの5.1.4ch中継車R4と組み合わせてテストをやりました。近い将来、こうした生配信も必ず実現できると思います。
現在もNeSTREAM LIVEで無料/有料のTVOD(レンタル型)が始まっています。僕が第27回日本プロ音楽録音賞Immersive部門で優秀賞をいただいた、日本を代表するオペラ歌手による「僕らのミニコンサート」シリーズも聴くことができますので、ぜひチェックしてみてください。
直近の仕事では、サウンド・スクリーンを設置した後、今年公開の映画の劇伴を無事仕上げることができました。松竹映像センターのダビングステージでの作業も円滑にいったので、公開を楽しみにしています。
地方にもイマーシブで聴ける環境を2部屋目のイマーシブ化も決意
ちょっと宣伝っぽくなってしまいましたが、今後の展望を書いていこうと思います。まず、今のシステムで映像と音のシンクを取り直すこと。サウンド・スクリーンが入った際のL/C/Rのスピーカー調整の追い込みをしたいです。そして360 Reality Audioのボトム・スピーカーの再調整。しかし、AUDIO FUTURES 360 WalkMix Creatorと僕のシステムとの相性が悪く、いまだに最新のバージョンできちんと動作しません。今度の改善に期待です。
次にトップ・スピーカーを6chにしようと思います。やはり映画館のことや、7.1.2chのベッド・チャンネルの性質上、ファンタム定位ではなくハード定位でトップに音が定位した方がよいという考えです。
あとは、作品を作るだけでなく気軽に体験できる場所や機会を増やしたいと思っています。なので、富山県のどこかにDolby Atmosが体験できる場所を準備中です。機材はほぼそろったので、あとは工事に着手です。なぜ福岡出身の僕が富山かというと、偶然訪れた際に、ご飯とお酒がおいしかったからです(笑)。
東京は一歩足を運べばDolby Atmosの映画館があります。でも富山には一軒もありません。これは鹿児島にDolby Atmosスタジオを先駆けて作った大久保重樹さんから身をもって学んだことですが、まずは気軽にスピーカーで聴いてもらうこと、それを実践しようと思います。ビジネス的なことは相変わらず考えていません(笑)。同志三人でお金を出し合ってるのですが、まぁなんとかなるでしょう。まずは実行することが大切だと思っています。
文字数も残り少なくなってきました。毎月毎月、今回は何を書こう?と悩んでたのもこれで終わりかと思うと、少し寂しいですね。でも次の目標が決まりました。
僕のスタジオのもう一部屋も解体して作り直そうと思います。8畳ほどしかないですが、Dolby Atmosと360 Reality Audioができて、録音ブース機能を持った部屋にします。コンセプトをずっと悩んでいたのですが、今回、音楽特化型のDolby Atmosスタジオを作るにあたり本当にたくさんの人にアドバイスをもらいました。特に映像業界の方に助けられました。そんな映画/映像周りのエンジニアと音楽エンジニアの架け橋になれるような、若い層が作曲で気軽に使えるようなレンタル・スタジオにしようと思います。来年の夏ごろ完成目指して、これから準備を始めます。連載は終わりますが、何かしらの形で、その様子を発信していきたいと思っています。
約2年間、本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。かかわってくださった方にたくさんの感謝を込めて。
古賀健一
【Profile】レコーディング・エンジニア。青葉台スタジオに入社後、フリーランスとして独立。2014年Xylomania Studioを設立。これまでにチャットモンチー、ASIAN KUNG-FU GENERATION、Official髭男dism、ichikoro、D.W.ニコルズなどの作品に携わる。また、商業スタジオやミュージシャンのプライベート・スタジオの音響アドバイスも手掛ける。
Photo:Hiroshi Hatano