井上鑑『TOKYO SPATIAL INSTALLATION』× 片倉麻美子 〜今月の360 Reality Audio【Vol.5】

井上鑑『TOKYO SPATIAL INSTALLATION』× 片倉麻美子 〜今月の360 Reality Audio【Vol.5】

ソニーの360 Reality Audio(サンロクマル・リアリティオーディオ)は、360立体音響技術を使用した新しい音楽体験で、全方位から音に包み込まれるようなリスニング体験をもたらす。今回は、井上鑑の『TOKYO INSTALLATION』(1986年)を360 Reality Audio用に再構築/ミックスした『TOKYO SPATIAL INSTALLATION』をピックアップ。オリジナル版の制作や、シンセも新録した360 Reality Audioの制作手法を、井上のプライベート・スタジオPABLO WORKSHOPで、井上とエンジニア片倉麻美子氏に尋ねた。

Photo:Hiroki Obara 取材協力:ソニー

今月の360 Reality Audio:井上鑑『TOKYO SPATIAL INSTALLATION』

井上鑑『TOKYO SPATIAL INSTALLATION』(ソニー・ミュージックレーベルズ)

井上鑑『TOKYO SPATIAL INSTALLATION』(ソニー・ミュージックレーベルズ)

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※360 Reality Audio版はスマートフォンで試聴可能です

井上鑑『TOKYO SPATIAL INSTALLATION』トーク

 配信日に開催した、井上鑑×片倉麻美子トークイベントの模様を動画でご覧いただけます。

PCM-3324で録音したマルチデータを使えた

 1986年に発売された『TOKYO INSTALLATION』は、今年CDで再発。作品が生まれた当時を井上が振り返る。

 「箏の演奏家やドラムの山木秀夫さんと実験的なコンサートを多くやっていた時期で、それを見た尾崎豊さんのディレクターの須藤晃さんが“何かやりましょう”と声をかけてくれて『TOKYO INSTALLATION』が始まったんです。箏とポップスやプログレッシブ・ロックをつなげてみようというコンセプトでした。録音がアナログからデジタルに移行するタイミングで、新しい試みが多かった大事な作品です」

 長年にわたり立体音響への関心を抱き続けている井上。360 Reality Audioのデモ曲「Total Immersion」の制作を手掛けるなど、360 Reality Audioとのつながりも深い。

 「学生時代からいろいろな音場を実験的に使う作品を知り、サラウンド的なイベントにも挑戦してきて立体音響には興味があったので、自分の作品で360 Reality Audioを取り入れることは何の違和感も無かったです。ヘッドホンとスマートフォンで楽しめる幅の広さが新しいと思いました」

 さらに360 Reality Audioの『TOKYO SPATIAL INSTALLATION』の登場を後押ししたのは、ロンドンで収録した『TOKYO INSTALLATION』の録音状態の良さだった。

 「ソニーPCM-3324を使った初の海外録音で、ロンドンの旬なスタッフやスタジオを使えたんです。しかもありがたいことに24トラックのマルチデータがアーカイブされていて単体で音を使える状況だったので、“360 Reality Audioにしたら面白いんじゃないか”ということになりました。マルチを聴き直したら、ぴったりだなって。ちゃんとアイソレーションが取れているし、いろいろな形でアナログ・パスを通っていて、それぞれの音にキャラクターがある。当時のエンジニアのジョン・ケリーと田中信一さんによる匠の技で一個一個の音がすごく良くて。何曲かやってみようと始まりましたが、結局全曲を360 Reality Audioにすることになりました」

発想としては“画の無い映画音楽”みたいな感じ

 井上は360 Reality Audioミックスの特徴を、ステレオ・ミックスとの違いに触れながらこう話す。

 「ステレオ・ミックスのような感覚でバランスを取るだけだとポジティブな作品になりにくいので、取捨選択が必要です。思い切って引き算もしないと効果的にならないんじゃないかな。発想としては“画の無い映画音楽”みたいな感じです。ヘッドホンをして歩きながら、好きな道や初めて行く街の景色が聴き手それぞれの短編映画みたいに感じられる音楽になったらいいなと。箏のソロも、L/Rだとソロになるだけですけど、360 Reality Audioでは“狭い道を曲がったら、いきなり海が見えた”みたいな感じになっていると思います」

 『TOKYO SPATIAL INSTALLATION』の360 Reality Audioミックスを手掛けた片倉麻美子氏が井上との作業を語る。

 「ミックス前に鑑さんが360 Reality Audioに適した再構築をしてくださったんです。ミックスに関しても“2ミックスのイメージを崩さないで”とは一切言われず、“これは360 Reality Audio用だから”と言っていただいたので楽しく割り切ってできました。再構築したことで360 Reality Audioのストーリーが始まるんです。例えば、箏は特徴的なフレーズがオブジェクトの動かし方を教えてくれるような感覚で、球体のキャンバスの中に置くとおのずと広がって聴こえました」

 その再構築の作業の詳細を井上に尋ねてみよう。

 「AVID Pro Toolsでセッションを細かく刻んで、使う部分と使わない部分を分けました。曲によっては定位の情報が分かりやすくなるように展開を後ろから前に持ってきて大幅に変えたり、ダビングもたくさんしています。もともと僕はアレンジャーなので“どこが完成か”に対するこだわりが薄く、幾らでもああしてみよう、こうしてみようとできちゃうんです」

 ダビングではPPG Wave 2.2やMOOG Moog Oneなどのシンセサイザーやグランド・ピアノを追加したという。

 「足りないものを入れたのでなく、こういうのを加えてみたいとアイディアが浮かんだんです。当時と今の目線は違うので、当時は一生懸命頑張ってこうなったんですけど、今見ると構成や自由度の部分で“もっとこうできる”と感じました」

井上の所有するシンセ類。『TOKYO SPATIAL INSTALLATION』のダビング作業では、ラック最下段のMOOG Moog Oneや右手のPPG Wave 2.2を中心に使用したという。Wave 2.2を「デジタル・ノイズが高域で定在しているのですが、その雑味が存在感になっています」と評価する井上。Moog Oneは「ベース・ラインのダビングなどに使っていて、存在感や低域のパワーなど全部好きですね。アナログな感じでエディットできるし、エフェクトの精度が高いです」と語る

井上の所有するシンセ類。『TOKYO SPATIAL INSTALLATION』のダビング作業では、ラック最下段のMOOG Moog Oneや右手のPPG Wave 2.2を中心に使用したという。Wave 2.2を「デジタル・ノイズが高域で定在しているのですが、その雑味が存在感になっています」と評価する井上。Moog Oneは「ベース・ラインのダビングなどに使っていて、存在感や低域のパワーなど全部好きですね。アナログな感じでエディットできるし、エフェクトの精度が高いです」と語る

生ピアノのダビングには、YAMAHAのMIDIグランド・ピアノが使われた。PABLO WORKSHOPの作業スペースは先述のシンセ・ラックが置かれたスペースよりピアノ設置場所の天井が高く吹き抜けになっており、より響きが広がるという

生ピアノのダビングには、YAMAHAのMIDIグランド・ピアノが使われた。PABLO WORKSHOPの作業スペースは先述のシンセ・ラックが置かれたスペースよりピアノ設置場所の天井が高く吹き抜けになっており、より響きが広がるという

ダビングやエディットなど再構築の作業にはAVID Pro Toolsを使用。井上はセクションの中から使用する部分を選別し、定位が分かりやすいように展開を調整。「大胆な編集作業が面白かったです」と振り返る。シンセ類は基本的にYAMAHA Montage 8でMIDIを駆使して演奏したという

ダビングやエディットなど再構築の作業にはAVID Pro Toolsを使用。井上はセクションの中から使用する部分を選別し、定位が分かりやすいように展開を調整。「大胆な編集作業が面白かったです」と振り返る。シンセ類は基本的にYAMAHA Montage 8でMIDIを駆使して演奏したという

1986年にはまだ箏を信じ切っていなかった

 「不連続性の歴史」は箏が鮮やかに響く一曲で、後半は大きくオブジェクトが移動。この手法を井上はこう分析する。

 「できるだけ過剰にならないようにしていますが、ヘッドホンで聴かれる場合は若干おとなしくなるので、スピーカー環境でミックスするときはギリギリまでやった方がいいということも、今回学んだことの一つでした」

 加えて、作品で重要な“箏”の扱いが360 Reality Audio環境で変化したと話す井上。

 「箏の扱いはオリジナルに比べてだいぶ変わっていると思います。1986年の段階ではまだ箏を信じ切れていないんです、当時の井上鑑さんが(笑)。箏のフレーズをエレピやギターで補強する意識があったんです。でも、あらためて聴いたら素晴らしい精度の演奏だったので、思い切りソロにもできました。若い人がポップスやロックを身に付けている今とは違い、純粋な邦楽の演奏家がこれを40年前に演奏してくれているわけですから、すごいことです。録音も日本の楽器に詳しいわけではないイギリス人で、それが逆に良かったのかもしれませんが、音にすごくパワーがある気がします」

置き場所や動かし方を変えるだけでシーンを作れる

 360 Reality Audioについて「低音の勢いをいかに表現するかが課題」と話す井上。「実際の低音成分と音楽として聴こえる低音パートを一致させないとぼやけてしまうんです」と難しさを話すと、片倉氏が低音作りの工夫をこう補足した。

 「ベースは最初、点で置いていたのですが、ヘッドホンで聴くともの足りなく感じることがあり、実音以外にサブソニック的な超低音を含む4〜8個のオブジェクトを面で置いて聴きながら最適な位置を探しました。360 Reality Audioは下半球が面白いです」

 一方、球体上部では、また別の工夫が施されている。コーラスが降り注ぐ「Tick it,Tock it,Turn it True」を題材に、片倉氏が音作りでのこだわりを教えてくれた。

 「コーラスがちょこちょこと移動する動きは手動で描いています。また、オブジェクトはなるべく割り切れない数値のポイントに置きました。オブジェクトをキリの良い値の位置に置くと音量のピークも重なりやすいかと考えたからです。上半球は位置を判別しやすいのでわざと空けておき、分かりやすい動き方を仕掛けるようにしました」

「不連続性の歴史」の360 WalkMix Creator™画面。片倉氏はオブジェクトの配置について「ヘッドホン・モニター時の音質変化を考慮してオブジェクトを配置したためAzimuth(方位角)、Elevation(標高)は整数値で割り切れないものを多くしています。上半球の空間は動きを付けるオブジェクトのために空けておき、基本の配置は360 Reality Audioならではの下半球を多用しました」と解説してくれた。

「不連続性の歴史」の360 WalkMix Creator™画面。片倉氏はオブジェクトの配置について「ヘッドホン・モニター時の音質変化を考慮してオブジェクトを配置したためAzimuth(方位角)、Elevation(標高)は整数値で割り切れないものを多くしています。上半球の空間は動きを付けるオブジェクトのために空けておき、基本の配置は360 Reality Audioならではの下半球を多用しました」と解説してくれた。

 『TOKYO INSTALLATION』には、尾崎豊と浜田省吾も作曲で参加。尾崎作曲の「たった独りのための駅」では、井上、尾崎、浜田によるトーク・セッションも素材となっている。

 「尾崎さんはインストゥルメンタルの曲をあまり作られたことはなく、デモ・テープから僕がハーモニーなども結構変えたのですが、歌っていなくても、やっぱり“尾崎豊”っていう世界を感じられますよね。今回これだけエディットしても変わらないものが残るのがすごいです」

 駅構内の雑踏から美しいピアノの旋律へと場面がスムーズに移り変わる音作りを、片倉氏に尋ねた。

 「ステレオだと前から聴こえる駅のSEを全方位に広げて、駅構内にいるように配置し、徐々にSEを端に寄せて音楽に引き継ぐストーリーを作りました。置き場所や動かし方を変えるだけでシーンを作れるのが360 Reality Audioの良いところですね。音が近づいたり遠ざかることで球体や回転を感じられるので、遠ざかるときにレベルを補正しすぎないようにしています。ほかにもEQやコンプではなく、動くスピードや位置を変えることで、360 Reality Audioらしさを保っています」

 最後は井上に、360 Reality Audioへの期待を尋ねた。

 「360 Reality Audioにフォーカスした新しい作品が作られて、曲やアーティストによって違う世界が出来上がるようになったら楽しいだろうなと思います。生ギターと歌だけみたいなスタイルでもいろいろな表現の可能性があるんじゃないかな。360 Reality Audioでフレディー・マーキュリーがクイーンの新作を作ったら何をしたかなとか考えます(笑)」

 

井上鑑
【Profile】1953年9月8日、東京生まれ、作編曲家/作詞家/ピアノ、キーボード奏者。チェリスト井上頼豊の長男であり、桐朋学園大学作曲科にて三善晃氏に師事。大森昭男氏との出会いによりCM音楽作曲、スタジオ・ワークを始め、寺尾聰「ルビーの指環」、大滝詠一、福山雅治、ほか現在まで膨大なヒット曲を生む

 

片倉麻美子
【Profile】ミキサーズ・ラボ、ON AIR麻布スタジオを経て、現在SIGN SOUNDとマネージメント契約を結ぶ。2chミックスにとどまらず、Face 2 fAKE、渡邊崇などの映画音楽の5.1chミックスや360 Reality Audioなどの立体音響にも積極的に取り組んでいる 

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