MUSICA創刊編集長・鹿野 淳が語る邦楽ロック・メディアの現在 〜『音楽メディア・アップデート考』

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音楽ナタリー元編集長・加藤 一陽氏が、音楽メディアの編集長やライターなど、キーパーソン8人に取材を行い、現代における音楽メディアの必要性や音楽評論〜ビジネスまでを考察し、一冊にまとめた書籍『音楽メディア・アップデート考』。ここでは、『BUZZ』や『ROCKIN'ON JAPAN』の編集長を務めた後、音楽専門誌MUSICAを創刊した鹿野 淳氏が邦楽ロック・メディアの現在を語る本書の第一章を特別に掲載。 すべての音楽メディア人、必読の内容です。

 

 

【イベント情報】磯部涼×原雅明を迎えた『音楽メディア・アップデート考』オンライン・イベント3/25開催

 来たる3/25(木)夜、本書と東京・下北沢にある本屋『B&B』とのコラボレーションによる配信トーク・イベントが開催されます。詳しくはB&Bのサイト(以下)をご覧ください。

bookandbeer.com

 

音楽メディア・アップデート考|第一章
「邦楽ロック・メディアから失われつつある批評性」鹿野 淳

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鹿野 淳(しかの あつし)
1964年東京生まれ。明治大学卒業後、89年扶桑社入社、翌90年にロッキング・オン入社。98年より音楽専門誌『BUZZ』、邦楽月刊誌『ROCKIN'ON JAPAN』の編集長を歴任。2004年ロッキング・オン退社後、有限会社FACT設立(現在は株式会社)。出版版元となり、06年サッカー雑誌『STAR SOCCER』、翌07年に音楽雑誌『MUSICA』創刊。


 本書のトップ・バッターを担ってくださるのは、ロッキング・オンに1990年に入社してから現在に至るまで、30年にわたりロックの魅力を発信し続けている鹿野 淳さんだ。

 ロック批評誌のトップ・ブランドである『ROCKIN'ON JAPAN』編集部で音楽ジャーナリストのキャリアをスタートさせ、独立後に創刊した『MUSICA』を人気雑誌に育て上げ、さらには10万人近い集客を誇るロック・フェス『VIVA LA ROCK』をプロデュースしている。そのキャリアを考えると、鹿野さんのことを〝邦楽ロック・メディア史〟を地でいく人と言っても決して大袈裟には聞こえないだろう。

 鹿野さんにご協力を仰いだ理由は、その経歴を丁寧になぞることで、ここ30年の邦楽ロック・ジャーナリズムの歩みや、音楽メディアが時代の変化にどう対応してきたかを総ざらいできると考えたからだ。もちろん、現在の音楽メディアの状況やジャーナリズムをどう見ているのかも興味深い。じっくりと伺った。(加藤 一陽)

 

音楽ジャーナリストを志望していたわけではない

─改めて鹿野さんの経歴を伺うと、編集者としてのキャリアの出発点は扶桑社とのことですね。

鹿野 はい。なぜ扶桑社に入ったかというと、『SWITCH』って雑誌を作りたかったからなんです。すごく編集力があったし、敬愛する沢木耕太郎さんがよく寄稿していたこともあって、憧れていて。でも実際に作っていたのは編集プロダクションで、浅知恵な当時の僕は編プロの存在を知らなかったんです。しかも扶桑社って、会社自体は素晴らしいんですけど、入ってみると同じフジサンケイグループであるフジテレビの出版部のような位置付けで、それが嫌で仕方がなかった。それで辞めようと考えていたら、書店で『SWITCH』みたいな雑誌が創刊されているのを見つけたんです。表紙を見たら『CUT』、社名はロッキング・オンと書いてあって。それでロッキング・オンに入りたいと思ったんです。だから扶桑社に入って5カ月くらいで転職活動をし、実際にはちょうど1年間で辞めてしまったんです。

 

─カルチャー誌っぽい雑誌を作りたいという気持ちがあったんですね。

鹿野 というかサブカル。完全にサブカル少年でしたから。ちなみにロッキング・オンの面接では、「日本のロックは何を聴いていますか?」と聞かれましてね。僕はほとんど洋楽しか聴いていなかったもので、「日本の音楽は、暗黒大陸じゃがたらと米米CLUB以外は聴きません」って答えたんです。それなのに配属されたのは『ROCKIN’ON JAPAN』でした。要は、欠員募集だったんですよね。で、ロッキング・オンに入社したんですけど、やっぱり邦楽ロックはわからない。実はそれで、入って2カ月くらいで転職を考えたこともあるんです。会社自体も、度を超えた〝根暗の巣窟〟みたいな感じでしたしね(笑)、当時は。でも、辞め癖が付いてキャリアが尻すぼみしていくのも嫌だから、ロッキング・オンに留まることにしました。それからはモチベーションを上げるために、やるべきことをとにかく突き詰めたんですよね。「邦楽ロックを堅苦しく考え、論じることの魅力とは?」「案外ミュージシャンはそれを求めているみたいだぞ」「そこに何か可能性があるんじゃないか」みたいな。そういうことを常に考え、会社に属し、邦楽ロックを位置付ける編集業に携わる理由を自分なりに作ろうと頑張りました。だから僕はロック誌を目指して出版業界に入ったわけではないし、音楽ジャーナリストを志望していたわけでもないんです。

 

─ロッキング・オンに入社されたのは、1990年とのことです。

鹿野 入社当時の『ROCKIN’ON JAPAN』は、渋谷陽一さんが編集長でした。でも社長ですから、インタビューはやるけれど、編集作業はほぼしない。副編集長の山崎洋一郎さんが実質的に編集長という感じです。そこにアルバイトのスタッフと編集初心者の僕の3人。それで150ページくらいの月刊誌を作るわけだから、もう総力戦です。だから、わりと早い段階でインタビューもさせてもらいました。この頃は、邦楽ロックにとって節目の時代でもありました。その前、80年代後半から続いていたバンド・ブームや『イカ天』ブームくらいまでは、当然ネットはないし、ちゃんとロックという音楽を取り上げるテレビ番組も1つか2つあった程度でした。そのため海外で起きたことが2〜3年後にようやく日本で解釈されるようなタイム・ラグがあったんです。だからこそ、洋楽ロック雑誌がとても重宝されていたんですよね。

 

─『rockin'on』も、そういった情報が少ない時代においてコアな洋楽ロック・ファンに支持されていた雑誌だったんですね。

鹿野 そうなんですけど、ほかにも頑張っているメディアやレコード屋さんがあったんですよ。例えば自分で海外から取り寄せたレコードやTシャツなどを、渋谷の安いマンションの一室で売る人が多く出てきた。しかも同じマンションの中にそういう店が幾つかあって、感度の高い人たちがそのマンション内をハシゴして、海外の音楽を自分のものにしていく。加えて、機材の進化もありました。録音機材がすごく進化し、そういう情報を扱う、それこそ『サウンド&レコーディング・マガジン』などのメディアによって、海外のアーティストがやっていることへの理解が格段に高まっていきました。そういったものから影響を受けた、のちに渋谷系と呼ばれるアーティストたちが現れ始めたんです。それにイギリスではアシッド・ハウスが流行っていて、ドラッグとダンスとロックが一緒になって、ライブ・ハウスとクラブの垣根が壊れていった最高の時代でした。日本ではそういったクラブ・ミュージックからの影響を受け、その楽しさをダイレクトに伝える電気グルーヴみたいな人たちも出てきて、日本と海外の文化的なセンス・ラグを急速に縮めていったんですよね。僕はそんなシーンの〝階段の踊り場〟の時期に毎月『ROCKIN’ON JAPAN』を作れたんです。最初は会社が嫌だったし、今のように俯瞰して状況を見られなかったから何もわからなかったんですけど、ものすごくラッキーなことだと思います。

 

〝邦楽ロックを論じること〟のニーズが高まった時代

─『ROCKIN’ON JAPAN』は現在のロッキング・オンの看板雑誌という認識なんですけど、鹿野さんが入社された当時はおそらく『rockin'on』のほうが看板というか、人気の高かった時代ですよね?

鹿野 そうです。80年代末期から90年代中期までは、渋谷さんのカリスマ性やラジオ・パーソナリティとしての強さ、会社ブランド自体のカルト的な人気によって、『rockin'on』が洋楽誌として圧倒的な部数を誇っていた時代でした。しかも『rockin'on』は洋楽誌ではあるけれど、忌野清志郎さん、佐野元春さん、浜田省吾さんといった日本のロック・アーティストも掲載されるようになっていたんです。その状況を受けて、「今なら邦楽を批評する雑誌が作れるんじゃないか」という、邦楽マーケットの開拓として創刊されたものが『ROCKIN’ON JAPAN』……という認識なんだけど、僕が入った頃の『JAPAN』はマーケットでそこまで強さを持っていませんでした。でも邦楽ロックを扱う雑誌が売れていなかったかというとそうではなくて、ソニー・マガジンズの雑誌がものすごい売り上げを誇っていたんです。

 

─ソニマガというと、『GB』、『PATi PATi』、『WHAT’s IN?』などですね。

鹿野 ソニマガの雑誌は自分たちの作っている雑誌に比べて、桁が1つ違うくらい売れていました。少し振り返ると、80年代中期って邦楽メディアは批評よりも現場主義だったんです。雑誌で言えば『宝島』とかがすごく強い頃。現場に体当たりで突撃して、そこで見たものを書いて載せる、って感じで。あとは『BANDやろうぜ』みたいな雑誌が強かった。そしてそのあとのバンド・ブームの頃になると、ロック・バンドがアイドル化していったんです。その現象をうまく出版物に落とし込んだのがソニマガで……これはディスっているように思われたくないんですけど、あの頃のソニマガがやっていたことって、各アーティストのファンクラブ会報の数珠繋ぎのようなものだったんですよ。数十組の人気アーティストの伝えたいことをそれぞれ4ページくらいにうまくまとめていくって感じの内容だったから。そうするとやっぱり売れるわけですよね。ただ、そこに批評性はまったくありませんでした。

 

─日本のロックを批評的な目線で語っていくという発想が、現在に比べるとまだまだ一般的ではなかったのかもしれませんね。

鹿野 そのニーズもあるのか無いのかわからなかったから、そういうマーケットを作らねばならなかった。そんな中で、邦楽ロック・シーンに先ほど言ったような進化があって、リスナーの中にもう一段高いレベルで音楽を語りたい人たちが出てきたんです。その機運は、渋谷と新宿を中心に全国に広がっていきました。邦楽を批評することが特定の人たちのニーズを満たすものになっていく。ラッキーなことに『ROCKIN’ON JAPAN』編集部にいたことで、その流れを感じることができましたね。

 

─そのうちに『ROCKIN’ON JAPAN』の人気が『rockin'on』を凌ぐほどに成長していくと思うんですけど、それはいつ頃だったのでしょうか?

鹿野 厳密にはわからないけど、95年から97年……いや、98、99年かな。その辺りって洋楽ロックにも変化があったんですよ。楽曲の内容的に絶望や孤独よりも、快楽や享楽から生まれる音楽が増えたんです。ロックの中で踊ることがより重要になっていった。加えてオアシスのような、古典的でありながら力強く合唱して盛り上がるバンドも出てきた。外国で彼らのライブに行くと、お客さんが全員怒号のような声で歌うんですよ。それがオアシスのライブの流儀なんです。つまり、考えるよりも、とりあえず歌う。サッカーを観に行くように、オアシスのライブを堪能する……それまでの日本における洋楽ロック雑誌では、そういった気分を論じることができていなかったんじゃないかな。だって、オアシスやストーン・ローゼズよりも、エアロスミスやレッド・ツェッペリンを表紙にする時代が続いていたんだから。でもやっぱり、新しい人を出さないと雑誌の部数も下がるわけですよね。その一方で、日本では渋谷系の時代を経て、邦楽ロックを論じることのニーズが高まっていきました。アーティスト側もそれを求めるようになっていったし、音楽業界だけはまだバブルが残っていたので、マーケットも広がっていったんです。それがちょうど95年から97年にかけてだったんじゃないかな。わかりやすく言うと、Mr.Childrenが国民的なヒットを遂げ、スピッツが完全にブレイクした頃ですね。

 

─日本のロックの市場が広がっていくことに伴って、それを扱うメディアの存在感も高まっていったということですね。

鹿野 遡ると、サザンオールスターズの桑田佳祐さんは、エリック・クラプトンを自分の音楽でどう解釈するのかを考えながら、歌謡シーンに入ってきた。佐野元春さんはニューヨークのストリートで何が起っているのか、もしくはブルース・スプリングスティーンとポール・ウェラーとヒップホップをどう解釈すればいいのかを考えながら先鋭的な作品を作り続け、確固たるポジションを築いていった。まずは先にそういう時代があったわけです。彼らは洋楽のエッセンスをうまく採り入れて、オリジナリティを確立させ、それで支持を集めていた。でも当時は、それらの点が線にはならなかったんです。その理由は、メディアに批評力が無かったってこともあるし、リスナーの耳が肥えていなかったということもあると思う。そういったものをロックとして扱っているのが『rockin'on』くらいの時代だったんですよね。ある意味で洋楽ロックに対してコンプレックスを持ち続けていた時代とも言えるんですけど、それが渋谷系辺りから解消されてきて、洋楽と邦楽を分け隔てなく聴く人たちが出てきた。2000年前後まではそういう流れだね。長いストーリーだったと思います。

 

〝邦楽と洋楽の融合〟に成功した2つの雑誌

─そういった時代の変化に、音楽メディアはどう対応していったのですか?

鹿野 個人的には98年に『BUZZ』の編集長になったんですが、そこで掲げたコンセプトが〝邦楽ロックと洋楽ロックの完全なる融合〟でした。オルタナティブ・ロック、テクノ、ハウスといった音楽によって、リスナーの中で洋楽と邦楽のマーケットが融合しているんだから、そこにシンクロする雑誌をやればいい。コーネリアスも電気グルーヴも椎名林檎さんもTHE MAD CAPSULE MARKETSも、アンダーワールドもケミカル・ブラザーズもパール・ジャムもビースティ・ボーイズもウータン・クランも同時にいる。そういう雑誌を作りたかったんです。当時は田中宗一郎くんがやっていた『snoozer』という雑誌もあったんですけど、『snoozer』と『BUZZ』はそういうコンセプト・マガジンでしたね。

 

─『snoozer』は〝タナソー〟こと田中宗一郎さんがロッキング・オンから独立されて、リトル・モアで立ち上げた雑誌ですね。カルト的な人気がありました。

鹿野 彼は締め切りを守らないのが何だけど(笑)、とても優れたエディターですよね。『BUZZ』のことで言えば、エアロスミスとかU2とか、そういうベテランはあえて取り上げませんでした。雑誌のアイデンティティとして。それが成功した時代だったんですよ。実際この2つの雑誌はとても売れていたし、評価が高かったと思います。

 

─洋楽と邦楽のロック雑誌をそれぞれ発行していたロッキング・オンに、洋邦どちらも扱う雑誌が生まれたということですね。当時の『BUZZ』はそういった要素に加え、サブカルっぽい要素もふんだんに散りばめられていたと思います。そんな『BUZZ』の編集長を経て、鹿野さんは2000年4月に『ROCKIN’ON JAPAN』の編集長に就任されます。この頃の話も少し聞かせていただけますか。

鹿野 率直に、僕が編集長になる前からあの雑誌はすでに会社の中でもリーディング・マガジンになっていました。だからまず、それを手がけるプレッシャー。それと、会社で初めてフェスをやることが決まっていたんですよ。1999年の夏、北海道で『RISING SUNROCK FESTIVAL』が始まったでしょ。そこで深夜にUAが歌っているのを見ていたら渋谷さんがそろーっと来て、「鹿野。お前、これを来年東京でやってくんね~か~?」とだけ言って、どこかに行ってしまったんです。「ってことは、その部門のリーダーだよな。『JAPAN』の編集長か……これは面倒くさいぞ」と。その翌年、僕が編集長になった年の8月に『ROCK IN JAPAN FESTIVAL』の初回を手がけました。

 

─「ライジングサンの初回にとても感銘を受けた」という話はあちこちで聞いたことがあるんですけど、鹿野さんや渋谷さんもそうだったんですね。

鹿野 個人的には「日本のロックも、独自のストーリーを描き始めるんだなあ」と思いました。邦楽ロック・シーンという大きな街が出来上がっていることが、あの現場で証明されていたんです。でも考えてみれば、その街は『ROCKIN’ON JAPAN』の中でも作れていたんですよね。昔は堅苦しさしかなかったロック批評でしたけど、それを受け入れるマーケットが作れている。それに伴って部数も上がり、邦楽ロックを扱う雑誌の中でもリーディング・マガジンになってきた。その頃の『ROCKIN’ON JAPAN』って、他社の邦楽誌の部数を次々に抜いていった頃で、ビジネス的にもいい塩梅だったんです。だからこそ、会社としても邦楽ロック・フェスがめちゃくちゃ必要だった。で、社長からそれをやれと言われたわけです。考え方によってはとても面倒なミッションでした。

 

人材が不足している業界

─鹿野さんは『ROCKIN’ON JAPAN』の編集長を4年務めた後にロッキング・オンを退職し、『MUSICA』を発行しているFACTを設立しています。現在『MUSICA』は編集長を有泉智子さんに託しながらも、いまだにご自身も原稿を書き続けています。

鹿野 はい。ありがたいことに有泉が完全に育ったので、僕は今、のほほんとエース・ライターをやっています。

 

─同時に10万人近く集客するロック・フェス『VIVA LA ROCK』もプロデュースされていて。「邦楽はわからない」とロッキング・オンを2、3カ月で辞めようとしていた方が、30年も邦楽ロック・シーンの第一線に立ち続けているわけですよね。

鹿野 でも、95年くらいからはずっとモチベーションもアップアップですから。アップアップっていうのは、上がっているって意味ね。仕事が終わって新宿のLIQUIDROOMに行くと、平日も海外のDJが来てオールナイトでパーティをやっている。そこで朝まで踊って、松屋で牛丼を食って会社に戻る。そんな毎日でしたから、仕事はイケイケでしたよ。結局今も取材やフェスの最前線などに自ら出続けているのは、45歳くらいを超えた辺りでベテランになり損ねたからだと思います。それに単純に、自分が経営する会社も必死ですから。ラジオやイベントなど、外側の仕事でもチャンスがいただけるのであればやる。『MUSICA』から依頼があれば、編集部のために頑張る。そういう自転車操業っぽいスタンスかな。それにね、僕が今でも仕事をいただけているのは、これまで築いてきたポジションとかキャラクターとか、要は自分の力が理由ではないんですよね、残念なことに。率直に、この業界に人材がいないからだと思います。だって僕、56歳ですよ? 大学生くらいまでの若い人にこの年代の影響力やリアリティがあるかといったら、ストレートに考えればないと思うんですよ。しかし逆に言えば若手が出てきていないからこそ、僕にまだ商品価値が残っているんじゃないかな。

 

─謙遜もあるのかもしれませんけど。でも、鹿野さんのポジションを奪ってしまうほどのパワフルな人材がなかなか現れないのも実感されているところなのでしょうね。

鹿野 人材不足に関しては、僕たちのような雑誌文化の商業面を含めたピークを知っている世代が作った流れでもある……要は自分らが育てられなかったわけだから反省すべきことですけどね。音楽メディア自体はネットによってソフィスティケイトされているけれど、雑誌はいわゆる出版不況によって、クリエイティブに作ることがどんどん画一化されていって面白くなくなっていっている部分も多いし、この仕事の面白さを外に向けてアピールできる人も少なくなっていると思うんです。そうすると、これまでロック雑誌を読んでいた人の中にも「ロックよりもネットやゲームのほうが面白い」という人が出てきてしまいますよね。

 

─最近は可処分時間の奪い合いが激化していますからね。「クリエイティブに雑誌を作ることが画一化されている」というのは、具体的にはどういうことですか?

鹿野 僕は出版の人間だから雑誌ベースで考えてしまうのですが、メディアを作るうえでの重要度は、取材内容が2割、ライティングが2割、残り6割が編集だと思っているんです。もしくは編集が4割、販売などが2割とか。いずれにしても編集が大事で、僕はそれが正論だと信じています。でも出版不況によって、使える紙や撮影のフィルムの選択肢が少なくなっているわけです。それまでは〝風合いの良い紙〟とかいろいろあったのが、マニアックなこだわりのある製紙会社がたくさん潰れていったり、撮影フィルムもデジタル一辺倒になっていて、それは本物のフィルムで撮った写真のほうが掲載するまでの手間もお金もかかるから、出版社自体が嫌がるんですよね。それだけでもう雑誌編集の面白さの数%が無くなっている。そんなふうに、ここ15~20年で編集の楽しみが次々と消え続けている。それはシンプルにとても寂しいことだなあと思いますね。そういうこともあるからか、メディアをやりたいという人はいるけれど、編集がどういう行為なのかを理解している人が減っているような気がしています。極論、物を書いて出せばそれだけでメディアになると思っている方も多いんじゃないかなあと思います。でもそれだけでは面白いものにはなりません。そういうことが重なって、かつて音楽雑誌を楽しんでいた人たちが、今ではネットやゲームに流れていってしまっている。その状況ってリスニング・スタイルや音楽シーンの変化によってもたらされたものではなくて、メディア側が自らもたらしたものだし、今現在ももたらし続けてるんじゃないかな。忸怩たる思いですけどね。

 

増加する〝音楽を語れない人〟

─人材不足についてもう少し伺うと、『MUSICA』には有泉さんという編集長を任せられるほどの人材がいたということですよね。

鹿野 はい、その点で僕は恵まれていると思います。総じて申し上げると、ほかの音楽雑誌って僕と同じ世代やそれ以上の方々が今も編集長を続けていて、代替わりが果たされていない。そこに文句を言うつもりは甚だ無いのですが、個人的な意見としては不思議だなあと思いますよ。だけど、もしかしたら彼らは次を決められていないのではなく、見つけられていないのかもしれませんよね。でも僕は見つけられましたから、きっと恵まれています。まあそもそも僕は経営者としての甲斐性がないから、自分の会社に1人でもそういう人が出てくればありがたいと思わざるを得ないです。

 

─そういえば、鹿野さんは音小屋という音楽ジャーナリスト養成講座もやっていますよね。

鹿野 それも人が出てこないから始めたんだよ。2012年からやっているんですけど、案外音小屋出身の方の音楽業界での就職率がいいというか、出版社やレコード会社やプロダクションに就職されている人がけっこういるんです。でもこれさ、自分の生徒たちがすごくないってわけではないんだけど、やはり業界全体にいい人材がいないから就職できている側面もあると思っていて。具体的には2015年辺りから、「音楽を語ることができない人が多くなってきたな」って感じることが増えてきたんですよね。それって、「音楽ってこう語るんだよ」ってことを発信していたメディアが無くなり過ぎているからだと思うんです。「サブスクが出てきたから」「SNSで全員がジャーナリストになったから」みたいな世の中がよく言う理屈はわかるし、出版社がそういう方向に舵を切ることになった必然的な流れがあるにせよ、音楽を語れない人が多くなっている理由は、結局そこにあると思う。

 

─ブログやSNSなどによって評論自体はネットに溢れているように感じますが、商用メディアの中で評論を目にする機会が減っていることは事実としてあるように思います。ということは、そういうものが求められていないのかなとも思ってしまいます。

鹿野 そうなのかな? 求められていないのならば、うちの会社はもう潰れていると思いますよ(笑)。今って手っ取り早いのはスマホでWebメディアを見ることだし、スマホとのシナジーも含めて、今メディア中で一番多いのはニュース・サイトでしょ? 加藤くんのいた『音楽ナタリー』も含めて。だから、みんなそういう媒体でインタビューとかプロモーションをするようになっていく。でも、そういう媒体は拡散力はあるけれど、決して批評をするわけではない。そうなると、批評に触れたことがない、批評と言われてもそれがなんだかわからないって人が増えるわけですよね。だから、〝求める以前にわからない〟という音楽リスナーは多いと思いますよ。で、ふとしたことでそういう珍奇な批評メディアに触れると、引き込まれていく。音楽に自分の人生を投影させたり、歌詞に共感を覚える方は総じてとても真面目だし、何かを掘りたいと思っている方が多いんですよね。昔も今もなんら変わっていない。だから本当にこっち側の問題だと思います。

 

ファン代表のメディアが影響力を持つ時代

鹿野 今回、加藤くんに会うっていうんで、話したかったことがあるんですよ。先日某Webメディアから「あるアーティストがインタビュアーとして僕を指名しているから、取材をお願いしたい」って依頼をメールでいただいたんです。そうしたらオファーの内容詳細に、「アーティストに敬意を持って、主観を強く出さずにインタビューしてほしい」「ファンの代表として話を聞いてほしい」という意味のことが書かれていて。これ、僕の理解を超えていた、というかその真意が理解できなかったんですよね。

 

─その某Webメディアって、『音楽ナタリー』のことですよね(笑)。

鹿野 これ、文句を言ってるんじゃないんです。それぞれのメディアに目的や方針があるのは大前提だし、それを守るのも当然だから。じゃあどう理解を超えていたのかっていうと、僕も自分なりにアーティストに敬意を持ってインタビューしているんですけど、〝アーティストに敬意を払う=お相手として主観を持たずにアーティストのイタコに徹する〟と言っているのだとしたら、それは僕のいる意味はないぞと思って。

 

─察するに、鹿野さんにお願いしたいというアーティスト側からの要望も大事にしたいし、「ファンが知りたい内容を、フラットな立場から伝える記事にしたい」という編集部の目的をうまくチューニングせずにくっつけてしまったから、鹿野さん側からすると、持ち味を度外視したオファーを受けた形になってしまった感じなのかな、と。

鹿野 そうなのかな。要はさっきまで話していた、批評があるべきなのか? 批評が必要なのか? そもそも批評とは何なのか? という話だと思うんですけどね。「ファンの代表として話を聞いてほしい」っていうのも意図はわかるし、そういうインタビューがあるのはいいと思うんですけど、本当にそれだけが読者からもアーティストからも求められているものなのか? と考えたら悶々としたり、この仕事のアイデンティティって何なんだろうなと改めて思ったんです。僕みたいに〝音楽は批評すべきもの〟って気持ちでやっている人間にとってアーティストに敬意を持つことは、自分なりに論評を持って、それを対等な立場でアーティストにしっかり言葉で伝えることなんです。そこで生まれる化学変化が音楽ジャーナリズムのエンターテイメントだし、楽しみだし。

 

─「ファン目線で」というのは『ナタリー』の方針で、僕自身もよく言っていたことです。でもそれを外部の書き手の方に説明せずにそのままペーストしてしまうと、齟齬が生じますよね。インタビューの外注って、ライターの人選に意図があればもちろん有効だけど、それがないのであれば逆にお願いすべきではないケースも多いですし。つまり目的に沿った人選をすべき……って、なぜか弁解しているみたいになっているけど(笑)。

鹿野 そのオファーを受けたことで、とても考えさせられたし、勉強にもなったんです。何十年もこのスタイルでやってきた人間からすると、自分の主観を記事の中に入れないってことがなかなか難しくて、どう仕事をしていいのかわからない。でも、現実にそういう〝ファン代表〟のメディアがかなりの影響力を持つ時代なんだから、そりゃあ音楽批評を目にする機会が減っていくよなと改めて感じたんです。当然、僕がとやかく言うことでもないし、時代が変わるのも当然だとは思うんですよ。批評のあり方だって変わるだろうし。でもこの件は、2020年における象徴的な出来事だと思ったんですよね。なんか仰られたことへは悶々としながらも、ずっと悶々としていたことへの回答が見事に得られた気もしてね。

 

肯定がすべて?

─集客の方法だけではなくて、読者やお客さんとの関係性の築き方もコンテンツ・ビジネスにとって大事なテーマだと思います。それでいうと、鹿野さんの作る雑誌やフェスのお客さんは、ほかのロック系のメディアやライブ・イベントに比べても、もう少しロックというものに対して熱い印象があるんです。そしてそれは、鹿野さんがコンテンツを起点にしっかりお客さんを育てることができている証左なんだろうな、と。

鹿野 それは実感できます。でも前述したように、我々もこのまま同じことをやっていても、血管の中の血が濃くなって固まっていって、やがてやっていることが求められなくなるかもしれない、という不安は持っていますよ。その辺りは課題ですよね。本当は音楽の魅力を伝えることが目的なのに、〝語ること〟自体が目的化してしまわないように、というのもあるし。そうなってしまうと、音楽が好きな人が離れていってしまうと思うんですよね。

 

─とはいえ、『MUSICA』の場合は音楽評論が媒体の軸なわけですから、語ること自体も目的の1つと言えばそうですし。なかなか塩梅が難しそうです。

鹿野 音楽を論じることって、人物評と作品評に分かれるじゃないですか。僕が経験してきたメディアと今やっているメディアってどうしても人物評にいきがちだから、作品評も忘れないようにしたいとは思っています。でもね、やっぱり人物評って楽しいんですよ。人の生き方ってある意味で正解がないものだから。昔の洋楽誌ってアーティストが日本語の記事を読まないから、無責任に申し上げると人物評も作品評も好き勝手なことを書いていたんです(笑)。で、そのやり方をそのまま邦楽誌でもやっていったんですが、日本のアーティストは自分の記事を読んでくれるから、今度は怒ってしまってケンカになることも多々ありました。

 

─「読まないから好き勝手なことを書いていた」って、すごい話ですね(笑)。

鹿野 嘘を書くという意味ではないですよ。単に気を遣わずに書くということですから。でも最近はそういうケンカの話を聞かないんですよ。自分も含めて怒らせるような原稿をすっかり書かなくなりましたから。でもそれって、見方によっては批評が漂白されている状態とも言えますよね。漂白されたものなんて読者はちっとも楽しくないうえに、漂白されていることが当たり前だと思っているところもある。なんなら「肯定することがすべて」くらいに思っているかもしれない。

 

─特に最近のファンダムの世界って、「誰に何を言われようが好きなものは好き」という文化圏になっていることもあるので、そこでは批評をする意味はありませんからね。そういった感性の広がりが、鹿野さんのおっしゃる「肯定することがすべて」に繋がるのかもしれません。

鹿野 そうなんだ。批評って〝批判〟は含まれるけど〝非難〟ではないじゃないですか。それなのにマイナスなことを伝えようとすると感情過多なものになったりして。批判にはまだ存在意義はあるけれど、非難は人を傷つけるいじめのようなものだから、必要なものではない。それがわからない人たちが増えている。そういうところが、音楽のみならず、批評を難しくしている要因かもしれませんね。経験談として、僕のマイナス表現の原稿で怒ったアーティストが何年かして「あの原稿の意図がわかりました」って手紙をくださって、再び今も一緒にお仕事をさせていただいている例もあります。あと、僕としては間違ったことを書いていないつもりでも、アーティスト側には到底許せないものになって、今もそのままのケースもあるし。なかなか難しいところで、いまだに日々勉強という感じでやっています。

 

─難しいですよね。そういう炎上を避けるために余計なことを言わなくなっていく人もいるし。でも本来ジャーナリストや批評家には、気付きなりを発信することで、音楽カルチャーの進歩や発展を促す役割があるはずですから。

鹿野 そうなんですよね。しかもSNSによってアーティストと読者、僕らと読者、アーティストと僕らの距離も近くなっているじゃない。その距離感も、批判を含む批評をすることを難しくしているかもしれません。インタビュアーとアーティストの距離感ってとても大事だし、それがあるからこそ独特の批評や解釈が生まれて面白いんだけどな。僕、仕事以外でアーティストと会ったりお酒を飲んだりしないんですよ。「飲んだときの話の続きなんだけど……」で始まるインタビューなんて、最初から終わってるようなもんじゃないですか。お互い緊張感を持って現場に来て、何かこう、リングの上で言葉だけのやり取りで何かを積み上げていくことって、すごい楽しいことなんですよね。

 

─緊張感の大切さ、わかります。

鹿野 今回こういう機会をいただいていろいろ話してきましたが、今のところ批評が必要とされているのは間違いない。雑誌を作ったりSNSで発信したりしていても、今も自分の意見以外のセカンド・オピニオンが、しかも確かなるオピニオンが求められているのがわかる。「この曲、自分はいいと思うけど、みんなはどう思うだろう」とか、そういうのを求める人が多いと感じるんですよね。よって“キュレーター”という言葉がシーンを駆け巡るわけです。その需要に対する結果がプレイリストでもまとめサイトでもいいんだけれど、それと同時に論じること、評論することは、まだまだ有効だと思います。むしろ、不要論が出てくるレベルにもないですよね。ただその楽しさを伝えなければ、いずれは必要とされなくなってしまうかもしれません。僕としてもそういったことの楽しさをもっとうまく伝えられたらいいと思うし、そういうことを楽しいと感じる若い人がもっと出てきたらいいなと願っています。

 

※この記事は『音楽メディア・アップデート考 〜批評からビジネスまでを巡る8つの談話 加藤一陽著』から一部抜粋したものです

 

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加藤 一陽(かとう かずはる)

1985年生まれの編集者。山形県山形市出身。日本大学在学中の2007年に株式会社リットーミュージック『サウンド&レコーディング・マガジン』編集部でキャリアをスタート。2012年、株式会社ナターシャに転職し『音楽ナタリー』の編集記者に。2015年に『音楽ナタリー』編集長、2017年にナターシャ取締役に就任。メディア事業担当役員として、音楽、コミック、お笑い、映画、ステージという5つの『ナタリー』編集部を管掌したほか、イベント事業部の立ち上げなども行う。2020年6月に退職。2021年春、カルチャー系コンテンツ・カンパニーを標榜する株式会社ソウ・スウィート・パブリッシング設立(予定)。