『フォソーラ』の制作で、ミュージック・ディレクターという立場を務めたベルガー・ソリソン。ビョークの2017年のアルバム『ユートピア』ではエンジニアリングを手掛けたほか、シガー・ロスやヨハン・ヨハンソンといったアーティストとも仕事をしてきた才人だ。自然、住人、音楽文化といった点でアイスランドを愛し、拠点としている彼。ビョークとの親密なプロダクションの日々を振り返ってくれた。
SM58とApolloの内蔵プリをよく使った
ーあなたは『フォソーラ』でミュージック・ディレクターを務めましたが、具体的にどのような仕事を?
ベルガー レコーディング・エンジニアを務めながら、ミックスとマスタリングを手掛けたヘバ・カドリー、そしてビート・メイカーたちとのコミュニケーションを図った。つまり音楽の中で起こっているすべてのことの仲介役で、ちょっとしたクオリティ・コントロールを任されていたんだ。
ービョークさんのアーティストとしてのクリエイティビティを感じるのは、どのようなときですか?
ベルガー まず、僕はテクニカル人間なんだ。スタジオで機材を使って仕事しているからね。一方、ビョークはたまに、“そんなことできないよ”と思うようなことを要求してくる。でも“やってみて”と言われるからトライしてみると、必ずうまくいくんだ。彼女はいつだって正しい。40年もアルバムを作り続けているから、クリエイティビティに対して毎回、新しいやり方でチャレンジする術(すべ)を熟知している。例えば、このアルバムではバス・クラリネットを一度に6本も使ったけど、普通はそんなこと誰もやらないよね。
ー収録曲の制作の流れを教えてください。
ベルガー ほとんどの曲は、彼女が外を歩いているときにできたんだ。メロディを歌ったものがスマートフォンに録音されていたので、そのアイディアを使った。僕の方では、コンピューターでサウンドスケープを構築したり、楽譜を作ったりしていた。ビョークのボイス・メモのアイディアとサウンドを合わせた段階では非常にラフなデモだったので、レコーディングしてブラッシュアップさせていった。プレイヤー同士がジャムることはほとんど無かったね。多くはコンピューターの中で事前に準備していたから。
ー本番のレコーディングは、どちらで行いましたか?
ベルガー すべてアイスランドだった。ビョークの自宅と山小屋、僕のスタジオ、あとはクラリネットのレコーディングで別のスタジオを使ったり。AVID Pro Toolsを32ビット・フロート/96kHzに設定して録音したよ。実は、ビョークはPro Toolsの扱いが本当にうまいんだ。『ユートピア』のときは、ドミニカ共和国まで行って歌の大半をレコーディングしたんだけど、今回はコロナ禍だったので、アイスランドで足止めを食らった。でも、それが功を奏したんだ。
ービョークさんのメイン・ボーカルは、どのようなマイクやプリアンプを使って録音しましたか?
ベルガー 大半の曲のメイン・ボーカルは、SHURE SM58で録音した。彼女は長年SM58を使っていて、録音のときも手に持って歌うんだけど、その手の動きが巧みなんだ。コントロールがすごいんだよ。あとTELEFUNKEN Ela M 251もよく使った。ビョークは Ela M 251を“センシティブ”と表現している。これは正しいね。彼女が大きな声で歌うと、あまりマッチしない。そういうときはSM58が良いんだけど、小声で歌うときはEla M 251が合う。高域にとても美しい質感が生まれるんだ。プリアンプについては、彼女の山小屋ではいつもUNIVERSAL AUDIO Apollo内蔵のものを使う。僕のスタジオにはNEVE 1081があるんだ。クラシックな一台で、あまり彩りを添えずに増幅できる。EQが付いているけど、ボーカルにはあまり必要ないね。
Sequoiaでのミックス&マスタリング
ーミックスは、どちらで行ったのでしょう?
ベルガー ヘバ・カドリーというエンジニアと一緒にミックスしたので、僕のスタジオとブルックリンにある彼女のスタジオを行き来しての作業だった。Dolby Atmosミックスに関しては、制作環境を所有している僕のスタジオで行ったけどね。現場にはビョークも常に立ち会っていて、音作りに深く関わっていた。“ビョークは世界でも指折りのミックス・エンジニアだ”と言う人たちがいるくらいで、ツールの使い方は知らないかもしれないけど、耳がすごく良いんだ。だからこそ“この曲には、こういう要素が必要”といったことが自信を持って言えるんだよ。
ーステレオ・ミックスの制作には、どのようなモニター機器を使ったのですか?
ベルガー ヘバがブルックリンでATCのSCM150A Proを使っていて、僕はSCM100A Proを持っているから、それを使った。ちなみに彼女は、HEDDの開放型ヘッドフォンHEDDPhoneが好きなんだ。僕はSENNHEISER HD 25を長年使っている。
ー音作りはPro Toolsの内部完結でしょうか?
ベルガー 最初の頃はPro Toolsでやっていたけど、ヘバのソフトがMAGIX Sequoiaなので、途中から移行した。ミックスとマスタリングの両方をSequoiaでやっていたと言える。Dolby AtmosミックスはPro Toolsだったけどね。
ーということは、2ミックスのマスタリングも、ビョークさん立ち会いの下で敢行されたのですか?
ベルガー マスタリングにも、ずっとではなかったにせよ立ち会っていた。それは僕も同じだ。マスタリングは通常、最大でも2日しかかからないけど、今回は何週間も要した。意見のやり取りが何度もあったからね。ビョークはエンジニアリングにも常に関わりたがるので、ブルックリンからファイルが送られてくると必ず意見していた。あと、ヘバはミックスとマスタリングの両方をやったことで、パンドラの箱を開けてしまったんだよ。マスタリングに問題が見つかると、彼女はミックスに戻って修正し、それからマスターの再調整を行った。だから時間を要したんだが、結果オーライだと思っている。僕らは常により良いものを作っていたんだから。
ービョークさんはヘバさんに何を求めていた?
ベルガー ビョークは主に“アルバム全体としてのバランス”にこだわっていて、すべてを聴き終えたときに旅をしてきたような感じにしたかったんだ。ポップでもなくラウドでもなく、バランスの良いストーリーだね。だから、アルバムには統一性があって、浮いた曲は1つも無い。マスタリングで肝心なのは、曲を超ラウドにすることではないんだ。このアルバムはラウドだけれど、同時に緩急もある。
ビョークは“手の止めどころ”を心得ている
ー『フォソーラ』の楽曲には、“持続的なリズム+キャッチーなボーカル&コード”というポップ・ミュージックの構造から大きく逸脱したものが多いと思います。
ベルガー だから、普通のポップ・アルバムのミックスとは違うし、何倍も時間がかかったよ。例えば「アトポス」にはクラリネットがたくさん使われているので、その音作りから始めるのが良かった。次はベースだったけど、ビョークの歌のことは常に念頭に置いていたよ。前に押し出すべき、最も重要なパートだからね。また、ミックスの最中にも“こういう音が必要だから加えたい”となることがよくあったので、そのたびに曲が変化した。「アンセストレス」がまさにそうで、新しいパートを追加したり、不要なものを取り除いたりしながら進めたんだ。あの曲にはストリングスとパーカッションが大量に含まれていて、同じような帯域でボーカルも鳴っていたから、それら3つを処理した後でコーラスとベース、ビートを徐々に加えていった。
ーミックス中にアレンジが変化するとは、注意しないと終わりが見えなくなりそうですね。
ベルガー でも、ビョークはそれを見事に例えたんだ。“料理を10品作るとしたら、どれも良いあんばいで調理しなければならないでしょ。加熱しすぎてもだめだし、加熱が足らなくてもだめ。すべてに程よく火を通さないといけないの。それと同じで、どの曲についても“ちょうど良い。収まるべきところに収まった”というのが私には分かるのよ”とね。
ービョークさんの中では、確固たるサウンドが鳴っているのかもしれません。くだんの「アンセストレス」は、ミックスの奥の方に配置されたパーカッションやハンド・クラップが印象的です。オフマイクを多用したのでしょうか?
ベルガー あの曲のパーカッション録音は楽しかった。コロナ禍だったから大勢の演奏者を呼ぶことができなくて、ソラヤ・ナイヤルだけに来てもらったんだ。彼女はパキスタン出身で、アイスランド交響楽団に所属する優れたパーカッショニストでね。ビョークがAVID Sibeliusで作った楽譜を使って、全パーカッションをオーケストラの倉庫で録音した。意図的にマイクから離れたところで演奏してもらうこともあったよ。すべてを近いところに位置させるのではなく、分かりやすく空間を感じさせたかったからね。あの曲は、アルバムを作りはじめたころに亡くなった、ビョークのお母さんの葬儀がモチーフなんだ。大勢の人が葬列を成して歩き、パーカッションやストリングスを演奏しているイメージだな。美しい光景が背後に広がっているんだ。
ーだからビョークさんの声にも、あのような美しいリバーブがかかっているのですね。
ベルガー あれは、ヘバのリバーブだね。僕がボーカルに使ったのは、「オヴュール」や「ハー・マザーズ・ハウス」で聴けるVALHALLA DSP ValhallaVintageVerbだ。ビョークがとても気に入っている。また、アコースティックな曲ではUNIVERSAL AUDIO UADのCapitol Chambersを使った。
セオリー外の音作りも素晴らしい結果に
ーボーカルと言えば、「アロウ」や「フォソーラ」など、声をL/Rいっぱいに配置した曲も印象的です。
ベルガー 大胆な定位はビョークの趣味で、リスナーの再生機器が主にスピーカーだった時代によくあった音作りだ。昔は完璧に左右へ分ける方が理にかなっていた。でも今は多くの人がヘッドフォンで聴く時代だから、少し変に感じられるかもしれないけど、それでも良い効果だと思う。“ここから音が出ている”っていうのが分かりやすいんだもの。ビョークに向かって“左右いっぱいにパンニングしてはいけない。ヘッドフォンだと変に聴こえるから”と言っても、返答は“そんなことないわ。私はそうしたいの”って具合だ。そして結果を聴いてみると“ワオ、素晴らしい!”と思うんだ。彼女はステレオを左右いっぱいに使っている。こういう場合、彼女は大抵正しいんだ。「ヴィクティムフッド」のバス・クラリネットなんかも、大胆にパンニングされているよね。あれはビョークが1人でやった。Pro Toolsのパン・オートメーションを教えたら、何時間もかけて微調整していたんだ。モジュレーション系のエフェクトで左右に揺らすようなことはせず、すべてを手作業で行っていた。ボーカル・エディットも、同様に手作業で時間をかけたんだ。
ー「ヴィクティムフッド」では、断片的なコーラスがさまざまな質感でステレオ・フィールドを動き回ります。
ベルガー ビョークはコーラスにCELEMONY Melodyneをかけてから、そのトラックを幾つも複製し、それぞれに異なるピッチ調整を施すことでハーモニーを作る。完璧にチューニングされたハーモニーになるから、ロボットの声みたいだけどクールだよ。NATIVE INSTRUMENTSのKontaktに声を入れて、ボーカル・コードを作ることもあったな。それこそロボットっぽい“ム~”っていう声だ。
ービョークさんからは、自身の声をサンプリングして作ったコードが曲作りのキーになったと伺っています。
ベルガー 声の録り音をKontaktにインポートしてから、幾つかのライブラリーにしたんだ。彼女はMIDIキーボードやPro ToolsのMIDIエディタで試行錯誤していたけど、その姿はまるで刺繍(ししゅう)でもやっているかのようだった。手作業で、とても複雑なコードやリズムを作っていたんだ。それらが多くの曲で取っ掛かりになった。マックス・ワイゼルの開発したアプリも活用していて、AIによるハーモニー生成からインスピレーションをもらったよ。
ー非常に粘り強く作られたアルバムが『フォソーラ』というわけですね。
ベルガー ミュージシャンは、夢を追い続けて音楽を作り続けることが肝心だ。あまりにも早くあきらめてしまう人が多すぎる。音楽を作っても成功しないからだけど、その成功とはSpotifyの再生回数やInstagramのフォロワーの数じゃない。自分をハッピーにできるものを作っているのであれば、それが成功なんだ。以前、シンガー・ソングライターのダミアン・ライスと仕事をしていたとき、こう言われたんだ。“大好きなことをやっていれば、とてもうまくやれる。そして、とてもうまくやれるのであれば、誰かがそれに対してお金を払ってくれる”と。僕はその言葉をいつも思い出して、自分のやっていることが大好きなことであるように心がけている。そうすれば、最終的にすべてうまくいくんだ。
Release
『フォソーラ』
ビョーク
ビッグ・ナッシング/ウルトラ・ヴァイヴ:TPLP1485CD1J
Musician:ビョーク(vo、prog)、ガバ・モーダス・オペランディ(prog)、フェルディナンド・ラウター(prog)、エル・グィンチョ(prog)、サイド・プロジェクト(prog)、ジェイク・ミラー(prog)、ルシンドリ・エルドン(vo)、エミリー・ニコラス(vo)、サーペントウィズフィート(vo)、イザドラ・ビャルカルドッティル・バーニー(vo)、ボールドヴィン・イングヴァル・トリグヴァソン(clarinet)、グリムール・ヘルガソン(clarinet)、ヘルガ・ビョルグ・アルナルドッティル(clarinet)、ヒルマ・クリスティン・スヴェインスドッティル(clarinet)、クリスティン・トラ・ペトゥルスドッティル(clarinet)、ルナル・オスカーソン(clarinet)、アシルドゥル・ハラルドスドッティル(fl)、ベルグリンド・マリア・トマスドッティル(fl)、ビョルグ・ブリャンスドッティル(fl)、ダニー・マリノスドッティル(fl)、エミリア・ロス・シグフスドッティル(fl)、ハフディス・ヴィグフスドッティル(fl)、メルコルカ・オラフスドッティル(fl)、パメラ・デ・センシ(fl)、シングリングッシュ・ヒョルティス・インドリザドッティル(fl)、ソルヴィフ・マグヌスドッティル(fl)、ステンヌ・ヴァラ・パルスドッティル(fl)、スリィドゥシュ・ヨンスドッティル(fl)、マティアス・サプライヤー・ナルドー(oboe)、ソラヤ・ナイヤル(perc)、ベルガー・ソリソン(tb)、ハムラリッド・クワイア(cho)、ソルギェルズル・インゴルフスドッティル(conductor)、ラッキゥシュ・イングン・ヨハンスドッティル(conductor)、ウナ・スヴェインビャルナルドッティル(vl)、ヘルガ・ビヨルグヴィンスドッティル(vl)、イングリッド・カールスドッティル(vl)、ゲイスルーブシュ・オウサ・グルズォンスドッティル(vl)、ソウルン・オウスク・マーリノウスドウッティル(vl)、ルチャ・コチョット(vl)、ローラ・リウ(viola)、シグルズル・ビャルキ・グンナルソン(vc)、ジュリア・モゲンセン(vc)、ヤン・シュン(contrabass)
Producer:ビョーク
Engineer:ベルガー・ソリソン、ヘバ・カドリー、ジェイク・ミラー、ゲストゥシュ・スウェンソン、エイヴィッド・ヘルゲロッド、サーペントウィズフィート
Studio:Sýrland、Víðistaðakirkja(教会)、Háteigskirkja(教会)、Gorong Gorong Records、他