2023年1月11日、71歳でこの世を去った高橋幸宏。10代だった1960年代よりドラマーとして活動し、1970年代にはサディスティック・ミカ・バンドやサディスティックス、YMO(YELLOW MAGIC ORCHESTRA)などで確固たるポジションを築いた。ボーカリスト/サウンド・プロデューサーとしての手腕が際立つソロ・ワークスも、1970年代から継続的に展開。1980年代以降~近年にかけては、THE BEATNIKS、SKETCH SHOW、pupa、高橋幸宏 with In Phase、METAFIVEなど、さまざまなグループ/形態で快進撃を続け、幅広い世代をインスパイアしてきた。T.E.N.Tレーベルのファウンダー、自身のファッション・ブランドのデザイナー、音楽フェスティバル『WORLD HAPPINESS』のキュレーターといった顔も持つ高橋。ここでは、生前に親交の深かった高野寛の言葉から音楽家・高橋幸宏の偉業を振り返る。
ほかにいない、どこにもいない|高野寛
今まで、国内外のいろいろなミュージシャンと出会い、共演もしてきた。
一つだけ、確かに言えることがある。幸宏さんのようなミュージシャンは、ほかにはいない。
例えばレコーディングで。
テンポ、拍子、音色、コード、メロディ、構成、ミックス……音楽制作に携わったことのある人ならば、そんな無限にある選択肢を選び抜いた果てに作品は生まれる、ということを知っているはず。
幸宏さんはいつも迷わず、手を止めずに創り続ける人だった。僕が出会った35年前には、既に制作の手法が確立していたんだと思う。1stアルバムをプロデュースしていただいたときも、pupaのメンバーとして共同作業していたときも、道に迷って相談すると、即座に「こっちがいいんじゃない?」「こうすれば?」とサジェストしてくださった。新人でまだ上手く弾けなかったり、歌えなかった頃は、納得するまで辛抱強く何時間でも付き合ってくれた。そういえば普段の幸宏さんが慌てたり焦ったりしているところを、ほとんど見た記憶がない。
幸宏さんのソロ・ワークでは、共作楽曲やカバー曲も大事なレパートリーとなっていた。ライブ・サポートにはいつもベテランに混じって若手ミュージシャンが起用され、2000年代以降はひと回り以上年下のメンバーと、pupaやIn PhaseやMETAFIVEを結成した。一貫していたのは、音やファッションに対する美意識と、プロデュース感覚だ。迷わず選び抜くこと、そんな“スタイルへの矜持(プライド)”こそが、幸宏さんの表現のエンジンであり、幸宏さんらしさを形成するフィルターだったのだと思う。そのクロック・スピードと切れ味は、いつも抜群だった。
幸宏さんは、超一流のドラマーでありながら、ドラムをたたくことにこだわっていなかった。「打ち込みには打ち込みの良さがあるし、自分で打ち込めば自分のリズムだから」とおっしゃっていた。今のプレイヤーならそんな感覚も珍しくないのかもしれないが、45年前、まだクリックを聴いてプレイするドラマーがほとんど存在しなかった1970年代末に、その価値観に到達したYMOの先見性が、楽器と打ち込み~つまり音楽における人間とコンピューターの関係性~を再定義して、世界の音楽の常識を書き換えたことは間違いない。近年はクリックを使わない録音はむしろ少数派となっているが、その潮流の源には、YMOと幸宏さんがいる。
コンスタントに作品を創り続けるワーカホリックでありながら、幸宏さんは一歩スタジオを出ると全く練習をしない人だった。自宅には練習台はおろか、スティックすらなく、黒いWURLITZERだけがポツンと置かれていた。間近で聴くドラムの音は、とにかく大きかった。力任せにたたいているわけではないのに、まるで居合い抜きのようだと思った。リハの初日をキレキレのドラムで終えた後に「3カ月ぶりにたたいたからマメできちゃったよ」なんて言って、手のひらを見せてくれたことがあった。
コードやメロディを考えるとき、幸宏さんは大体鍵盤を弾いていた。実はとてもシンプルな押さえ方なのに、ありきたりなコード・ネームでは書けない積み方で鳴らしたりした。シンセの倍音が、記譜を超えた響きを生み出し、そこに中毒性のあるリフやベース・ラインが重なる。でも、キーボード類のウワモノは多くて3種類くらい。シンプルで奥行きのあるアンサンブルを生み出すのが、幸宏さんのレシピだった。
幸宏さんが打ち込みでリズムを作るときはいつも、あっという間だった。複雑なのにスマートなリズム・パターンを、サンプリングされた鍵盤やパッドをたたきながら、直観的に、瞬く間に仕上げてゆく。そんな魔法を何度も目撃した。時に伝家の宝刀のドラムを大体テイク3以内に決めて、さっそうとジャケットを羽織って、飲みに行くのだった。
洗練されたトラックに乗って幸宏さんが歌えば、それだけで僕らの感情は切なくなったり、胸騒ぎがしたり、安心したりする。そこにあのドラムが折り重なれば、思わず叫びたくなったりもする。恐らく、幸宏さんにとっての歌は“言葉とメロディをつなぐ楽器”だったのかもしれない。ハミングでも、幸宏さんが歌えば曲には“幸宏印”のスタンプが押される。圧倒的なシグネチャー・ボイス。昨年、50周年ライブのためにアーカイブをずっと聴き直していた。キャッチーなメロディやリフがいつまでも頭から離れず困った(笑)。メロディ・メイカーとしての幸宏さんを再認識した瞬間だった。
子供の頃はサッカー少年だったとも聞く。還暦を過ぎてからも、携帯が通じないような、熊が出るほどの山奥までガシガシ歩いて釣りに行く、そんなワイルドでアウトドアな一面もあった。お酒が大好きな人だった。僕は下戸でインドアだったから、普段の幸宏さんと遊んだ想い出はそれほど多くない。本当にもったいないことをしたと、今になって想う。
いくら書き連ねてみても、まだまだとても言い尽くせない。失われた存在の大きさを思い知るばかりだ。 訃報から少し時が経って、やっと少しずつ作品を聴ける気持ちが戻ってきた。音楽は時を超えて、タイム・マシンのように永遠の輝きを巻き戻してくれる。未来に続く音が、これからも多くの人々に届くよう願う。
幸宏さんみたいなミュージシャンは、どこにもいない。